エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト

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エーリヒ・ウォルフガング・
コルンゴルト
Erich Wolfgang Korngold
1947年頃
1947年頃
基本情報
出生 1897年5月29日
チェコ チェコブリュン
死没 1957年11月29日(満60歳没)
アメリカ合衆国ロサンゼルス
ジャンル クラシック音楽、映画音楽
職業 作曲家
  

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトErich Wolfgang Korngold, 1897年5月29日 - 1957年11月29日)はオーストリアアメリカ合衆国で活躍した作曲家ユダヤ系

注記:「エリック・ウォルフガング・コーンゴールド」と英語式の呼称で表記される事もある。一般的にはドイツ語発音の「コルンゴルト」あるいは「コーンゴルト(Rの発音は英語式に伸ばすのが現代的)」が正式であり、その他、英独の発音を混同した「コルンゴルド」、「コルンゴールド」などと呼ぶ人もいるが、「コルンゴルト」で統一する案が大勢を占めている。

彼は音楽評論家ユリウスの次男として、モラヴィア地方のブリュン(現在はチェコのブルノ)に生まれた。幼い頃から作曲の才能を示し、モーツァルトと同じ名前と相まって「モーツァルトの再来」と呼ばれる程の神童ぶりであった。9歳の時に作曲したカンタータマーラーを驚愕させ、11歳の時に作曲してツェムリンスキーがオーケストレーションを手伝ったバレエ音楽『雪だるま』(Der Schneemann)はウィーン宮廷歌劇場で初演され、満場の拍手をもって迎えられた。いくつかの幼少期の作品は、マーラーが善意で手伝ったという説すらある。

その後も快進撃は続き、12歳で書いた『ピアノ・ソナタ第1番』はリヒャルト・シュトラウスに戦慄と恐怖を与え、名ピアニスト、シュナーベルは13歳の作品『ピアノ・ソナタ第2番』をヨーロッパ中に紹介し、ベルリン・フィルの大指揮者ニキシュは14歳のコルンゴルトに『劇的序曲』を委嘱する。幼少時の最高傑作『シンフォニエッタ』を完成させた15歳の頃には、コルンゴルトは既にプロ作曲家として第一線で活躍していたのである。

16~18歳で書いたオペラ、『ポリクラテスの指環』(Der Ring des Polykrates)、『ヴィオランタ』(Violanta)はプッチーニの絶賛を受け、この成功によってオペラ作曲家としての地位を確立し、1920年、オペラ『死の都』(Die tote Stadt)の大成功によって、23歳にしてオペラ作曲家としての世界的評価を確立する。1927年、満を持して作曲したオペラ『ヘリアーネの奇跡』(Das Wunder der Heliane)を初演した当時、コルンゴルトの名声は頂点に達し、ウィーン市から芸術勲章を、オーストリア大統領からはウィーン音楽大学名誉教授の称号を贈られ、さらに1932年、大新聞『新ウィーン日報』のアンケートで、シェーンベルクと並んで存命する最高の作曲家に選ばれた。結局この時期が事実上、クラシック音楽作曲家コルンゴルトの絶頂期であった。1934年マックス・ラインハルトの招請でハリウッドに赴き、映画音楽の作曲を手がけた頃から彼の名声に陰りが出始める。その後、ウィーンとハリウッドを往復する日々を送りながら、『ヘリアーネの奇跡』以来久しぶりのオペラ『カトリーン』(Die Kathrin)を書き上げ、初演を間近に控えていた1938年ナチス・ドイツオーストリア併合により、『カトリーン』初演は流れ、ユダヤ系だったコルンゴルトはアメリカに亡命し、仕方なく映画音楽を書きながら亡命生活を送るよりなかった。

生活のためにオペラを諦め、映画音楽を書くことになったが、それでも美しい旋律、純音楽から学びし管弦楽法は、緩みきった映画音楽業界を変える事となった。1935年に、初期の傑作『海賊ブラッド』(Captain Blood)を書き大絶賛された翌年、1936年に『風雲児アドヴァース』(Anthony Adverse)でアカデミー作曲賞を受賞。40以上のライトモチーフを使い、オペラ並みの作品に仕上げている。ただ、あまりにも出来が良すぎて、賞はワーナーの音楽部門全体に贈られ、オスカーは音楽部長が受け取ってしまった。1938年には『ロビン・フッドの冒険』(The Adventures of Robin Hood)で2度目のアカデミー賞に輝く(今度はコルンゴルト自身がオスカーを獲得)。コルンゴルトは最初、この作品のスコアを書くのを断ったのだが、ワーナー音楽部長の説得とナチス・ドイツによるオーストリア併合により仕方なく引き受け、オスカー獲得につながった。

