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「福井空襲」の版間の差分

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{{Pathnav|第二次世界大戦|太平洋戦争|日本本土の戦い|日本本土空襲|frame=1}}
{{Battlebox
{{Infobox Military Conflict
|battle_name=福井空襲
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|caption = 空襲後の福井市の航空写真
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|strength2 = [[アメリカ陸軍航空軍|米陸空軍]][[第20空軍 (アメリカ軍)|第20航空軍]][[第21爆撃集団|第21爆撃機集団]][[第58爆撃団|第58航空団]]所属[[B-29 (航空機)|B-29]]計127機(先導機11機、爆撃機116機){{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=396-400}}<br/>作戦参加人員1,513人{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=396-400}}<br/>[[焼夷弾]] 計953.4[[米トン|トン]]{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=396-400}}<!-- <br/>E46 500ポンド集束焼夷弾 (M69) 3,785弾{{sfn|福井県立博物館|2001|p=7}}<br/>M47 100ポンド焼夷弾 5,651弾{{sfn|福井県立博物館|2001|p=7}}<br/>M47 100ポンド白燐弾 30弾{{sfn|福井県立博物館|2001|p=7}}<br/>照明弾 5弾{{sfn|福井県立博物館|2001|p=7}} -->
|strength2= 米軍第20航空軍第58航空団<br />[[ボーイング]][[B-29 (航空機)|B-29]] 127機<br />焼夷弾 10万本以上(865トン、953トンとも)<ref name="fukuishihigai"/>
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|casualties1=死者 1,576+108人<ref name="fukuishihigai" /><br />罹災人口 85,603人<br />焼失家屋 2万戸以上<ref name="fukuishihigai"/>
* 死者1,684人{{efn2|重傷後死亡者108人を含む{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=254}}。}}
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* 負傷者6,419人(重傷1,210人、軽傷5,209人){{efn2|福井市援護課「昭和20年援護課事務報告」に基づく{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=254}}。}}
* 焼失23,086戸(全焼23,009戸、半焼77戸){{efn2|[[西藤島村]]、[[麻生津村]]、[[河合村]]を含む。統計データは「昭和20年11月福井県衛生行政概況」に基づく{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=254}}。}}
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* 負傷者1人{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=396}}
* 航空機の損傷1機{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=396}}
|}}
|}}
'''福井空襲'''(ふくいくうしゅう)は、[[太平洋戦争]]末期の[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月19日]]から[[7月20日]]にかけての夜半、[[アメリカ軍]]が[[福井県]]の県都・[[福井市]]に対して行った[[空襲]]([[都市爆撃]])である。同県への空襲としては7月12日の[[敦賀空襲]]に続くもので、アメリカ軍の空襲損害評価報告書によると、福井市の密集地域に対する破壊率は[[富山大空襲]]と[[沼津大空襲]]に次いで高く、当時の市街地の9割近くが焼失した。'''福井大空襲'''といわれることも少なくない。


== 背景 ==
'''福井空襲'''(ふくいくうしゅう)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月19日]]の[[午後]]11時24分から翌日午前0時45分にかけて[[アメリカ軍]]により行われた[[福井県]][[福井市]]に対する[[空襲]]([[戦略爆撃]])である。'''福井大空襲'''といわれることも少なくない。
=== アメリカ軍の日本本土に対する空襲 ===
{{main|日本本土空襲}}


{{harvp|奥住|1988}}は、アメリカ軍が[[マリアナ]]基地を出撃拠点として以降の[[B-29 (航空機)|B-29]]爆撃機による対日戦略爆撃の時期を
== 概要 ==
# 第一期(1944年11月24日 - 1945年3月4日):[[航空用エンジン|航空用発動機]]製作所をはじめとする航空機工場および軍需工場に対する、目視による白昼の高高度精密爆撃{{sfn|奥住|1988|pp=24-25}}
[[テニアン島]]を出撃した127機の[[B-29 (航空機)|B-29]]編隊による81分間の集中爆撃を受け、壊滅的な被害となった<ref name="fukuishihigai">[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_03.html 福井市における戦災の状況(福井県)- 一般戦災ホームページ]</ref>。米軍の評価によると、福井市街地の損壊率は84.8%で人口103,049のうち罹災者85,603、世帯数25,691のうち罹災世帯は21,992にのぼった。死者は1,576人(女915人、男661人)にのぼり、重軽傷者6,527人で内108人はその後死亡した。
# 第二期(1945年3月10日 - 1945年6月15日):人口稠密な市街地を絨毯爆撃によって根こそぎ焼き払う、レーダーによる夜間・低空からの大都市焼夷空襲{{sfn|奥住|1988|pp=32-33, 36-37}}
# 第三期(1945年6月17日 - 1945年8月15日):原則、4個航空団を駆使して地方都市を一夜に4つずつ、同時多発的に繰り返し空襲して、全国の市街地を焦土化した中小都市焼夷空襲{{sfn|奥住|1988|pp=39, 42, 49-50}}
の大きく3期に区分している。


上記した通り、アメリカ軍による日本本土への空襲は当初、昼間に1万[[メートル]]の高高度から航空機工場やインフラ施設に照準を絞って攻撃する[[精密爆撃|「精密」爆撃]]であった{{sfn|齋藤|2023|p=2041}}が、[[日本列島]]上空に吹く[[ジェット気流]]が強くて編隊を維持できなかったり、目標上空を覆う雲に視界を遮られたりするなどの影響を受け、目視での爆弾投下に[[ノルデン爆撃照準器]]を使った爆撃方法による攻撃の精度が極めて低い結果となった{{sfn|奥住|1988|pp=24, 25-26}}。期待したほどの成果が挙がらなかったため、1945年(昭和20年)3月10日の[[東京大空襲]]以後は、夜間に低高度から進入して都市全体を無差別に[[絨毯爆撃]]する方針に転換した{{sfn|齋藤|2023|p=2041}}。
地方都市への爆撃としては[[富山市]]、[[沼津市]]に次いで全国トップクラスであった。


[[沖縄戦|沖縄作戦]]支援のため、同年4月16日から5月11日まで、B-29による大都市焼夷空襲は約1ヶ月の中断を挟んだが、その間に[[テニアン]]基地の{{仮リンク|ウエストフィールド飛行場|en|West Field (Tinian)|label=西飛行場}}に[[第58爆撃団|第58航空団]]がインドからの移駐を完了させ、同年5月中旬以降に行われた空襲では、出撃1回あたりの参加兵力が合わせて4個[[航空団]]と作戦の規模が格段に強化された{{sfn|奥住|1988|pp=34-35}}。
同時間帯には、福井市のほか[[茨城県]][[日立市]]、[[千葉県]][[銚子市]]、[[愛知県]][[岡崎市]]が空襲を受けた。


[[File:B-29 target cities in Japan.png|thumb|left|B-29の爆撃目標となった都市]]
また、この空襲によって廃墟となった福井市を、[[1948年]]に[[福井地震|福井大震災]]が襲い、[[バラック]]住居の多くが倒壊して被害を拡大した。
やがて空襲の目標は主要な大都市から工業生産や[[兵站]]を支える中小都市に移行し{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=295}}、(アメリカ軍が市街地焼夷空襲の対象に設定した66の目標都市のうち、[[三大都市圏]]の7都市と、戦略的に特殊な[[広島市|広島]]・[[長崎市|長崎]]の2都市を除けば{{sfn|奥住|1988|pp=39-40}})全国57の地方都市にも市街地空襲の被害が及ぶに至った{{sfn|齋藤|2023|p=2043}}。


その約2ヶ月にわたる第三期戦略爆撃の間、中小都市空襲が計16回実行されたうち、福井空襲が組まれたのは第10回目の作戦にあたる{{sfn|奥住|1988|pp=85-86}}。
== 日本軍の迎撃体制 ==

福井市は、北陸地方ではある程度の規模を持つ都市のひとつであったが、一地方都市にしか過ぎなかったため、重要な港湾都市として軍の施設も設置されていた[[敦賀市]]の防空態勢と比べて極めて貧弱であった。従って福井市の防空体制は、敵機の迎撃を目的としたものではなく、消火や住民の避難等消極的な受身の態勢しかとることが出来ず、計画もほぼそれに従ったものであった。
当初、アメリカ軍が一夜に4つの中小都市を同時攻撃する作戦の原則を立てたのは、日本側の防衛戦力を分散させるためであったが、日本側の中小都市の夜間防空体制は、実際にはアメリカ軍にとってほとんど問題にならないほど貧弱なものであった{{sfn|奥住|1988|pp=204-207}}。全16回に及んだ中小都市空襲を通算しても、明らかに日本側の攻撃で損失したB-29の機数は、空対空と地対空を合わせても、たったの3機(損失機数全体の13%)にとどまっている{{sfn|奥住|1988|p=213}}。同様に、日本側の攻撃で損傷を受けたB-29は計84機とされ、その大部分は[[対空砲火]]によるものだったが、その他の原因による損傷も含めて、損傷の程度によって区分すると、約8割が「軽度の損傷」{{efn2|報告書では、ほとんど問題にならない程度の損傷が、このように表現される{{sfn|奥住|1988|p=214}}。}}であったとされる{{sfn|奥住|1988|pp=213-214}}。
=== 布陣 ===

