利用者:Tokugawa

文禄・慶長の役について勉強中。特に慶長の役に注目している。
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征明構想の萌芽[編集]

日本に於ける征明構想は何時芽生えたのだろうか?

秀吉の主君織田信長は天下統一の目処がたった1582年(天正10)イエズス会宣教師に向かって「毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後、一大艦隊を編成して支那を征服し、諸国をその子達に分ち与へん」と宣告している(『イエズス会日本年報』)。同様の征明構想を秀吉に対しても語っていた可能性は十分に考えられる。本能寺の変の後、信長の後継者となった秀吉は信長の天下統一事業と共に征明構想をも受け継いだといえる。

秀吉自身の征明構想について現存する史料上確実なものは、紀伊・四国を平定し関白となった1585年(天正13年)、家臣一柳末安に宛てた書状の中で「日本国は申すに及ばず唐国まで仰せ付けられ候、心に候か。」(伊予小松一柳文書)と記録されているのが最初のものである。

1586年(天正14)には日本イエズス会の副管区長ガスパール・コエリョらに「日本を統治することが実現したらならば、日本は弟の秀長に譲り、自分は朝鮮と支那を征服することに専念したい(『イエズス会日本年報』)と告げている。

文禄・慶長の役について、何故このような外征を行ったのか? 様々に論じられているが、これについて、それほど複雑な理由説明の必要があるとは思わない。海を渡って戦争に勝利し、より広大な領土を手に入れ、より多くの人民を支配し、より多くの富を手に入れ、より強大な軍隊を麾下に置き、これにより名声を手に入れ、名を後世に残すためである。世界史的に見ると、武力によって自国や自地域を統一した政権が、更に外に向かって拡張を図ることは全く珍しいことではない。ギリシャを統一したアレクサンドロス3世、モンゴルを統一したチンギス・カン、満州を統一したヌルハチ、中央アジアを統一したティムール、イタリア半島を統一したローマ帝国、中東を統一したアケメネス朝ペルシャ等、例を挙げれば枚挙に暇がない。自国や自地域内で武力によって力と名声を手に入れてきた人物にとって、更に外に向かって拡張を図る事は、更に大きな力と名声の獲得を可能とする行為なのである。日本に目を転じてみると、戦国時代が始まって以来、全国で数多くの武将が征服戦争を続け、その勝者は自らの力を拡張し名声を獲得してきた。織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、こうした戦国時代を勝ち抜いた人物であり、自国の統一を成し遂げた次に海外への拡張を構想することは世界史的に見ると普遍的な現象といえる。特に当時はスペイン等のヨーロッパ諸国が大洋を超えて遥か遠隔地に対して征服活動を行っており、このことを信長も秀吉も知らないはずはなく、ならば日本から対馬海峡を越えて征服活動を行う事がそれほど困難なことではないと考えても何も不思議ではない。

朝鮮との交渉[編集]

の征服とアジア諸国の服属を企図していた豊臣秀吉は、1587年九州征伐に際し、臣従した対馬の領主宗氏に「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を実現させるよう命じた。

交渉に当たった対馬の宗氏は、これを何とか穏便に済まそうとして、秀吉が求める「朝貢使」の派遣を秀吉の全国統一を祝う「祝賀使」の派遣にすり替えて要請すると、朝鮮としても日本側の状況を探りたい事情もあり1590年使節を派遣した「賊探使」。

もっとも朝鮮側にしてみれば使節は表向きが「祝賀使」であり、実態は「賊探使」であり、秀吉に対して「朝貢」したつもりも「服属」したつもりも無かったのだが、この朝鮮使節を宗氏は「朝貢使」と称して秀吉に謁見させた。これは秀吉からしてみると、朝鮮が要求に応じ「朝貢使」を派遣し「服属」してきたことになり、以前からの要求通り朝鮮に対し征明の先導(征明嚮導)を命じた。

ここで困窮したのは虚偽の報告をしていた宗氏で、思案の末、朝鮮には秀吉の要求を「途(みち)を仮(か)す」(假途入明)とすり替えて要請したが、建国以来明に服属する朝鮮は(征明嚮導)であれ(假途入明)であれ、要求には応じなかった。これは秀吉にしてみれば朝鮮が「服属」の誓約に違反したことになる。このためまず朝鮮を制圧し、然る後に明に攻め入る方針を定めた。

朝鮮では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。

朝鮮の国防策[編集]

朝鮮では北方国境地帯における女真族との状態的な紛争に対処するため有望な武将は北方国境地帯に配置されていたが、秀吉軍の侵入に備えて慶尚道・全羅道・忠清道に諸将を配置転換し、特に慶尚道永川清道三嘉大邱星州釜山東莱安東尚州の兵営と城砦に増改築が加えられ、日本に近い沿岸各道の水営(水軍)には水師(水軍司令官)として有望な人材を配置した。このうちの全羅左水師に抜擢されたのが李舜臣で、1591年2月13日のことである。1591年6月には宗義智自ら釜山を訪れ、秀吉の征明戦争が近日決行されることを警告。また、文禄の役開始約6ヶ月前の1591年10月24日には、朝鮮は明に対し「(朝鮮は)沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。日本から侵犯を受ければ撃滅いたします。朝廷(明)も警戒してください。」といった旨の上奏文を携えた使節を送っている。(『簡易集』巻1「辛卯奏」)

朝鮮水軍の配置

慶尚左水営=東莱 水使(朴泓)板屋船24隻
慶尚右水営=巨済 水使(元均)板屋船73隻
全羅左水営=麗水 水使(李舜臣)板屋船24隻
全羅右水営=海南 水使(李億祺)板屋船54隻
忠清水営=保寧鰲川 水使(?)板屋船45隻
板屋船=朝鮮水軍の主力艦で日本の安宅船に相当(板屋船の隻数は金在瑾『亀船』に掲載された推定値。)

出兵準備[編集]

天正19(1591)年1月20日、秀吉は全国に造船命令を発する。

一、海に面した国々は東は常陸から、北は秋田から、それぞれ九州まで、石高10万石について大船二艘を用意すること。
一、直轄領は10万石について大船三艘、中船五艘を作る。
一、水手(船員)は浦ごとに100軒について10人を出す。
12月5日山内一豊(遠江掛川)松下吉綱(遠江頭蛇寺)に命じ、大井川河口にて建造中の船舶は、長さ19間だったのを18間に改め、幅は依然6間とする。日本戦史40

また同年、秀吉は出兵の本拠地として肥前国名護屋城佐賀県鎮西町)を、朝鮮半島への中継地として壱岐島風本勝本城対馬府中清水山城釜山を望む対馬北端大浦の撃方山に撃方山城の建設を始め、出兵開始までに完成させた。

  • 舟奉行(文禄の役初期に渡海軍を円滑に輸送する役割)
高麗舟奉行・・・早川長政毛利高政毛利重政
対馬舟奉行・・・服部一忠九鬼嘉隆脇坂安治
壱岐舟奉行・・・一柳可遊加藤嘉明藤堂高虎
名護屋舟奉行・・・石田三成大谷吉継岡本宗憲牧村政治。『 鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書』
(後に戦局の進展に伴い服部は釜山に移り、九鬼・脇坂・加藤・藤堂は水軍を専管する。)

今次の出征は船舶甚だ肝要なれば多数に準備したるをその功とし、諸部隊の船舶を録上して之を船奉行に交付しその指図を受けて逐次渡海すべく朝鮮の地に上陸をしたならば、各隊の船舶には自家の奉行一人づつを附し対馬に送還し後続部隊を乗船せしむべし。『日本戦史 毛利家文書』

正月5日、在京の諸将に国に就て征外の準備を為さしめ、加藤清正題目南無妙法蓮華経)の旗、小西行長に良馬を賜う。この2人は年来征外の先鋒を希望していた。『日本戦史41』 秀吉、在陣地の地下人・百姓等の逃散を禁止し、押買押売および乱暴狼藉の連中は「一銭切(銭一文を奪っても死罪に処する)」にすべきこと。また、その他の法度に対する違反者も厳罰に処することを通達。『毛利家文書』

日本軍の編成[編集]

出兵を前に、九州・四国・中国地方の大名を主力とした以下の戦闘序列が定められた。

一番隊18700人 4月12日釜山上陸 翌日攻略

小西行長7000人(肥後宇土)
宗義智5000人(対馬府中)
松浦鎮信3000人(肥前平戸)
有馬晴信2000人(肥前日野江)
大村喜前1000人(肥前大村)
五島純玄700人(肥前福江)

二番隊20800人 4月17日釜山上陸

加藤清正8000人(肥後隈本)
波多信時2000人(肥前貴志岳)
鍋島直茂10000人(肥前佐賀)
相良頼房800人(肥後人吉)

三番隊12000人 4月18日金海上陸

黒田長政6000人(豊前中津)
大友吉統6000人(豊後府内)

四番隊14000人

毛利吉成2000人(豊前小倉)
島津義弘10000人(大隈栗野)
高橋元種秋月種長1000人(日向宮崎・日向高鍋)
伊東祐兵島津忠豊1000人(日向飫肥・日向佐土原)

五番隊24700人 (四国衆)当初は来島兄弟も属す

福島正則5000人(伊予今治)
戸田勝隆4000人(伊予大洲)
長宗我部元親3000人(土佐浦戸)
蜂須賀家政7200人(阿波徳島)
生駒親正5500人(讃岐高松)

六番隊15700人 4月19日釜山上陸

小早川隆景10000人(筑前名島)
小早川秀包1500人(筑後久留米)
立花宗茂2500人(筑後柳川)
高橋統増800人(筑後三池)
筑紫広門900人(筑後福島)

七番隊30000人 4月19日釜山上陸 (七番までが御先衆『日本戦史朝鮮役(鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書)』)

毛利輝元30000人(安芸広島)

八番隊10000人 5月2日釜山上陸

宇喜多秀家10000人(備前岡山)

+α八番隊帯同諸隊9200人(軍監として八番隊に帯同し漢城に入る)

石田三成2000人(近江佐和山) 当初は名護屋舟奉行
増田長盛3000人(近江水口) 当初は名護屋舟奉行
大谷吉継1200人(越前敦賀)
前野長康2000人(但馬出石)
加藤光泰1000人(甲斐甲府)
九番隊11500人
豊臣秀勝8000人(美濃岐阜)九月九日病没後織田秀信が継ぐ?
細川忠興3500人(丹後宮津)

+α九番隊帯同諸隊13970人(主に九番隊に帯同し慶尚道南部の平定を担当)

長谷川秀一5000人(越前東郷)
木村重茲3500人(越前府中)
早川長政250人(近江?) 当初は高麗舟奉行
毛利高政300人(播磨明石郡?豊後日田玖珠?) 当初は高麗舟奉行
亀井茲矩1000人(因幡鹿野)
糟谷武則200人(播磨加古川)
片桐且元200人(播磨?)
片桐貞隆200人(播磨?)
太田一吉120人(美濃?)(越前?)
古田重勝200人(近江日野)
新庄直頼300人(近江大津)
小野木重勝1000人(丹波福知山)平壌方面に配置か
高田治忠300人(丹波何鹿郡上林?)
藤掛永勝200人(丹波氷上郡小雲?)(丹波何鹿郡上林?)
岡本良勝(宗憲)500人(伊勢亀山) 当初は名護屋舟奉行
牧村利貞700人(伊勢岩出) 当初は名護屋舟奉行

