聖悠紀

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聖 悠紀
本名 長谷川 清俊
生誕 (1949-12-21) 1949年12月21日(68歳)
日本の旗 日本 新潟県新発田市
国籍 日本
職業 漫画家
活動期間 1971年 -
ジャンル SF漫画
代表作超人ロック
公式サイト 公式ホームページ「電脳かば」
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聖 悠紀(ひじり ゆき、1949年12月21日[1] - )は、日本の男性漫画家。本名は長谷川 清俊(はせがわ きよとし)。愛知工業大学工学部機械学科卒業[要出典]。『くるくるパッX』など一部の作品ではひじり悠紀聖 ゆきの表記が使われていた。SF漫画を中心に執筆しており、代表作に『超人ロック』シリーズなど多数。

略歴[編集]

新潟県新発田市出身で、小学生時代は三条市新潟市など新潟県内を転々としていた[1]。中学3年生で愛知県名古屋市に引っ越し、高校進学後に石森章太郎の「マンガ家入門」を読んだことがきっかけとなって、漫画を描くようになる[1]。高校2年の時、貸本屋で借りた「ボーイズライフ」に掲載されていた作画グループの会員募集を見て会員になり[1]、1967年(昭和42年)にグループの肉筆回覧誌に掲載するため送った作品が後に代表作となる『超人ロック』の1作目「ニンバスと負の世界」で、これにより一挙に会員の注目を集めた[2]。大学に進学すると学業の傍ら漫画にも没頭し、春・夏・冬の休みには当時大阪府にあった作画グループの本部に1週間以上も泊まり込んで漫画漬けの生活を送ったという[2]。当時からグループ代表のばばよしあきの他にみなもと太郎とは深い親交があり、長らくグループ内では「トリオ・ザ・サクガ」の名で呼ばれていた。

1969年に『超人ロック』の第2作である「この宇宙に愛を」、1970年には第3作「ジュナンの子」を完成させたが、「ジュナンの子」は肉筆回覧誌には収録されず、グループが当時貸本漫画向けに刊行を始めた「作画グループシリーズ」第2弾として発刊され、全国規模でファンを獲得することになった[2]。さらに肉筆回覧誌に収録された「この宇宙に愛を」が編集者の目に止まったことがきっかけとなり[2]1971年小学館の「別冊少女コミック」から『うちの兄貴』でデビュー。少女漫画家として活動するようになり[2]、1973年には上京。

そのような状況の中『超人ロック』の熱烈なファンの声に押された作画グループ代表のばばよしあきの説得もあって、1974年に第4作「コズミックゲーム」を発表[2]。新たなファンを獲得したものの、活動の場を少女漫画から特撮アニメコミカライズなど「テレビ漫画」の分野に移す結果を招いた[2]。当時関わった作品では、アニメのキャラクターデザインも担当した『闘将ダイモス』などが知られている。

1977年に『超人ロック』の特集が「月刊OUT」で組まれ、同誌の別冊「ランデヴー」で「新世界戦隊」が連載された[2]。これは初の『超人ロック』の商業連載で、その後は少年漫画誌などを主な活動の場としている。漫画家となるきっかけになった作画グループではその後も活動を続け、多数の会員が集まって一つの漫画を制作する「合作」にも参加していた(後述)。

2017年11月に慢性副鼻腔炎の手術を受けた。術後の経過診断のための診察時に倒れて心停止となった。蘇生に成功するが昏睡状態となり、その後12月に心臓の外科手術を受けた。術後2ヵ月入院し、2月初頭の退院直後に「まだ以前のようには動けない」旨とリハビリ中であることを自身のTwitterアカウントにて発表した。単行本と画集の発売も遅れたが、画集は同月中に刊行された。また、当時連載中の『超人ロック 鏡の檻』と『超人ロック ガイアの牙』は5ヵ月間休載となった[3]

作品リスト[編集]

コミカライズ作品[編集]

子供向けテレビ番組を幼年誌へ掲載するために漫画化したもの(内部リンクは大元のテレビ番組に対してなされている)。

作画グループ合作[編集]

主に登場キャラクターの一人を作画している。初期には主人公やヒロイン担当も多い。詳細は各記事を参照。

キャラクターデザイン[編集]

テレビアニメ[編集]

特撮テレビドラマ[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

  • TO YOU刊行会『愛蔵/限定版 超人ロック・聖悠紀の世界 TO YOU』少年画報社、1983年8月15日

外部リンク[編集]