福井市には敦賀市と同じく戦力の配備はあったが敦賀市と比べて極僅かであった。[[対空砲|高射機関砲]]や[[福井空港|福井飛行場]]等に戦闘機等が配備される等していたが、所属部隊が遠い、数が余りにも少ない、B29には届かないなどのため全く役に立たなかったという。なお、敦賀空襲を受けての戦力増強があったかは不明である。以下の兵器が配備されていた。
アメリカ軍は中小都市空襲の作戦任務報告書の中で、日本側の[[防空]]戦力が弱かった要因について、次のように分析している{{sfn|奥住|1988|pp=208-209}}。
;高射機関砲

:市内に立地していたビルの屋上等に設置されていたとされる。市内には高射砲等重兵器等の配備は全く無かった。機関砲の種類および所属部隊の記述は「福井空襲史」に無く不明。
{{quotation|日本側戦闘機が比較的に弱い抵抗しか示さないのは、戦闘機の大部分が、来たるべき[[本土決戦]]に備えて温存されることになったからだと信じられる。いま一つ、日本機の抵抗を束縛している要因は、明らかに[[航空燃料|航空機用ガソリン]]の欠乏である。また、日本人は夜間戦闘機を持ってはいるが、その数も少ない上に、その装備はアメリカや[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の水準には遥かに及ばない。そのために、夜間戦闘機の迎撃も、夜間戦闘機と昼間戦闘機との間の連携も、効果が上がらないままである。}}
;迎撃機

:戦闘機2~3機。しかし、福井飛行場に展開していた航空隊は[[長野県]]を管轄する部隊のものであり、当然長野県を中心として迎撃態勢を取っていたという。そのため空襲時には殆ど全く役に立たなかったなどと「福井空襲史」に記述がある。長野県所属の部隊という以外詳細不明。
=== 市勢の概要 ===
[[File:Map of Fukui City 1945.jpg|thumb|1945年当時の福井市街地図]]
福井市は[[城下町]]以来の旧市街地を中心市街地とし、郊外に新市街地を形成しながら、徐々に市街地を拡大していた{{sfn|中央防災会議|2011|p=163}}。市経済の基盤となる産業は[[織物]]業で{{sfn|中央防災会議|2011|p=163}}、往時の福井市は「繊維王都」の異名をとり{{sfn|中央防災会議|2011|pp=165-166}}、市の郊外や周辺町村には繊維関係の工場が多く立地していた{{sfn|中央防災会議|2011|p=163}}。

アメリカ軍の戦略空軍最高司令官[[カーチス・ルメイ]]が作成した報告書によると、攻撃目標とした福井市の地勢について、次のように記述されていた{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=389}}。
{{quotation|福井市は鉄道網の重要な拠点で、人口97,967人、琵琶湖の北方約40マイル、富山の西南方約70マイル、本州の日本海沿岸から内陸13マイルに位置する。市は南北3マイル、東西2マイルにわたり、その面積は3.25平方マイルで、そのうち2平方マイルは人家密集地域である。よく知られた95の産業施設が目標地域内にあり、市の工業生産物の主なものは飛行機部品、電気備品、機械モーター、各種の金属製品および繊維類などである。この目標地域の空襲に成功すれば、その工業を破壊し、鉄道網を分断し、それによって日本の戦闘力の回復能力を低下させるであろう。|合衆国陸軍少将カーチス・E・ルメイ司令官}}

=== 近辺の軍部隊・関連機関 ===
福井市の約10 km南方に位置する[[今立郡]][[神明町]](現在の[[鯖江市]]三六町を中心とする一帯)には、[[1897年]](明治30年)以来、帝国陸軍[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]に所属する[[歩兵第36連隊]]が[[衛戍]](駐屯)していた<ref name="南越書屋"/>。

1940年(昭和15年)9月、それまで鯖江を衛戍地としていた歩兵第36連隊は、軍備改編および[[満洲]]移駐の命令を受け、10月10日をもって永久に同地を去ることとなる<ref name="南越書屋"/>{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=213}}。同駐屯地を引き継いだ[[歩兵第136連隊]]([[独立第63歩兵団]]所属{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=215}})も、1943年(昭和18年)4月の改編により、5月に鯖江を離れ、[[岐阜県|岐阜]]に移駐する{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=267}}。同年6月、新たに[[迫撃第3連隊]]が編成され、鯖江を駐屯地とする{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=285}}。

その後、1945年(昭和20年)前半の改編により、迫撃第3連隊は廃止となり、迫撃第3連隊補充隊(中部第80部隊)として改組された{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=288}}。同補充隊は、迫撃第3連隊の要員をもって編成され、本部の人員は隊長以下33名、迫撃中隊は[[軽迫撃砲]]6門、[[二式十二糎迫撃砲]]2門、[[輜重]]車20輌、[[馬]]匹35頭を装備し、中隊長以下将校4名を含む計199名を定員として、迫撃3個中隊(人員597名)をもって編成された{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=288}}。同部隊は、[[本土決戦]]に備えて展開していた各師団に属する迫撃部隊要員に対する教育訓練および補充動員の[[編成 (軍事)|編成]]を任務とし、迫撃第17、第25、第26大隊の編成を担当した{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|pp=288-289}}。

1941年(昭和16年)4月以降、福井県全域を管轄区域とする[[福井連隊区]]は[[中部軍管区 (日本軍)|中部軍管区]][[京都師管区]]に属し{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=284}}、1945年(昭和20年)に司令部が設けられると、それぞれ中部軍管区司令官は[[第15方面軍 (日本軍)|第15方面軍]]司令官を、福井連隊区司令官は福井地区司令官を兼務した。

空襲の時点で福井市内には、前記の福井連隊区司令部および福井地区司令部が置かれ{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=507}}、市内各所には中部第80部隊の一部が分駐していたほか、[[社村 (福井県)|社村]][[小山谷町|小山谷]]の{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=507}}[[笏谷石]]の採掘坑に整備した地下工場(福井五五工場){{sfn|福井県|1996|pp=349-350}}に[[舞鶴市|舞鶴]]から[[海軍工廠]]造機工場が疎開していた{{sfn|福井市|2004|p=595}}。また近郊には、鯖江に[[陸軍病院]]、[[芦原町|芦原]]の旅館「べにや」に陸軍病院分院、同じく「開花亭」に[[海軍病院]]分院があった{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=507}}。

== 経緯 ==
=== 県内の空襲被害 ===
[[File:Locations mined by the 20th Air Force up to 31 July 1945.jpg|thumb|1945年7月末までに[[第20空軍 (アメリカ軍)|第20航空軍]]により[[機雷]]が投下された沿岸部]]
{{see also|{{節リンク|敦賀空襲|福井県が受けた主な空襲一覧}}}}
1945年(昭和20年)5月以降、終戦を迎える8月の初旬まで{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=300}}、アメリカ軍の[[B-29 (航空機)|B-29]]戦略爆撃機は[[若狭湾]]および福井県の周辺空域にたびたび進入し、同湾付近に数回にわたり、合わせて数百個以上([[敦賀湾]]だけでも少なくとも329個以上{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=417}})の[[機雷]]投下を行った{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=234-236}}。若狭湾への機雷投下は、日本海側の帝国海軍の要塞地帯であった[[舞鶴市|舞鶴]]、および[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]との三大定期連絡港の一つとして{{sfn|福井県|1998|p=234}}海上輸送の拠点であった[[敦賀市|敦賀]]の両港の[[海上封鎖]]を狙ったものとされる{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=300}}{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=195}}。

沿岸部では機雷の爆発による被害があった。1944年(昭和19年)12月には、[[丹生郡]]鮎川(現在の福井市)の海岸で機雷が爆発し、近くの学校で窓ガラスが割れる被害があったほか、戦後の1950年(昭和25年)にも、丹生郡蒲生(現在の福井市越廼地区)の海岸で爆発し、同じく学校に被害があった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=301}}。

敦賀市では機雷投下のたびに警報が発令されることが日常化していた{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=301}}。1945年(昭和20年)7月12日夜9時すぎに発令されたときも、またいつもの機雷投下だろうと楽観視されたが、同11時12分から約3時間にわたり、B-29爆撃機94機による[[焼夷弾]]の雨が降り、敦賀市は市街地の約7割が火に焼かれ、焦土と化した{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=301}}。これが日本海側の都市としては初の[[敦賀空襲|敦賀大空襲]]<!-- 同市に対する3度の空襲のうち、規模が最も大きかったこの日の空襲を特にこのように呼ぶ。 -->である{{sfn|福井県|1998|p=234}}。同市は、7月30日午前10時25分ごろにも再び空襲され、[[P-47 (航空機)|P-47]]艦載機6機による[[機銃掃射]]と小型爆弾の投下により、3戸が焼失、15人が死亡、1人が負傷し、船舶にも被害があった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=302}}。さらに、8月8日午前9時にもB-29爆撃機1機による空襲があり、特に1トン爆弾が命中した[[東洋紡績]]工場では、[[学徒動員]]で来ていた中学生・女学生16人と引率の教師2人が死亡し、死者数は計33人に上った{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=302}}。3回にわたる空襲による敦賀市の被害は、被災者数19,300人、被災戸数4,119戸、死者数225人、負傷者数201人に上るとされている{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=302}}。

