松平頼儀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。イルーゾォ (会話 | 投稿記録) による 2020年7月25日 (土) 00:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
松平頼儀
松平頼儀(愛媛県歴史文化博物館蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永4年11月12日1775年12月4日
死没 文政12年8月25日1829年9月22日
官位 従四位上左近衛権中将讃岐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
讃岐高松藩
氏族 高松松平家
父母 松平頼真、即就院
松平頼起
兄弟 頼儀、勝
前田治脩養女藤姫池田治政娘晴姫
藤木氏
頼該頼胤頼顕本多忠民、倫姫、
井伊直亮正室、板倉勝明正室、律姫ら
頼恕
テンプレートを表示

松平 頼儀(まつだいら よりのり)は、江戸時代中期から後期にかけての大名讃岐国高松藩8代藩主。官位従四位上左近衛権中将讃岐守

生涯

6代藩主・松平頼真の長男として誕生。母は側室・即就院(中山氏)。

寛政4年(1792年)、叔父で7代藩主・松平頼起の跡を継いだ。当初は緊縮財政を行っていたが、次第に奢侈に傾き、藩札の乱発により物価高騰と紙幣の価値低下(インフレーション)を起こした。また、殖産振興策にも失敗し、さらに江戸屋敷が火災に遭ったり、屋島神社(讃岐東照宮)造営の建築費を支出するなどした結果、江戸・大坂の商人からの借財が50万両以上に達し、藩財政が破綻状態に陥った[1]。そのため、東浜の海岸一帯を埋め立てて問屋街を造ったり、「讃岐二白」と呼ばれる製塩と製糖の産業育成を行うなどした。就任中、16回の旱魃に遭う。

文政4年(1821年)、婿養子・頼恕に藩主を譲り、隠居した。文政12年(1829年)死去。享年55。

系譜

脚注

  1. ^ 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年