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* 現役時代、一番迫力が有ったのは[[スタン・ハンセン]]の[[ウエスタン・ラリアット]]だと語っている(新日本の若手時代、セコンドで止めに入る際、決まって受けていた)。
* 現役時代、一番迫力が有ったのは[[スタン・ハンセン]]の[[ウエスタン・ラリアット]]だと語っている(新日本の若手時代、セコンドで止めに入る際、決まって受けていた)。
* 同い年に[[赤井英和]](正確には前田の方が早生まれで同学年ではない。)が居り、「あいつと会わすな。あいつと会わすと大阪が壊れる」と二人を引き合わせないように周りが苦労したようである<ref>[[雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!|アメトーーク!]]「俺達のゴールデンプロレス」で[[ケンドーコバヤシ]]が発言。</ref>。この二人の逸話については、[[喧嘩の花道]]として[[二宮清純]]が書籍化し、[[三池崇史]]が映画化している。
* 同い年に[[赤井英和]](正確には前田の方が早生まれで同学年ではない。)が居り、「あいつと会わすな。あいつと会わすと大阪が壊れる」と二人を引き合わせないように周りが苦労したようである<ref>[[雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!|アメトーーク!]]「俺達のゴールデンプロレス」で[[ケンドーコバヤシ]]が発言。</ref>。この二人の逸話については、[[喧嘩の花道]]として[[二宮清純]]が書籍化し、[[三池崇史]]が映画化している。
* ZARDの坂井泉水が2007年5月27日に死亡した直後、{{要出典範囲|坂井の高校時代の同級生と称する人のブログに、坂井に対する追悼コメントや想い出が掲載されたが、そのなかで坂井が高校時代前田日明のファンであったことが語られている。これは公式プロフィールやかなり熱心なZARDファンの間でも知られていない事実であったのでZARDファンの間では注目された。また、このブログの他の内容から照らし合わせても信憑性は高いと思われる。|date=2010年9月}}


=== 政治 ===
=== 政治 ===

2010年10月28日 (木) 22:51時点における版

前田 日明
プロフィール
リングネーム 前田 日明
前田 明
クイックキック・リー
本名 前田 日明
ニックネーム 壊し屋
クラッシャー
スパークリング・フラッシュ
七色のスープレックス
黒髪のロベスピエール
肉体のローマ式戦車
格闘王
大殿
キックの千手観音
身長 192cm
体重 115kg
誕生日 (1959-01-24) 1959年1月24日(65歳)
出身地 大阪府大阪市大正区
スポーツ歴 空手
トレーナー アントニオ猪木
山本小鉄
佐山聡
カール・ゴッチ
藤原喜明
シーザー武志
田中正悟
デビュー 1977年8月25日
引退 1999年2月21日
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前田 日明(まえだ あきら、1959年1月24日 - )は、総合格闘技黎明期に活躍した元プロレスラー、元総合格闘家リングスCEO。元HERO'Sスーパーバイザー。総合格闘技大会THE OUTSIDERのプロデューサー。大阪府大阪市大正区出身。元在日韓国人三世(日本国籍に帰化済み。後述)。

プロレス界にキックボクシングサンボの要素を持ち込み、格闘技を日本人にとって身近なものにした。また、プロモーターとして格闘技の大規模興行を成功させ、そのノウハウはK-1に受け継がれている。総合格闘技という言葉の創始者(佐山聡が使い始めたという説もある)とされ、佐山聡らと共に、日本の「プロレス」が現代の「総合格闘技」へと発展拡大していく流れを作った中心人物である。

来歴

少年時代

少年時代、初代ウルトラマンゼットンに倒されたのを見て、打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始める。北陽高校時代は少林寺拳法、空手バイクに熱中した。空手は無想館拳心道館長岩崎孝二から学んだ(二段を取得)。

新日本プロレス

1977年佐山聡にスカウトされ新日本プロレスに入団。同年8月25日、長岡市厚生会館山本小鉄戦でデビュー。新日本プロレスの社長兼エースのアントニオ猪木に憧れて入団したのではなく、「肉が沢山食べられるから」「モハメド・アリに会える(同じジムに入れる)」が入団の理由であった。