そのほか、8月2日夜9時ごろ、今立郡[[味真野村]]宮谷および[[北日野村]]西尾(現在の[[越前市]]南東部)に飛来したB-29が焼夷弾を投下し、5戸が全焼した{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=303}}。

=== 防空対策 ===
{{see also|日本本土防空}}

敦賀空襲の際に東洋紡績工場広場に[[高射砲]]陣地が敷かれ{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=434}}、敵機と交戦を繰り広げた{{efn2|もっとも、日本の防空態勢は、大都市でさえも、夜間戦闘機は少なく、高射砲も不完全であったこと{{sfn|松浦|1995|pp=138-139}}を考慮すると、その形勢は、「交戦」とは名ばかりの、ほとんど一方的な空襲であった。}}敦賀市の防空体制に比べて、福井市においては、高射砲陣地や迎撃[[戦闘機]]といった[[対空戦|対空戦力]]といえるものはほとんど配備されておらず{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=304}}、市中心部の[[福井銀行]]倉庫と{{読み|是則|これのり}}運送店倉庫の屋上に対空[[機関銃]]が配備されていた程度で{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=434}}、防空体制とはいっても、ほとんど無防備に等しい状態であった{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=187}}。アメリカ軍の飛行計画書においても、「福井市地域の[[航空写真]]によれば、対空防衛施設の存在は何ら明らかにされていない。」と記されている{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=391}}。

福井市より約20 kmほど北に位置する[[坂井郡]][[加戸村]](現在の[[坂井市]][[三国町]]加戸地区)には飛行機の発着可能な[[飛行場]]があったが{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=304}}、[[長野県]]下の[[飛行隊]]に属する数機と飛行将校(陸軍中尉)が常駐していたらしいと伝えられるのみで、福井市の空襲に対する防衛には全く役に立たなかったという{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=187}}。

したがって、福井市の[[防空]]対策は[[疎開]]と[[消火]]を中心とする消極的な対策にとどまり{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=304}}、頼みの綱は[[銃後の守り]]によるところが大きかったとみられる。

==== 銃後 ====
福井県下においては[[1932年]](昭和7年)、県の計画に沿って、福井市と敦賀市で県内最初の防空訓練が行われた{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}。その後、[[1934年]](昭和9年)には民間の防空団体である[[防護団]]を結成し、併せて[[防空監視哨]]の設置も進められた{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}。監視哨は県内の約50か所に設置されたが{{efn2|{{harvtxt|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=292}}に当時の[{{NDLDC|12283791/169}} 福井県の防空監視網概要図]が掲載されている。}}、福井市では市役所屋上の1か所だけであった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}。[[1939年]](昭和14年)には警防団令が発令され、福井市においても、[[警防団]]本部、特設分団および13の分団を組織し、市指定防護監視所を市内13か所(木田・毛矢・足羽・久保・花月・乾・片町・駅前・神明・尾上・進放・旭・勝見)に設けた{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=194}}。また、家庭防空組織として、町内会ごとに防空係や防空[[隣組|隣保]]班が組織された{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=193-194}}。[[1944年]](昭和19年)3月には、福井県防空本部が設置された{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=187-188}}。同年11月より[[防空壕]]の建設が督励されたが、福井市は地下水位が高いために地下壕を作るには適せず{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=222}}、地上壕も市街地は人家が密集していて空閑地が少なく{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=223}}、資材・労力不足もあり建設は思うように進まず{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=223}}、空襲の時点でも2000基余りが作られていたのみで{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}、郊外の地区では皆無のところもあったという{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=224}}。

福井市における最初の[[空襲警報]]は1945年(昭和20年)1月3日に発令され、同月だけでも3回あった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}。3月18日にはアメリカ軍機が市の上空を通過、7月に入ると警報は頻繁に発令されるようになった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}。県は6月29日付で「決戦防空緊急強化ニ関スル通牒」を発出し{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}、[[灯火管制]]および[[避難訓練|待避訓練]]、[[防火用水]]の準備の徹底や、初期防火、[[緊急避難]]および罹災者収容の方法などを指示した{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=195-199}}。これを受けて、福井市防空本部においても実施要綱を策定し、7月4日から19日に被災するまで防空訓練が繰り返し実施された{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=209-213}}。

7月10日、[[鈴木貫太郎内閣]]は「空襲激化ニ伴フ緊急防衛対策要綱」を[[閣議決定]]し、アメリカ軍による都市爆撃の激化を踏まえて、防空態勢を強化するために全国規模で[[建物疎開]]をより徹底的かつ迅速に実施する方針を定めた{{sfn|齋藤|2023|p=2043}}。これにより、[[防空法]]を根拠とし、重要施設の周囲および鉄道沿線にある民家を一定の範囲内で強制撤去させる疎開事業の対象都市として、県内では福井市と敦賀市の2市が指定された{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=295}}。県は7月9日付の県報で地区を指定し、直ちに疎開作業が開始された{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=295}}。

[[#近辺の軍部隊・関連機関|鯖江の救援部隊]](中部第80部隊)は関係当局の要請に応じて、将校以下約100名、輓馬約50頭、輜重車約50輌を直ちに福井市に派遣し、同市内の学校および寺院を仮宿または馬撃場として部隊を分駐させ、市の疎開活動を援助した{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=296}}。前夜に[[敦賀空襲]]を受け、事態が急迫してきた7月13日から県は、さらに輸送挺身隊510人、学生620人、営業馬車50台、貨物自動車15台を動員して疎開に協力させた{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=450}}。全体として労働力と輸送力は極めて乏しかったものの、市街地から郊外地域へと向かうルートは重要物資の疎開で渋滞した{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=295}}。

立ち退き期限の7月16日には疎開指定地区の約8割が立ち退きを完了し、19日からは建物の取り壊し作業が開始される予定であったが、取り壊しを開始した同日夜に福井市は空襲を受けることになる{{sfn|福井市|2004|pp=596-597}}。

== 空襲の概況 ==
=== アメリカ軍側 ===
[[File:Navigation track chart for USAAF air raids on Japan, Mission No. 277-281.jpg|thumb|left|作戦当夜の米軍機の航路図(実線が福井空襲機)]]
7月19日、[[第20空軍 (アメリカ軍)|第20航空軍]]司令部野戦命令第2号により、[[第21爆撃集団|第21爆撃軍団]]の[[第58爆撃団|第58]]、[[第73爆撃団|第73]]、[[第313爆撃団|第313]]、[[第314爆撃団|第314]]、[[第315爆撃団|第315爆撃航空団]]に対して、本州の4都市(福井、[[日立市|日立]]、[[銚子市|銚子]]および[[岡崎市|岡崎]])の市街地域ならびに[[尼崎市|尼崎]]の[[日本石油]]関西精製所を攻撃するよう、指令が下された{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=388}}。これらの都市は、空襲目標として選定された[[日本本土空襲#1945年7月21日米軍報告書|180の小工業都市]]の中に含まれていた{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=389}}。

マリアナ時刻([[UTC+10|GMT+10]])19日17時から18時43分の間{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=393, 396}}に次々と[[テニアン島]]の基地{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=391}}を飛び立った第58航空団(作戦任務番号277{{sfn|奥住|1988|pp=230-231}})の4個航空群{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=388}}は、飛行計画通り、編隊を組まずに{{sfn|福井県|1998|p=234}}[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]上空を通過し{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=391}}、[[紀伊半島]]の[[木本町|木本]]の東方地点を陸地初視点とし{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=391}}、[[琵琶湖]]北端の[[葛籠尾半島]]を良好なレーダー初視点として飛行し{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=391}}、南方より目標の福井市へ来襲した{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|pp=305-306}}。

[[File:Target No. 90.15 Fukui Area.jpg|thumb|right|空襲目標地域となった福井市]]
福井市の上空では、主力部隊に先行する11機の先導機が、[[福井城]]址よりやや北西の辺りを爆撃の中心点としてマークし{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=392}}(右画像参照)、まず市北部上空に[[照明弾]]を投下{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=305}}。その灯火を目印として、続く主力のB-29爆撃機116機が{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=394, 396}}、{{convert|12400|ft|m}}から{{convert|14000|ft|m}}の低高度より{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=394, 396}}、総計953.4[[米トン|トン]]の爆弾を{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=394, 396}}、114回は有視界{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=394}}、13回はレーダーで{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=394}}、日本時刻([[UTC+9|GMT+9]])19日午後11時24分から翌0時45分までの81分間にわたり投弾した{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=394, 396}}。

第20航空軍司令部統計課が作成した日本本土空襲関係資料によれば、福井市に投下された爆弾は、3個航空群に{{sfn|福井市|2004|p=600}}{{convert|500|lb|kg}}[[M69焼夷弾|M69集束焼夷弾]]3,785発(計757トン)、残る1個航空群に{{sfn|福井市|2004|p=600}}{{convert|100|lb|kg}}{{ill|M47爆弾|en|M47 bomb|label=M47膠化ガソリン焼夷弾}}5,651発(計195トン)、そして30型焼夷弾30発(計2トン)と、高性能爆弾(500ポンドM64準徹甲爆弾)5発であった{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=397-398}}。照明弾は計5発、使用された{{sfn|奥住|1988|pp=236-237}}。

