コンテンツにスキップ

「金山明博」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: アセンション・エイケンのリンク修正 (エイケン (アニメ制作会社)) - log
9行目: 9行目:
[[テレビアニメ]]『[[ジャングル大帝]]』第3話の動画からキャリアをスタートさせ、同作で[[原画]]に昇格。1968年の『[[わんぱく探偵団]]』で初[[作画監督]]。以後、[[1973年]]に『[[ワンサくん]]』で虫プロが倒産するまで、作画スタッフとして虫プロを支えた。特に[[杉野昭夫]]、[[荒木伸吾]]との3人で[[パイロット版]]から参加した『[[あしたのジョー]]』はテレビ放映後も共同で作画監督を務めてとりわけ印象深いという作品だと言う。
[[テレビアニメ]]『[[ジャングル大帝]]』第3話の動画からキャリアをスタートさせ、同作で[[原画]]に昇格。1968年の『[[わんぱく探偵団]]』で初[[作画監督]]。以後、[[1973年]]に『[[ワンサくん]]』で虫プロが倒産するまで、作画スタッフとして虫プロを支えた。特に[[杉野昭夫]]、[[荒木伸吾]]との3人で[[パイロット版]]から参加した『[[あしたのジョー]]』はテレビ放映後も共同で作画監督を務めてとりわけ印象深いという作品だと言う。


虫プロ倒産後は、フリーで[[和光プロ]]やタツノコプロで『[[新造人間キャシャーン]]』、[[エイケン (企業)|エイケン]]で『[[冒険コロボックル]]』の原画を描いていたが、注目を浴びるようになったのは、虫プロ出身者で結成された[[サンライズ (アニメ制作会社)|日本サンライズ(現・サンライズ)]]での仕事である。[[1976年]]から始まった[[長浜忠夫]]監督の巨大ロボットもの『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』『[[超電磁マシーン ボルテスV]]』『[[闘将ダイモス]]』は「長浜3部作」とも呼ばれる人気作で、[[キャラクターデザイン]]や[[総作画監督]]の役職を11年務めて作画の中心的役割を果たし、一躍人気アニメーターに祭り上げられる。[[1970年代]]末から[[1980年代]]初頭の勃興期の[[アニメ雑誌]]では、何度となく金山の特集が組まれ、金山の描く版権イラストが表紙を飾ったこともあった。以後も長浜の『[[未来ロボ ダルタニアス]]』のキャラクターデザイン、サンライズ作品の『[[無敵ロボ トライダーG7]]』『[[鎧伝サムライトルーパー]]』に参加する。しかし、もともと原画を描くのが好きで、管理職は性格的に合わないとして『[[ラ・セーヌの星]]』で依頼のあった作画監督の仕事を断って原画に専念したほどで、[[1990年代]]以降は、一原画マンとしての仕事を増やし、単独で注目された仕事はない。
虫プロ倒産後は、フリーで[[和光プロ]]やタツノコプロで『[[新造人間キャシャーン]]』、[[エイケン (アニメ制作会社)|エイケン]]で『[[冒険コロボックル]]』の原画を描いていたが、注目を浴びるようになったのは、虫プロ出身者で結成された[[サンライズ (アニメ制作会社)|日本サンライズ(現・サンライズ)]]での仕事である。[[1976年]]から始まった[[長浜忠夫]]監督の巨大ロボットもの『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』『[[超電磁マシーン ボルテスV]]』『[[闘将ダイモス]]』は「長浜3部作」とも呼ばれる人気作で、[[キャラクターデザイン]]や[[総作画監督]]の役職を11年務めて作画の中心的役割を果たし、一躍人気アニメーターに祭り上げられる。[[1970年代]]末から[[1980年代]]初頭の勃興期の[[アニメ雑誌]]では、何度となく金山の特集が組まれ、金山の描く版権イラストが表紙を飾ったこともあった。以後も長浜の『[[未来ロボ ダルタニアス]]』のキャラクターデザイン、サンライズ作品の『[[無敵ロボ トライダーG7]]』『[[鎧伝サムライトルーパー]]』に参加する。しかし、もともと原画を描くのが好きで、管理職は性格的に合わないとして『[[ラ・セーヌの星]]』で依頼のあった作画監督の仕事を断って原画に専念したほどで、[[1990年代]]以降は、一原画マンとしての仕事を増やし、単独で注目された仕事はない。