その後、将来のエース候補として渡英しクイックキック・リー(「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミック)として活躍。ヨーロッパヘビー級王座を獲得し、IWGPトーナメント欧州代表として帰国。日本再デビュー戦の相手はポール・オーンドーフ(リバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収める)。当時の藤波辰巳とのタッグ名は「フレッシュコンビ」。ヨーロッパで修行したというブランド力や、長身を生かしたスープレックスと相手をロープに飛ばしてのフライングニールキックなどで人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。

第1次(旧)UWF

1984年に第1次(旧)UWF(浦田昇社長)の旗揚げに参加。佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)が展開されるが、格闘技の試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と、会社が大変なんだから試合を増やそうと言う“興行志向”の前田が対立し、同団体は解散。

1985年12月6日、藤原喜明木戸修高田伸彦(現:高田延彦)山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本に復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。

1986年4月29日、三重県津市体育館においてUWFスタイルに危機感を覚えた新日本サイドがマッチメイクしたアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。

1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」で、ドン・中矢・ニールセンとの「異種格闘技戦」を制し、「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。

1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田が長州力を背後からキックし、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスから解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している。

第2次(新生)UWF

第2次(新生)UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。

当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスであった。

その後、前田と神新二社長との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会で第2次UWFの解散を宣言した。

リングス

リングス設立

第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。

前十字靭帯の断裂

旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライヴォルク・ハン高阪剛田村潔司山本宜久らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。

KOKルールの採用

1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近いKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。

ヒクソン・グレイシーとの対戦宣言

1998年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦ヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかった。

リングス活動停止

1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放ニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。

前田引退による興行人気の低下によって、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。

ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)

2005年、元新日本プロレス上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。

2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。

HERO'S

ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。

2007年10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」「PRIDE?ざまあみろだね」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった[1]

2007年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に押しつけるトラブルを起こした[2]

2008年2月15日、「THE OUTSIDER」(後述)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた[3]

THE OUTSIDER

2008年1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象とした格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し[4]、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催した。

獲得タイトル

プロレス

元はWWF(現WWE)インターナショナルヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される。)

得意技

キャプチュード(Captured:捕獲投げ)
変形フロント・スープレックスそのままピンフォール出来る。腕と片足をフックして投げるのが特徴。技の名は入場テーマ曲のタイトル(『CAPTURED』)に由来(それ以前は「アキラスペシャル」と称されていた)。
各種スープレックス
当時のプロレス雑誌で公開された名称によると、ジャーマン・スープレックス・ホールドドラゴン・スープレックス・ホールドリバース・アームサルト、ダブルリスト・アームサルト、ウンターグルフ、サルト、リバース・サルト、スロイダー、ハーフハッチ、ダブルアームロック・サルト、クォーターネルソン・サルト、デアポート・スロイダーの12種類。
各種関節技
キック、膝蹴り
藤波辰爾は「橋本真也のキックや蹴りは、ある程度リーチが分かり距離が取れるけど、前田のキックや蹴りは、膝下が勢いよく伸びるため、距離が取れず避け難い」と語っている。
フライングニールキック
前田独特の軌道を描くニールキック(スタン・ハンセンのラリアットを足でと言う発想から生まれたと言われている)。横にひねりを加えつつジャンプし、踵を相手の顔面や胸元に当てる。
大車輪キック
縦回転で放たれるニールキック。足の長い前田が使用するのが「大車輪」の由来。藤波辰爾を大流血に追い込んだこともある。藤波を流血に追い込んだ時はコーナーに追い詰めてから直角蹴り(膝への前蹴り)からのコンビネーション
ジャンピング・ニーバット
新日での凱旋帰国後、坂口征二とタッグの際に多用。これは、対戦相手として多く組まれた外人選手がニールキックを受けるのを嫌ったことに起因する。
ニー・リフト(膝蹴り
首相撲から相手の顔面に膝蹴りを叩きこむ。繋ぎで使うことが多い。