集束焼夷弾は、M69(子弾)を48発の束にしてE46(親弾)の容器に入れたもので、これを空中で分解して、ガソリンが充填されたM69の六角弾筒を散布した{{sfn|福井県立博物館|2001|p=7}}。この焼夷弾の数は、上空で弾けた焼夷筒単位でみると、当時の福井市の人口1人あたり2発、1戸あたり7、8発の計算になる{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=306}}。

また、焼夷弾以外に高性能爆弾5発を投下した目的について、{{harvp|福井空襲史刊行会|1978}}は、同司令部作成の資料中の「焼夷弾と共に少数の高性能爆弾を使用することは、消防隊と市民防衛隊の不安を更に大きくし、焼夷弾に対する努力を分散させるのにいくらか利益がある。」との記述を引用して、日本側の官民の防災対策を攪乱するためであったのだろうと推察している{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=397-398}}。

[[#市勢の概要|市勢の概要]]節で引用したルメイ報告書の内容からすると、空襲目的は確かに[[工業]]や[[兵站]]の破壊に設定されていたものの、実際の空襲においては、爆撃の中心は工場ではなく市街地(住宅地)そのものであった{{sfn|福井市|2004|p=600}}。それは、平均弾着点が福井城郭の北西付近とされ、そこを中心とする半径{{convert|4000|ft|m}}{{sfn|福井県|1998|p=234}}{{sfn|出口|2005|p=97}}の範囲内(画像参照)に当時の福井市街の大部分が収まること、および後述するB-29の搭載爆弾が工業・住居混在地域の破壊に適した性能と数量を有していたことからいえる{{sfn|福井市|2004|pp=599-600}}。全国でも最悪の水準の破壊率99.5%を記録した{{sfn|松本|2019|p=195}}[[富山大空襲]]においても、郊外の軍需工場のほとんどが損害を受けることはなく、アメリカ軍は当初から[[非戦闘員]]の住民を標的にして空爆を行っていた事実が、機密解除されたアメリカ軍資料の調査研究から判明している{{sfn|松本|2019|pp=200-202}}。

{{harvp|福井空襲史刊行会|1978}}によれば、爆撃機は[[編隊 (航空機)|編隊]]を組まず、爆撃は個々の飛行機によって行われたとされる{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=391}}。一方、{{harvp|日本の空襲編集委員会|1980}}によると、爆撃機は28機と99機の2団に分かれて波状的に来襲したとされる{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=306}}。また、{{harvp|稲木|1975}}では、B-29部隊が福井へ飛来した方向は概ね南の方角であったろうとしながらも、福井市上空に近づいてからは、いくつかの小編隊に分かれて周辺で旋回したりして、多方面から市街地に接近し、爆撃したであろうことが、地上から様子を見ていた市民の目撃談とともに綴られている{{sfn|稲木|1975|pp=20-21}}。

なお、B-29爆撃機は往路の途上、敦賀、[[立石岬]]、[[武生町|武生]]にて日本側の貧弱・不正確な[[対空砲火]]に遭遇したとされる一方、作戦参加機の半数以上が対空砲火は皆無だったと報告している{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|p=394}}。

=== 日本側 ===
7月19日午後10時55分頃{{efn2|発令時刻に関しては、午後10時45分とする[[北陸配電]]資料から、午後10時50分とする福井駅長の報告に基づく[[日本国有鉄道|国鉄]]資料、午後11時11分とする県の資料まであり、正確な時刻は不詳{{sfn|福井空襲史刊行会|1978|pp=239-240}}。また、米軍側資料に記載された空襲開始時刻である午後11時24分とも時間的に開きがあり{{sfn|福井市|2004|p=599}}、情報の信頼性の程は定かではない。}}、[[空襲警報]]が発令され、福井監視哨のサイレンが鳴り響くと同時に[[神明神社 (福井市)|神明神社]]付近に火の手が上がる{{sfn|福井市|2004|p=598}}。それを目標にして[[焼夷弾]]の雨が容赦なく降り注ぎ、市街地は火の海と化した{{sfn|福井市|2004|p=599}}。

{{harvp|日本の空襲編集委員会|1980}}によると、最初の爆弾は市の東方に隣接する村に投下、福井市上空には東方から侵入し、市内への第一弾は、監視哨にいた市防空係長の話では、北部の神明神社または[[本願寺福井別院|西別院]]方面とされる{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|pp=305-306}}。そして、市の東方と西方へ連続的に投下され、市街地の周辺部を火の輪で囲った後、中心部に投下されるという徹底的な[[絨毯爆撃]]が行われたという{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=306}}。

城下町である福井市の中心部には、周りを[[石垣]]と[[堀]]で囲われた[[福井城]]本丸跡に[[福井県庁舎|県庁舎]]があり、その南を[[足羽川]]が流れている{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=306}}<ref name="歴史散歩"/>。焼夷弾による火に囲まれて逃げ場を失った市民は、熱を避けようとして堀や足羽川に飛び込み、そこで折り重なるように死んでいった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|pp=306, 308}}。安全なはずの足羽川原も堤防の草に火が着き、川水には火のついた油脂が流れ、空から降ってくる焼夷弾の直撃を受けて亡くなる者もいた{{sfn|福井市|2004|p=599}}<ref name="中日新聞20230719"/>。

事前の防空訓練では、老人や子供は近くの[[防空壕]]や広場に避難することになっていたが、防空壕に逃げ込んで焼死・窒息死した者も無数にいた{{sfn|福井市|2004|p=599}}<ref name="中日新聞20230719"/>。境内が広く、避難者が集まっていた神明神社や西別院などでも多くの死者を出した{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=308}}。市民の多くは、[[バケツリレー]]などによる消火訓練も繰り返し受けていたが、想定をはるかに超える事態を目の当たりにして、もはや消火活動は焼け石に水であり、とにかく着の身着のまま火の気のないところへ逃げるほかなかったという{{sfn|福井市|2004|p=599}}。

県庁舎も猛火に包まれ、情報活動の拠点であった防空監視隊本部も「福井市全滅」との一報を発したのを最後に通信が途絶した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=506}}。

市内の火災は、翌日の明け方には勢いが衰え{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=506}}、燃えるものがほとんど燃え尽きた昼ごろに鎮火したとされるが{{sfn|福井市|2004|p=599}}、中には数日間燃え続けたところもあったという{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=506}}。

以上がいわゆる福井大空襲であるが、より小規模な空襲が他に同市内で発生していた可能性を示唆する目撃証言もいくつかある{{sfn|稲木|1975|p=4}}。大空襲当日の午前にも投弾のない空襲があった{{efn2|一般的な見方をすれば、空襲当日に一弾も投じることなく飛び去ったとされる単機は、作戦の直前に目標付近の雲や風の状態を観測通報するために飛来した[[気象観測]]機であった可能性も考えられる{{sfn|奥住|1988|p=129}}。}}と話す県庁勤めの女性{{sfn|稲木|1975|p=4}}や、同じ日に[[新田塚]]付近で空襲警報と[[P-51 (航空機)|P-51]]戦闘機の爆音を聞いたという、学徒動員で農協に勤めていた男子{{sfn|稲木|1975|p=4}}、さらに、8月10日の夜10時すぎにB-29爆撃機1機が36発の焼夷弾を落としたとする詳細不明のアメリカ軍資料{{sfn|稲木|1975|pp=4-5}}などである。

== 被害の概要 ==
[[File:戦災概況図福井.jpg|thumb|[[第一復員省]]資料課が作成した福井市の戦災概況図(赤い網掛け部が焼失区域)]]
福井市の被害統計は今もなお確定していないが、福井市復興本部援護課の「昭和二十年度福井市事務報告」によると、死亡者1,576人(女915人、男661人)、重傷後死亡者108人、重傷者1,210人、軽傷者5,209人、罹災世帯21,992戸(罹災前25,691戸)、罹災人口85,603人(罹災前103,049人)、半焼37戸とされる{{sfn|福井市|2004|p=601}}。

周辺農村部も含めた焼失面積は約180万[[坪]] (594 [[ヘクタール|ha]]){{sfn|中央防災会議|2011|p=163}}、罹災人口率{{efn2|罹災都市の総人口に対する罹災人口の比率{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=478}}。}}{{sfn|福井市|2004|p=600}}は東京・[[八王子市]]([[八王子大空襲]])に次ぐ93.2%(全国2位)、家屋焼失率は96%とされる{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=304}}。アメリカ軍の資料によると、計画目標地域に対する破壊率は95.0%、密集地域に対する破壊率(面積焼夷率)は[[富山市]]([[富山大空襲]])の99.5%と[[沼津市]]([[沼津大空襲]])の89.5%に次ぐ84.8%(全国3位)とされる{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=304}}{{sfn|奥住|1988|p=168}}。

以上のように、1都市に対する1回の空襲による被害としては、全国有数の規模であった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=304}}。これほどまでに被害が拡大したのは、アメリカ軍のB-29部隊の中でも最も練度の高い航空団の爆撃を受けたことや{{sfn|福井市|2004|p=599}}{{sfn|福井県|1996|p=356}}、空襲当夜の天候が快晴で{{sfn|福井市|2004|p=598}}視界良好と、攻撃側に有利な条件が重なったことが理由として挙げられる。