釜山・漢城間の諸隊15550人(主に釜山から漢城間の要路警護と秀吉渡海時の御座所普請を担当)

服部一忠800人(伊勢松坂) 当初は対馬舟奉行
一柳可遊400人(伊勢桑名) 当初は壱岐舟奉行
浅野幸長3000人(若狭小浜)
竹中重利300人(美濃長松)
稲葉貞通1400人(美濃郡上)
中川秀政3000人(播磨三木)
宮部長煕2000人(因幡鳥取)
垣屋恒総400人(因幡浦住)
木下重堅850人(因幡若桜)
南条元清1500人(伯耆久米郡岩倉城) 幼少の南条元忠(伯耆羽衣石)の名代
斎村広道800人(但馬竹田)
別所吉治500人(但馬八木)
明石則実800人(但馬城崎)明石左近?明石守延?明石元知?[1][2][3]
谷衛友450人(丹波山家)
石川貞通350人(丹波天田郡)参考[4]

船手衆(水軍)9450人

九鬼嘉隆(志摩鳥羽)1500人 当初は対馬舟奉行
堀内氏善(紀伊新宮)850人
杉若伝三郎(紀伊田辺)650人
桑山重勝桑山小伝次貞晴?)(紀伊和歌山)1000人 <文禄元年には重勝は高齢で、実際に出陣したのは嫡孫桑山小藤太一晴)(嫡子一重は既に死去)(庶流(重勝次男)元晴も出征?)>桑山家参考[5][6]
藤堂高虎(紀伊粉河)2000人 当初は壱岐舟奉行
脇坂安治(淡路洲本)1500人 当初は対馬舟奉行、続いて陸路漢城付近まで進出、次に南岸に戻り船手となる。
菅野正影(淡路岩屋)250人(菅ノ正陰菅正影菅正陰) 『天正記』では父菅達長菅平右衛門)参考[7]
加藤嘉明(淡路志知)1000人 当初は壱岐舟奉行
来島通之来島通総(伊予来島)700人 当初五番隊に属し7月16日付朱印状(毛利家文書之三926)で舟手に配属
  • 朝鮮渡海勢・合計205570人 九州・四国・中国衆を主力に、東は越前・美濃・伊勢・まで
  • 名護屋在陣勢・合計102415人 東国衆、秀吉旗本衆、豊臣秀保
  • 総計307985人(甫庵太閤記
※文禄2(1593)年渡海
上杉景勝5000人(越後春日山)
伊達政宗1500人(陸奥岩出山)
佐竹義宣3000人(常陸水戸)5月渡海令下り、6月渡海する。

備考安国寺恵瓊

  • 京畿の留守・30000余人
豊臣秀次中村一氏堀尾吉晴池田輝政田中吉政等『日本戦史朝鮮役』

上陸開始から漢城占領まで[編集]

天正20年(1592年)4月12日、先陣の一番隊は対馬北端の大浦を出港し釜山に上陸した。釜山には1000人の朝鮮軍が守っており、小西・宗は仮道入明を要求するが朝鮮側は応じず、翌13日に総攻撃をかけて攻略した(釜山鎮の戦い鄭撥戦死)。釜山陥落をみた慶尚左水師朴泓左水営と配下の水軍を捨て逃亡。4月14日に東莱に対し仮道入明を要求し朝鮮側は応じず攻略した(東莱城の戦い宋象賢戦死)。4月15日に機張左水営占領、4月17日に梁山に入ると鵲院の隘路で密陽府使朴晋の軍を一蹴し、4月18日に密陽、その後に大邱仁同善山を次々と占領する。朝鮮朝廷は李鎰を慶尚道巡辺使として4000の兵を授けて派遣する[8]。尚州周辺で民衆を徴募した兵と合わせて6000。これを4月24日に尚州郊外で撃破(尚州の戦い李鎰敗走)[9]。4月27日に慶尚道から鳥嶺を越え忠清道へ進軍、弾琴台の戦いで迎撃に出た申リツ率いる8000[10]の朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略[11]京畿道に進み5月1日に麗州占領後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌5月3日には首都漢城に入城[12]、後続諸隊も続々と漢城に入った。

秀吉の元に緒戦の勝報が届くと、秀吉は出征諸将の戦功を賞賛するとともに、占領地において、放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲を禁止、逃散した民衆の郷里に還往する者への米銭等の賦課を禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと、捕獲した男女があればこれを放還すべきこと、等を命じた。『鍋島家文書』『毛利家文書』『紀州徳川家文書』

朝鮮国王宣祖は日本軍が漢城に入城する前に逃亡しており、朝鮮王朝の圧政に苦しんでいた民衆は、国王の脱出と同時に、景福宮昌徳宮昌慶宮の三王宮、官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし火を放っていた。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている(宣祖修正4月14日)。(王宮が日本軍入城以前に放火されていたことは日本側記録の吉見家朝鮮陣日記 吉野日記(松浦家臣吉野甚五左衛門記)にもあり。ルイス・フロイスの記録にも朝鮮国王が二つの宮殿に放火を命じて逃走したと記されている。)

朝鮮全土の平定を目指して[編集]

上陸から20日あまりで李氏朝鮮の王都である漢城が陥落すると、日本の諸将は漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる朝鮮八道の平定作戦を定め、漢城を出陣していった。

一番隊・二番隊・三番隊は共同して、5月11日に北に向かって進撃を開始し、5月18日に臨津江の戦い金命元等の朝鮮軍を撃破(事前に交渉し仮道入明を要求)。5月27日に開城占領、黄海道瑞興鳳山黄州中和を次々と占領。進撃を続ける日本軍が平壌に迫ると朝鮮国王宣祖は遼東との国境で鴨緑江に面した義州へと逃亡し、明に救援を要請する。

平安道に進んだ一番隊・二番隊は、6月8日に大同江の畔に到達。平壌には左議政尹斗寿・都元帥金命元ら10000人の朝鮮軍が防衛体制を整えていた。ここで小西・宗は朝鮮側に和平交渉を呼びかけ「日本は朝鮮と戦うつもりはなく、願いは仮道入明である」と伝えたが朝鮮側は応じず、12日朝鮮軍は大同江を渡り夜襲を敢行し宗軍に犠牲が出た。14日朝鮮軍は再度夜襲をかけ、不意打ちを受けた小西・宗の軍は混乱したが、黒田長政が救援に駆けつけると形勢は逆転した。敗走する朝鮮兵が王城灘から大同江の浅瀬を通って平壌に逃げ込むのをみて渡河可能点を知ると王城灘を占領し攻撃態勢を整えた。15日夜、尹斗寿や金命元は平壌の防衛は困難と判断し市民を脱出させた後平壌から撤退する。16日、日本軍は大同江を渡って平壌を占領し、ここで進撃を停止した。

開城占領まで行動を共にしていた二番隊は咸鏡道方面へ進路を転じ、海汀倉の戦い韓克誠の朝鮮軍を破り咸鏡道を平定した。当地の朝鮮人鞠世弼鞠景仁は朝鮮王朝に反旗を翻し、臨海君順和君の二王子を捕らえて日本軍に帰順する。さらに加藤清正は朝鮮東北国境の豆満江を越えて女真族の地オランカイ(兀良哈)へ攻め入った。

四番隊は金化において助防将元豪を敗死させ江原道を完全制圧した。[13]

占領地の拡大と兵力分散[編集]

日本軍は広域に占領地を拡大すると、各地に兵力を分散させることとなり、補給線は伸び補給が滞った。伸びた補給線上の拠点には数百人づつの兵が置かれるが、この程度の兵力では、各地で起こった義兵に兵力で劣り、しばしば苦戦する事態が見受けられるようになる。 この問題に対処するため諸将は漢城で会議を開き、占領地拡大策を停止し、主要都市と補給路上に兵力を集中する方針に切り替えた。しかし補給の滞りは解消されず各地で兵糧不足に悩まされた。

出征軍兵士のほとんどは温暖な西日本出身であり、冬になると寒気に悩まされ、また疾病が多く起こり戦闘よりも病気により多くの兵が失われた。

  • 十二月十日頃の釜山~漢城間の配置
漢城 増田長盛、石田三成、大谷吉継
陽智 中川秀成、宇喜多秀家
竹山 福島正則
忠州 蜂須賀家政、生駒親正
聞慶 長宗我部元親
咸昌 長宗我部元親
尚州 戸田勝隆
善山 宮部長煕
仁同 木下重堅、南條元清
大丘 稲葉貞通、斎村広道、明石則実
密陽 別所吉治、岐阜衆(旧豊臣秀勝臣下か)
東萊 岐阜衆(旧豊臣秀勝臣下か)
釜山 百々三郎左衛門(百々綱家と同一人物か?)、三輪五右衛門(旧豊臣秀勝臣下)
十二月十日付朱印状『鍋島直茂譜考補』より
慶尚道:郭再祐 鄭仁弘
全羅道:高敬命第一次錦山城の戦いで戦死) 金千鎰第二次晋州城の戦いで戦死)
忠清道:趙憲第二次錦山城の戦いで戦死)

慶尚道南部水陸の戦い[編集]

(この節は現時点で良好とはいえない記述で逐次改訂予定。)

  • 1期;4月13日の釜山攻略から日本軍一番から八番までの各隊は、朝鮮国の心臓部漢城を目指しまっしぐらに進撃。進路以外はほぼスルー。
  • 2期;5月初めの第一次漢城会議の方針(朝鮮全土制圧)に沿って慶尚道南部では一部部隊が釜山から西方に向かって水陸から支配域の拡大を目指す。泗川付近まで占領していたようだ(その先は全羅道へ続く)。これに対し海上では李舜臣等が反撃(一次、二次出撃)、陸上では郭再祐等が反撃(鼎津の戦い)。日本軍の進撃を阻止。
  • 3期;日本軍の西方進出を阻む朝鮮水軍を撃滅するため、九鬼・脇坂・加藤嘉明を加え、本格的に水軍を編成し、7月7日閑山島海戦となるが日本水軍敗退。海戦を停止して巨済島に築城を開始する。
  • 4期;日本軍は8月の第二次漢城会議の方針(占領地不拡大と要路への兵力集中)に沿って、慶尚道南部でも釜山付近まで撤収する。ところが、この結果李舜臣等の朝鮮水軍は釜山への攻撃が可能となり、釜山の攻略を目指し8月29日海上から攻撃する。この攻撃を日本軍は撃退するが、停泊船舶に損害を受けた。そのため釜山の安全を確保するため外郭防衛圏形成の必要性が生じる。
  • 5期;日本軍は釜山西方に外郭防衛圏を形成するため、九番隊(+α諸隊含む・豊臣秀勝は既に病死)を西方に向け進撃する。これが一連の第一次晋州城戦役(10月5日晋州城の戦い)で、晋州城の攻略には失敗するが釜山西方に外郭防衛圏は形成される。
  • 6期;以後、朝鮮水軍の攻撃は、熊川から巨済島付近に限定され、釜山の安全地帯化に成功する。


※「李舜臣の活躍により日本軍の補給路が断たれた」といわれることがあるが、そのようなことはない。詳細はtokugawaブログ: 李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)を参照のこと。

李舜臣の作戦行動[編集]

