田中一村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。

経歴[編集]

田中一村記念美術館(2009年7月)
奄美市の田中一村の住居跡
  • 1958年 - 奄美大島に渡り、大島紬染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。
  • 1977年 - 死去。69歳没。墓所は満福寺

没後の再評価[編集]

死去の直前、奄美在住だった友人の紹介で一村と会った写真家・田辺周一によると、田中は千葉にいた頃に写真を学んで造詣が深く、自ら撮影もしており、写実的な画風にも影響を与えていたとみられる。田辺は散逸しそうだった一村の遺品を預かり、現在まで保管。さらに2015年には、一村の写真集『海神の首飾り』(リーブル出版)を刊行した[2]

没後に『南日本新聞』やNHKの『日曜美術館』(1984年放映分)での紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、「日本のゴーギャン」などと呼ばれることもある[1]。評伝や画集も複数が刊行されているほか、以下のように記念美術館が開館したり、各地の美術館で展示会が開かれたりするようになっている。

毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

代表的な作品[編集]

現在確認されている作品数は下絵やスケッチを除いて約600点弱。そのうち160点余は田中一村記念美術館に所蔵され、寄託品も含めると450点を収蔵している。

初期[編集]

1908年から1938年までの作品。

  • 白梅
  • 牡丹図
  • 倣蕪米
  • 倣聾米
  • 倣木米
  • 倣鐡齋
  • 農村春景
  • 蕗の薹とメダカの図、ほか

千葉寺時代[編集]

1938年に千葉に移り、1958年に奄美大島に行くまでの作品。

  • 白い花(1947:青龍社展入選作)
  • 花と軍鶏(1953:襖絵)
  • 能登四十九種薬草図[3]シリーズ(1955:石川県羽咋郡宝達志水町やわらぎの郷・聖徳太子殿天井絵)
  • 千葉寺の春の作品
  • ザクロ図
  • 室戸岬、九里峡、由布風景
  • ニンドウにオナガ(1956:奄美時代の絵を予感させる明るさと伸びやかさ)

奄美時代[編集]

1958年に奄美大島に移った後、1977年に亡くなるまでの作品。

  • 素描シリーズ
  • 花と鳥
  • ダチュラとアカショウビン
  • 「奄美の杜(もり)」シリーズ
  • アダンの海辺 - 千葉市美術館寄託[4]
  • 高倉のある春景
  • 花と蝶、花と蛾、ほか

映画[編集]

田中一村の生涯を描く映画『アダン』が企画された。2006年5月20日公開。

脚注[編集]

  1. ^ a b 読売新聞栃木版 2017年8月19日 25面。
  2. ^ 田辺周一「田中一村 記憶の構図◇写真を愛した奄美の日本画家の足跡訪ねる◇『日本経済新聞』朝刊2018年5月1日(文化面)
  3. ^ 従来48枚と紹介されることが多いが、天井は7行7列の格子状であり、聖徳太子厨子上の1枚「キランソウ図」が取り外され横に置かれていたためにおきた誤認である(末吉守人「日本画家田中一村と聖徳太子殿天井画について」『石川県立美術館紀要』第16号、2006年3月31日、p.41)。
  4. ^ “「アダンの海辺」 市美術館に委託 千葉ゆかりの画家 田中一村の代表作”. 千葉日報 (千葉日報社): p. 朝刊 7. (2012年1月8日) 

関連文献[編集]

画集
評伝
  • 南日本新聞社編 『田中一村伝 アダンの画帖』 道の島社 1986年。
中野惇夫らが南日本新聞での連載記事をまとめたもの
図録

関連項目[編集]

外部リンク[編集]