市街地のうち焼失を免れたのは次の地区のみである{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=511}}。
*{{読み|橋南|はしなみ}}地区 - 花堂町、月見町、葵町、昭和町、[[木田 (福井市)|木田]]・山奥・春日・氷川・寿・不動・川上・千年各町の一部
*東部地区 - 町屋・長本・志比口・四ツ井本町各町の一部
*西部地区 - 明里町・東明里町の一部
*北部地区 - 幾久町

木造建築物は言うに及ばず、[[鉄筋コンクリート構造|鉄筋コンクリート造]]の建物も、市公会堂(市役所3階)が数発の焼夷弾を受けて全焼するなどし{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=505-506}}、市内のほとんどの建築物・施設が焼失した{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|p=110}}。

福井郵便局電話室では、[[交換手|電話交換]]業務に従事していた女性職員20名と、彼女らを救出しに行った警防団員3名が殉職した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=506}}。それ以外にも、官庁、会社、工場などの職場で多数の殉職者を出した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=506}}。町内住民の避難誘導にあたった町内会長1名の死亡もあった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=308}}。

市内の学校は、応急集団罹災所となっていた[[福井市春山小学校|春山]]・[[福井市豊小学校|{{読み|豊|みのり}}]]・[[福井市東安居小学校|東安居]]・[[福井市円山小学校|円山]]・[[福井市啓蒙小学校|啓蒙]]・[[福井市松本小学校|道明]]の各[[国民学校]]および、[[福井市立福井商業学校|福井商業学校]]、[[福井県立福井中学校|福井中学校]]、[[福井県立福井農林学校|福井農林学校]]が焼け残ったのみで、市街地の学校は春山国民学校を除いて壊滅した{{sfn|福井市|2004|p=601}}。そのため、罹災した市民は周辺の村への二次避難を余儀なくされた{{sfn|福井市|2004|p=601}}。同年12月末日の時点で、福井市全体では14,650世帯、50,335人が疎開生活を送っていた{{sfn|福井市|2004|p=601}}。

{{wide image|Panorama photo of the southern Fukui City taken on July 30, 1945.jpg|1600px|空襲後の7月30日に警視庁カメラマン[[石川光陽]]が撮影した「[[国破れて山河あり]]」の如き惨状を呈す福井市南部のパノラマ光景写真.中央には[[足羽川]]に架かる[[幸橋 (福井市)|幸橋]]、奥には足羽三山([[足羽山]]・[[兎越山]]・[[八幡山 (福井県)|八幡山]])を望む.}}

== 救援 ==
=== 軍 ===
軍の各部隊の活動の概要は次の通りである{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=508}}。

# 特設警備隊は炎上中の倉庫の救援に向かい、多数の負傷者を収容し、翌日中に道路の啓開を完了させた。
# 芦原と鯖江の陸海軍病院は他の部隊に先んじて駆けつけ、傷病者の診療にあたった。
# 中部第80部隊の不発弾処理部隊は、警防団と連絡を取りながら不発弾を迅速に処理し、危険の未然防止に努めた。
# 中部第80部隊は握り飯3万個をつくり、罹災者に送った。
# 中部第80部隊、憲兵隊、地区司令部は、災害地の警備に尽力した。
# 5.に加えて、給水班を組織し、罹災者に飲料水を供給した。

==== 中部第80部隊 ====
[[File:The Daimyō-machi intersection in Fukui city on July 30, 1945.jpg|thumb|大名町交差点(7月30日撮影)]]
鯖江から福井に分駐し、疎開活動に従事していた救援部隊は、予定では7月19日に活動を終え、翌朝に福井を出発し、鯖江連隊に復帰することになっていた{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=296}}。しかし、その夜に不幸にも福井で空襲に遭うことになる{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=296}}。将兵らは空襲警報が鳴ったのを聞くなり、軍馬撃留場に繋留してあった愛馬に乗り、焼夷弾が降り注ぐ中を街はずれに退避し、鯖江連隊に復帰するべく、集団に分かれて暗闇の国道を南へ行進した{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=296}}。

鯖江の連隊補充隊は、福井の空襲を察知するや、直ちに[[非常呼集]]を行い、緊急態勢を整えた{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=296}}。補充隊長は、各中隊に福井市救援のための出動命令を下達し、現地副官とする少尉を同伴して、福井市へと向かった{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=296}}。途中、福井市街から退避してきた前述の救援部隊と合流し、同部隊は中隊長の指揮下に入り、補充隊の主力部隊に収容された{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|pp=296-297}}。

先発隊が福井市に到着した頃には、B-29爆撃部隊は同市上空を去った後であり、同市中心部は猛烈な火勢で炎上中であった{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=297}}。先発隊は炎の中を必死で進み、大名町十字路付近に至って、連隊区司令部、県庁、市役所などと連絡協定を保とうとしたが、市内は灼熱地獄さながらの光景で、その所在の確認すらできず、これら関係機関との連絡は完全に途絶えてしまった{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=297}}。

とりあえず、花堂町、月見町、[[木田 (福井市)|木田]]方面の延焼を防ぐため、{{読み|橋南|はしなみ}}地区に2個[[中隊]]を投入して、建物の[[破壊消火]]活動に当たり、残存家屋の類焼を食い止めた{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=297}}。もう1個中隊は、市東部に迂回して、志比口、[[和田 (福井市)|和田]]方面において、倉庫や格納庫に保管されていた食糧や軍需品などの搬出を援助しつつ、施設の防火活動にも当たった{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=297}}。

一方、鯖江に残留した連隊の監守要員は、同連隊の炊飯施設をフル稼働させて、軍用米で[[おにぎり|握り飯]]を約3万個(1人1食分程度)作り、20日午前10時に福井市の被災者らに届けた{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=297}}。

さらに、市内各所にはB-29により投下されたものの不発に終わった相当な量の[[不発弾]]が点在・埋没しており、それらによる危害の未然防止は緊急を要したため、同部隊は20日午後より、技術将校を長とする[[不発弾処理]]班2班を編成して福井市に急派し、その処理に当たった{{sfn|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976|p=297}}。

=== 警防団 ===
各地域の警防団、軍の特設警備隊および警察は、決死の覚悟で消火・救護・避難誘導などの活動にあたり、中でも福井市警防団は前記の通り、福井郵便局電話室で女子職員の救助中に3名の団員が殉職したほか、市内各地で避難者の誘導中に5名の団員が殉職した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=507}}。

近隣の[[足羽郡]][[東郷村 (福井県足羽郡)|東郷村]]や[[吉田郡]][[松岡町 (福井県)|松岡町]]・[[下志比村]]、[[今立郡]][[鯖江町]]・[[中河村]]、[[丹生郡]][[立待村]]・[[西安居村]]・[[三方村 (福井県)|三方村]]など{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=517}}、遠くは坂井郡[[三国町]]や[[石川県]][[大聖寺町]]などの各町村からも警防団が応援に駆けつけ、遺体の収容や消火活動などに協力した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=507}}。

=== 救護隊 ===
負傷者の救護には、鯖江陸軍病院、同分院、海軍病院分院の各救護班をはじめとする救護隊が駆けつけ、20日夕方までに一通りの応急手当てが完了した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=515-516}}。地区司令部も臨時救護所を市衛生課内に開設した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=516}}。重傷者は、[[福井赤十字病院]]、小林医院、福井中央病院(平岡脳病院)、[[福井市松本小学校|道明国民学校]]内の臨時救護所、[[福井県立福井中学校|福井中学校]]内の仮設病院、[[福井市森田小学校|森田町第一国民学校]]内の仮設病院に収容された{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=516}}。

=== 近隣町村の住民 ===
県や市当局の要請に応じた[[炊き出し]]以外にも、握り飯、[[米]]、[[じゃがいも]]など、他市町村民からの[[隣人愛]]による自発的な食糧援助も多く寄せられ、罹災市民を激励した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=517}}。さらに、[[配給 (物資)|配給]]が順調に行われるまでに治安が回復し、自立復興の兆しが見え始めた22日には、握り飯に代えて米や[[塩]]・[[梅干]]などの副食物の配給も行われた{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=518}}。

[[布団]]・[[毛布]]や[[蚊帳]]などの[[寝具]]、[[衣服]]や[[炊事]]用具、[[ちり紙]]などの[[日用品]]も、県から市に割り当てられ、配給された{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=518-519}}。また、県内外の各市町村、各種団体、個人からも、支援物資および見舞金が数多く寄せられた{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=519-520}}。

== 応急復旧 ==
=== 市役所 ===
20日未明、[[福井市役所]]は市長室に福井市災害対策本部を設置し、緊急の課長会議を開いて応急対策を決定し、直ちに罹災者に対する罹災証明書の発行事務が開始された{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=515}}。さらに、罹災者に対する食糧の供給、傷病者の救護、遺体の処理、罹災者の収容、援助物資の配給などに着手した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=515}}。

初めに着手した応急対策は清掃事業で、市は坪あたり5円を交付して清掃を奨励しつつ、瓦礫の処理は国庫の補助を受けながら県と市で分担して実施した{{sfn|児玉|2022|p=1}}。

同年8月20日から市は、[[戦時災害保護法]]に基づく各種給与金の申請を受け付け、12月から支給を開始した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=520-521}}。

=== 水道 ===
[[福井市企業局|市水道局]]は、局員総出で[[水道]]施設の修理を行い、7月27日に一部通水を開始した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=528}}。漏水箇所の応急修理は11月中旬に完了した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=528}}。