  • 一次出撃 
玉浦海戦5月7日 以下元均と合同
合浦海戦5月7日
赤珍浦海戦5月8日
  • 二次出撃
泗川海戦5月29日
唐浦海戦6月2日
唐項浦海戦6月5日 以下李億祺が加わる
栗浦海戦6月7日
  • 三次出撃
閑山島海戦7月7日
安骨浦海戦7月9日
  • 熊川攻撃1593年2月10日・12日・18日・22日・3月6日

明軍の参戦[編集]

李如松率いる明軍43000余人は朝鮮軍を加えて1月7日、小西行長の守る平壌城を攻撃し外城壁を占領する。これに対し日本軍は内城及び北辺の万寿台、乙密台に布陣して迎え撃ち、明・朝鮮軍に多くの犠牲を与えて撃退する。そこで李如松は「退路を与えるから、城を明け渡せ」と通知した。この夜、日本軍は自主的に退却を開始。これにより明軍は空となった平壌城を接収する。さらに追撃隊を差し向けたが小西等は漢城まで退却することに成功する。

平壌城の占領後、明・朝鮮軍は漢城目指して進撃した。対する日本軍は兵力を集結し、1月26日漢城に迫った明軍を碧蹄館の戦いで破る。

碧蹄館の敗戦により明軍は戦意を喪失し、武力によって日本軍を朝鮮から撃退する方針の放棄を迫られることとなり、交渉による解決を模索し始めた。


明軍編成

兵合43000余人, 繼出者8000人

  • 是時 平壤 屯賊, 可萬數千, 竝我民爲兵, 以張軍勢。 経略計以三倍衆擊之(宣修12月1日


幸州山城の戦い幸州山城の戦い

明軍が南下中との報を受けた全羅巡察使権慄は、明軍と共に漢城を包囲しようと考え、文禄2年2月初旬、水原の禿城山城から漢城の西北で漢江下流12kmにある幸州山に2300人を率いて進出し、ここに柵を設置して陣取り、漢城の日本軍を牽制した。しかし、既に明軍は1月26日の碧蹄館の戦いで日本軍に撃破されていた。

日本軍では、明軍が再南下した場合、幸州山城が前進基地となることを事前に防ぐため、この地の朝鮮軍を排除することに決する。一番から七番まで3万余の兵力がこれに充てられ、2月12日未明に漢城を進発する。攻城は午前6時頃から開始され、3柵の内2柵を突破し、最後の1柵を残すのみとなった。最後の1柵に取り付いた日本軍に対し、城兵は矢を雨のように射かけて抵抗する。それでも柵の一角が破られ朝鮮軍は危機的状況に陥った。このとき権慄は退く者を斬って見せしめとし、破られた柵を修復させた。朝鮮軍では矢も尽きようとしていたが、京畿水使の李蘋が江華島から船隊を率いて漢江を溯り矢を補給する。戦闘は暮に及んだため日本軍はいったん漢城に引き上げることにした。この日、宇喜多秀家、吉川広家・石田三成・前野長康が負傷している。

漢城に戻った日本軍は、攻城道具を用意して再攻撃の準備に取り掛かっていた。この事態に危機感を募らせた権慄以下の朝鮮軍は、17日幸州山城に自ら火を放ち退却していった。これにより当地から朝鮮軍を排除するという日本側の目的は達せられた。結局、権慄は北方の坡州まで退却して明軍との合流をはかった。 (2月18日付八将連署状『武家事紀』) (宣修2月1日) (宣祖2月23日


日本軍の漢城からの撤退理由

文禄2年4月18日、日本軍は漢城から撤退するが、このことについて韓国では幸州山城の戦いで朝鮮軍が勝利を得たためという説明がなされることが少なくない。しかし、実際は無関係である。幸州山城の戦いが起こったのは2月12日で、日本軍の漢城撤退は4月18日である。両者は2か月以上間隔が開いており、関係性を見出すことはできない。そもそも幸州山城の戦い5日後の17日に朝鮮軍が幸州山城から逃げ去ったことにより、当地から朝鮮軍を排除するという日本軍側の目的は達成されていたのであり、この戦いが理由で日本軍が漢城から撤退して釜山周辺まで戻ることは有り得ない。日本軍の漢城撤退の理由は
  • 漢城で兵糧不足が生じており補給可能な釜山周辺まで戻る必要があったこと。
  • 晋州城攻撃に全力を投入したかったこと。
  • 明との講和交渉開始の目途がたったこと。
こういった理由を挙げることができる。

晋州城攻略[編集]

文禄1年4月の進攻開始以来、日本軍は占領地を広げたが、全羅道を中心として隣接する慶尚道南西部、忠清道西部は未入地として残っていた。このため、ここが朝鮮側最大の反撃拠点となり、日本軍にとってこの地域の討伐が課題となった。

明との講和交渉が開始されることになると、文禄2年4月18日、日本軍は漢城を引き払って全軍釜山周辺へ集結して補給の充足を図り、大部隊を以て朝鮮側反撃拠点の討伐を実施する環境が整う。

まず慶尚道南西部の中核都市であり、かつ全羅道への通路にあたる晋州城を攻め落とし、当地域の朝鮮側戦力を無力化することが目標となる。晋州城は前年10月にも攻めたが攻略に失敗したため、何としても攻略して前年の借りを返さなくてはならない城であった。

晋州城攻略作戦は在朝鮮日本軍の総力を結集した大規模なものとなり、一つの戦いとしては文禄・慶長の役全期間を通じて最大となる92,972人が投入された。

晋州城攻防戦#第二次攻防戦

6月14日、主力は昌原を発し、15日咸安に入る。16日斑城を占領。このとき宣寧の朝鮮諸将逃散する。18日宣寧を占領。21日晋州城を囲む。22日晋州城への攻撃を開始。27日晋州城へ降伏を勧告。28日黄進(忠清兵使)戦死。29日金千鎰(倡義使)・崔慶会(慶尙右兵使)徐礼元(晋州牧使)・高従厚(義兵将、高敬命の子)等戦死。晋州城陥落する。

晋州城陥落後、日本軍は城を破壊し、慶尚道南西部、及び全羅道南東部の掃討に入る。一隊は丹城、山陰に向かい、智異山に入る。一隊は晋州の西方に向かい、智異山の軍と合流し、散開して求礼光陽南原順天を掃討。一隊は泗川固城を掃討。一隊は三嘉、宜寧を掃討し、咸安、昌原などの地に戻って駐屯した。一隊は捕虜や戦利品を伴い金海に戻った。

その後、全軍釜山周辺に戻って倭城を構築し43000人をその守備に充て、他は帰国して講和交渉期に入る。

日本軍が亀甲車を使用する。
晋州の城を攻めらるる時、黒田長政の士大将後藤又兵衛基次亀の甲といふ車を作り出せり、厚板の箱を拵へ内に強き切梁(きりはり)を設け、石を落しかけても箱の摧(くだ)けざる手当(てあて)をし、箱の内へ後藤入りて棒の棹を指し車を箱に仕かけ、進退自由に廻る様にして城際へ押詰石垣を崩して乗入けり。
又作大櫃爲四輪車, 賊數十人, 各穿鐵甲, 擁櫃而進, 以鐵錐鑿城。 時, 金海府使李宗仁, 膂力冠于軍中, 宗仁連殪五賊, 餘皆遁走。 城中之人, 束火灌油而投之, 倭因皆燒死。
  • 『宣祖修正実録』
又作大櫃以藏兵, 下爲四輪車, 賊數十人着鐵甲, 擁鐵楯, 推車薄城, 以大鐵錐鑿城。 李宗仁 獨發矢, 矢必穿甲, 賊兵多死。 城上束蘊灌油, 放火投下, 燒其櫃, 櫃中賊盡殲。
黒田長政配下の後藤基次が亀甲車を作り城壁を崩して乗り入り、晋州城は落城した。朝鮮側記録では、日本軍が使用する“4輪の大櫃”に対して、朝鮮軍が油を落として炎上させ、日本兵を全滅させたことになっているが、中に入っていた後藤基次はその後も大坂の陣で戦死するまで生存している。

講和交渉[編集]

講和交渉期間の布陣
西生浦 加藤清正
林浪浦 毛利吉成・松浦鎮信
機張 黒田長政
釜山浦 毛利元康
金海 鍋島直茂
加徳島 小早川秀包・立花統虎
安骨浦 九鬼嘉隆・脇坂安治
熊川浦 小西行長・宗義智
巨済島 島津義弘・福島正則
兵力合計43000人

秀吉が提示した講和条件(「大明與日本、和平相定條々」5月1日付朱印状『黒田文書』
1.明の皇女を迎えて天皇の后妃とする。
2.勘合貿易を復活させる。
3.日明両国の大臣が互いに誓詞を交換する。
4.朝鮮の北部4道と国都を返還する。
5.朝鮮の王子1人と大臣1人を日本の人質とする。
6.加藤清正が生け捕りにした朝鮮2王子を返還する。
7.朝鮮の大臣は日本に対して累世違却なき誓詞を書く。

明が提示した講和条件
1.日本軍は朝鮮から一兵も残さず撤兵すること。
2.豊臣秀吉を日本国王に冊封する。
3.朝貢は認めない。

  1. 交渉担当者(日本側;石田三成・小西行長等)(明側;沈惟敬等)日明の講和条件が折り合いそうもないため、欺瞞工作を用いて和平成立を目指す。
  2. 沈惟敬等、秀吉の「関白降表」を偽作、明に秀吉提示条件は伝えられず → 明、使者派遣。(正使李宗城・副使楊方亨) → 釜山まで達した正使李宗城は真相を知り逃亡。 → 副使楊方亨を正使に、沈惟敬を副使に仕立てる。
  3. 秀吉、来日した明使を1596年9月1日引見 → 明側提示条件に基づく詔勅文を聞いた秀吉は激怒し再征を決する。
  4. 沈惟敬等、交渉決裂を取り繕うため、秀吉の「謝恩表」を偽作 → 露見し沈惟敬は処刑される。
  • この間、石田・小西等の欺瞞工作を用いた講和交渉とは別に加藤清正は独自に朝鮮側と交渉を行っている。ここでは秀吉の示した条件を提示し、その受け入れを迫っている。この清正の行為を石田・小西は講和交渉を妨害するものと見做し秀吉に讒言する。そのため清正は帰国を命じられ蟄居させられる。この経緯により両者の関係を険悪なものとなった。
  • なお、講和交渉は日明間で行われ、朝鮮は交渉から排除されている。朝鮮にとり不利な条件を含む秀吉の提示七条件を知っていた朝鮮は、これら不利な条件に基づく和平の成立を恐れ、強行に反対した。

慶長の役戦略[編集]

HP

慶長の役陣立[14]
右手の備(右軍) 計64300人
加藤清正 10000人
黒田長政 5000人
鍋島直茂勝茂 12000人
池田秀氏 2800人
中川秀成 1500人
長宗我部元親 3000人
毛利秀元 30000人
目付け、早川長政垣見一直熊谷直盛
左手の備(左軍) 計49600人
小西行長 7000人
宗義智 1000人
松浦鎮信 3000人
有馬晴信 2000人
大村喜前 1000人
五島玄雅 700人
蜂須賀家政 7200人
毛利吉成勝永 2000人
生駒一正 2700人
島津義弘 10000人
島津忠豊 800人
秋月種長 300人
高橋元種 600人
伊東祐兵 500人
相良頼房 800人
宇喜多秀家 10000人
目付け、太田一吉竹中重利
船手衆(水軍) 計7200人
藤堂高虎 2800人
加藤嘉明 2400人
脇坂安治 1200人
来島通総 600人
菅達長 200人
黒田如水及諸家の水軍若干之に属す
諸城守備隊大約 計20000人
西生浦城浅野長慶 3000人
釜山城小早川秀秋 10000人
安骨浦城立花統虎 5000人
竹島城小早川秀包 1000人
加徳城筑紫広門
・・・・・・高橋統増
500人
500人
総計141500人[15]