コルンゴルトは映画音楽作曲をオペラ創作の延長上に見なしており、マーラーやリヒャルト・シュトラウスから直接学んだ後期ロマン派的作風を、そのまま映画音楽に持ち込んだ。また、気に入った映画音楽は自作の芸術音楽に転用できる権利も保有していた(実際、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲第3番などが作曲された)。大管弦楽団を使ったシンフォニック・スコアは、後のハリウッド映画音楽の基礎となり、映画音楽の先輩にあたるアルフレッド・ニューマンや、後世のジョン・ウィリアムズにも多大なる影響を与えた。

1946年、『愛憎の曲』(Deception)を最後に、純音楽作曲家に戻るべく、新作を携えウィーンを訪れるも、当時の映画音楽に対する評価の低さや、後期ロマン派的作風は前衛音楽全盛の音楽業界から受け容れられず、「映画に魂を売った下等な作曲家」というレッテルを張られて事実上楽壇から抹殺され、失意の内にハリウッドに戻り、不遇の中、同地で1957年、脳溢血で死去。二曲目の交響曲を作曲中だった。遺体はハリウッドのハリウッド・フォーエバー墓地に埋葬されている。

戦後の主要作品としてヴァイオリン協奏曲ハイフェッツの愛奏曲として知られる)、弦楽合奏のための交響的セレナード、交響曲フランクリン・ルーズベルトの思い出に捧げられた)、主題と変奏(事実上最後の作品)などが挙げられる。

没後の再評価は1970年代、彼の映画音楽から始まり、二男のゲオルグ・コルンゴルトがプロデュースし、チャールズ・ゲルハルト指揮、ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団演奏による映画音楽集のレコードが爆発的な売れ行きを示した頃から、コルンゴルト音楽の再評価が始まり、この映画音楽集が、『スター・ウォーズ』シリーズの遠因になった事を考えると、現在のシンフォニックな映画音楽はコルンゴルトおよびドイツ後期ロマン派の二番煎じだと言う事もできる。

また、ラインスドルフ指揮によるオペラ『死の都』、ケンペ指揮による『交響曲嬰ヘ調』のレコード等で、彼のクラシック音楽の再評価も始まるなど、『コルンゴルト・ルネッサンス』の端緒がここに始まった。

現在、欧米においてはコルンゴルトに対する偏見は影も形もなくなり、20世紀を代表する作曲家の一人として、その作品群は引く手あまたになり、数多くのCDがリリースされ、多くの一流演奏家がコンサートで取り上げている。

[編集] 日本における受容史

日本はコルンゴルト受容という意味では甚だ後進国であった。ハイフェッツによるヴァイオリン協奏曲の録音は日本では単売LP化されず、事実上CDが初出であった。日本で最初のヴァイオリン協奏曲のレコードはパールマンによる無味乾燥な演奏で、何の話題も呼び起こさなかった。

日本におけるパイオニアとしては、まず時津英裕(ヴァイオリニスト)が挙げられる。彼は師である江藤俊哉からヴァイオリン協奏曲の日本初演を託され、1989年2月に金洪才指揮九州交響楽団と共に日本初演し、これが日本における舞台で最初に取り上げられたコルンゴルトの作品と思われる。続いて同年5月、レオン・フライシャー原田幸一郎数住岸子毛利伯郎により、『2つのヴァイオリン、チェロと左手ピアノのための組曲』が日本初演され、これら二つは、日本のコルンゴルト受容黎明期の金字塔である。また、1990年前後、当時テレビマニアの間で話題になっていたフジテレビ深夜の実験番組、「カノッサの屈辱」、「TVブックメーカー」などで映画音楽が盛んに使われた。僅かに入っていた輸入盤で、ごく一部の音楽マニアがコルンゴルトに注目していた時代である。

空白期を挟んで、1997年の生誕100周年前後、1996年9月に、オペラ『死の都』が演奏会形式で、井上道義指揮京都市交響楽団で日本初演され、『交響曲嬰ヘ調』は、1999年4月に、山下一史指揮グリーン・ユース・オーケストラによって日本初演された。また、1998年には初の日本語によるコルンゴルトの評伝、『コルンゴルトとその時代---“現代”に翻弄された天才作曲家』(みすず書房早崎隆志著、ISBN 978-4622044161)が出版された。

1997年の生誕100年に、日本でも『コルンゴルト・ルネッサンス』が起こり、プロ、アマがこぞって日本初演を狙う人気作曲家としての地位を確立。CDも多数リリースされた。2007年の没後50周年で完全に名誉回復し、コンサートでもコルンゴルトの作品が取り上げられる事は多い。

[編集] 主要な作品

[編集] 外部リンク