=== 電気 ===
[[北陸配電]]福井支店は、空襲直後より昼夜兼行で復旧作業を進め{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=528}}、夜が明けた20日午前には、春江変電所、牧島変電所、橋南変電所など近隣の変電所から福井市の中心部へ送電し{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=528}}、官公庁、放送局、郵便局の業務が一部始まった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=308}}。

=== 住宅 ===
住宅の復旧に関しては、疎開先から帰って自力で建て直す人も増えてきて、[[福井警察署]]の調査によると、同年10月中旬ごろには完成した本建築が1,190戸、建築中が821戸、[[バラック]]住居が1,804戸という状況だった{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=528-529}}。

=== 学校 ===
学校の授業は、焼け残った学校の校舎に焼失した学校の児童・生徒を収容したり、民家や寺社などを仮の教場としたりして、8月5日から一斉に再開された{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=529-530}}。授業の方法は、午前と午後の交替制や二部授業など、学校ごとに委ねられていた{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=529}}。もと通っていた児童の約半数は疎開先の学校に転校したため、それに伴って教員の一部は9月1日付で市外の学校へ転任となった{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=529}}。

=== 鉄道 ===
[[File:Fukui station road in Fukui city on July 30, 1945.jpg|thumb|福井駅前通り(7月30日撮影)]]
20日午前10時には、国鉄[[北陸本線]]の[[福井駅 (福井県)|福井駅]]-[[福井操車場]]間が下り線のみ開通し、[[関西]]方面へは[[汽車]]で行けるようになった{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=308}}。21日には[[定期乗車券|定期券]]の旅客を、23日からは軍や公務関係の旅客を、25日には一般の旅客を取り扱い開始した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=527}}。なお、同月末までは罹災証明書を提示すれば罹災者の運賃は無料とされた{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|pp=527-528}}。

[[京福電気鉄道|京福電鉄]]の電車は、駅が焼失した市内の区間を除き、[[京福電気鉄道越前本線|越前本線]](大野線)が20日から[[越前開発駅|開発駅]]と[[京福大野駅|大野三番駅]]の間で、[[京福電気鉄道三国芦原線|三国芦原線]](三芦線)も同日より[[新田塚駅]]と[[三国駅 (福井県)|三国駅]]の間で、営業を再開した{{sfn|福井市史編さん委員会|1970|p=528}}。

=== バス ===
県バス([[京福バス|福井県乗合自動車]])は、25日から運行を再開した{{sfn|日本の空襲編集委員会|1980|p=308}}。

== 復興と戦後 ==
[[File:福井戦災慰霊碑.jpg|thumb|足羽川畔に立つ戦災慰霊碑]]
1945年(昭和20年)10月20日、福井市復興本部が発足し、同月に就任したばかりの[[熊谷太三郎]]市長の確固たる文化的思想と卓越した政治手腕のもと{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|pp=112-113}}、復興都市計画が推し進められた{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|p=110}}。

住宅建設の迅速な実行を主張した[[宮田笑内]]県知事に対し、熊谷は[[都市計画]]の策定、特に道路計画の決定を急いだ{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|pp=110-111}}。復興計画の基本方針に盛り込まれた、産業の発展と防火都市を実現するため、街路の幅員の大幅な拡大により、交通のスピード化が図られた{{sfn|児玉|2022|p=5}}。そのほか、市街地全域に総延長約172 km{{sfn|児玉|2022|p=7}}の[[下水道]]を敷設して、環境衛生を改善すると同時に、排水の悪い市街地における[[足羽川]]流域の[[水害]]防止にも利用した{{sfn|児玉|2022|p=5}}。

[[1946年]](昭和21年)1月に[[斎藤武雄 (内務官僚)|斎藤武雄]]知事が赴任して以後、福井市は福井県と共同で戦災復興事業を推進することとなり{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|p=111}}、同市にとって空前の大規模な復興都市計画事業および[[土地区画整理]]事業は、県が施行を担うことで合意された{{sfn|児玉|2022|pp=5, 7}}。

同年10月9日に福井市は[[特別都市計画法]]に基づく戦災都市の指定を受け、翌[[1947年]](昭和22年)4月7日には土地区画整理設計が認可された{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|p=111}}。

戦災から2年が経った1947年(昭和22年)7月には、福井市戦災復興記念祭が開催された{{sfn|福井県立博物館|2001|p=7}}。

[[1948年]](昭和23年)2月の時点で、福井市は区画整理の[[換地]]指定を完了していた{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|p=111}}。これは、全国でも2番目に早い復興であった{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|p=111}}。しかし、実際に移転が行われたのは50戸程度にとどまっていた{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|pp=111, 112}}。

その矢先、同年[[6月28日]]に[[福井地震|福井大震災]]が福井市を襲い、同市街地は再び廃墟と化した{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|pp=109, 110}}。ところが、この震災により、都市計画遂行の妨げとなっていた要移転家屋の多くが倒壊したため、むしろ都市復興の歩みは促進される形となり、[[戦災復興都市計画]]は震災復興都市計画に名を改め、継続して遂行された{{sfn|中央防災会議|2011|p=162}}{{sfn|高橋・山口・川崎|2015|pp=111-112}}。

{{see also|{{節リンク|福井地震|復興と教訓および社会に与えた影響}}}}

この土地区画整理事業の総事業費は約7億600万円、施行区域面積は約557 [[ヘクタール|ha]]、総移転戸数は約6000戸、整備された公園[[緑地]]は42か所(総面積にして約13 ha)、平均減歩率は約17%で、1966年(昭和41年)に換地処分された{{sfn|児玉|2022|p=7}}。

当空襲と続く地震による福井市の戦災・震災犠牲者の追悼式は、毎年6月28日に福井市[[小山谷町]]にある[[足羽山]]西墓地の戦災・震災犠牲者慰霊碑塔前で執り行われる<ref name="追悼式概要"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{reflist}}
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|25em|refs=
<ref name="中日新聞20230719">{{cite news|和書|author=金崎千花|title=焼夷弾「火の地獄見た」 福井空襲 きょう78年|newspaper=[[日刊県民福井]]|date=2023-07-19|url=https://www.chunichi.co.jp/article/731356|accessdate=2024-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240624032443/https://www.chunichi.co.jp/article/731356|archivedate=2024-06-24}}</ref>
<ref name="追悼式概要">{{cite book|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/report/pdf/all/h24_all.pdf|title=平成24年度 全国の戦災の追悼施設・追悼式 中部・中国・四国|pages=38-39|publisher=[[NHKグローバルメディアサービス]]|format=PDF|date=2012-11-30|accessdate=2024-06-03}}</ref>
<ref name="南越書屋">{{cite web|editor=福井県|title=北陸対象の調査研究書 第1回「鯖江歩兵第三十六連隊史」(鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会 編集発行)|publisher=南越書屋|date=2023-07-25|url=https://nan-etsu.com/hokuriku-research1/|accessdate=2024-02-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231129094707/https://nan-etsu.com/hokuriku-research1/|archivedate=2023-11-29}}</ref>
<ref name="歴史散歩">{{cite book |和書 |editor=福井県の歴史散歩編集委員会 |title=福井県の歴史散歩 |chapter=福井城跡 |pages=4-7 |publisher=山川出版社 |date=2010-12 |isbn=978-4-634-24618-8}}</ref>


}}
== 関連項目 ==
*[[日本本土空襲]]
**[[敦賀空襲]] - 福井県内の空襲。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== アメリカ軍資料 ===
*福井空襲史
*〔米国戦略爆撃調査団文書〕{{cite web|author=U.S. Strategic Bombing Survey|authorlink=米国戦略爆撃調査団|url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/USB|title=Records of the U.S. Strategic Bombing Survey|publisher=[[国立国会図書館憲政資料室]]|date=2022-12-27|accessdate=2024-06-23}}
*[http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/D23/D231.htm 図説福井県史 近代23 敦賀・福井空襲]
**〔空襲損害評価報告書〕{{cite report |language=en |title=Takayama Report No. 3-a(18), USSBS Index Section 7 |series=Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area |work=Records of the U.S. Strategic Bombing Survey |publisher=[[国立国会図書館]] |date=July 1945 |id={{NDLDC|3984243|format=NDLJP}} |ref={{SfnRef|USSBS|1945b}}}}
*[https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0203000000_4/0000000126/00 国立公文書館デジタルアーカイブ 戦災概況図 福井]([[第一復員省]]による作成)
**〔作戦任務報告書〕{{cite report |language=en |title=Nos. 277 through 281, Fukui, Hitachi, Chosi Okazaki and Nippon oil refinery, 19-20 July 1945. Report No. 2-b(64), USSBS Index; Section 7 |series=Tactical mission reports, XXI Bomber Command |work=Records of the U.S. Strategic Bombing Survey |publisher=[[国立国会図書館]] |date=July 1945 |id={{NDLDC|4002568|format=NDLJP}} |ref={{SfnRef|USSBS|1945a}}}}
*[http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/image/E06.pdf 福井市広報広聴課写真帳 - 戦災] (福井市による作成、[[福井市立郷土歴史博物館]]所蔵デジタルアーカイブ)