人物

  • 2006年12月、15年来の親友であったフリーカメラマンの女性と入籍した(2007年3月3日に自身のブログで発表)[5]。2007年5月には長男が誕生。2009年1月17日に結婚披露宴を行った。
  • 在日韓国人三世。韓国訪問での体験などを経て帰化を決意。1983年に日本に帰化申請を行い、翌年受理された。韓国名(旧名)は「高 日明」(コ・イルミョン、고일명)。
  • 新日本デビュー当時のリングネームは「前田明」であったが、旧UWF旗揚げ時にリングネームを本名の「日明」に改名した。「日明」と命名した祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。
  • ウルトラマン』で怪獣ゴモラ大阪城を壊した翌日、その様子を確認に行ったが特に変化が見られなかった。そのため、近くで掃除をしていた男性に尋ねたところ「皆が徹夜で修理した」と聞かされた(浅草キッドの海賊男に出演したときに発言)。
  • 天龍源一郎リングの魂の番組内で、戦ってみたい相手として前田の名前を挙げている。
  • 1995年5月20日、リングス興行で鶴巻伸洋戦を終えた弟子・坂田亘に対し、試合内容の不甲斐無さなどを理由に予告どおりバックステージで制裁。
  • 1997年初頭に発した「現役生活も残り少なくなった」との引退示唆発言は業界に戦慄を与え、特に長州力には衝撃的であったため、前田との一般雑誌での対談の際に何度も真意を問うた。そして、自らの引退(一度目)と猪木のカウントダウンファイナルを前田の引退試合より先に組んだことを、後にオフレコ扱いで、ある雑誌のインタビューで語っていた。
  • 近年の若手レスラーに対しては批判的なスタンスをとることが多いが、KENTAだけはその反骨的なスタイルが気に入ったのか、高い評価を与えている(月刊Gスピリッツ Vol.3より)。
  • 六本木で前田より大柄の在日米軍5人組が、前田の愛車のベンツボンネットに腰掛けて日本人を侮辱する態度を取ったのでハイキックなどで4人を倒した。最後の一人は「You are strong!」と言って対戦を拒んだ。前田は最後に「Don't be fun of Japanese」(日本人をなめんなよ)とセリフを残した(週刊プロレスのインタビューにて)。
  • 大の巨乳好きでも有名であり、かつて「リングの魂」(テレビ朝日)が、「最強の巨乳は前田日明が決める!」と題してリングスのイメージガールオーディションを企画したことがあるほど。その企画に審査員として呼ばれた前田は、オーディションに参加した女性(当然巨乳の女性ばかり集まった)の胸をマジックペンの先でつつくなど、その巨乳好きを包み隠さず披露した。
  • 日本で最初のアイコラ職人(浅草キッドの海賊男に出演したときに発言)。
  • 現役時代、一番迫力が有ったのはスタン・ハンセンウエスタン・ラリアットだと語っている(新日本の若手時代、セコンドで止めに入る際、決まって受けていた)。
  • 同い年に赤井英和(正確には前田の方が早生まれで同学年ではない。)が居り、「あいつと会わすな。あいつと会わすと大阪が壊れる」と二人を引き合わせないように周りが苦労したようである[6]。この二人の逸話については、喧嘩の花道として二宮清純が書籍化し、三池崇史が映画化している。

政治

2009年12月28日に2010年夏の参議院比例代表民主党公認で出馬予定だったが[7]2010年3月3日には第1次公認候補が見送られ[8]、同年3月21日には出馬辞退の意向が伝えられている[9]。理由としては、外国人参政権について本人は反対しており民主党との意見の違いがあったほか、党の出馬時の金銭的支援についての食い違いがあったという。また前田側の選挙への姿勢に、石井一選対委員長が激怒した場面もあったとされる[10]