体調を崩したことから、59歳当時の1998年頃には一線を退き、[[年金]]生活を送りつつ<ref>[https://web.archive.org/web/20071015031239/http://mainichi.jp:80/enta/mantan/news/20071013mog00m200018000c.html アニメ制作:現場から悲鳴 労働環境改善求め協会設立へ] 毎日jp 2007年10月13日(インターネットアーカイブ2007年10月15日分キャッシュ)</ref>個展を開いたりイベントに参加したりしているほか、同人誌活動も行っている。
体調を崩したことから、59歳当時の1998年頃には一線を退き、[[年金]]生活を送りつつ<ref>[https://web.archive.org/web/20071015031239/http://mainichi.jp:80/enta/mantan/news/20071013mog00m200018000c.html アニメ制作:現場から悲鳴 労働環境改善求め協会設立へ] 毎日jp 2007年10月13日(インターネットアーカイブ2007年10月15日分キャッシュ)</ref>個展を開いたりイベントに参加したりしているほか、同人誌活動も行っている。
32行目: 32行目:
*[[ワンサくん]](1973年、虫プロ、全26話)原画(5,13,19話)
*[[ワンサくん]](1973年、虫プロ、全26話)原画(5,13,19話)
*[[新造人間キャシャーン]](1973年 - 1974年、[[タツノコプロ]]、全38話)原画
*[[新造人間キャシャーン]](1973年 - 1974年、[[タツノコプロ]]、全38話)原画
*[[冒険コロボックル]](1973年 - 1974年、[[エイケン (企業)|エイケン]]、全26話)原画
*[[冒険コロボックル]](1973年 - 1974年、[[エイケン (アニメ制作会社)|エイケン]]、全26話)原画
*[[昆虫物語 みなしごハッチ|昆虫物語 新みなしごハッチ]](1974年、タツノコプロ、全26話)原動画(5,11,17,23,26話)
*[[昆虫物語 みなしごハッチ|昆虫物語 新みなしごハッチ]](1974年、タツノコプロ、全26話)原動画(5,11,17,23,26話)
*[[小さなバイキングビッケ]](1972 - 1974年、[[ズイヨー映像]]、[[日本アニメーション]]、全78話)原画(20,22,26話)
*[[小さなバイキングビッケ]](1972 - 1974年、[[ズイヨー映像]]、[[日本アニメーション]]、全78話)原画(20,22,26話)

2023年11月18日 (土) 05:13時点における版

金山 明博(かなやま あきひろ、1939年2月25日 - )は、日本男性アニメーターキャラクターデザイナー漫画家

東京都出身。大沢野小学校、速星中学校、富山県立富山工業高等学校卒業。虫プロダクションを経て、フリー日本アニメーター・演出協会 (JAniCA) 会員。

略歴

東京都四谷で生まれる。生家は市ヶ谷駐屯地の前で軍服仕立て屋を営んでいた[1]第二次世界大戦により1944年富山県の遠戚宅へ疎開、富山県では高校卒業まで過ごす[1]。中学時代には美術部に所属。高校時代から本格的に漫画を描き始める。高校卒業後は集団就職した千葉県市川市の鉄工所に勤務しながら夜間は漫画修行という生活に明け暮れるが[1]1959年、20歳のときにいったん富山へ帰郷[1]1960年に再度上京し、貸本漫画出版社の兎月書房で漫画家デビューした[1]名古屋のセントラル出版で作品をいくつか発表した後、1964年に『少年プロレス王』が秋田書店の「冒険王」誌に掲載され、念願のメジャーデビューを果たす。食べられない時代は、佐藤まさあき望月三起也タツノコプロの漫画部でアシスタントを務めた。当時の人気漫画家だった九里一平の影響を受けた作品を発表して、少年画報社講談社からも声がかかるようになったが、描き直しの要求に反発して編集者と喧嘩。東映動画(現・東映アニメーション)に在籍する兄の奨めもあり、1965年手塚治虫虫プロダクションへ入社して、アニメーターへ転身した[1]