=== 日本側資料 ===
*{{cite book |和書 |author=稲木信夫 |title=福井空襲・午前一時 <small>死者たちと死者をめぐる人たち</small> |publisher=ゆきのした文化協会 |date=1975-07 |series=ゆきのした叢書1 |ref={{SfnRef|稲木|1975}}}}
*{{cite book |和書 |author=奥住喜重 |title=中小都市空襲 |series=三省堂選書149 |publisher=[[三省堂]] |date=1988-07 |isbn=4-385-43149-3 |ref={{SfnRef|奥住|1988}}}}
*{{cite book |和書 |author=児玉忠 |title=戦後福井県都市計画の軌跡 |publisher=[[晃洋書房]] |date=2022-05 |isbn=978-4-7710-3562-1 |ref={{SfnRef|児玉|2022}}}}
*{{cite journal |和書 |author=齋藤駿介 |title=戦時期日本における建物疎開の展開に関する制度史的研究(その1):事業対象都市の変遷と事業施行の実態 |journal=日本建築学会計画系論文集 |volume=88 |issue=808 |publisher=[[日本建築学会]] |date=2023-06 |pages=2039-2050 |doi=10.3130/aija.88.2039 |ref={{SfnRef|齋藤|2023}}}}
*{{cite book |和書 |editor=鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会 |title=鯖江歩兵第三十六連隊史 |publisher=鯖江三十六連隊史蹟保存会 |date=1976-08 |doi=10.11501/12283791 |ref={{SfnRef|鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会|1976}}}}
*{{cite journal |和書 |author=高橋利之 |author2=山口敬太 |author3=川崎雅史 |title=福井市の戦災・震災復興計画と熊谷太三郎 |journal=景観・デザイン研究講演集 |issue=11 |publisher=[[土木学会]] |date=2015-12 |pages=109-118 |url=http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00897/2015/11-0109.pdf |format=PDF |accessdate=2024-06-03 |ref={{SfnRef|高橋・山口・川崎|2015}}}}
*{{cite book |和書 |author=中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 |authorlink=中央防災会議 |title=1948 福井地震報告書 |chapter=第7章 福井地震からの都市復興の特徴 |pages=162-205 |publisher=[[内閣府]] |date=2011-03 |url=https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1948_fukui_jishin/pdf/10_chap07.pdf |accessdate=2024-06-15 |ref={{SfnRef|中央防災会議|2011}}}}
*{{cite journal |和書 |author=出口政司 |title=福井空襲時における福井県公文書 |journal=福井県文書館研究紀要 |issue=2 |publisher=[[福井県文書館]] |date=2005-03 |pages=95-104 |naid=120005550475 |url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2004bulletin/images/2004fpakiyou-deguchi.pdf |format=PDF |accessdate=2024-02-18 |ref={{SfnRef|出口|2005}}}}
*{{cite book |和書 |editor=日本の空襲編集委員会 |title=日本の空襲―五 愛知・三重・岐阜・福井・石川・富山 |publisher=[[三省堂]] |date=1980-06 |doi=10.11501/12397765 |ref={{SfnRef|日本の空襲編集委員会|1980}}}}
*{{cite book |和書 |editor=福井空襲史刊行会 |title=福井空襲史 |publisher=福井空襲史刊行会 |date=1978-06 |doi=10.11501/12397741 |ref={{SfnRef|福井空襲史刊行会|1978}}}}
*{{cite book |和書 |editor=福井県 |title=福井県史 通史編6 近現代 二 |chapter=第二章第三節 二 敦賀・福井空襲と敗戦 |publisher=福井県 |date=1996-03 |url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-00.htm#-01-03-02-01 |accessdate=2024-02-18 |id={{NDLDC|9541070|format=NDLJP}} |ref={{SfnRef|福井県|1996}}}}
*{{cite book |和書 |editor=福井県 |title=図説 福井県史 |chapter=近代 23 敦賀・福井空襲(1) |pages=234-235 |publisher=福井県 |date=1998-02 |url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/D23/D231.htm |accessdate=2024-02-18 |ref={{SfnRef|福井県|1998}}}}
*{{cite book |和書 |editor=福井県立博物館 |title=写真特集 福井空襲・福井震災 |publisher=[[福井県立博物館]] |date=2001-04 |ref={{SfnRef|福井県立博物館|2001}}}}
*{{cite book |和書 |editor=福井市 |title=福井市史 通史編3 近現代 |publisher=福井市 |date=2004-03 |ref={{SfnRef|福井市|2004}}}}
*{{cite book |和書 |editor=福井市史編さん委員会 |title=新修福井市史Ⅰ |publisher=福井市 |date=1970-04 |ref={{SfnRef|福井市史編さん委員会|1970}}}}
*{{cite book |和書 |author=松浦総三 |authorlink=松浦総三 |title=天皇裕仁と地方都市空襲 |publisher=[[大月書店]] |date=1995-04 |isbn=4-272-52037-7 |ref={{SfnRef|松浦|1995}}}}
*{{cite book |和書 |author=松本泉 |title=日本大空爆―米軍戦略爆撃の全貌 |publisher=さくら舎 |date=2019-12 |isbn=978-4-86581-225-1 |ref={{SfnRef|松本|2019}}}}

== 関連項目 ==
*[[日本本土空襲]]
**[[敦賀空襲]] - 当空襲の7日前にあった同県敦賀市に対する空襲
**[[日立空襲]] - 当空襲と同日に決行された茨城県日立市に対する空襲
**[[銚子空襲]] - 当空襲と同日に決行された千葉県銚子市に対する空襲
**[[岡崎空襲]] - 当空襲と同日に決行された愛知県岡崎市に対する空襲


== 外部リンク ==
{{Japanese-history-stub}}
*[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_03.html 福井市における戦災の状況(福井県)] - [[総務省]]
{{War-stub}}
*[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000310639 福井空襲に関する新聞記事について | レファレンス協同データベース] - [[福井県文書館]]
*[https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/kindai/index2.html ふくいの歴史アーカイブス 近代福井の風景(昭和20年以降の福井市の写真集)] - [[福井市立郷土歴史博物館]]デジタルアーカイブ
**[https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/index.html 福井市広報課写真帳]
***{{PDFlink|[https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/image/E06.pdf 戦災]}}
*[https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/gakko/for_students/air_raid_and_earthquake/airraid_damages.htm 小中学生の調べ学習のためのページ 福井空襲の写真] - 福井市立郷土歴史博物館
*{{YouTube|Mf13PB0PpFo|アニメ「福井空襲」}}(制作:福井市立郷土歴史博物館)


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[[Category:日本本土空襲]]
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2024年6月28日 (金) 03:31時点における版

福井空襲
第二次世界大戦/太平洋戦争

空襲後の福井市の航空写真
1945年昭和20年)7月19日
場所福井県福井市
結果 福井市の壊滅
衝突した勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
アメリカ合衆国の旗 カーチス・ルメイ
戦力
(ほぼ無防備)[注 1] 米陸空軍第20航空軍第21爆撃機集団第58航空団所属B-29計127機(先導機11機、爆撃機116機)[1]
作戦参加人員1,513人[1]
焼夷弾 計953.4トン[1]
被害者数
  • 死者1,684人[注 2]
  • 負傷者6,419人(重傷1,210人、軽傷5,209人)[注 3]
  • 焼失23,086戸(全焼23,009戸、半焼77戸)[注 4]
  • 負傷者1人[3]
  • 航空機の損傷1機[3]
  • 福井空襲(ふくいくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年昭和20年)7月19日から7月20日にかけての夜半、アメリカ軍福井県の県都・福井市に対して行った空襲都市爆撃)である。同県への空襲としては7月12日の敦賀空襲に続くもので、アメリカ軍の空襲損害評価報告書によると、福井市の密集地域に対する破壊率は富山大空襲沼津大空襲に次いで高く、当時の市街地の9割近くが焼失した。福井大空襲といわれることも少なくない。

    背景

    アメリカ軍の日本本土に対する空襲

    奥住 (1988)は、アメリカ軍がマリアナ基地を出撃拠点として以降のB-29爆撃機による対日戦略爆撃の時期を

    1. 第一期(1944年11月24日 - 1945年3月4日):航空用発動機製作所をはじめとする航空機工場および軍需工場に対する、目視による白昼の高高度精密爆撃[4]
    2. 第二期(1945年3月10日 - 1945年6月15日):人口稠密な市街地を絨毯爆撃によって根こそぎ焼き払う、レーダーによる夜間・低空からの大都市焼夷空襲[5]
    3. 第三期(1945年6月17日 - 1945年8月15日):原則、4個航空団を駆使して地方都市を一夜に4つずつ、同時多発的に繰り返し空襲して、全国の市街地を焦土化した中小都市焼夷空襲[6]

    の大きく3期に区分している。

    上記した通り、アメリカ軍による日本本土への空襲は当初、昼間に1万メートルの高高度から航空機工場やインフラ施設に照準を絞って攻撃する「精密」爆撃であった[7]が、日本列島上空に吹くジェット気流が強くて編隊を維持できなかったり、目標上空を覆う雲に視界を遮られたりするなどの影響を受け、目視での爆弾投下にノルデン爆撃照準器を使った爆撃方法による攻撃の精度が極めて低い結果となった[8]。期待したほどの成果が挙がらなかったため、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲以後は、夜間に低高度から進入して都市全体を無差別に絨毯爆撃する方針に転換した[7]

