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2008年5月13日 (火) 00:37時点における版
島津氏(しまづし)は、日本の氏族。分家多数、鎌倉時代から江戸時代まで続いた大名家が有名である。
概要
守護から戦国大名へと自己形成し、また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として存続した。全盛期は、薩摩国を中心とした南九州を領有し、初代島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護に加え、越前国守護にも任じられている。家風として尚武を尊び、代々優れた当主を輩出し世に「島津に暗君なし」と云われ、鎌倉以来明治に至るまでその社稷を守り通した。また、越前、信濃、駿河、若狭、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、江州島津氏と呼ばれている。
なお、後述のように戦国時代に従来の宗家から庶流の一つである伊作家(同じく庶流である相州家当主を兼ねる)に当主の座が移った。薩摩藩主の島津氏はこの伊作家(相州家)の系統にあたる。
出自・島津庄の荘官
島津氏は、秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫である惟宗氏の流れを汲み、惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下り、その子の惟宗忠久が、源頼朝から同地の地頭に任じられ島津を称したのがはじまりとされ、のちに薩摩の国出水平野に城を築き、拠点を移している。しかし、現在では渡来系の秦氏の流れを汲む惟宗忠康の子とする説が有力である。惟宗広言実子説が以前の定説であったが、この惟宗氏は文官で「言」を通字としているのに広言の子に「忠」を通字とする忠久や弟・忠季を持ってくるのは不自然だからである。忠の字を通字とする武官の惟宗氏に忠久と同じ官暦を持つ惟宗忠康がいて、丹後局が惟宗広言の妻になった縁で広言の養子に入ったとする説がある。
源頼朝による抜擢の背景
しかし、惟宗(島津)忠久が惟宗広言の子であるかどうかもはっきりせず、また「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局が源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とする説が『島津国史』や『島津氏正統系図』などに記されている。しかし、学会では島津氏の頼朝後胤説は、偽源氏説として否定する意見の方が圧倒的に強い。現在も島津氏の忠久以前の系譜については定説が無く、頼朝の抜擢の背景を解明するためにも研究課題となっている。
同じく九州の守護に任じられた大友能直と島津忠久に共通していることは、共に後の九州を代表する一族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の妾であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。確実なのは、忠久の出とされる惟宗氏も、能直の出とされる近藤氏も元々さしたる一族ではなく、頼朝による抜擢がなければ無名のまま歴史に埋もれていただろうということだけである(もっとも、名門の出自ではなかったものの、時の権力者にその実力を見込まれて大抜擢された例は歴史上枚挙にいとまがなく、藤原鎌足、豊臣秀吉、明智光秀などについてもそれは言える事であって、ある時点における名門・名族も人類創生の時点から名門・名族であったわけではなく、いずれも結局は過去における大抜擢の結果であるということには注意が必要であろう)。島津氏も大友氏も、平家方だった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして九州に下っている。
南北朝時代
鎌倉期を通じて、幕府御家人として当主は鎌倉に起居し、守護職や地頭職は一族の者が執り行っていたが、久経が元寇を機会として下向し、以来、在地化が進む。
1333年(元弘3)に後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕運動を起こすと島津貞久は参加する。鎌倉幕府滅亡後に京都では後醍醐天皇の建武の新政がはじまり、後醍醐親政から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてくると、少弐氏と共に足利尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡県福岡市)で菊池氏ら後醍醐の宮方と戦う。
南北朝時代には1342年に征西将軍として派遣された南朝の懐良親王が南九州へ入り、一時は南朝方にも属する。1340年には貞久の嫡男の島津宗久が死去すると守護国の分与を巡って島津氏久(奥州家)と島津師久(総州家)の2家に分裂する。島津氏久は陸奥守に任じられていたので奥州家、島津師久は上総介に任じられていたので総州家と言われた。
なお島津氏は上洛嫌いであり、室町幕府3代将軍である足利義満の度重なる上洛の要求にも応じず、結局南北朝時代から室町時代を通じて同氏が上洛したのは4代将軍義持の治世、1410年(応永17年)の一度きりである。
戦国時代から近世へ