その後、民主党と連立与党を組む国民新党が前田と接触を持ち、参議院東京都選挙区に同党公認候補として擁立する方針を打ち出す[11]。しかし、東京都選挙区からの立候補を望む同党と、比例区からの出馬を希望する前田との意思は合致せず、結果、同党からの出馬もなかった[12]

趣味

  • 釣り
  • 読書。ポルノから哲学、戦記物まで読むと言うほど読書好き。第二次UWFを旗揚げした際に「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」という、太宰治が『晩年』で引用したポール・ヴェルレーヌの『叡智(Sagesse)』の言葉を、孫引きした挨拶を行っている。
  • 日本刀の収集・研究。日本刀は50振以上所有している。また日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好き(オーラの泉に出演したときに発言)。
  • 航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている[5]。夢は零式艦上戦闘機太平洋を横断することと語っている。テレビ番組「所萬遊記」で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っている。
  • 熱烈なMacintosh信者(エバンジェリスト)。数十MBが主流の時代に1,000MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で取材されたことも有る。

トラブル

  • パンクラス社長である尾崎允実がリングスに出場していた外国人選手と会話していたのを見て、これを引き抜き工作だと考え、ホテルのロビーで尾崎の胸倉を掴むなどして脅迫。民事・刑事両方で前田が敗訴。
  • 1994年に開催された極真空手トーナメント大会に前田が来賓として出席。そこに居合わせた『フルコンタクトKARATE』編集長・山田英司を会場の女子便所内に監禁した。山田は過去にUWFがプロレスであることを暴露し、当時はリングス・パンクラスへの批判記事を雑誌に掲載していた。前田の放った掌底を、格闘技経験のある山田がスウェーでよけたという話がある誌面に出て、前田は「俺の掌底をスウェーでかわした?裁判官立会いで再現したろか」とコメントした。
  • 元弟子でもある安生洋二と、1994年にリングスとUWFインターナショナルとの対抗戦の交渉決裂後に罵りあう。1996年6月にはFIGHTING TV サムライ開局のパーティーで前田が安生を不意に裏拳で小突いた(レスラーやマスコミ等が周囲にいる中での出来事であり、猪木が仲裁した)。1999年11月14日は、UFC-J会場において、安生が背後から不意に前田を殴打した。前田は失神し、前田の失神姿がプロレス雑誌の表紙となった。その後、前田は安生を訴え、安生は略式裁判で罰金刑を受けた。
  • 2001年5月30日付の東京スポーツに「有罪判決 リングス前田 暴行女性は元妻」という記事が1面に掲載されたことに対し、500万円の損害賠償を求めた訴訟を起こす。東京地裁(菅野博之裁判長)は、『米国で有罪判決を受けた』事実、および前田が『結婚していた』ことは「真実と認められない」と判断、200万円の支払いと謝罪広告掲載を命じ、東スポは敗訴(2002年9月13日判決)。

入場テーマ曲

  • 「KATANA」
  • 「THE ROOM (BRAINWASH) PART ONE」 - リック・ウェイクマンのアルバム「1984」の4曲目。英国より凱旋帰国した時の入場テーマとして使用していたが、前年から既に小林邦昭の入場テーマ曲として定着しており、なぜ使用に至ったかは不明。
  • ダンバインとぶ」(歌詞は入れずブリッジで繫いで編集したものを使用)
  • 「キャプチュード」 - 最も知られる代表的な入場テーマ。「キャプチュード」が日本では呼称となってしまっているが、英語の実際の発音は「キャプチュード」とは程遠く、「キャプチャァド」に近い。オリジナル音源はイギリスプログレッシブロックバンド、Camelのアルバム、"Nude"(en:Nude (Camel album))の11曲目。
  • 「JUST A HERO」 - リングス旗揚げ時に使用された新田一郎作曲のオリジナル曲だったが、しばらくしてキャプチュードに戻している。ただしWOWOWのリングス中継でのBGMとしては長期間に渡って使用された。

映画

  • YAWARA!(1989年、東宝)本人役
  • WARU(2006年、真樹プロダクション)主人公の友人役

著書

連載

脚注

関連項目

外部リンク