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'''ヨーゼフ・アロイス・クリップス'''(Josef Alois Krips、[[1902年]][[4月8日]] - [[1974年]][[10月13日]])は、[[オーストリア]]の[[指揮者]]、[[ヴァイオリン奏者]]。弟ハインリヒ・ヨーゼフ([[ヘンリー・クリップス]])も指揮者として知られる。 |
'''ヨーゼフ・アロイス・クリップス'''(Josef Alois Krips、[[1902年]][[4月8日]] - [[1974年]][[10月13日]])は、[[オーストリア]]の[[指揮者]]、[[ヴァイオリン奏者]]。弟ハインリヒ・ヨーゼフ([[ヘンリー・クリップス]])も指揮者として知られる。 |
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[[File:VanBeinumKrips1951.jpg|thumb|right|210px|[[エドゥアルト・ファン・ベイヌム]]とクリップス(1951年2月19日、[[アムステルダム]]にて)]] |
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[[ウィーン]]の生まれ。父親はユダヤ人<ref name=Ewen>{{cite book |last=Ewen |first=David |title=Musicians Since 1900 |publisher=Wilson |page=426 |year=1978 |url=http://books.google.ca/books?id=VV0YAAAAIAAJ&q=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&dq=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&hl=en&redir_esc=y |accessdate=15 August 2017}}</ref>。[[オイゼビウス・マンディチェフスキ]]、[[フェリックス・ワインガルトナー]]に師事し、1921年、ワインガルトナーの助手、合唱指揮者として[[ウィーン・フォルクスオーパー]]に入った。 その後、[[ドルトムント市立劇場]]、[[カールスルーエ歌劇場]]などを経て、1933年、[[ウィーン国立歌劇場]]の常任指揮者に就任、1935年、[[ウィーン国立音楽大学]]の教授に就任した。1938年3月の[[アンシュルス|オーストリア併合]]の後、オーストリアを去ることを強いられ、[[ベオグラード]]に移り、[[ユーゴスラビア]]が[[第二次世界大戦]]に一時期巻き込まれるまで、地元のオーケストラで働いた。大戦終期には食品工場で働いていたが、「こっそりオペラの稽古をつけたり、[[プロンプター]]席に入って指示を出していた」という伝説もある。 |
[[ウィーン]]の生まれ。父親はユダヤ人<ref name=Ewen>{{cite book |last=Ewen |first=David |title=Musicians Since 1900 |publisher=Wilson |page=426 |year=1978 |url=http://books.google.ca/books?id=VV0YAAAAIAAJ&q=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&dq=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&hl=en&redir_esc=y |accessdate=15 August 2017}}</ref>。[[オイゼビウス・マンディチェフスキ]]、[[フェリックス・ワインガルトナー]]に師事し、1921年、ワインガルトナーの助手、合唱指揮者として[[ウィーン・フォルクスオーパー]]に入った。 その後、[[ドルトムント市立劇場]]、[[カールスルーエ歌劇場]]などを経て、1933年、[[ウィーン国立歌劇場]]の常任指揮者に就任、1935年、[[ウィーン国立音楽大学]]の教授に就任した。1938年3月の[[アンシュルス|オーストリア併合]]の後、オーストリアを去ることを強いられ、[[ベオグラード]]に移り、[[ユーゴスラビア]]が[[第二次世界大戦]]に一時期巻き込まれるまで、地元のオーケストラで働いた。大戦終期には食品工場で働いていたが、「こっそりオペラの稽古をつけたり、[[プロンプター]]席に入って指示を出していた」という伝説もある。 |
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*1957年9月、10月 シュトラウス・コンサート ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ワルツ |
*1957年9月、10月 シュトラウス・コンサート ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ワルツ『[[美しく青きドナウ]]』、[[ピツィカート・ポルカ]]、[[皇帝円舞曲]]、ワルツ『[[南国のバラ]]』、[[加速度円舞曲]]、ワルツ『[[オーストリアの村つばめ]]』、ワルツ『[[春の声]]』(デッカ) |
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2017年11月6日 (月) 02:26時点における版
ヨーゼフ・クリップス | |
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基本情報 | |
出生名 |
ヨーゼフ・アロイス・クリップス Josef Alois Krips |
生誕 | 1902年4月8日 |
出身地 | オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン |
死没 |
