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{{by|2011年}}は里崎の故障もあり22試合で先発マスクをかぶるなど主に捕手として起用された。
{{by|2011年}}は里崎の故障もあり22試合で先発マスクをかぶるなど主に捕手として起用された。


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{{by|2013年}}[[3月25日]]に[[川本良平]]との交換トレードで[[東京ヤクルトスワローズ]]への移籍が発表された<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/10943.html 田中選手と東京ヤクルトスワローズ川本選手のトレードについて] - 千葉ロッテマリーンズオフィシャルサイト 2013年3月25日</ref>。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2013年3月26日 (火) 09:45時点における版

田中 雅彦
東京ヤクルトスワローズ #28
ロッテ時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府富田林市
生年月日 (1982-01-09) 1982年1月9日(42歳)
身長
体重
175 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手二塁手三塁手
プロ入り 2003年 ドラフト4巡目
初出場 2007年5月27日
年俸 1,990万円(2013年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

田中 雅彦(たなか まさひこ、1982年1月9日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手捕手内野手)。

来歴・人物

プロ入り前

大阪府富田林市出身。PL学園高では田中一徳と同期で、1年次の秋から捕手としてベンチ入りし、1998年選抜大会ではベスト4、選手権大会はベスト8にチームが進出。地方大会では出場はなかったものの、本大会準々決勝の対横浜戦では正捕手の石橋勇一郎が負傷したため急遽出場した(PL学園対横浜延長17回の項目も参照)。甲子園初出場となったこの時は地に足がつかず、気付けば試合が終わっていたという[1]。その経験から努力を重ねて2年次の秋以降はレギュラーとなり、1999年選抜大会の頃には河野有道監督から配球を全て任せられるほどになった[1]。選抜本大会はベスト4に進出し、夏の選手権大会は大阪府大会ベスト4だった。

高校卒業後は近畿大に進み、1年春からレギュラーとなる。2000年の1年秋の関西学生野球連盟秋季リーグでは近平省悟や同期の野村宏之とバッテリーを組んで優勝し[2]ベストナインにも選ばれた。2年次の秋季リーグでも優勝、2002年の3年次は春季リーグで優勝してベストナインに選ばれたが、大学野球選手権では三回戦で敗退した。秋季リーグでは同志社との優勝決定戦で渡辺亮から決勝タイムリーを放って三期連続優勝を果たし[3]MVPとベストナインに選ばれる。4年次の2003年は春季リーグで優勝しベストナインに選出され、大学野球選手権では二回戦で敗退している。リーグ通算成績は91試合出場、280打数75安打、打率.268、3本塁打、34打点。

強肩などに定評があり、2003年のドラフト会議千葉ロッテマリーンズから4巡目で指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ7,000万円、1,000万円(いずれも推定)だった[4]

ロッテ時代(2011年)

プロ時代

プロ1年目の2004年に持ち味の俊足と打力を生かすため二塁手三塁手への挑戦を始めた。捕手登録のままで二軍では毎年10試合以上捕手も守っていたが、2009年頃までは内野手としての出場のほうが多かった。また、プロに入って最初に就いたポジションは三塁である。2005年は二軍で打率.280、10盗塁、2006年も二軍で打率.254、11盗塁を記録し、俊足をアピールした。

2007年は二軍で好成績を残し、西岡剛が欠場した6月30日に1番・三塁手として一軍初スタメン出場。6月14日には途中出場でプロ初安打を放ってヒーローインタビューにも呼ばれたが、その後は安打を放つことはできず二軍に戻っている。一軍で打率.063に終わり、二軍では二塁手21試合、三塁手8試合、捕手11試合、更に遊撃も11試合守った。しかし、三塁手として出場した8試合で3失策を記録してしまい、守備率は.792だった。なお、応援歌は同年より定詰雅彦と同じギンギラギンにさりげなくを使用し、歌詞もその後定詰と同じものになった。

2008年オープン戦の好調から開幕一軍入りを果たす。この年は里崎智也橋本将を併用で出場させていたため、怪我で離脱した中盤戦以外は3番手捕手として一軍に帯同し、二塁や三塁の守備固めや代走としても出場している。また、課題の打撃も前半戦は不調だったが、北京五輪期間中は根元俊一と併用で1番打者を任されるなど成長を見せた。

2009年は前年同様内野の控え、第三捕手、右の代打、代走とマルチプレイヤーとして起用され、チーム3位の6盗塁を記録し、5月に一軍昇格してからは一度も二軍落ちせずシーズンを終えた。6月11日には早坂圭介の代打で犠飛を放ち、これによりチームはこれまでの日本新記録の1イニング13得点を更新する14得点目を記録した(この後、堀幸一の適時打で記録は15得点まで伸びた)。8月4日の対ソフトバンク戦では、ケガの今江敏晃に代わって「一番・三塁」で先発出場し、3回1死1塁の場面でレフト中段へプロ初本塁打となる同点2ランを放っている[5]

2010年は二軍で一時期二塁を守った他は捕手として起用され、二軍での正捕手の座を獲得。一軍での出番は減少してしまったものの3番手捕手となり、時折代走でも起用された。また、応援歌がムラマサ☆の「サクラ舞い散る夜は」に変更された。

2011年は里崎の故障もあり22試合で先発マスクをかぶるなど主に捕手として起用された。

2013年3月25日川本良平との交換トレードで東京ヤクルトスワローズへの移籍が発表された[6]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2007 ロッテ 14 19 16 4 1 0 0 0 1 1 0 0 2 0 1 0 0 5 0 .063 .118 .063 .180
2008 45 73 66 8 17 2 0 0 19 5 2 0 2 0 5 0 0 13 0 .258 .310 .288 .598
2009 41 75 64 13 17 3 0 1 23 8 6 1 4 2 5 0 0 17 1 .266 .310 .359 .669
2010 11 6 6 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 1 .000 .000 .000 .000
2011 30 72 67 5 14 4 0 0 18 2 0 0 2 0 3 0 0 16 1 .209 .243 .269 .512
2012 50 95 83 10 17 2 0 0 19 8 1 0 4 0 7 1 1 17 2 .205 .275 .229 .504
通算:5年 191 340 302 43 66 11 0 1 80 24 9 1 14 2 21 1 1 72 5 .219 .270 .265 .537
  • 2012年度シーズン終了時

記録

背番号

  • 39(2004年 - 2013年)
  • 28(2013年 - )

登場曲

脚注

  1. ^ a b 朝日新聞、1999年4月4日付朝刊、大阪地方面
  2. ^ 朝日新聞、2000年10月25日付朝刊、P.25
  3. ^ 朝日新聞、2002年10月24日付朝刊、P.17
  4. ^ 読売新聞、2003年11月23日付朝刊、P.18
  5. ^ 日刊スポーツ 2009年8月5日付
  6. ^ 田中選手と東京ヤクルトスワローズ川本選手のトレードについて - 千葉ロッテマリーンズオフィシャルサイト 2013年3月25日

関連項目

外部リンク