テレビアニメジャングル大帝』第3話の動画からキャリアをスタートさせ、同作で原画に昇格。1968年の『わんぱく探偵団』で初作画監督。以後、1973年に『ワンサくん』で虫プロが倒産するまで、作画スタッフとして虫プロを支えた。特に杉野昭夫荒木伸吾との3人でパイロット版から参加した『あしたのジョー』はテレビ放映後も共同で作画監督を務めてとりわけ印象深いという作品だと言う。

虫プロ倒産後は、フリーで和光プロやタツノコプロで『新造人間キャシャーン』、エイケンで『冒険コロボックル』の原画を描いていたが、注目を浴びるようになったのは、虫プロ出身者で結成された日本サンライズ(現・サンライズ)での仕事である。1976年から始まった長浜忠夫監督の巨大ロボットもの『超電磁ロボ コン・バトラーV』『超電磁マシーン ボルテスV』『闘将ダイモス』は「長浜3部作」とも呼ばれる人気作で、キャラクターデザイン総作画監督の役職を11年務めて作画の中心的役割を果たし、一躍人気アニメーターに祭り上げられる。1970年代末から1980年代初頭の勃興期のアニメ雑誌では、何度となく金山の特集が組まれ、金山の描く版権イラストが表紙を飾ったこともあった。以後も長浜の『未来ロボ ダルタニアス』のキャラクターデザイン、サンライズ作品の『無敵ロボ トライダーG7』『鎧伝サムライトルーパー』に参加する。しかし、もともと原画を描くのが好きで、管理職は性格的に合わないとして『ラ・セーヌの星』で依頼のあった作画監督の仕事を断って原画に専念したほどで、1990年代以降は、一原画マンとしての仕事を増やし、単独で注目された仕事はない。

体調を崩したことから、59歳当時の1998年頃には一線を退き、年金生活を送りつつ[2]個展を開いたりイベントに参加したりしているほか、同人誌活動も行っている。

2003年、フランスのイベント(パリ)Taifu festaに参加し、色紙を100枚以上書いた。

2006年8月と2007年2月には、埼玉県狭山市ギャラリーで、絵画展「絵師金山明博個展・金山明博ワンダーランド」を開催した[3]

アニメーターの仕事以外には、代々木アニメーション学院の講師。1982年1月3日から『中日新聞』の「中日サンデー版」で連載した山浦弘靖原作の漫画『スーパードッグ幻GEN』。『コミックボンボン』の1985年5月号から8月号まで連載した高橋良輔監督原作による漫画『かっとびアニメ丸』がある。

2021年10月には、埼玉県狭山市の狭山市立博物館で、「金山明博遊画展」を開催した。

参加作品

テレビアニメ

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

テレフィーチャー

1970年代

1980年代

1990年代

劇場アニメ

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

OVA

1980年代

1990年代

コンピュータゲーム

自主制作

受賞歴

脚注

  1. ^ a b c d e f ジ・アニメ(近代映画社)1981年12月号「アニメ人間インタビュー」p.110 - 114
  2. ^ アニメ制作:現場から悲鳴 労働環境改善求め協会設立へ 毎日jp 2007年10月13日(インターネットアーカイブ2007年10月15日分キャッシュ)
  3. ^ 杉並アニメーションミュージアムにてポケモン展、金山明博展が開催中 - マイナビニュース
  4. ^ 100万年地球の旅 バンダーブック”. 手塚治虫公式サイト. 2016年5月21日閲覧。
  5. ^ フウムーン”. 手塚治虫公式サイト. 2016年5月20日閲覧。
  6. ^ 火の鳥2772 愛のコスモゾーン”. 手塚治虫公式サイト. 2016年5月19日閲覧。

外部リンク