1974年10月13日(72歳没) スイス ジュネーヴ |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
ヨーゼフ・アロイス・クリップス(Josef Alois Krips、1902年4月8日 - 1974年10月13日)は、オーストリアの指揮者、ヴァイオリン奏者。弟ハインリヒ・ヨーゼフ(ヘンリー・クリップス)も指揮者として知られる。
略歴
ウィーンの生まれ。父親はユダヤ人[1]。オイゼビウス・マンディチェフスキ、フェリックス・ワインガルトナーに師事し、1921年、ワインガルトナーの助手、合唱指揮者としてウィーン・フォルクスオーパーに入った。 その後、ドルトムント市立劇場、カールスルーエ歌劇場などを経て、1933年、ウィーン国立歌劇場の常任指揮者に就任、1935年、ウィーン国立音楽大学の教授に就任した。1938年3月のオーストリア併合の後、オーストリアを去ることを強いられ、ベオグラードに移り、ユーゴスラビアが第二次世界大戦に一時期巻き込まれるまで、地元のオーケストラで働いた。大戦終期には食品工場で働いていたが、「こっそりオペラの稽古をつけたり、プロンプター席に入って指示を出していた」という伝説もある。
1950年から1954年、ロンドン交響楽団の首席指揮者を務め、その後バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督となった。
1963年にコヴェント・ガーデン王立歌劇場、1966年にメトロポリタン歌劇場にそれぞれデビュー。
1968年、サンフランシスコ交響楽団と最初で最後の来日。クリップスと親交のあった日本人指揮者では、小澤征爾や大町陽一郎が挙げられる。
1970年、ベルリン・ドイツ・オペラの指揮者に就任、同年から1973年までの間ウィーン交響楽団の首席指揮者を務めた。
ジュネーヴにて病没。
オペラの名指揮者
ナチス政権に協力しなかったため、1945年の終戦後すぐにオーストリアの楽壇に復帰することができ、戦後ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とザルツブルク音楽祭を最初に指揮したひとりである。(クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤンはナチ協力の嫌疑で復帰が遅れた。)巨匠不在のウィーン・フィルを支えた名匠といえる。モーツァルト、リヒャルト・シュトラウスの作品を得意とした。
角のとれた優美なクリップスとウィーン・フィル(国立歌劇場管弦楽団)の芸風は、1968年の「コジ・ファン・トゥッテ」、1970年の「エジプトのヘレナ」などのライブ録音で偲ぶことができる。所謂「叩き上げ」の経歴をもち、歌劇場での稽古に手腕を発揮した。往年の名歌手エリーザベト・シュヴァルツコップは、「一番お世話になったのはクリップス!」と述懐したという。
レコード・ファンの間ではとかくドイツ・オーストリア音楽だけの専門家と見られがちであるが、実際は特にアメリカ時代には現代作品を含む幅広いレパートリーを誇った。来日公演でもストラヴィンスキー、コープランド等の作品を指揮している。
レコーディング
- 1948年 シューベルト:交響曲第6番 ロンドン交響楽団 (デッカ)
- 1948年-1950の間 モーツァルト:レクイエム ウィーン宮廷合唱団、管弦楽団 (デッカ)
- ウェルナー・ペック(ソプラノ) ハンス・ブライトショップ(アルト) ワルター・ルートヴィッヒ(テノール) ハラルド・ブレグレーフ(バス) (女声の代わりに少年の独唱・コーラスを起用して成功を収めたユニークなもの)
- 1949年 ハイドン:交響曲第104番「ロンドン」 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
- 1950年 モーツァルト:オペラ『後宮からの誘拐』全曲(LPレコード初のオペラ全曲録音という、意欲的な企画もの)
- 1950年 モーツァルト:交響曲第31番「パリ」、交響曲第39番 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1950年4月 シューベルト:交響曲第7番「未完成」 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1950年4月 ブラームス:交響曲第4番 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1951年 ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ザーラ・ネルソヴァ(チェロ) ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1952年 シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレイト」 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(デッカ)
- 1952年? ベートーヴェン:交響曲第4番 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(デッカ)
- 1953年 ハイドン:交響曲第92番「オックスフォード」 メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1953年3月 モーツァルト:交響曲第40番 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1953年3月 シューマン:ピアノ協奏曲 ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ) ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1953年10月 モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番、ピアノ協奏曲第24番 クリフォード・カーゾン(ピアノ) ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1954年9月 メンデルスゾーン:オラトリオ『エリヤ』 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 他(デッカ)
