山田パンダ
山田パンダ | |
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出生名 | 山田 嗣人(やまだ つぐと) |
別名 | 山田つぐと |
生誕 | 1945年5月13日(78歳) |
出身地 | 日本・佐賀県神埼郡千代田町大字崎村字黒津(現:神埼市) |
学歴 | 明治大学工学部 卒業 |
ジャンル | フォークソング |
職業 |
ベーシスト シンガーソングライター 音楽プロデューサー |
担当楽器 |
ボーカル ベース |
活動期間 | 1969年 - |
共同作業者 |
シュリークス かぐや姫 パンダフルハウス 山本山田 |
公式サイト | 山田パンダオフィシャルホームページ |
山田 パンダ(やまだ ぱんだ、1945年5月13日 - )は、フォークシンガー、元かぐや姫メンバーである。本名は山田嗣人(やまだ つぐと)、別名に山田つぐと。
生い立ち
佐賀県神埼郡千代田町大字崎村字黒津(現:神埼市)生まれ。のち福岡に移り、大牟田市立橘中学校を卒業、久留米大学附設高等学校(学力不振で中退)、福岡県立嘉穂高等学校で学ぶ。高校卒業後、八幡大学中退、明治大学工学部(現:理工学部)卒業。
明大在学中は、放送研究会に属し、日本テレビでアルバイトに明け暮れ、この頃福留功男と知り合う。シュリークスから第二次かぐや姫に参加。ボーカルとウッドベースを担当。作詞・作曲の代表曲は「僕の胸でおやすみ」(かぐや姫)。人気曲はかぐや姫時代の「黄色い船」「こもれ陽」「眼をとじて」「おはようおやすみ日曜日」、ソロの「風の街」など。
かぐや姫解散後も音楽活動を続け、吉野恵子・山田智秀(弟)の3人で「パンダフルハウス」を結成したほか、山本コウタローと「山本山田」としても活動。「バージンブルー」をヒットさせたSALLYのプロデュースなども手懸けたが、その後は主夫業に専念し『山田パンダの保父してみたら』(1993)を出版。その間俳優活動も行い、「ヨイショ」(1974)、「あこがれ共同隊」(1975)、「天皇の料理番」(1980) に出演。渥美清に「浅草日記」を楽曲提供した。1991年保育補助員に応募する。2000年に「かぐや姫」の再結成に参加したことが起因となり、2001年池田森・山田勝久(山田パンダの息子)と「PANDA//SON(山田パンダとパンダさん)」を結成。
2005年に還暦を迎え、60歳となったことを公表したが、今までは吉田拓郎より年下ということで、1946年生まれとしていた。これはデビュー時に師と仰ぐ拓郎が、自分より年下ではマズイ、と同学年としてきた。そのためずっとタメだと思ってきた拓郎からは「おい、バカやろー」と呼ばれ続けてきた。
本人が語ったところによると、南こうせつから、第二次かぐや姫に参加を依頼された際、既にラジオパーソナリティとして収入もあり、当初は断ったという。しかし、3度目のオファーの電話の際、妻から「そんなに誘われてるなら、受けてあげれば」と背中を押されて加入を決意したという。
ディスコグラフィー
シングル
- さよなら友よ(1975年4月5日)
- 作詞・作曲:山田つぐと、編曲:石川鷹彦
- c/w かぎりない空
- 作詞・作曲:山田つぐと、編曲:石川鷹彦
- 風の街(1975年6月23日)
- c/w 窓辺
- 作詞・作曲:山田つぐと、編曲:瀬尾一三
- c/w 窓辺
- 欅並木(1976年4月25日)
- 落陽(1976年9月25日)
- 作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎、編曲:瀬尾一三
- c/w いつもなら
- 作詞・作曲:山田つぐと、編曲:小笠原寛
- 旅酔い唄(1977年3月5日)
- 作詞:岡本おさみ、作曲:山田つぐと、編曲:吉川忠英
- c/w あけくれ
- 作詞・作曲:山田つぐと、編曲:瀬尾一三
- 明日の恋人(1977年6月7日)
- 作詞:ちあき哲也、作曲:山田つぐと、編曲:内山修・ムーンライダーズ
- c/w 涙があるうちに
- 作詞・作曲:山田つぐと、編曲:ムーンライダーズ
アルバム
- ラヴリィ・ハット・ショップ(1975年10月10日)
- 忘れかけた季節(1976年10月5日)
- 山田パンダBEST「風の街」(2000年4月21日)
ラジオ
- 山田パンダ素晴らしきフォーク世代
- パンダのミッドナイトダイナマイト
外部リンク
- 山田パンダオフィシャルホームページ
- 山田パンダ (@ohagi0513) - X(旧Twitter)
- 山田パンダ (yamadapandakaguyahime) - Facebook