ワスプ (CV-7)

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竣工時の「ワスプ(CV-7 USS Wasp)」。
艦歴
発注 1935年9月19日
起工 1936年4月1日
進水 1939年4月4日
就役 1940年4月25日
その後 1942年9月15日沈没
除籍 1942年9月15日
性能諸元
排水量 基準:14,700 トン
満載:19,166 トン
全長 219.5 m
水線長 210.3m
全幅 30.5 m
水線幅 24.6 m
吃水 基準:6.1 m
満載:7.08 m
飛行甲板 225.9 m x 33.2 m
機関 ヤーロー重油専焼水管缶6基
+パーソンズギヤード・タービン2基2軸推進
最大速度 29.5 ノット
航続性能 15 ノット/7,500 海里
燃料 重油:1,602 トン
乗員 士官、兵員2,367名
兵装 Mark 12 5インチ:12.7cm(38口径)単装高角砲 8基
(1942年:ボフォース 4cm(56口径)単装機関砲 4基)
Mark 2 1.1インチ:28mm(75口径)単装機関砲 4基(1942年:16基)
(1942年:エリコン 20mm(76口径)単装機銃 32基)
(1942年:12.7mm(90口径)単装機銃 16基)
搭載機 76 機
エレベーター 3 基
カタパルト 飛行甲板:2 基
格納庫:2 基
装甲 舷側:87mm(水線部)
飛行甲板:32mm(最厚部)

ワスプ (USS Wasp, CV-7) は、アメリカ海軍航空母艦。アメリカ海軍においてワスプ[1]の名を受け継いだ艦としては8隻目にあたる。同型艦はない。1942年9月、日本の潜水艦伊-19の魚雷に被雷、大火災の後、自沈処分により沈没した。

概要

1942年にサンディエゴ港で撮られた本艦。船体一杯に飛行甲板が張られていることがよく判る写真。

アメリカ海軍はワシントン海軍軍縮条約で許可された航空母艦用の排水量で正規空母「ヨークタウン級」を建造したが、条約で定められた割り当て排水量で軽空母1隻の建造が可能であったことから本艦が建造された。基本設計は最新型ヨークタウン級に採り、これを縮小して改設計が行われると共に、用兵側の厳しい要求に対応する必要から設計の合理化がなされた。その結果、簡易型サイドエレベーターや煙突の小型化など様々な新機軸が盛り込まれた。

第二次世界大戦当初は艦形が小型で攻撃力も少なかったために大西洋艦隊所属であった。船団護衛任務やドイツ海軍が通商破壊に送り出した「アドミラル・ヒッパー」捜索等に従事していたが、逼迫する太平洋の空母不足により南西太平洋戦域に投入された。

艦歴

ワスプは1936年4月1日マサチューセッツ州クインシーのフロント・リバー造船所で起工された。海軍省次官チャールズ・エジソンの夫人キャロリン・エジソンによって1939年4月4日に進水し、マサチューセッツ州サウスボストンのアーミー・クォーターマスター・ベースで1940年4月25日に初代艦長ジョン・W・リーヴス・ジュニア大佐の指揮下就役した。

就役後は緊迫する情勢下で、陸軍機の発艦テストに使用された。

大西洋戦線

マルタ島へスピットファイアを輸送した時のワスプ。

1942年1月14日ワスプはノーフォークを離れて北に向かい、ニューファンドランド島アージェンティアメイン州カスコ湾に寄港した。3月16日ノーフォークに向かう。翌日の朝ワスプは駆逐艦スタック (USS Stack, DD-406) に衝突した。ワスプは21日にノーフォークに入港、3日後にはカスコ湾に戻り3月26日に第39任務部隊とイギリスに向かった。

4月3日、部隊はイギリスの軽巡洋艦エディンバラを中心とする部隊と合流し、スカパ・フローに到着した。

第39任務部隊の大多数は英本国艦隊に加わりソ連への船団の護衛をしたが、ワスプは4月9日にスカパ・フローを離れスコットランドクライド湾グリーノックへ向かった。ワスプの任務はマルタへの戦闘機の輸送であり、4月13日グラスゴーで47機のスピットファイアを乗せ14日に出発した。巡洋戦艦レナウン (HMS Renown)、防空巡洋艦カイロ (HMS Cairo)、カリブディス (HMS Charybdis)、駆逐艦マディソン (USS Madison, DD-425)、ラング (USS Lang, DD-399) がワスプを護衛した。4月19日ジブラルタル海峡を通過し、20日マルタへ向けて戦闘機を発進させイギリスに戻った。その後、5月3日に再度戦闘機輸送のため英空母イーグルと地中海へ向かい9日にマルタへ戦闘機を送った。

太平洋戦線

1942年5月に撮られた「ワスプ(USS Wasp CV-7)

