「広瀬川 (宮城県)」の版間の差分

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== 歴史 ==
長町-利府断層より下流の両岸(沖積平野)にある微高地には、旧石器時代から[[古代]]の遺跡が数多く見られる。そのため、この地区が同時期の[[仙台平野]]の中心地と見られている。[[南小泉遺跡]]などの集落跡や[[遠見塚古墳]]がある左岸が当初は中心地だったようだが、後に[[古墳]]群がある右岸に中心地が移ったようである。その後、最初の[[陸奥国]][[国府]]と見られる[[郡山遺跡]]が右岸に築かれている。[[多賀城]]設置後は、当地が中心地ではなくなったが、長町-利府断層沿いに[[陸奥国分寺]]・[[陸奥国分尼寺]]置が見られ
 
『[[吾妻鏡]]』に、[[源頼朝]]の軍勢の進攻に備えて[[奥州藤原氏]]が防衛線を「広瀬河」に作ったとあり、これが広瀬川の文献初見である。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には広瀬川の戦いが南北両朝の間で戦われた。
 
広瀬川中流域は河岸段丘となっており、広瀬川は一段低いところを流れている。水を引き揚げることが難しかったために、[[中世]]まで未開発の原野([[宮城野]])として取り残された。しかし、江戸時代に[[伊達氏]]が居城にした[[仙台城]]は、広瀬川中流の右岸にある青葉山に築かれ、川を第一線の守りにした。このため、[[仙台城下町]]はこの水の乏しい河岸段丘の原野に開かれることになり、数万の人々が生きていくために必要な[[井戸]]水を供給涵養する[[地下水]]のためにも、利水が重要になった(→[[#利水]]参照)。後に仙台城下町を基盤に仙台市都心部が築かれていくが、[[1923年]]([[大正]]12年)の市営[[上水道]]の給水開始以降、井戸水で支えられる人口以上の[[都市化]]が実現するした
 
仙台城と仙台城下町および[[若林城]]と[[若林城下町]]の建設には建材として大量の[[材木]]が必要であったが、材木を城下に運ぶ経路の1つとして広瀬川が用いられた。材木は、河口から遡って舟丁辺りで陸揚げされたようである。また、江戸時代は家庭での[[エネルギー]]燃料[[]][[]]に依存していたため、名取川上流で伐採された丸太を冬季に流し、[[木流堀]]を経由して広瀬川に運び入れた。これを、藩が家臣に支給しており、広瀬川沿いには[[貯木場]]があった。[[幕末]]に広瀬川中流域で[[亜炭]]が発見されて以降、家庭でのエネルギーとして亜炭の比率が上がっていくが、[[エネルギー革命]]により亜炭採掘も貯木場も[[1950年代]]に終わりを告げた(→[[仙台亜炭]]参照)。
 
江戸時代には、広瀬川は上流から下流までそれぞれ流れる場所の地名をとって様々な名で呼ばれた。上流から、作並川、熊ヶ根川、野川、愛子川、郷六川、仙台川<ref group="†">元禄年間に作られた『貞山公治家記録』元和3年4月11日条に、広瀬川に注して「今仙台川と称す」とあるのが仙台川の初見。1953年刊『仙台市史』第8巻171頁、資料番号255に収める。また同書第1巻48頁注3。</ref>、長町川<ref>『[[仙台鹿の子]]』、『仙台市史』第8巻214頁に収める。また同書第1巻48頁注3。</ref>、若林川である。また大川とも呼ばれた。ここでいう仙台川は、仙台市の北部を流れる現代の[[仙台川]]とは別ものである。上流部で広瀬川の本流は明治時代の初めまで現在の[[大倉川 (宮城県)|大倉川]]とされており<ref>『仙台鹿の子』(1953年刊『仙台市史』第8巻214頁)。『残月台本荒萩』巻之三(『仙台叢書』第1巻288頁)。『封内風土記』巻之二府城(1953年刊『仙台市史』第8巻379頁)。</ref>、下って[[1931年]]にもそのような理解があった<ref>山本金次郎・編『宮城県名勝地誌』62頁。</ref>。実際、大倉川は現在本流とされる作並・熊ヶ根の川より長い。
 
[[明治]]になって[[文明開化]]の波が仙台にも及ぶと、[[牛乳]][[牛肉]][[需要]]が興り、広瀬川中流の下町段丘では[[牧場]]が営まれるようになった。河川敷での[[放牧]]権を県から買った牧場主たちが、毎年5月から10月頃まで、牧場がある下町段丘から河川敷に牛を連れて降り、牛に草を食ませた。[[高度経済成長]]で大資本の乳業会社が仙台にも進出したことや、周辺の宅地化の影響もあって、[[昭和40年代]]末には牧場は姿を消し、放牧も行われなくなった<ref>[http://www.hirosegawa-net.com/kioku/07_2.html 広瀬川の記憶「vol.7 昭和30年代、暮らしの舞台は橋と川だった」](広瀬川ホームページ)</ref><ref>[http://www.hirosegawa-net.com/kioku/12_2.html 広瀬川の記憶「vol.12 牛越橋のたもとで、50年前の風景を探す」](広瀬川ホームページ)</ref><ref>[http://www.hirosegawa-net.com/kioku/17_1.html 広瀬川の記憶「vol.17 広瀬川の河原で、のんびりと牛が草を食んでいた」](広瀬川ホームページ)</ref>。
 
[[連合国軍占領下の日本|戦後占領期]]、川内にキャンプ・センダイをおいた[[アメリカ軍]]は未処理の下水を川に流した。他にも市内の排水が流れ込むようになり、広瀬川の水質は悪化して、市街に入るあたりから川下に魚が棲まなくなった。仙台市は[[1974年]]([[昭和]]49年)に「広瀬川の清流を守る条例」を制定して川沿いの土地建物の変更や土・木の採取、川への排水に規制を加え、あわせて[[下水道]]の整備に努めた。
 
水質は[[平成]]に入る頃には回復し、最近では釣り人もよく見かける。[[1983年]](昭和58年)に[[朝日新聞社]]と同社が設立した森林文化協会が、「21世紀に残したい日本の自然100選」の中に広瀬川を選んだ。[[1985年]](昭和60年)に[[環境省|環境庁]]が[[名水百選]]の一つに広瀬川を選んだ<ref>[http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=9 広瀬川] - [http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/ 名水百選] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110718185841/http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/ |date=2011年7月18日 }} - [[環境省]]</ref>。[[1996年]]([[平成]]8年)に環境庁は「残したい[[日本の音風景100選]]」<ref>[http://www-gis2.nies.go.jp/oto/data/scene/index.asp?info=14 広瀬川のカジカガエルと野鳥] - [http://www-gis2.nies.go.jp/oto/ 残したい日本の音風景100選] - [[環境省]]</ref> に「広瀬川の[[カジカガエル]]と野鳥」を選んだ。近年、上流の取水による、中流における夏季の流量減少が問題となっている。
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