講和交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられ、慶長2年(1597年)進攻作戦が開始される。

一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。

一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。

一、自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も、大軍ニて罷出、於陣取者、各令談合、無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者、可爲越度事。

— 慶長二年二月二十一日付朱印状より抜粋、『立花文書』

出征諸将に発せられた2月21日付朱印状(立花文書他)によると、ここでも最終的な目標としているのは「大明国迄可被仰付事」とあるように、文禄の役と同様に明の征服である。秀吉が明征服の固い意志を持っていたことは宣祖実録8月7日の、日本武将豊茂守が発した朝鮮王朝への警告に「大明四百州, 亦欲呑倂, 何況於朝鮮八道乎? 此乃關白約誓諸將之言也。」とあることからも確認出来る。ただし、その前に「自然大明国者共、(中略)、即時被討果」と、明の野戦軍主力を朝鮮南部において撃滅してから、明本国に進撃する計画が書かれている。

最終的な目標とは別に、当座の作戦目標は、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので、これを達成した後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(九州の大名)を定めて、「帰朝之衆」と呼ばれる他の諸将(四国・中国の大名及び一門衆の小早川秀秋)は帰国するという計画であった。

倭城の築城は(宣祖実録6月14日)に記された日本武将豊茂守の発言「六七月間, 大兵渡海, 先擊慶尙、全羅等道後, 還駐沿海」や、(文禄2年卯月17日付、加藤清正宛朱印状)に示された「赤国(全羅道)白国(慶尚道)令成敗、海手ニ付て取続、御仕置之城々相拵、御人数・兵糧・鉄砲・玉薬、丈夫ニ入置、年中ニ二度計宛、梁東川(鴨緑江)切ニ押詰、働き被仰付候者、高麗人令退屈、御手ニ随候ハてハ不叶候」という沿海地への築城方針と、この方針に沿って実施された晋州城戦役から、その後の沿海地へ倭城群築城に至った経緯の先例から沿海地に戻って行うことが予定されていたのは間違いない。

当座の作戦目標となった全羅道は文禄の役で未征服に終わった地であり、朝鮮の水軍の他、義兵、官軍の出撃根拠地となった地であった。忠清道も釜山・漢城間の要路周辺以外は未征服地が多く、同様の役割を果たしていた。明本国へ進もうと思うならば、進行経路を側背から脅かすこれらの地を成敗し、反撃の芽を断っておく必要が生じる。全羅道成敗は既に文禄2年の晋州城戦役の際に懸案事項として上がっており、日本軍としては何としても成敗しなければならない場所といえる。

慶長に役の目的を南部四道の占領にあるとする説もあるが、そうした説を裏付ける文献を見つけることは出来ない。むしろ慶長2年から3年にかけて発せられた書状を見る限り、文禄の役のように土地の占領に拘るのではなく、2.3年に一度大軍を派遣し、進攻しては引き上げるといったヒット・アンド・アウェイ戦略を長期にわたり繰り返すことで、敵に戦略的打撃を与えて屈服させるのが目的であったのではないか。

進攻して行われるのは、敵の将兵や軍事施設といった直接的軍事能力を打破することに加えて、田畑の刈り取り(刈り田働き)や、諸施設の破壊・焼き払い(焼き働き)、人的資源(一般労働力及び特別技能者)や物品の奪取といったものである。朝鮮の南部は朝鮮王朝の土台を支える豊かな土地で、ここを繰り返し荒らされたならば、朝鮮王朝は確実に疲弊し、やがては耐えることが出来なくなり、屈服するか、破滅するかの二者択一を迫られることになるだろう。

つまり慶長の役の朝鮮に対する戦略方針は、進攻先の朝鮮領土を広域的に占領支配するものではなく、朝鮮王朝の軍事力や政治体制を根本から支えている産業基盤や社会基盤を破壊して沿岸部に引き上げるヒット・アンド・アウェイ戦略を反復するにより、朝鮮の抗戦能力と抗戦意志を喪失させるというものである。慶長2年(1597年)の進攻作戦はその第一弾となる進攻である。

文禄2年(1593年)の戦役(第二次晋州城の戦い)は、釜山周辺域から出撃し、晋州城を落として破壊すると、続いて慶尚道西南部から全羅道東南部を掃討して撤収している。この経緯を見ると、限定的ながらも既にそういったヒット・アンド・アウェイ戦略の性質がある。この戦役はプレ慶長の役的なものと言えるかもしれない。

朝鮮に対する意義とは別に、日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略の明に対する意義は、「自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事」とあるように、その野戦軍の朝鮮南部出撃を誘い殲滅することで抗戦能力を奪い、その後、進撃して征服するか、もしくは屈服させようという戦略であったと考えられる。

日本軍にとり朝鮮南部とは、兵站線の延伸を来さないため補給は容易であり、また兵力の集中運用も可能で、良好な状態で明との決戦に望む事ができる戦域といえる。冊封国である朝鮮に対し日本軍が進攻を繰り返したならば、宗主国たる明としては放置出来ず、日本軍を朝鮮から駆逐するため、本格的に派兵して戦いを望まざるを得ない。つまり、慶長の役における日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略は、明の大軍誘引のための戦略的挑発としての側面を持つのである。

慶長の役では日本軍の戦略の一つ一つが文禄の役の反省に立脚するものとなっている。

  • まず、慶長の役では朝鮮水軍を最初に殲滅し、その後に地上軍の進撃を開始した。これは文禄の役で朝鮮水軍に苦汁をなめさせられた反省に立脚する。
  • 次に、進攻方向は漢城を目指すのではなく、水陸から全羅道を目指した。これは文禄の役では漢城を目指して真っ直ぐに北上したために、全羅道が未入地として残り朝鮮側が水陸から反撃する策源地となった反省に立脚する。全羅道への進攻は朝鮮水軍の根拠地の破壊をも意味する。
  • もう一つ、慶長の役では土地の占領に拘るのではなく進攻して敵に打撃を与えては引き上げるヒット・アンド・アウェイ戦略をとる。文禄の役では土地の占領に拘ったため、兵站線が伸びて補給に苦しみ、また広い占領地に兵力が分散してしまい力を発揮できなくなった。こうした反省に立脚するものである。
  • 進撃開始時期が文禄の役の春とは違い秋の収穫期を前にした時期というのは、その年の収穫を敵に収穫させず、自軍が入手するという目的も考えられる。実際に、日本軍の撤収後、当方面に再展開した李舜臣は極度の兵糧不足に苦しみ、通航する船や海上に避難した住民から食料を徴収して窮状をしのがざるを得なかった。


慶長の役の目的は“「唐入り」ではなく朝鮮南四道の領有”という虚構

慶長の役の目的は「“唐入り”ではなく朝鮮南四道の領有化」という説が存在するが、全くの過ちであり、慶長の役の真実を知る上で大きな阻害要因となっている。
この説は講和交渉時に豊臣秀吉が要求した七条件の一つに朝鮮南四道の割譲が含まれていたことを無理やり慶長の役の目的にこじつけただけで、史料を無視した憶測説にすぎない。
講和交渉の決裂後は朝鮮南四道の領有化案は消え去った。『慶長二年二月二十一日付朱印状』を始め、慶長の役における指令に朝鮮南四道の領有化などは全く指示されていないし、朝鮮へ派遣された諸将も朝鮮南四道領有化のための行動など全くとっていない。
実際の慶長の役における指令では、最終的な目的が明の征服であることが明記されている。このための下準備として、明軍主力の朝鮮南部への誘引して戦力を削ぎ取ることと、朝鮮王朝の国力を衰退させ戦争遂行能力と抗戦意志を弱体化するためのヒット・アンド・アウェイを反復する戦略が採用された。さしあたって慶長二年進攻作戦の目標として全羅道や忠清道などの“成敗”と出撃拠点となる城郭(倭城)群の構築が指示され、進攻開始後、諸将は指示どおりの行動し、全羅道・忠清道“成敗”任務と城郭群構築任務を達成しているのである。

ヒット・アンド・アウェイ戦略は既に文禄2年初期には発想されていた

文禄2年卯月17日付、加藤清正宛朱印状)に「赤国(全羅道)白国(慶尚道)令成敗、海手ニ付て取続、御仕置之城々相拵、御人数・兵糧・鉄砲・玉薬、丈夫ニ入置、年中ニ二度計宛、梁東川(鴨緑江)切ニ押詰、働き被仰付候者、高麗人令退屈、御手ニ随候ハてハ不叶候」と、沿岸部に城(倭城)を築いて、奥地に侵攻を繰り返すことで、朝鮮人を屈服させるというヒット・アンド・アウェイ戦略がこの時期既に発想されていたことがわかる。
この指令が発せられて、まもなくヒット・アンド・アウェイ戦略は実施に移された。それが晋州城攻略戦と、攻略後に行われた慶尚道南西部から全羅道の一部に至る周辺域の掃討である。そして任務完了後、沿岸部に移り築城を行っている。講和交渉の始まりにより、期間的、地域的に小規模で限定的なものになったが、講和交渉期を挟んで実施された慶長2年の戦役では全羅道・忠清道に対し大規模な掃討を行った。
もっとも、さすがに“年中に二度ばかり”というのは頻度が高すぎるためか慶長の役では2・3年に一度の侵攻予定が公表されている(慶長3年3月13日付朱印状『立花文書』


朝鮮側記録からも確認できるヒット・アンド・アウェイ戦略宣祖実録6月14日

  • 豊茂守の発言「六七月間, 大兵渡海, 先擊慶尙、全羅等道後, 還駐沿海, 欲奪濟州。」
  • 豊臣秀吉の諸将への命令「汝等爲先鋒, 躪踏慶尙、全羅、濟州等地後, 退兵宜寧、慶州等處屯據, 召募朝鮮散卒遺民, 合我軍, 大作農事, 積峙兵糧, 明年又明年, 漸次奪據, 則朝鮮地方將爲日本之地。」

済州島への言及がある点など日本側の記録と細部において相違があるものの、奥地に侵攻しては沿海地に引き上げ、それを反復するヒット・アンド・アウェイが日本側の戦略であることが宣祖実録からも確認できる。

全羅道への進撃[編集]

講和交渉の決裂後、先鋒の小西・加藤が慶長1年末から翌2年1月ごろに朝鮮に入っているが、主力の諸勢は4月以降漸次渡海し、7月には14万を越える大軍が釜山周辺に出揃った。 これに対し明でも麻貴を備倭大将軍として朝鮮に軍を派遣するが、その数は僅か1万7千に過ぎなかった(明史・朝鮮伝)(他に宣祖実録8月5日では「僅か萬餘」と記す)。また同時に各地から兵を徴集するが、これが朝鮮に入るのは、だいぶ後のことになる。このため慶長の役が始まっても、明軍の戦力は日本軍に対抗出来るものではなかった。

