小野木重勝
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 生年不明 |
| 死没 | 慶長5年10月18日(1600年11月23日)[1]または11月18日(12月23日)[2] |
| 別名 |
公郷、重次、公知、国方 通称:清次郎、又六[3] |
| 戒名 |
松樹院慮宗貞岳大居士[4] 貞真院殿自性大居士[4] |
| 墓所 | 京都府亀岡市本町の寿仙院 |
| 官位 | 従五位下、縫殿助 |
| 主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
| 氏族 | 小野木氏 |
| 妻 |
ジョアンナ(西園寺公知の娘[5]) シメオン(島清興の娘) |
| 子 | 之明(安左衛門[6]) |
小野木 重勝(おのぎ しげかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。丹波国福知山城主。官位は従五位下・縫殿助。諱は公郷(きみさと)、または重次、公知、国方とも[7]。
生涯
[編集]出自と前歴
[編集]重勝の出身地は中六人部の田野(現在の京都府福知山市)とされ[8]、『福知山市史』では赤井直正によって滅ぼされた福岡城主・兎ノ木(うのぎ)縫殿介の一族と推定している[9][注 1]。また、異説として重勝は波多野秀治の旗本であったが、主君・秀治を裏切った功績によって福知山城を与えられたともいう(『古今武家盛衰記』)[2][注 2]。
秀吉時代の活躍
[編集]重勝は早くから羽柴秀吉の家人となり、天正元年(1573年)9月、近江長浜付近で250貫文を与えられ、後に黄母衣衆や大母衣衆に抜擢された[12]。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍し、伊勢国神戸城や山城国淀城を守備[12]、翌天正13年(1585年)7月13日、秀吉の関白就任に際して従五位下・縫殿助に叙任された[12][13]。
天正15年(1587年)の九州征伐では後詰として羽柴秀勝に従軍し、翌天正16年(1588年)には豊前国巌谷城を攻撃した[14]。
天正17年(1589年)4月の聚楽第行幸の際には秀吉の前駆を務め[14]、同年12月には寺西正勝とともに美濃国郡上郡の検知を行った[12]。
翌天正18年(1590年)の小田原の役では800騎(または700)を率いた[15]。
天正20年(1592年)の文禄の役では朝鮮に渡海し、晋州城攻撃に参加した[12]。
文禄3年(1594年)の春には伏見城の普請を分担、この当時丹波福知山城主として3万1千石を領していたが、のちに4万石に加増された[12]。
関ヶ原
[編集]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して大坂城下の鰻谷町橋を警備[12]、7月20日には細川幽斎が守る田辺城攻めの総大将となり、丹波・但馬の諸大名を中心とした総勢1万5,000人もの軍勢を率いて田辺城を包囲した(田辺城の戦い)[16]。この包囲戦は2ヶ月近くに及ぶが、後陽成天皇の勅命によって、9月13日に幽斎は田辺城を開城し、西軍の前田茂勝に城を明け渡した[17]。
しかし9月15日の本戦で西軍が敗北すると重勝は田辺城から撤退するが、やがて細川忠興率いる5,300人もの軍勢に福知山城を攻撃される[18]。その後、重勝は徳川家康の使者として派遣された山岡道阿弥の仲裁によって降伏開城すると丹波亀山の寿仙院に入って剃髪し、井伊直政を通じて助命を乞うが[2]、忠興が派遣した検使から切腹を命じられ[19]、前田玄以による助命嘆願もむなしく自害させられた[20]。『改正三河後風土記』によると、重勝の首は大坂に送られた後、大罪の者であるとして、京の三条河原に梟首されたという[21]。
逸話
[編集]妻
[編集]- 重勝には2人の妻がおり、1人はジョアンナの洗礼名を持つキリシタンで、小西マグダレナとともに侍女として高台院に仕えていた。また、生家が公家であったためか、優れた閨秀歌人としても知られていた[22]。もう1人の妻は島清興の娘で、はじめは秀吉の侍女であったが、後に受洗してシメオンと称した。しかし夫が自刃したとの知らせを聞くと、彼女は辞世の句を詠んだ後、他の者に頼んで命を絶ったという[23]。また、東京国立博物館所蔵のロザリオは彼女の所有物と推定されている[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 過去帳によると、「福岡城主小野木縫殿介、永禄三年七月二十一日」とある[10]。
- ^ 『細川家記』には、天正5年(1577年)の第二次丹波攻めに際して明智光秀の麾下に加わった国衆の1人として「小野木縫殿助公郷」の名が記されている。ただし、同史料の信頼性については谷口克広が「良質な史料ではない」と指摘している[11]。
出典
[編集]- ^ 小和田 2014, p. 139.
- ^ a b c 国史研究会 1914, p. 231.
- ^ 福知山市史編さん委員会 1982, p. 587.
- ^ a b c 藩主人名事典編纂委員会 1987, p. 388.
- ^ 海老沢 1942, p. 221.
- ^ 『佐々木系図』による。同書には小野木之明の妻を尼子三郎左衛門宗長の五女と記す。この尼子氏は出雲尼子氏ではなく、近江国犬上郡甲良荘尼子郷に残った近江尼子氏の一族で、尼子宗長は近江に在住し豊臣秀吉に仕えている。
- ^ 福知山市史編さん委員会 1982, p. 590.
- ^ 福知山市史編さん委員会 1982, p. 240.
- ^ 福知山市史編さん委員会 1982, p. 515.
- ^ 福知山市史編さん委員会 1982, p. 591.
- ^ 谷口 2005, p. 176.
- ^ a b c d e f g 高柳 & 松平 1981, p. 49.
- ^ 藩主人名事典編纂委員会 1987, p. 387.
- ^ a b c 福知山市史編さん委員会 1982, p. 589.
- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣秀吉小田原陣陣立」『大日本古文書. 家わけ 三ノ一(伊達家文書之一)』東京帝国大学、1908年、621, 633頁。
- ^ 小和田 2014, p. 46.
- ^ 小和田 2014, p. 101.
- ^ 小和田 2014, p. 138-139.
- ^ 成島 1886, p. 1788.
- ^ 福知山市史編さん委員会 1982, p. 598.
- ^ 成島 1886, p. 1789.
- ^ 村井 1976, p. 289.
- ^ 高柳 & 松平 1981, p. 284.
参考文献
[編集]- 小和田泰経 著、小和田哲男 編『関ヶ原合戦公式本』学研プラス、2014年、46, 101,138-139頁。ISBN 978-4054060364。
- 国史研究会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 小野木公知」『古今武家盛衰記一』国史研究会〈国史叢書〉、1914年。
- 福知山市史編さん委員会 編『福知山市史』 第2巻、福知山市、1982年3月31日。
- 藩主人名事典編纂委員会 編『三百藩藩主人名事典』 第3巻、新人物往来社、1987年4月10日。ISBN 4-404-01402-3。
- 海老沢有道『京畿切支丹史話:日本人伊留満ロレンソの足跡を辿りつつ』東京堂、1942年。
- 谷口克広『信長軍の司令官』中央公論新社〈中公新書〉、2005年4月。ISBN 4-12-101782-X。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、49,284頁。
- 成島司直 編「福知山城攻付小野木自害の事」『改正三河後風土記』 下、金松堂〈改正三河後風土記〉、1886年、1789頁。
- 村井益男 著「キリシタンの女たち」、笠原一男 編『彼岸に生きる中世の女』評論社〈日本女性史3〉、1976年。