- 1955年6月 モーツァルト:オペラ『ドン・ジョバンニ」全曲 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ウィーン国立歌劇場合唱団、チェーザレ・シエピ(バリトン) クルト・ベーメ(バス) シュザンヌ・ダンコ(ソプラノ) 他(デッカ)
- (デッカのモーツァルト生誕200年記念・4大オペラ録音のうちのひとつ。『フィガロの結婚』はエーリッヒ・クライバー、『魔笛』と『コジ・ファン・トゥッテ』はカール・ベーム)
- 1956年10月 ブラームス:交響曲第1番 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
- 1956年10月 シューマン:交響曲第4番 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1956年12月 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全曲 アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ) シンフォニー・オブ・ジ・エア(RCA)
- 1957年4月 モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」 第41番「ジュピター」 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
- 1957年5月 シューマン:交響曲第1番「春」 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1957年9月、10月 シュトラウス・コンサート ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ワルツ『美しく青きドナウ』、ピツィカート・ポルカ、皇帝円舞曲、ワルツ『南国のバラ』、加速度円舞曲、ワルツ『オーストリアの村つばめ』、ワルツ『春の声』(デッカ)
- 1957年9月 ハイドン:交響曲第94番「驚愕」 交響曲第99番 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
- 1958年4月 ブラームス:ピアノ協奏曲第2番 モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 シューマン:ピアノ協奏曲 アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ) RCAビクター交響楽団(RCA)
- 1958年5月 シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレイト」 ロンドン交響楽団(デッカ)
- 1958年9月 チャイコフスキー:交響曲第5番 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
- 1960年1月 ベートーヴェン:交響曲全集 ロンドン交響楽団 BBC合唱団(米エヴェレスト)
- 交響曲第9番は、ジェニファー・ビビアン(ソプラノ)、シャーリー・カーター(ヴァーレット、メゾ・ソプラノ)、ルドルフ・ペトラーク(テノール)、ドナルド・ベル(バリトン)、レスリー・ウッドゲート指揮BBC合唱団が参加した。この録音は音楽評論家、愛好家には有名であり、正式版、海賊版ともに何度も再発された。とりわけ初版のLP全集には、クリップス自身による詳しい楽曲解説が添付されていて、彼の楽曲理解を知る貴重な資料ともなっている。
- 1960年5月 ブラームス:交響曲第2番 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(コンサートホール)
- 1962年6月 シューベルト:交響曲第7番「未完成」 ウィーン交響楽団(コンサートホール)
- 1963年4月1日 ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 大学祝典序曲 悲劇的序曲 フィルハーモニア管弦楽団(EMI)
- 1963年5月 R.シュトラウス:「ばらの騎士」組曲 「火の鳥」組曲 フィルハーモニア管弦楽団(EMI)
- 1966年2月 モーツァルト:オペラ『後宮からの誘拐』全曲 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ウィーン国立歌劇場合唱団 アンネリーゼ・ローテンベルガー(ソプラノ) ルチア・ポップ(ソプラノ) ニコライ・ゲッダ(テノール) ゲルハルト・ウンガー(テノール) ゴットロープ・フリック(バス)他(EMI)
- 1969年3月 シューベルト:交響曲第7番「未完成」 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
- 1972年から1973年に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してモーツァルト交響曲集(第21-41番)を録音した。2007年に日本盤CDの形で発売され、その典雅な演奏は、多くの人の支持を得ている(フィリップス)。
その他、コンサートホール・ソサエティに多くの録音を残している。また、ライブ録音にはウィーン交響楽団を振った『ティル』やシューベルト『ザ・グレイト』、マーラー『大地の歌』がある他、フランス国立放送管弦楽団を振ったベートーヴェンなどがCDとしてリリースされている。
脚注
- ^ Ewen, David (1978). Musicians Since 1900. Wilson. p. 426 15 August 2017閲覧。
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