釜山周辺に集結していた日本軍は7月15日漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅すると陸上でも全羅道を目指して進撃を開始する。このとき明・朝鮮軍では全羅道と慶尚道との道境付近にある南原城黄石山城で守りを固めていた。

日本軍は左軍と右軍の2隊に分かれ西進し、左軍は8月15日南原城を攻め落とし(南原城の戦い)、右軍は8月16日黄石山城を攻め落とす。続いて両軍は全羅道の中核都市全州に向かって併進した。するとここを守る明将陳愚衷は恐れをなして逃走したため戦うことなく8月19日全州を占領する。ここで諸将は軍議を開き、全羅道及び忠清道を掃討し、その完了後は転進して沿岸部へ築城するという既定方針が再確認されるとともに、より具体的な事項が決定され、順次進発してゆく。


※慶長の役で日本軍の進攻に対抗できなかった明・朝鮮
慶長の役では朝鮮軍や明軍が準備を整えていたため日本軍は前進できず押し戻されたなどという説が存在するが事実ではない。
日本軍の進攻が始まったころ、明が派遣した援軍の兵力は明史・朝鮮伝で僅か1万7千、宣祖実録8月5日条では僅か1万余と、14万余を派遣した日本軍に全く対抗できるものではなかった。また、日本軍の進入に先だって朝鮮の城郭では強化修築工事が行われているが、これも効果はなく、戦って壊滅するか、戦わず逃亡するか、いずれかの結果に終わっている。朝鮮が頼みにしていた水軍も漆川梁海戦で壊滅状態となっており、これは朝鮮にとって文禄の役よりもかえって最悪の状況に陥ったといえる。結局、明・朝鮮軍は日本軍の攻撃に対抗することができず防衛体制は破綻し、全羅道・忠清道の席捲を許すことになる。

全羅道・忠清道掃討[編集]

8月19日の全州占領後、日本軍は北進して忠清道に入ると、右軍の内、加藤・黒田・毛利の軍、40000余を更に北に向かわせ、忠清道掃討を受け持つとともに、明・朝鮮軍への備えとし、左軍は、右軍から鍋島・長宗我部・池田・中川の諸勢を加え、主目標であった全羅道を北から南へとローラー作戦方式で掃討してゆく。また、陸に上がって戦っていた水軍部隊は海に戻り、東から西へと全羅道南岸域の掃討を進めた。

忠清道に進んだ北進隊では9月7日、黒田軍の先鋒隊が稷山において明軍と接触し交戦状態に入ると、黒田長政本体が駆けつけ戦闘に加わる。明軍にも援軍が加わったが、この時の明軍部隊は少数にすぎず、毛利秀元軍が赴援に駆けつけると衆寡敵せず水原方面に退却した。稷山での戦闘後、北進隊は京畿道に入り安城・竹山へと進む。

一方、陸海からの全羅道掃討作戦の最終段階で起こったのが鳴梁海戦である。漆川梁海戦で壊滅的打撃を被っていた朝鮮水軍は、三道水軍統制使に李舜臣を復職させたが、僅か13隻の戦船を残すのみであり、劣勢は明らかであった。9月16日、李舜臣は鳴梁海峡で数的優勢な日本水軍を迎え撃ち、関船のみで編成された日本水軍の選抜部隊を痛打したが、陸海から大軍で迫る日本軍を前ににこれ以上踏み留まることは不可能であり鳴梁海峡から退却する。これにより日本水軍は全羅右水営、珍島を占領し、鳴梁海峡を抜けて全羅道西岸に進出し、海上の島々までも掃討した(『宣祖実録』10月13日)。また南下していた陸軍も海南に達し、ここに作戦目標であった全羅道全域の掃討を達成する。

目的を達成した各日本軍は計画通りにそれぞれ反転し、次の目標として定められていた築城を、蔚山から順天の間で開始する。朝鮮側では、この日本軍の反転理由を掴むことができず、日本軍の罠ではないかと疑うほどであった。

稷山の戦いについて、この戦いで日本軍が破れ、半島南岸まで退却したなどという言説が存在するが、これは全く歴史的事実に反する。
この戦いに関する日本側の史料が日本軍の勝利と記録されていることはいうまでもない。(12月8日付、黒田長政宛・四奉行連署状『黒田家譜』)
一方の明・朝鮮側の記録で明軍の大勝利となっているのは、後に編纂された史料のみで、信頼性の高い一次史料によるならば、明軍の勝利とはなっていない。たとえば、『宣祖実録』においても、戦果を強調しているのは倭軍の先鋒(黒田軍内の先鋒隊)に対してのみで、「天安 大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵 等四將, 去夜發 稷山 前來, 唐兵亦多死者云。(宣祖実録9月9日)」とあるように、戦場に黒田軍本体、さらには毛利軍が駆けつけるに及び、明軍は数的劣勢に陥ったため退却し、また多くの死者を出したことも記録されている。このころの明・朝鮮軍の防衛体制は崩壊しており、稷山に進出した明軍も2千から4千程度の少数に過ぎず、有力な日本軍と正面対決して勝利できるような存在ではなかった。
因みに、この時日本軍主力は遠く離れた全羅道の掃討を実施しており、何ら損害を受ける状況にはなく、稷山の戦いの影響で撤退するなどあり得ない。
この戦いの後、北進した加藤・黒田・毛利等は「賊於初十日, 搶掠 安城 , 進犯 竹山 境。(宣祖実録9月14日)」とあるように、京畿道内の安城・竹山方面に前進した後反転し、全羅道の掃討を完了した日本軍主力も移陣し、全軍をもって半島南岸に築城を開始する。これは慶長の役発動前から予定されていた行動であり、8月の全州会議においてもこの方針が再確認され、ここでより具体的行動が定められ、定められた通りに行動した。
このころの明・朝鮮軍は、「賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。 安危、成敗, 決於江上, 而但令 崔遠 守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。(宣祖実録9月9日)」とあるように、主防衛線を漢江のラインに設定し、ここをなんとか死守しようとしていたが、極めて危機的状況にあった。しかし日本軍が自主的に反転したため命拾いしたのが実状である。
日本軍が反転した理由について、「今無故忽爲退遁。 萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術, (宣祖実録9月16日)」と、朝鮮側では理解できておらず、日本軍が仕掛けた罠ではないかと疑い、明軍がその術中に陥らないか心配している。
鳴梁海戦では日本水軍の内、鳴梁海峡に突入した関船部隊が、朝鮮水軍の迎撃により打撃を被った。だが、この戦いに参加しなかった主力艦である安宅船や小早船は何の損害もなく温存されており、日本水軍は依然として有力な戦力を有していた。沿岸部を制圧中の日本側地上軍の影響も加わり、李舜臣は全羅道北端まで逃走し、拠点である全羅右水営を失った挙句、日本軍の「全羅道成敗」を阻止することはできなかった。もちろん、この海戦により朝鮮水軍が制海権を奪い返したなどということはないし、戦力の劣勢状況を挽回させたわけでもない。日本軍の補給を遮断するといったこともない。この海戦は戦闘中の朝鮮水軍が日本水軍に打撃を与える局面だけを切り取って見たなら朝鮮水軍の勝利のように見える。しかし、戦略的観点から見ると水陸の日本軍が朝鮮水軍を駆逐し、作戦目標であった「全羅道成敗」を達成した戦いである。
※鳴梁海戦は朝鮮水軍が日本水軍を撃退し、全羅道侵攻を頓挫させた戦いと言われることがあるが事実ではない。実際のところ戦闘後、前進したのは日本水軍であり、後退したのは朝鮮水軍である。そして全羅道西岸海上に進出した日本水軍は海上の島々に至るまで掃討している。このことは朝鮮王朝の記録である宣祖実録でも確認することができる。(詳細はtokugawaブログ: 『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠,tokugawaブログ: 鳴梁海戦日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』,tokugawaブログ: 鳴梁海戦,朝鮮水軍の後退と日本水軍の前進,tokugawaブログ:鳴梁海戦,日本水軍戦勝認定書『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』及び『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』を参照のこと。)
※鳴梁海戦後、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍の補給を断ったといわれることがるが、そのようなことはない。戦争の終結まで朝鮮水軍が対馬と釜山を結ぶ日本軍の海上補給路を攻撃することは一度もなく、それどころか近づくことさえもなかった。(詳細はtokugawaブログ: 李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)を参照のこと。)
  • 稷山・鳴梁で日本軍が敗退したという主張と相容れない掃討作戦の状況
現在、韓国で語られる歴史では、多くの場合、進入した倭軍が稷山の戦いで明軍に敗れ、鳴梁海戦で朝鮮水軍敗れ制海権を失い補給を絶たれて敗走したなどと主張されている。
また一方で、慶長の役における全羅道・忠清道方面の掃討作戦で日本軍が戦功の証として敵の鼻を切り取って送致したこと、朝鮮人を捕虜として日本に移送したこと、物品の略奪について、しばしば悪事告発的に強調されている。
しかし、実のところ、これは稷山・鳴梁で日本軍が敗退したという主張と矛盾しており相容れないものだ。
これらの行為は、稷山の戦い(9月7日)や鳴梁海戦(9月16日)の後も止むことはなく、水陸共に継続して行われている。
<左軍の状況>吉川隊及び鍋島隊からの鼻受け取り状(【 天下統一期年譜 1597年 】)
9月 7日 早川長政、吉川広家より358の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐718〕
9月 9日 早川長政、吉川広家より641の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐719〕
9月11日 早川長政、吉川広家より437の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐720〕
9月13日 早川長政、鍋島勝茂から敵軍の鼻1551を受け取る。〔「鍋島家文書」‐118〕
9月17日 早川長政、吉川広家より1245の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐721〕
9月21日 早川長政・垣見一直・熊谷直盛、吉川広家より珍原郡において870の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐138〕
9月26日 早川長政・熊谷直盛・垣見一直、吉川広家より朝鮮の珍原郡・霊光郡において討ち取った、10040の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐722〕
10月 1日 垣見一直、金溝郡・金堤郡で討ち取った敵軍の鼻3369を受け取る。〔「鍋島家文書」‐121〕
10月 9日 熊谷直盛、吉川広家より3487の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐139〕
<水軍の状況>9月23日に姜沆、9月27日に鄭希得が全羅道西岸の霊光沖付近で日本水軍の捕虜となる(姜沆『看羊録』・鄭希得『月峯海上録』全羅道西岸の3朝鮮人の動向@1597年9月-10月)。『宣祖実録』でも霊光以南の諸島で日本水軍が掃討を行っていたことが記されている(『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠)。
<右軍の状況>太田一吉に属した僧侶慶念が記した『朝鮮日々記』11月19日では、「人あきない」をする商人が朝鮮の男女老若を買い取って縄で括り軍勢の後に従っていたという。太田一吉の家臣大河内秀元の『朝鮮記』では、各種略奪品を牛2匹に載せて、蔚山まで恙なく運んだという。
こうした行為が敗走する軍隊で起こり得ることだろうか?
稷山の戦いや鳴梁海戦で敗れて敗走しているはずの倭軍が、悠長に朝鮮人の鼻削ぎを行い、身柄を捕縛して捕虜として連れ去り、さらには李舜臣率いる朝鮮水軍が制海権を握っているはずの海を渡って、日本に大量移送するなどワープ装置を開発していない限り起こり得るはずもない。
そもそも、稷山の戦いや鳴梁海戦で敗れた倭軍は敗走したなどということが全く事実に反することは既述の通り日本側・朝鮮側双方の戦闘や戦闘後の経緯を記した一次史料から明らかだ。稷山の戦いや鳴梁海戦で後退したのは、それぞれ明軍と朝鮮水軍であり、日本軍は陸でも海でも前進を続け掃討作戦を実施している。