1942年5月初めの珊瑚海海戦および一ヶ月後のミッドウェー海戦でアメリカ海軍は勝利を収めたものの、太平洋において運用可能空母は2隻のみとなり、ワスプの太平洋転戦は避けられなくなった。

ワスプは修理と改修のためノーフォーク海軍工廠入りする。この停泊期間にリーヴス艦長に代わってフォレスト・P・シャーマン艦長が着任する。6月6日に戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55)、重巡洋艦クインシー (USS Quincy, CA-39)、軽巡洋艦サンファン (USS San Juan, CL-54)、駆逐艦6隻から構成される第37任務部隊と共にノーフォークを出港した。部隊は6月10日にパナマ運河を通過し、ワスプは第18任務部隊に配置換えとなる。

6月19日にサンディエゴに到着すると、ワスプは艦載機の残りを搭載し7月1日に第2海兵連隊を乗せた船団とトンガに向け出発した。当時日本軍の拠点であったソロモン諸島への進攻準備は進められていた。

ワスプが南太平洋へ向けて航行中の7月4日に日本軍はガダルカナル島に上陸する。連合軍上層部は日本軍がガダルカナルからニューヘブリデス諸島およびニューカレドニアを攻撃可能になったことを理解し、敵が強固な陣地を構築する前に攻撃を行うことを決めた。

ワスプは空母サラトガエンタープライズと共にフランク・フレッチャー中将指揮下の部隊に配属となる。レイ・ノイス中将が乗艦し、ワスプは航空支援攻撃を行った。

喪失

1942年9月15日、ワスプ及び空母ホーネット、ノースカロライナと他10隻による部隊はガダルカナルへの増援部隊である第7海兵隊連隊を輸送する船団の護衛を行っていた(第二次ソロモン海戦)。ワスプはサンクリストバル島の約150マイル南東で作戦活動に従事する。艦載機は燃料を再補給し対潜哨戒準備が行われていた。ワスプは日の出の一時間前から総員配置状態にあり、朝の探索機は10時に帰還した。日中は艦載機が12時15分に日本軍の四発飛行艇を撃墜した以外、敵に遭遇することはなかった。

魚雷が命中して炎上するワスプ

14時45分頃、日本海軍潜水艦伊-19の発射した魚雷6発(これは日本の潜水艦が空母攻撃に際して使用を許された魚雷の本数の制限いっぱいの数である)のうち3発が命中した。前部は艦載機が搭載していた爆弾への誘爆と補給中のガソリンへの引火による爆発で深刻な損傷を受けて主要な消火栓が役に立たたず、消火に使用する水を供給できなかった。火災は弾薬、爆弾、ガソリンの引火に至るまで続き、ワスプは10〜15度ほど右舷に傾斜した状態で、流れ出したオイルとガソリンが海面で燃えた。

シャーマン艦長は10ノットまで減速させたうえ、右舷の艦舷に風を向けるため左に舵を切るように指示した。が、間もなく艦橋と通信の機能を失い、3度目の大爆発が起こる。これは、最初の魚雷命中から24分も経たないうちにガソリンの蒸気爆発のため生じた。副長のF・C・ディッキーと協議の末、不要に犠牲者を出すことを憂慮してワスプの放棄を決定した。しかし、協議では針路の変更は検討されなかった。

15時20分から退艦が始まり、重巡洋艦ソルトレイクシティ、軽巡洋艦ヘレナ、駆逐艦ラフェイランズダウンらが約40分をかけて1,946名を収容した。ランズダウンは自沈処分の命を受けて、5本の魚雷を発射してワスプに3本を命中させた。しばらくワスプは炎上しながらも浮いていたが、火災は後部にも達して21時に艦首を下にして沈没した。この様子を、近くにいた伊-15が目撃し通報したものの、ワスプ沈没が伊-19の攻撃によるものとは考えておらず、航空攻撃によるものと思っていたようである。

なお、このときワスプに命中しなかった伊-19の発射した魚雷は偶然10km先を航行していた戦艦ノースカロライナ駆逐艦オブライエンに1本づつ命中、両艦を大破させた。オブライエンはその損傷が元で10月19日に沈没、ノースカロライナは修理に6ヶ月を要した。

ワスプは第二次世界大戦中の戦功で2つの従軍星章を受章した。

脚注

  1. ^ ちなみに艦名の「ワスプ」とは「ジガバチ」及び「スズメバチ」の意味で、広義に肉食の大型の全般を指す。蜂を語源とした空母には、「ホーネット」(USS Hornet, CV-8)(USS Hornet, CV-12)も挙げられる。

関連項目

参考図書

  • 「世界の艦船増刊第80集 航空母艦全史」(海人社)

外部リンク