コンテンツにスキップ

太平サブロー・シロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サブロー・シローから転送)
太平サブロー・シロー
メンバー 太平サブロー
太平シロー
別名 サブシロ
結成年 1976年
解散年 1992年
事務所 松竹芸能吉本興業→個人事務所→吉本興業
活動時期 1976年 - 1992年
師匠 レツゴー三匹
出身 松竹芸能養成所
出会い レツゴー三匹の門下生同士
現在の活動状況 大平シローの逝去による解散
芸種 漫才ものまね
過去の代表番組 花王名人劇場
THE MANZAI
オレたちひょうきん族
受賞歴
後述
テンプレートを表示

太平サブロー・シロー (たいへいサブロー・シロー)は、太平サブロー太平シローによるお笑いコンビタイヘイ一門レツゴー三匹門下。愛称は「サブシロ」。

来歴

[編集]

2人とも松竹芸能の養成所出身、漫才トリオ・レツゴー三匹に師事し、1976年に「太平サブロー・シロー」のコンビ名で松竹芸能所属の漫才コンビとして新世界新花月からデビュー。幸助・福助(それいけ!2匹 → 和光亭幸助・福助 → コウスケ・フクスケ → 幸助・福助)は弟弟子に当る。

その後、毎日放送の「ヤングおー!おー!」に出演したいがために吉本興業への移籍を希望する。しかし、吉本と松竹の間には協定があり芸人の引き抜きは禁止されていたため、どうしようと悩んでいたところに、師匠のレツゴー三匹から破門された。レツゴー三匹は実は2人の気持ちを知っており、彼らコンビがスムーズに吉本に行けるようにわざとキレた振りをして暴れて騒動を起こし、駆けつけた松竹芸能の幹部の目の前で破門を言い渡す芝居をした。その際、レツゴー正児が自分たちのことを蹴りながらもウインクをしていることに気づき、このとき「師匠が自分たちのために芝居を打って出ているのだ」とシローは悟った[1]。このため、レツゴー三匹が全員死去するまで師匠・弟子としての関係は続いた。

1980年代の漫才ブームの波に乗り、人気漫才コンビとしての地位を確立した。この頃、当時は無名だったダウンタウンの才能を見抜き、ラジオ番組のレギュラーを与える(後述)。テンポの速い漫才で、大きな演芸のタイトルを数多く受賞し、島田紳助は「このままでは、サブロー・シローやダウンタウンには勝てない」と評し、紳助・竜介の解散の一因ともなった。

1988年に吉本から独立して東京に芸能事務所を設立するが[2]1992年、お互いの仕事観等の意見対立から喧嘩別れする形でコンビを解消した。その後、サブローのみ1993年に吉本に復帰し、のちにシローも吉本復帰を果たすが[3]、確執からコンビが組めず、2012年2月9日にシローが永眠し、サブロー・シローの再結成は不可能となった。

年表

[編集]

コンビ結成~コンビ解消(松竹芸能時代)

新コンビ時代

  • 1978年5月、シローは解消直後の「浮世亭ジョージ・ケンジ」の浮世亭ジョージと新コンビ「浮世亭ジョージ・太平シロー」(ジョージ・シロー)を結成、結成直後から近石真介司会の「買物ゲーム用意ド〜ン!」(フジテレビ)、春やすこ・けいこ司会の「ヒット'78→ヒット'79」(NTV)に、副司会としてレギュラー出演するなど注目を浴びた。
  • 1979年1月、サブローは「鳳キング・ポーカー」の鳳ポーカーと新コンビ「さぶろう・ポーカー」(チンカラホイ)を結成するが、短期間でコンビ解消し失踪、ラーメン屋を経営。

再結成~コンビ解消(二度目)

  • 1980年1月、シローがサブローの経営するラーメン屋を訪れ、コンビを再結成して吉本興業に移籍。「THE MANZAI」(フジテレビ)に出演して一躍人気を得る。
  • 1988年4月吉本興業から独立したが、吉本の圧力がかかり仕事を干されるようになる。
  • 1992年、コンビ解消。
  • 2012年2月9日、シロー死去(享年55)。

芸風

[編集]
  • 共にものまねを得意とし、それにちなんだネタを行ったりしていた。特にサブローの横山やすし、シローの西川きよしのものまねは2人を代表するネタのひとつで、「ものまね漫才」の新たなジャンルを開拓した。
  • どちらがボケ・ツッコミというポジションの決まりは特になく、ネタの中でサブローがボケ・シローがツッコミの時もあれば、その逆のシローがボケ・サブローがツッコミの時もある。

ダウンタウンとのエピソード

[編集]

ダウンタウンの2人が下積み時代に世話になった先輩芸人は少ないが、唯一サブロー・シローの2人には可愛がられていた。サブロー・シローがラジオ番組「おっと!モモンガ」(ラジオ大阪)のリニューアルに伴い番組を降板する事になり、番組側が新たな出演者を探している時、番組関係者にサブロー・シローは「次はダウンタウンにやらしたってくれ」「こいつら面白いからやらしてやってくれ」と彼らを薦め、ラジオ大阪も冒険だった(松本人志談)が、無名にもかかわらず番組の新レギュラーとしてダウンタウンが出演する事になる。これがダウンタウンにとって初のレギュラー番組となった。後年、松本は「ものすごくいい勉強になった、『ガキの使い』のフリートークの原形みたいなものだった」と振り返っている[4] 。現在ではダウンタウンとサブロー・シローとの共演はないが、今もって若手の頃に良くしてもらったことを感謝している。「ごぶごぶ」(36回)では浜田雅功がサブローと偶然出会い、握手を交わしている。「快傑えみちゃんねる」ではサブローが松本から笑い飯を紹介されたことなどを話している。「さんまのまんま」では松本・サブロー・オール巨人・島田紳助で会合が合ったことを明かしている[5]

ものまねのレパートリー

[編集]

受賞歴

[編集]

過去の出演

[編集]

テレビ

[編集]

ラジオ

[編集]

CM

[編集]

レコード・CD

[編集]

弟子

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ ABCテレビナンバ壱番館』でのエピソードVTRより
  2. ^ 『芸能人はなぜ干されるのか』鹿砦社
  3. ^ 大平サブロー「こいつらふぜいが」社長批判の若手へ”. 日刊スポーツ (2019年7月23日). 2022年9月3日閲覧。
  4. ^ 松本人志著 「松本坊主」
  5. ^ 2007年6月1日放送回『さんまのまんま』

外部リンク

[編集]