第一次蔚山城の戦い[編集]

蔚山城の戦い) 作戦目標であった全羅道・忠清道の成敗を達成し、さらに京畿道まで進出した日本軍は、作戦予定に沿って慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄期に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に新たな城郭群を築いて久留の計を目指した。城郭群が完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌年慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。

築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。12月22日、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明と朝鮮の軍56,900人が襲撃し、攻城戦を開始するが、急遽入城した加藤清正を初め日本軍の堅い防御の前に連日大きな損害を被り苦戦を強いられた。

  • 蔚山城を強攻した明・朝鮮軍は多くの損害を出した。
    • 倭堅壁不出。島山視蔚山高,石城堅甚,我師仰攻多損傷。『明史朝鮮伝
    • 賊之防備甚密、城亦堅険、先登者不得出、在外之軍亦不得毀城、遊撃陳寅中大丸、士卒雖蟻附仰攻、而不能著足。(申欽象村集』)
    • 外兵若至城下、則銃丸乱発如雨、毎日交鋒、天兵與我軍、死城下成積。(柳成龍懲毖録』)
  • 蔚山本城に砲撃したが効果が上がらなかった。
    • (『宣祖実録』蔚山城の戦いの記録)
      • 試放大碗口, 則山坂峻高, 砲石有礙, 不能直衝, 終日不拔云。(※大碗口とは明・朝鮮軍が用いた臼砲の一種)
      • 天兵與我軍, 攻打 倭賊 內城, 城甚堅險, 大砲不能撞破。
      • 欲以大碗撞破, 而城高勢仰, 不得施技。
    • (大河内秀元『朝鮮記』蔚山城の戦いの記録)
      • 敵ヨリ打シ大筒、火矢、大弓ハ雨ヨリモ繁カリシニ、城内一人モアタリテ死タルト云者ナシ。

このため明・朝鮮軍は強襲策を放棄し包囲戦に切り替える。このとき蔚山城は未完成であり、食料準備も出来ていないままの籠城戦で日本軍は苦境に陥る。年が明けた翌1598年1月になると蔚山城は飢餓により落城寸前まで追いつめられていた。

しかし、1月3日毛利秀元等が率いる援軍が到着する。これにより明・朝鮮軍は早急に城を落とす必要を迫られ、その夜から翌4日朝にかけて総攻撃をかけるが、大損害を受けて攻撃は失敗した。もはや勝算無しと判断した楊鎬は撤退を決意し、明・朝鮮軍は撤退を開始する。日本軍は退却する明・朝鮮軍を追撃して戦果を拡大した(『宣祖実録』・1月22日付毛利秀元以下17将宛朱印状』・『清正高麗陣覚書』の吉川広家の活躍・『朝鮮軍陣図屏風』第三隻)。最終的に明・朝鮮軍の損害は20,000人に及び、戦いは日本軍の勝利となる。

諸将は一騎懸であったため十分な兵力を有していなかったこと、兵糧不足であったこと、鍋島・黒田に関しては居城の防備に不安を覚えていたこと、これらの理由と、日本軍は既に多くの戦果を得ていたこともあり追撃を終え帰還した。敵を悉く討ち果たすような徹底的追撃戦を望んでいた秀吉は不満であったようだ。それは朝鮮南部に明の大軍を誘引して殲滅することが慶長の役当初からの重要な戦略であったからだ。

蔚山城の戦いの後、立地上突出しすぎている、順天、梁山、蔚山の三城を援軍が困難故に放棄すべきという案(一月二六日付注進状)が、宇喜多秀家毛利秀元蜂須賀家政生駒親正藤堂高虎脇坂安治菅三郎兵衛松島彦左衛門菅右衛門八山口玄蕃頭中川秀成池田秀氏長宗我部元親(これら諸将が率いる兵力は慶長の役開始時点で日本軍中の半数)、の連署で上申されたが、小西行長宗義智加藤嘉明立花宗茂等、の反対もあり、秀吉はこれを却下しその後も維持れることとなる(梁山放棄は認められる)。上申武将は叱責された。

純軍事的観点から見れば、防御範囲を縮小することは防御を容易なものとするため妥当性のある見解のように思える。しかし、より高度な戦争遂行上の政略的観点から見ると大きな問題が生じる。もしここで上申どおりに三城(特に実際に戦闘が行われた蔚山)が放棄されていたなら、明・朝鮮軍による蔚山城攻撃が倭軍を後退させるという大成果を上げた戦いであるかのようなプロパガンダの成立も可能となり、その後の戦争経緯に影響を生じるのである。(例えは、ベトナム戦争におけるケサンの戦いは、北ベトナム軍の攻撃からケサン基地を守り切った米軍の勝利であるが、後に米軍は軍事的合理性のみからケサン基地を放棄した。このことが、北ベトナム側にプロパガンダの余地を与えアメリカのベトナム戦争遂行に悪影響を及ぼした。)その意味で秀吉が三城放棄案を却下した判断は正解である。
三城放棄案について、これを在朝鮮日本軍の士気低下や厭戦感の蔓延のように主張する言説があるが、これは根拠のないことだ。三城放棄案の内容に士気低下や厭戦感の蔓延を述べた文言など全く存在しない。ただ軍事的観点から防御体制を最適化する事を述べたものである。防御拠点は集約化したほうが防御は容易であり、この案を上申した諸将はこうした観点から意見具申を行ったのだ。これを在朝鮮日本軍の士気低下や厭戦感の蔓延のように主張するのは、あまりに恣意的な拡大解釈と言わざるを得ない。また、在朝鮮日本軍の士気低下・厭戦感の蔓延説を主張する論者は、三城放棄案を在朝鮮諸将大多数の見解であるかのような印象を与える書き方をし、その上で在朝鮮日本軍全体の士気低下のように主張しているが、実際は上申諸将は兵力比で全体の半数に過ぎない。加藤清正・黒田長政・鍋島直茂・鍋島勝茂・小西行長・宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島玄雅・毛利吉成・毛利勝永・島津義弘・島津忠豊・秋月種長・高橋元種・伊東祐兵・相良頼房・早川長政・垣見一直・熊谷直盛・太田一吉・竹中重利・浅野長慶・立花統虎・小早川秀包・筑紫広門・高橋統増、これら諸将は何れも三城放棄案に署名していないし、同意したという記述もない。にも関わらず、この案に加藤清正が同意したなどという主張がある。根拠は加藤清正が案に反対したという記述が奏上書に書かれていないからという。これは強引に過ぎる論法といえる。同意したという記述がないものは、同意したなどと主張すべきではない。この案は恣意的な拡大解釈をされた上に大袈裟に強調されることがあるが、所詮却下された提案にすぎず、また却下された結果これといった不都合が生じたわけでもない。戦争経過に殆ど影響を与えなかったことであり、本来なら、それほど大袈裟に強調するほどの出来事ではない。むしろ維持された順天城や蔚山城は、後に三路の戦いの時に明・朝鮮軍による攻撃の撃退に成功している。

追撃で敵を悉く討ち果たすには至らなかったことと、三城放棄案に加え、後に帰国した目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直が蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」との報告に接すると秀吉は激怒し、処分が下された。


誤説「蔚山城の戦いで追撃が行われなかった」の検証[編集]

蔚山城の戦いで「追撃が行われなかった」。或いは「殆ど追撃が行われなかった」。福原ら目付衆が「追撃しなかったと報告した」などといった説が流布されているが、これらは誤説である。

蔚山城の戦いにおいて追撃戦が行われ戦果が拡大されたことは、日本・朝鮮双方の各種史料に記録されていることであり明確である。

  • 『1月22日付朱印状』には、追撃により数多くの敵を討ち取ったことが記されている。
  • 『宣祖実録』には、退却する明軍が30里にわたって日本軍の追撃を受け、大損害を受けた様子が記されている。
“本月初四日各營回軍事, 則已爲馳啓矣。 當日諸軍撤還之際, 水陸 倭賊 , 合兵追擊, 至于三十里之外。 唐軍死者無數, 或云三千, 或云四千, 其中 盧參將(盧繼忠) 一軍, 則以在後, 幾盡覆沒云, 而軍中諱言, 時未知其的數矣。 大抵無端撤軍, 賊乘其後, 蒼黃奔北, 自取敗衂, 弓矢、鎧仗, 投棄盈路, 以至藉寇, 安有如此痛哭之事? 言之無及 — ・、『宣祖実録』
  • 『清正高麗陣覚書』には、吉川広家が明軍の退路を寸断し、大戦果を上げる様子が記されている。
  • 『朝鮮軍陣図屏風・第三隻』にも、敗走する明・朝鮮軍を日本軍が猛追撃する様子が描かれている。

ところが「追撃による戦果拡大」を記した『1月22日付朱印状』が、なぜか「追撃が行われなかった」という誤説の根拠として引用されるので、これについて解説する。

一、蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付、各川を越へ、追討に数多く討ち捨つる由、聞し召し届け候、一騎懸に付て、兵糧これ無く、人数これ無き故、悉くは討果さざる段、残り多く思し召され候事 — ・、『1月22日付朱印状』

見ての通り、実際のところ、この書状には「蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付、各川を越へ、追討に数多く討ち捨つる由、聞し召し届け候、」と、追撃戦が行われ大戦果を上げたことが記されている。 秀吉が残念がったのは、「悉くは討果さざる段、残り多く思し召され候事」と記されているように、敵を殲滅するには到らなかったことであり、誤説で言われるような「追撃が行われなかった」などということはどこにも書かれていない。 むしろ秀吉は「追撃戦が行われ大戦果をあげた」ことを賞している。

次に、これまた「追撃が行われなかった」という誤説の根拠として引用される『福原長尭・垣見一直・熊谷直盛、五月二十六日付、島津義弘・忠恒宛書状』についても解説する。

一、蔚山へ唐人取り懸りに付て後巻の次第、唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候といへども、蜂須賀阿波守・黒田甲斐守、その日の先手の当番に有りながら、合戦仕ざる趣申上げ候処に、臆病の由御諚なされ、御逆鱗大形ならず候 — ・、『福原長尭・垣見一直・熊谷直盛、五月二十六日付、島津義弘・忠恒宛連署状』

福原長尭・垣見一直・熊谷直盛の三目付は「合戦仕ざる趣申上げ候」と、蜂須賀・黒田が合戦しなかったと秀吉に報告した。 しかし、誤説が言う「追撃しなかった」などとは一切報告していない。ところが誤説では「合戦仕ざる趣申上げ候」を「追撃しなかった」と勝手に言い換えている。 また、この書状にある「合戦しなかったと報告された」出来事は、「唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候」とあるように、少数の明軍部隊が太和江を越えて、高地上の日本の赴援軍に攻撃を仕掛けたときのことであり、追撃戦とは無関係だ。 『宣祖実録』にも1月3日に日明両軍の間に小戦闘が起こったことが記されている。