戦国時代に入ると領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が始まり、宗家は衰退する。やがて庶流の伊作忠良(伊作島津家)が台頭して他家を圧倒してその嫡男・島津貴久が宗家の養子に入る形で後を継承する。貴久の長男である島津義久の時に、1578年の耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、また1584年の沖田畷の戦いで龍造寺氏を撃ち破り、「三州の太守」として君臨する。義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)とともに、戦国最強とも言われた薩摩武士を率いて三州統一・九州統一を目指し躍進する。1587年秀吉の九州攻めを受け降伏するものの、三州は安堵される。
江戸期以降
薩摩藩の歴史も参照。
関ヶ原の戦いでは、西軍に属して徳川家と敵対関係に陥るも、所領安堵を認めさせることに成功する。江戸時代初期に琉球に侵攻して奄美諸島を領有し、琉球王朝を支配下に置いた。幕藩体制下にあっては、宝暦治水に代表される幕府の弱体化政策など圧迫を受ける一方で、薩摩藩3代藩主・綱豊の長女・暉姫(後の近衛熙子。)が甲府藩主•徳川綱豊に嫁ぎ、綱豊が6代将軍・徳川家宣となると、近衛基熙養女・近衛熙子として将軍御台所となり、また、熙子が徳川綱吉養女・竹姫を島津継豊の後妻として嫁がせて以降の島津氏からは寔子(11代将軍・家斉正室)、敬子(13代将軍・家定正室)と将軍家及び徳川氏と婚姻を通じ縁戚関係をも深めること度々であった。外様大名でありながら、将軍家御台所を3人も輩出したことは異例中の異例である。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため継嗣問題などへ介入されることが無く、幕府との関係は安定的に推移した。
幕末にいたって、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代島津斉彬の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興す取り組みを見せた(集成館事業)ものの、その結実を見る前に、幕藩体制崩壊の動乱期に入り、藩内より尊皇倒幕の志士を多数輩出、藩も遂に長州藩と結び倒幕の中心となる。明治にいたり、島津忠義の本家と、実父島津久光が維新後自ら分家した玉里家の二家に公爵が授爵される。他、有力分家に昭和天皇第五皇女子清宮貴子内親王が嫁した日向佐土原島津家(幕末時2万7千石 伯爵)がある。その他多数の分家が男爵に任爵された。
今上天皇の母方の祖母は、島津忠義の七女・倶子であり、現在の皇室との血縁もある。
系譜
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子 島津忠久 ┣━━┓ 忠時 忠綱 ┏━━╋━━┳━━┳━━┓ 忠継 久経 高久 久時 忠経 ┃ ┣━━┓ ┣━━┳━━┳━━┓ 山田忠真 忠宗 久長 宗長 忠継 忠光 伊集院俊忠 ┣━━━┳━━━━┳━━━━┓ 貞久 新納時久 樺山資久 北郷資忠 ┏━━┳━━┳━━━━━┫ 川上頼久 宗久 師久 氏久 ┃ ┏━━┫ 伊久 元久 久豊 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓ 忠国 用久 季久 ┏━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ┃ 友久 立久 久逸 国久 忠廉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 運久 忠昌 善久 重久 朝久 ┏━━┳━━┫ ┃ ┃ ┃ 忠治 忠隆 勝久 忠良 忠興 忠広 │┏━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━┳━━┓ ┃ ┃ 貴久 忠将 尚久 実久 忠親 ┏━━╋━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 義久 義弘 歳久 家久 以久 忠長 義虎 朝久 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 忠恒 豊久 忠興 久元 忠辰 久賀 ┃ ┣━━┓ 光久 久雄 久富 ┃ ┃ ┃ 綱久 忠高 久寿 ┃ ┃ 綱貴 惟久 ┣━━┓ ┃ 吉貴 熙子 忠雅 ┣━━┓ ┃ 継豊 忠紀 久柄 ┏━━┫ ┃ 宗信 重年 忠持 ┃ ┃ 重豪 忠徹 ┏━━╋━━━┳━━━┳━━━┳━━━━┳━━━━┓ ┃ 寔子 斉宣 奥平昌高 忠厚 有馬一純 黒田長溥 南部信順 忠寛 ┣━━━┳━━┳━━┓ 斉興 忠公 忠剛 松平勝善 ┏━━━━┳━━┫ ┃ 斉彬 池田斉敏 久光 敬子 ┃ 忠義 ┃ 忠重 ┃ 忠秀 ┃ 修久 ┃ 忠裕
島津氏族
島津氏の系統には以下がある。現在の島津宗家は、伊作家出身である。
公式署名に見える「姓」
公式文書署名は鎌倉時代初頭では「惟宗朝臣○○」、徳川家から「松平」の名字を与えられるまでは「藤原朝臣○○」と署名していた。以後、幕府の公式文書等では「松平薩摩守(変動有)○○」と書かれる。一方で江戸時代中期以降、内部の公式文書等においては「源朝臣○○」と署名した[1]。
関連書籍
- 『島津家文書之1、2、3』(東京大学史料編纂所)
- 『島津史料集』(人物往来社戦国史叢書6・1966年)
- 三木靖『薩摩島津氏』(人物往来社戦国史叢書10・1972年)
- 『戦国九州軍記』(学研歴史群像シリーズ12・1989年6月) ISBN 4051051498
- 『裂帛 島津戦記』(学研歴史群像シリーズ戦国セレクション6・2001年8月) ISBN 4056025959
- 吉永正春『九州戦国合戦記』(海鳥社・2006年7月)ISBN 4874155863