垣見一直

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垣見一直
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 慶長5年9月17日1600年10月23日
別名 家純、家紀、筧和泉守、垣見和泉守、弥五郎
官位 和泉守
主君 豊臣秀吉
氏族 垣見氏 or 筧氏

垣見 一直(かきみ かずなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊後国富来城主。通称は弥五郎、和泉守。諱は家純、あるいは家紀とも言い、筧氏と称するものもある。

生涯[編集]

近江国戦国大名だった浅井長政の旧臣・垣見氏の一族ではないかという説があるが、出自不明。

豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番を務める。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い大垣城普請を検知した。天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍し、7月の奥州仕置では秀吉が会津に赴いた際の道路奉行を務めた。

また文禄2年(1593年)に大友義統改易されると、文禄3年(1594年)に秀吉より豊後富来に2万石を与えられて大名となった。

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、まず11月に慰問使として、次いで慶長2年(1597年)には秀吉の意を受けた軍目付7人の一人として二度渡海した。

慶長3年(1598年)に起きた第一次蔚山の戦いでは、籠城して苦戦した加藤清正を救援した武将達が協議して、戦闘後に戦線縮小論を秀吉に上申したが、逆にこれが叱責を受け、武将では黒田長政蜂須賀家政、軍目付では早川長政竹中隆重毛利高政らが不興を買った。その一方で、秀吉の指示に忠実に従うように主張した軍目付の一直、福原長堯熊谷直盛らは賞賛されたが、これが武断派諸将にとっては誣告を受けたような恰好になったので、後の感情的な対立に繋がった[1]。慶長4年(1599年)5月、朝鮮出兵中の私曲により改易・蟄居処分を受けた[2]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して大垣城を守備していたが、9月15日に行なわれた関ヶ原本戦で西軍が敗れると、共に守備をしていた相良頼房が家老・犬童頼兄の策に従って東軍に寝返り、すでに東軍に内通していた秋月種長高橋元種兄弟と共に、9月17日熊谷直盛木村由信木村豊統父子らを謀殺したが、この時に一直も討たれた[3]

逸話[編集]

  • 朝鮮の泗川城の築城工事の奉行を務めていたとき、鉄砲狭間をもっと上に構築するようにと人足に指導していた。それを見た長宗我部元親が「それでは高すぎる」と述べると「しかしこの高さでなければ敵兵に城内を覗き込まれます」と反論した。すると元親は「城内を覗き込まれるほど敵に接近されたのなら、それはこの城が落ちるときだけ。貴殿はその高さの鉄砲狭間で敵兵の頭上でも撃つつもりなのか?」と笑い返したといわれる[4]
このエピソードの記述があるのは元家臣が後日に記した『元親記』であるが、津野倫明の研究によると、軍目付との関係に険悪さはなく、後継の盛親の豊臣政権への認知の為に垣見の取次が必要であり、反抗的な態度を取ったとは考えにくいという研究がある[5]
  • 西軍の敗北を受けて、富来城城代の垣見理右衛門に密書を送り、「自分は豊臣家の恩義のために討死するが、富来城は敵に明け渡し、兵を無駄に死なせるな」と述べている。富来城は東軍の黒田如水に攻められ、10日間の攻防の後10月2日に開城した。開城後、垣見理右衛門は如水の仕官の誘いを断り、主君の菩提を弔ったといわれている。

脚注[編集]

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  1. ^ 津野倫明「軍目付垣見一直と長宗我部元親」、収録『長宗我部氏の研究』吉川弘文館、2012年
  2. ^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)78頁
  3. ^ この時、謀殺された諸将全員の供養墓が人吉市願成寺にある。
  4. ^ 『元親記』では元親が「(狭間を)人の胸のあたりを当て切たるが能候」と言い、垣見は「(狭間を)もっと上げるべき」と主張して論争になった。垣見は「(狭間を)さげて切ては敵、城の内を見入て悪かりなん。只上げん」と主張し、元親は「此門脇へ敵心安く付て城中を看候程に、城の内弱くして城もたるまじ」と笑い、「其方好みのごとく上げて切ては、敵のあたまより上を打つべきか」と主張したという。山本大『長宗我部元親』244頁。
  5. ^ 津野倫明「軍目付垣見一直と長宗我部元親」2012年(『長宗我部氏の研究』吉川弘文館、初出2010年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]