而初三日遙峯之賊, 漸漸流來, 或飛揚於賊壘越郊, 或列立於 箭灘 之南山。 又以精兵五六十, 下山底, 而天兵不敢逼, 一度相戰, 均解而退, 山頂之賊, 建旗屯宿。 — ・、『宣祖実録』

この小戦闘の様子は日本の赴援軍と明軍が太和江を挟んで対峙する様子を描いた『朝鮮軍陣図屏風・第二隻』の左下にも描かれていて、明軍騎兵の一部が太和江を渡り弓矢を射掛け、日本軍の鉄砲隊と射撃戦となっている。 このとき蜂須賀・黒田が実際に戦わなかったのか、それとも戦ったにも係わらず戦わなかったと報告されたのかは不明だが、明確なことは、これは日本の赴援軍が太和江の南の高地に到着した1月3日のことで、1月4日に行われた追撃戦時の出来事ではない。 にもかかわらず三目付が「追撃しなかったと報告した」などといった誤説が平然と流布されているのである。

以上、これまで述べたとおり、 日本・朝鮮双方の複数の史料に「追撃が行われ大戦果を上げた」ことが明記されており、逆に「追撃が行われなかった」とは記されていない。 蔚山城の戦いで「追撃が行われなかった。」或いは「殆ど追撃が行われなかった。」 福原長尭ら三目付が「追撃しなかったと報告した。」といった説が成立する余地はない。 史実は「蔚山城の戦いで追撃戦が行われて大戦果をあげた、だだし敵を殲滅するには到らなかったことに秀吉は不満に思った」であり、これを「蔚山城の戦いで追撃が行われなかった」などと言い換えるべきではない。

三路の戦い[編集]

慶長3年(1598年)各城郭の防衛体制が整うと帰朝之衆小早川秀秋及び四国・中国・淡路衆)は帰国し、九州勢が在番して久留の計を実施。この年の内は本格的な進攻を行う予定はなかった。

帰朝之衆が帰国したことについて、戦争に敗北したため退却を開始したかのような言説が存在するが、これは全くの誤りである。慶長の役が始まって以来、日本軍はほとんど連戦連勝で活動して戦略目標を達成しており、戦争の敗北などあり得ない。帰国は慶長の役発動前に発せられた作戦要務令ともいえる慶長2年(1597年)『2月21日付朱印状(立花文書他)』に城普請を担当する「帰朝之衆」について記述されているように、慶長の役開始前から決まっていた予定通りの帰国で、構想された戦略の順調な進展を示すものである。
この時代の軍隊は、通常はそれぞれの領国か政権中枢部に駐在し、いざ敵に対し大規模攻勢をかけるときや、敵の攻勢に対する大規模救援を行う場合のみ、敵対勢力との境界付近に結集し大軍となって作戦を決行するものだ。帰朝之衆が帰国したのも、この慶長3年(1598年)の内は大規模攻勢の予定はなく、各倭城の防御体制も整ったため予定通り帰国したに過ぎない。

日本軍の布陣

兵力合計64700人[16]

その後の予定は3月13日付朱印状 立花文書』にあるように、2・3年に一度大軍を渡海させて進攻し敵に打撃を与えて疲弊させる長期計画であったようだ。「来年はご人数を指し渡し高麗都まで進攻する」と示されているように、翌慶長4年1599年にも大規模な進攻計画が予定されていた。

この進攻計画について、明・朝鮮も察知しており 宣祖修正実録7月1日に 「明年, 秀吉 領大兵, 進犯遼左, 此正先發制人之秋。」とあり、明・朝鮮軍はこの機先を制するための作戦を実施する。慶長3年1598年、9月から10月にかけ兵11万以上を動員し、蔚山・泗川・順天の三倭城を同時攻撃した。これは文禄・慶長の両役を通じて明・朝鮮軍が行った最大の作戦であった。また第一次蔚山城の戦いのおいて防車などの攻城具がなかったため大損害を出して攻略に失敗した苦い経験から攻城具を準備して攻略にかかった。だが、これを迎え撃つ日本の各倭城では、城郭の防御力強化工事、石火矢の配備など火器の増備、兵糧の備蓄が行われており、鉄壁の構えであった。このため何れの城も攻略に失敗し、特に泗川では島津軍に大敗を喫した。

明・朝鮮軍による三倭城攻略作戦について、これを撤退する日本軍に対する追撃戦であるとする言説があるが、事実ではない。そもそも明・朝鮮軍は何か月も前から攻城の準備を始めている。例えば、既に5月3日には明の遊撃許国威が遅かれ早かれ倭城を攻めるので、そのための攻城用車子を作ることを願い出ている。「天兵早晩攻賊寨, 則不可無攻城器械。’ 仍以紙造車子, 示臣曰: ‘此車子, 甚妙於攻城, 而上司衙門, 一不肯爲之。 須卽啓知, 慶州近賊地方及順天近賊地方, 依此樣, 各造三十輛許, 蓋房藏置, 勿令人知之, 待天兵攻城時, 卽呈於軍前。 兵士必將爭取用之, 而事大利矣。 車子依此樣造作, 」(宣祖実録5月3日)。また宣祖実録7月7日には全羅道に下ろうとする劉綎率いる西路軍のために軍糧15万石の輸送に関する指示が出されている。7月20日には「自今水陸天兵, 陸續南下」(宣祖実録7月20日)と確実に三倭城攻略作戦のための行動を開始している。秀吉が死去するのは8月18日であり、この作戦が撤退する日本軍に対する追撃戦などという主張は時系列を無視したものである。日本軍が撤退の動きを始めるのは、三倭城の防衛に成功した後、撤退方針を伝える使者(徳永寿昌宮木豊盛)が10月に到着してからであり、戦闘が行われている時点では確固とした防衛体制をとっている。撤退しない軍隊に追撃戦などありえないことだ。
明・朝鮮側も三倭城攻略作戦以前の段階で日本軍が撤退するとの認識は持っていない。もっとも、情報の一つとしては豊臣秀吉死去の情報が比較的早くから入っていたが、情報が入っていたことと、それを確かなものと認識しているかどうかは別である。戦場では真偽不明な多数の情報が錯綜しており、その真偽を確定することは容易ではなく、一つの情報を確かな情報と安易に認識することはできないものだ。例えば第二次世界大戦において、ソビエトの情報部はドイツ軍のソビエト侵攻の情報を事前に察知しており、スターリン等国家の上層部に報告していた。しかし、スターリン等はこの情報を確かなものであるとの認識には到っておらず、実際にドイツ軍の侵攻が始まると、ソビエト軍は奇襲を受ける形になったことは広く知られた事実である。明・朝鮮側が豊臣秀吉死去にともなう日本軍撤退の動きを確かなものであるとの認識に到るのは三倭城攻略作戦に敗退した後になる。
これは明・朝鮮水軍の行動を見れば判りやすい。三倭城攻略作戦の一環として小西行長等が守る順天城を9月19日から攻撃していた明・朝鮮軍であるが、10月7日に陸軍が退却すると、続いて水軍も10月9日西方に遠く離れた古今島まで退却している。後にここで始めて日本軍撤退の動きを認識し、11月7日急遽古今島を出発して、10月10日に順天城前洋に再進出し、小西等日本軍の撤退を阻んだ。この間一ヶ月ほど順天前洋はがら空きであった。この明・朝鮮水軍の一連の行動は日本軍撤退の動きを順天城の戦い以前に認識していなかった証拠である。もし本当に順天城の戦いの時点で日本軍撤退の動きがあり、しかもこれを明・朝鮮軍が認識していたなら、一旦退却して順天の日本軍が撤退可能な状況を作り出し、その後慌てて再進出して日本軍の撤退を妨害するような行動は取らなかったはずで、一貫性をもって海上封鎖を続けていただろう。


慶長3年(1598)9月後半以降、明・朝鮮軍は三倭城攻略作戦を開始する。倭城群の最東端に位置する蔚山城には明将麻貴率いる明軍24000人に金応瑞率いる朝鮮軍5514人が加わった計29514人の東路軍が差し向けられた。麻貴は先ず東萊の温井に兵を出して当方面の日本軍を牽制した後、蔚山に兵を転じ、9月21日(『乱中雑録』では明歴20日=和歴19日)から攻撃が開始された。蔚山城では前回の攻防戦の後、防衛体制が整えられており、鉄壁の構えで迎え撃つ。明・朝鮮軍による連日の攻撃に対し加藤清正指揮下10000人の日本軍は城を固く守り、雨のように銃弾を浴びせ、大鉄砲も発砲して迎撃し、数度にわたって撃退した。その結果、明兵の死傷者はその数を知ることも出来ないほどだった。このため明・朝鮮軍は城際で陣取ることができず、27日までに20(約2.2km)ほど離れた場所まで引いて対陣した(20町というのは大鉄砲の射程を避けたか)。この時点で麻貴は蔚山城攻略の困難さを痛感し退却の意思を抱いている。やがて、泗川の戦いにおける中路軍大敗の報が伝わると勝算のない蔚山城攻略を完全に断念して慶州方面に撤退する。
第二次蔚山城の戦い史料
麻貴退師于島。淸正自去年受圍以後。聚諸陣軍兵。幷力堅守。大軍臨城。計無所出。乃卽退出本道。左防禦使權應銖報元帥云。本月十九日。麻提督掩擊東萊城內溫井等處之賊。二十日。移兵島山。只爇外柵。城將陷。賊丸如雨。天兵被害。不知其數。天兵日日挑戰。固守不出。不得已退師。大槩賊兵之衆。十倍於上年。城柵之險。又甚於前日。觀其兵勢。未知上策云。圍城一旬。賊勢日熾。一日李副總題送絶句于兵相云。蚌鷸持多日。王師久未旋。 — 趙慶男、『乱中雑録』
(前略)此面(蔚山)へも去廿一日ニ、人数七八万罷出候、雖然、及数度討果候之故、城際ニ陣取候事不成、廿町程引退、対陣候行と相見候、(後略) — 加藤清正書状(9月27日付、島津義弘・忠恒宛)、『島津家文書之二 九六九』
(前略)一 蔚山表之儀も、此方へ注進候、敵三万騎ニて押寄候處、大鉄炮ニて打立、手屓死人不知其数ニ付而、引退令対陣之由候、御手前悉被追崩通承候者、定而蔚山表も可爲敗北と存候、(後略) — 長束正家・増田長盛・徳善院玄以、連署書状(11月3日付、島津義弘・忠恒宛)、『島津家文書之二 九九〇』
“提督自內城退遁之後, 頗有畏怯之意, 方欲退陣 慶州 矣。” — 麻提督 接伴使 李光庭の報告、『宣祖実録10月 2日』
“提督聞中路之敗, 將欲退守于 慶州 , 步兵則已爲發送, 不勝悶慮事。” — 麻提督 接伴使 李光庭の報告、『宣祖実録10月 10日』


