小鴨元清

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小鴨元清
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長19年(1614年2月13日(10月23日とも)
改名 小鴨元清→南条元清→元宅(元琢)
戒名 惟安元宅居士
墓所 熊本県熊本市横手の禅定寺
官位 左衛門尉左衛門督伯耆守
主君 南条元続元忠小西行長加藤清正
肥後熊本藩
氏族 南条氏小鴨氏
父母 父:南条宗勝、養父:小鴨元伴
兄弟 南条元続元清南条元秋行衛姫
南条元邦南条宜政、女子
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小鴨 元清(おがも もときよ)[注釈 1]は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将伯耆国久米郡岩倉城主。一部で羽衣石城主とする記述が見られるが誤りである。  

経歴[編集]

南条宗勝の次男として誕生[注釈 2]。生年不詳である元清の初見は永禄5年(1562年)11月、松尾神社に神田75石を寄進したのが初めである。しかし、近年の研究の結果、この元清なる人物は父の南条宗勝のことを指すことが判明した[注釈 3]

永禄から天正年間にかけて小鴨氏の家督を継ぎ、小鴨姓を名乗った。はじめ兄・南条元続と共に吉川元春に誓書を出して従っていたが、天正7年(1579年)に南条氏織田氏の下へ離反し、翌天正8年(1580年)に元春が伯耆へ侵出した際には兄と共に八橋城を2波に渡って攻撃するも敗退した。その後の吉川氏との戦いにおいては、岩倉城を守って奮戦したが、鳥取城攻略に釘付けとなり、孤立した南条氏に援軍を出す余裕がなかった中国地方攻略軍である羽柴秀吉の援軍も途絶え[注釈 4]、鳥取城包囲の織田軍の下へ逃亡する兵も出だしたため、天正10年(1582年)に羽衣石城が落城すると岩倉城を守っていた元清も元続と共に播磨国へ逃れた[注釈 5]

本能寺の変後、秀吉と毛利氏が和睦すると、天正12年(1584年)に東伯耆へ復帰。その後は病気がちになっていた元続の後見人となり、元続に代わり政務を担当した。天正15年(1587年)には秀吉に従って九州平定に従軍。高城包囲中に島津軍の夜襲を撃退している(『太閤記』)。天正19年(1591年)に元続が死去し、元忠が家督を継ぐとその後見人になり、打吹城番として城内の屋敷に住み政務を行った[注釈 6]文禄・慶長の役の際には元忠に代わって自ら1500人の兵を率いて朝鮮へ渡り、慶尚道仁道県の領主の子を生け捕るという手柄を立てている[1]

その後、後見人の座を巡る争いで元忠との確執が生じた元清は、山田越中守の進言で秀吉によって小西行長の下へ預けられ、この時南条姓に戻したという。また相良義陽の胴塚があった相良堂(相良神社)の修築も行った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは小西勢に属して加藤清正の隊と戦うが、家臣一同と同じく投降。戦後、小西家が没落すると6000石を以って清正の家臣に転じ、剃髪して元宅と名乗った。

慶長19年(1614年)、大坂の陣では豊臣秀頼に属すことを願い大坂へ向かうが、その船中で発病、建仁寺での療養の甲斐なく、同年2月13日に死去した(10月23日説もあり)。

幕末期の熊本藩(細川家)重臣宮村典太がまとめた『藻塩草』によれば、元宅(元清)が病死した際(没日を慶長19年(1614年)10月23日としている)、病身の嫡子「勘三郎」に代えて嫡孫の藤八郎(のちの南条元信)に跡目を譲るよう遺言したが、大坂にいた二男で庶子の作十郎(南条宜政)を立てる動きがあり、その結果宜政が跡式を継いだ[2]。南条家中でこれを不服とした派は、藤八郎を奉じて加藤家を退転して小倉藩主細川忠興を頼り、藤八郎は3000石で召し抱えられたという[2][注釈 7]

熊本市中央区横手の禅定寺にある加藤家重臣の墓の中に「南条元宅の墓」もある[3]。同寺には、細川家家臣として熊本に戻ることとなった孫の元信の墓もある[3]

晩年に関する異説[編集]

元清の晩年に関しては諸説あり、上記の話は『南条氏盛衰記』に見える説に沿ったものである。しかし『伯耆民談記』によれば元清は関ヶ原の戦いの後、加藤清正には仕官せず、美作国へ逃れ、その地で死亡したとされる。また、東京大学所蔵の「南条系図」によれば元清は「作州才原」に住むとしている。ただしこれらの説は後世に書かれた書物に見られるだけのものであり、これを証明する確実な史料が存在するわけではない。一方で『南条氏盛衰記』説の方は傍証史料もあり、熊本県に墓石が存在するなどの事物も存在している。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「元清」の「元」は烏帽子親毛利元就から一字拝領されたという(「南条氏系図」)。
  2. ^ 異説として「南条氏系図」では元続の庶兄とする記述が見られるが、『伯耆民談記』『陰徳太平記』『信長公記』等では元続の弟としている。
  3. ^ 永禄5年11月9日付・「南条元清寄進状」(『荒生文書』所収)。松尾神社は現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町野花にある神社。なお、元清を宗勝の実名とする説は『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』で述べられている。
  4. ^ 実際には天正9年(1581年)10月末に秀吉自ら援軍を率いて、羽衣石城救援に向かっている。この時、秀吉は数万の軍勢を従えて、現在の湯梨浜町宮内にある御冠山に陣を構え、吉川氏の軍勢と対峙したが、1週間ほどの滞在で軍勢を引き上げている。南条方には物資の補給が行われたようだが、事態の打開にはならなかった(『陰徳太平記』など)
  5. ^ 一説に京都とも。『山田家古文書』『陰徳太平記』。
  6. ^ この屋敷跡は「小鴨丸」と呼ばれる。
  7. ^ その後、藤八郎(南条元信)は細川興秋(忠興の次男)の娘を娶った。南条家は細川忠利の四男(南条元知)が養子に入って継いだが、元知が藩主細川綱利の勘気を被って永蟄居の処分を受け、継嗣なく絶家した。

出典[編集]

  1. ^ 『毛利家文書』・『細川家記』。
  2. ^ a b 南條氏のこと--(2) 南条元宅”. 津々堂のたわごと日録. 2020年12月29日閲覧。
  3. ^ a b 歴史墓一覧 加藤家”. 玉龍山禅定寺. 2020年12月29日閲覧。

出典[編集]

  • 鳥取県史編さん室編『鳥取県史 第2巻 中世編』鳥取県、1973年
  • 東郷町誌編纂委員会『東郷町誌』東郷町、1987年
  • 新編倉吉市史編集委員会『新編倉吉市史 第2巻 中・近世編』倉吉市、1995年
  • 南条氏顕彰会『羽衣石城 南条氏盛衰記』自費出版、1999年
  • 鳥取県公文書館県史編さん室編『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』鳥取県、2010年
  • 松岡布政著・音田忠男訳『ふるさとの歴史 伯耆民談記 全訳』
  • 矢吹某著・音田忠男訳 『二百余年波瀾の星霜 羽衣石南条記 全』(いずれも自費出版、出版年不明)