泗川の戦いは島津軍が明軍の火薬の暴発事故による混乱に乗じて一斉に突撃し、明・朝鮮軍に大打撃を与え潰走させた。
日本軍最西端に位置する順天城へは劉綎率いる西路軍に、劉綎率いる水路軍も攻撃に加わり、9月19日以後、水陸から順天城を攻撃する。順天城を守っていた小西行長率いる日本軍は城をよく守り水陸からの攻撃を撃退した。10月2日の総攻撃では各種の攻城具が投入されたが攻撃は失敗している。海上からも水軍が連日のように攻撃したが損害が増すばかりであった。10月7日になると、ついに包囲中の地上軍は撤退し、続いて水軍も退却していった。こうして明・朝鮮軍による順天城攻略作戦は失敗に終わった。以後、明・朝鮮軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。
順天城の戦いについて語られるとき、しばしば見られる問題> この戦いは順天倭城の攻略に失敗した明・朝鮮軍が敗れて退いた戦いであるが、この事実を隠した上、一月後の豊臣秀吉死去に伴う日本軍の帰国を繋げて一連化し、明・朝鮮軍が日本軍を撃退したかのように語られる事態がしばしば見られる。これは重大な問題である。(詳細は別個の出来事である“順天城の戦い”と“帰国妨害の海上封鎖”を一連化する歴史捏造行為 を参照のこと)

是時,

東路明軍24000人,  朝鮮軍5514人 (東路軍計29514人)
中路明軍26800人,  朝鮮軍2215人 (中路軍計29015人)
西路明軍21900人,  朝鮮軍5928人 (西路軍計27828人)
水路明軍19400人,  朝鮮軍7328人 (水路軍計26728人)
<明軍計92100人> <朝鮮軍計20985人> 共計113085人
資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。宣祖実録10月 12日

戦争の終結[編集]

慶長3年10月初旬、順天・泗川・蔚山の三倭城全てにおいて明・朝鮮軍を退けていた日本軍であるが、既に8月18日には豊臣秀吉が没していた。これにより征明の意義は失われるとともに、中核を失って不安定化した豊臣政権は対外戦争を続けているような状況ではなかった。このため秀吉亡きあとの豊臣政権では出征軍を帰国させる方針が決定され、使者として徳永寿昌、宮木豊盛が派遣され、三倭城の防衛に成功した後の10月内に現地に到着している。

これを受け、朝鮮在陣中の諸将は帰国の準備を始め、東部方面の諸将はそれぞれの持ち城から順調に釜山へ撤収した。しかし、西部方面では事情が異なっていた。日本軍の帰国方針は古今島に退却していた明・朝鮮水軍も知るところとなっており、11月7日に古今島を発した明・朝鮮水軍は、11月10日には順天沖の光陽湾に再進出して海上封鎖を行い小西行長らの帰国を妨害した。

これを知った島津義弘、宗義智、立花宗茂、高橋統増、寺沢正成は順天城の友軍を救出するため水軍となって順天に向かい、11月18日夜、その途上で待ち伏せていた明・朝鮮水軍と露梁海峡で交戦する。この露梁海戦は激戦となり、双方に大きな損害を出すことになった。特に明・朝鮮水軍では朝鮮水軍の最高司令官李舜臣や、明水軍の副司令官の鄧子龍を始めとして多くの幹部が戦死している。順天城の日本軍は順天を海上封鎖していた明・朝鮮水軍が露梁海峡に出払った隙をみて出帆し、南海島の南を回って脱出に成功、日本側は順天の友軍を救出するという作戦目標を達成した。

続いて釜山から日本に向けて出帆が始まり、11月23日、加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が、25日には小西行長、島津義弘等が最後に釜山を発し、これを以て全軍が帰国を果たした。

この戦争について『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。(自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』)」と総評する。文禄・慶長の役は豊臣秀吉死去による途中終了という形で終結したのである。

戦争が終結したときの李氏朝鮮は、戦争直前には田地総面積170万8千余結であったのが、戦後には30余万結と五分の一以下に激減し、戦前の全羅道一道にも及ばない(愛宕松男・寺田隆信 『中国の歴史6』 講談社)という著しく国力が減退した状況だった。これは即ち戦争継続能力が破滅的状況に陥っていたことを意味する。

また満州方面で建州女真のヌルハチが勢力を増し、暴れだしているという状況がある。慶長3年(1598年)の12月には、ヌルハチが開元・瀋陽・遼東・鴨綠以西を搶掠しようとしたため、経略邢玠は遊撃李芳春・牛伯英らの軍勢を朝鮮から引き上げて防備させなければならない事態になっている(宣祖実録・12月13日12月14日)。もはや日本との戦争に全力を注げない状況であった。

こうした状況での豊臣秀吉死去による日本軍の帰国と戦争の終結は、朝鮮や明にとって幸運極まりないものといえる。

雑感・論点[編集]

文禄・慶長の役は豊臣政権滅亡の原因か

日本への影響について、文禄・慶長の役が豊臣政権の滅亡の原因のように述べられることが少なくない。 その理由として

  1. 出兵の出費が豊臣政権の財政事情を消耗させた。
  2. 出兵した西国大名が疲弊し、徳川家康は出兵しなかったため力を蓄え影響力を増した。

などが述べらえている。

しかし、これらは否定されなければならない。

  1. の否定理由は、秀吉死後も豊臣政権は莫大な資金を蓄えている事実があること。徳川家康は豊臣の資金を恐れ、豊臣秀頼方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建をさせたりして出費させようとしたのは有名な話である。 それでも大坂の役で豊臣家は資金力にものをいわせて10万の浪人を雇い入れることができたほど潤沢な資金を蓄えていた。豊臣政権が文禄・慶長の役で財政を悪化させ消耗したなどということはない。
  2. の否定理由は、西国大名は文禄・慶長の役後、多くの出費を伴う行動を活発に行っている事実があること。例えば文禄・慶長の役終決の僅か2年後に起きた関ヶ原の戦いにおいて西国大名は多くの兵力を動員し東西両軍の主力として戦っている。この関ヶ原の戦いで文禄・慶長の役に出征した西国大名の力が、出征しなかった東国大名に比べて劣っていたとは思えない。また関ヶ原の戦い後、全国的に築城が極めて活発に行われているが、築かれた城郭の内、天守や高い石垣を持つ豪壮なものは、一般に東国大名の城郭よりも、むしろ西国大名の城郭に多いくらいだ。しかも、これらの築城工事は江戸城工事など德川幕府への手伝い普請の実施と併せて行われているのである。さらに、西国大名達は盛んに大船の建艦競争も行っており(慶長14年(1609年)に幕府が大船建造の禁を出すほどの激しい建艦競争)、巨大な大安宅船が西国大名たちによって建造されたのも文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いの後なのだ。もし文禄・慶長の役の軍役により西国大名が疲弊していたなら、これら多額の出費を要する行為は行えなかっただろう。むしろ、文禄・慶長の役の後の行動を東西の大名を比較してみると、西国大名のほうが東国大名よりもエネルギッシュにさえ思える。そもそも、戦国時代開始以来、西国でも盛んに戦争が繰り替えされているのであり、そのたびに各大名は多くの軍事動員を行っている。それらの軍役に比べて文禄・慶長の役における軍役が特別に重いものでないことは動員兵力を比べてみれば明らかだ。むしろ国内で行われた各大名間の抗争のほうが、存亡をかけたもので、自己の生存のため最大限の軍役を行わなければならない。しかも、しばしば自国領が戦場になっているため、こちらのほうが領土の荒廃をもたらし大名の疲弊を招いていたはずだ。これに対し全く自領が戦場にならない文禄・慶長の役で特別に西国大名が疲弊したことになるのは奇妙な話である。

豊臣政権滅亡の原因は、秀吉が死去した時点で、徳川家康のような野心と実力を兼ね備えた人物が存在し、後継者の秀頼が幼児でしかなく、とても政権を統率できる状況になかったからに過ぎない。このような状況では、文禄・慶長の役が行われていたか、行われていなかったかに関わらず、豊臣政権が維持できた可能性は薄い。

現在の文禄・慶長の役についての研究や報道は、政治的意図により否定的なものにしなければならないという前提条件がつけられ、そのため恣意的に歴史が構築されることが多い。このような行為は歴史的事実を歪める作用をはたしている。


文禄・慶長の役を歪曲する三要素

  • 韓国の自尊史観
自民族の自尊心を満足させるため自国勝利の物語を作りあげる。
  • 日本の反戦平和・侵略反省史観
戦争を起こした日本軍が打ち負かされる物語を作り、日本人の心の中に嫌戦感を植え付け、戦争を反省し二度と起こさないよう教育しようとする。
  • 日本の日韓友好史観
日韓友好のために韓国の自尊史観に迎合する。


比較

秀吉による文禄・慶長の役は一代7年に過ぎず、しかも実質的な戦争期間は3年にも満たない。それに対してモンゴル帝国女真満州族)は中国の征服や朝鮮半島国家の服属まで何代にもわたって何十年もの年月をかけて達成している。目的を達成するまでには長期間を要する事業だったといえる。

清(後金)による征服活動

1618年七大恨を掲げ明との対決を明らかにする。
1619年サルフの戦いに大勝。
1621年瀋陽遼陽占領。
1626年寧遠攻撃に敗退しヌルハチ戦傷死。
1627年寧遠・錦州の攻撃失敗。丁卯胡乱
1637年丙子胡乱(朝鮮人50万人が捕虜になったという)で朝鮮を清の冊封国とする。
1644年李自成北京を落とす。明の皇族により南明成立。山海関を守る明将呉三桂清に下り清軍北京を落とし順 (王朝)を滅ぼす。
1645年4月、南京が陥落し弘光帝捕えられる。1645年6月、魯王・朱以海が擁立され、紹興に亡命政権が立てられる。同時に福州で唐王が隆武帝として即位し、鄭芝龍に補佐される。
1646年6月紹興陥落し、魯王・朱以海は鄭成功の元へ身を寄せる。これにより隆武帝が唯一の皇帝となる。1646年8月に清は福州へ侵攻し、隆武帝政権も崩壊する。その後、弟の紹武帝が皇位を継ぐが、同年のうちに敗れて自殺。1646年10月、桂王・朱由榔が肇慶で監国を称し、11月に永暦帝として即位。
1650年桂林陥落。
1659年南京に進攻した鄭成功を撃退。
1661年永暦帝昆明で呉三桂に殺される。
1673年三藩の乱が起こる。
1681年三藩の乱を鎮圧。
1683年鄭氏政権 (台湾)降伏。


モンゴルによる征服活動

第一次対金戦争(1211〜1215年)
第二次対金戦争(1230〜1234年)
第一次(1235〜1241年)オゴデイ治下のクチュの南征 
第二次(1253〜1259年)モンケ治下のクビライの南征 
第三次(1268〜1279年)襄陽・樊城の戦いから崖山の戦いで南宋滅亡まで 
第一回(1231)から高麗侵攻が開始され、6度にわたる侵攻の結果、28年後(1259)に高麗は服属。この間20万人余が捕虜になったという。
※モンゴルの高麗侵攻と慶長の役の類似性・・・・・モンゴル帝国による高麗侵攻は、侵攻しては撤退するというヒット・アンド・アウェイが長期にわたって繰り返されており、最終的に高麗はモンゴルに屈服するが、この過程は慶長の役の戦略と類似性を見出すことができる。豊臣秀吉のブレーンになっていた京都五山の高僧は『元史』や『高麗史』に接する機会があったはずなので、モンゴル帝国が高麗を屈服させる経緯が慶長の役の戦略構想に影響を与えた可能性も有り得る。しかし、日本の戦国時代においても“焼き働き”や“刈り田働き”といったヒット・アンド・アウェイ戦略は取られており、この延長線上に慶長の役の戦略が存在する可能性のほうが高いであろう。