    沖縄作戦支援のため、同年4月16日から5月11日まで、B-29による大都市焼夷空襲は約1ヶ月の中断を挟んだが、その間にテニアン基地の西飛行場英語版第58航空団がインドからの移駐を完了させ、同年5月中旬以降に行われた空襲では、出撃1回あたりの参加兵力が合わせて4個航空団と作戦の規模が格段に強化された[9]

    B-29の爆撃目標となった都市

    やがて空襲の目標は主要な大都市から工業生産や兵站を支える中小都市に移行し[10]、(アメリカ軍が市街地焼夷空襲の対象に設定した66の目標都市のうち、三大都市圏の7都市と、戦略的に特殊な広島長崎の2都市を除けば[11])全国57の地方都市にも市街地空襲の被害が及ぶに至った[12]

    その約2ヶ月にわたる第三期戦略爆撃の間、中小都市空襲が計16回実行されたうち、福井空襲が組まれたのは第10回目の作戦にあたる[13]

    当初、アメリカ軍が一夜に4つの中小都市を同時攻撃する作戦の原則を立てたのは、日本側の防衛戦力を分散させるためであったが、日本側の中小都市の夜間防空体制は、実際にはアメリカ軍にとってほとんど問題にならないほど貧弱なものであった[14]。全16回に及んだ中小都市空襲を通算しても、明らかに日本側の攻撃で損失したB-29の機数は、空対空と地対空を合わせても、たったの3機(損失機数全体の13%)にとどまっている[15]。同様に、日本側の攻撃で損傷を受けたB-29は計84機とされ、その大部分は対空砲火によるものだったが、その他の原因による損傷も含めて、損傷の程度によって区分すると、約8割が「軽度の損傷」[注 5]であったとされる[17]

    アメリカ軍は中小都市空襲の作戦任務報告書の中で、日本側の防空戦力が弱かった要因について、次のように分析している[18]

    日本側戦闘機が比較的に弱い抵抗しか示さないのは、戦闘機の大部分が、来たるべき本土決戦に備えて温存されることになったからだと信じられる。いま一つ、日本機の抵抗を束縛している要因は、明らかに航空機用ガソリンの欠乏である。また、日本人は夜間戦闘機を持ってはいるが、その数も少ない上に、その装備はアメリカや連合軍の水準には遥かに及ばない。そのために、夜間戦闘機の迎撃も、夜間戦闘機と昼間戦闘機との間の連携も、効果が上がらないままである。

    市勢の概要

    1945年当時の福井市街地図

    福井市は城下町以来の旧市街地を中心市街地とし、郊外に新市街地を形成しながら、徐々に市街地を拡大していた[19]。市経済の基盤となる産業は織物業で[19]、往時の福井市は「繊維王都」の異名をとり[20]、市の郊外や周辺町村には繊維関係の工場が多く立地していた[19]

    アメリカ軍の戦略空軍最高司令官カーチス・ルメイが作成した報告書によると、攻撃目標とした福井市の地勢について、次のように記述されていた[21]

    福井市は鉄道網の重要な拠点で、人口97,967人、琵琶湖の北方約40マイル、富山の西南方約70マイル、本州の日本海沿岸から内陸13マイルに位置する。市は南北3マイル、東西2マイルにわたり、その面積は3.25平方マイルで、そのうち2平方マイルは人家密集地域である。よく知られた95の産業施設が目標地域内にあり、市の工業生産物の主なものは飛行機部品、電気備品、機械モーター、各種の金属製品および繊維類などである。この目標地域の空襲に成功すれば、その工業を破壊し、鉄道網を分断し、それによって日本の戦闘力の回復能力を低下させるであろう。 — 合衆国陸軍少将カーチス・E・ルメイ司令官

    近辺の軍部隊・関連機関

    福井市の約10 km南方に位置する今立郡神明町(現在の鯖江市三六町を中心とする一帯)には、1897年(明治30年)以来、帝国陸軍第9師団に所属する歩兵第36連隊衛戍(駐屯)していた[22]

    1940年(昭和15年)9月、それまで鯖江を衛戍地としていた歩兵第36連隊は、軍備改編および満洲移駐の命令を受け、10月10日をもって永久に同地を去ることとなる[22][23]。同駐屯地を引き継いだ歩兵第136連隊独立第63歩兵団所属[24])も、1943年(昭和18年)4月の改編により、5月に鯖江を離れ、岐阜に移駐する[25]。同年6月、新たに迫撃第3連隊が編成され、鯖江を駐屯地とする[26]

    その後、1945年(昭和20年)前半の改編により、迫撃第3連隊は廃止となり、迫撃第3連隊補充隊(中部第80部隊)として改組された[27]。同補充隊は、迫撃第3連隊の要員をもって編成され、本部の人員は隊長以下33名、迫撃中隊は軽迫撃砲6門、二式十二糎迫撃砲2門、輜重車20輌、匹35頭を装備し、中隊長以下将校4名を含む計199名を定員として、迫撃3個中隊(人員597名)をもって編成された[27]。同部隊は、本土決戦に備えて展開していた各師団に属する迫撃部隊要員に対する教育訓練および補充動員の編成を任務とし、迫撃第17、第25、第26大隊の編成を担当した[28]

    1941年(昭和16年)4月以降、福井県全域を管轄区域とする福井連隊区中部軍管区京都師管区に属し[29]、1945年(昭和20年)に司令部が設けられると、それぞれ中部軍管区司令官は第15方面軍司令官を、福井連隊区司令官は福井地区司令官を兼務した。

    空襲の時点で福井市内には、前記の福井連隊区司令部および福井地区司令部が置かれ[30]、市内各所には中部第80部隊の一部が分駐していたほか、社村小山谷[30]笏谷石の採掘坑に整備した地下工場(福井五五工場)[31]舞鶴から海軍工廠造機工場が疎開していた[32]。また近郊には、鯖江に陸軍病院芦原の旅館「べにや」に陸軍病院分院、同じく「開花亭」に海軍病院分院があった[30]

    経緯

    県内の空襲被害

    1945年7月末までに第20航空軍により機雷が投下された沿岸部

    1945年(昭和20年)5月以降、終戦を迎える8月の初旬まで[33]、アメリカ軍のB-29戦略爆撃機は若狭湾および福井県の周辺空域にたびたび進入し、同湾付近に数回にわたり、合わせて数百個以上(敦賀湾だけでも少なくとも329個以上[34])の機雷投下を行った[35]。若狭湾への機雷投下は、日本海側の帝国海軍の要塞地帯であった舞鶴、および朝鮮との三大定期連絡港の一つとして[36]海上輸送の拠点であった敦賀の両港の海上封鎖を狙ったものとされる[33][37]

    沿岸部では機雷の爆発による被害があった。1944年(昭和19年)12月には、丹生郡鮎川(現在の福井市)の海岸で機雷が爆発し、近くの学校で窓ガラスが割れる被害があったほか、戦後の1950年(昭和25年)にも、丹生郡蒲生(現在の福井市越廼地区)の海岸で爆発し、同じく学校に被害があった[38]

    敦賀市では機雷投下のたびに警報が発令されることが日常化していた[38]。1945年(昭和20年)7月12日夜9時すぎに発令されたときも、またいつもの機雷投下だろうと楽観視されたが、同11時12分から約3時間にわたり、B-29爆撃機94機による焼夷弾の雨が降り、敦賀市は市街地の約7割が火に焼かれ、焦土と化した[38]。これが日本海側の都市としては初の敦賀大空襲である[36]。同市は、7月30日午前10時25分ごろにも再び空襲され、P-47艦載機6機による機銃掃射と小型爆弾の投下により、3戸が焼失、15人が死亡、1人が負傷し、船舶にも被害があった[39]。さらに、8月8日午前9時にもB-29爆撃機1機による空襲があり、特に1トン爆弾が命中した東洋紡績工場では、学徒動員で来ていた中学生・女学生16人と引率の教師2人が死亡し、死者数は計33人に上った[39]。3回にわたる空襲による敦賀市の被害は、被災者数19,300人、被災戸数4,119戸、死者数225人、負傷者数201人に上るとされている[39]

    そのほか、8月2日夜9時ごろ、今立郡味真野村宮谷および北日野村西尾(現在の越前市南東部)に飛来したB-29が焼夷弾を投下し、5戸が全焼した[40]

    防空対策

    敦賀空襲の際に東洋紡績工場広場に高射砲陣地が敷かれ[41]、敵機と交戦を繰り広げた[注 6]敦賀市の防空体制に比べて、福井市においては、高射砲陣地や迎撃戦闘機といった対空戦力といえるものはほとんど配備されておらず[43]、市中心部の福井銀行倉庫と是則これのり運送店倉庫の屋上に対空機関銃が配備されていた程度で[41]、防空体制とはいっても、ほとんど無防備に等しい状態であった[44]。アメリカ軍の飛行計画書においても、「福井市地域の航空写真によれば、対空防衛施設の存在は何ら明らかにされていない。」と記されている[45]

    福井市より約20 kmほど北に位置する坂井郡加戸村(現在の坂井市三国町加戸地区)には飛行機の発着可能な飛行場があったが[43]長野県下の飛行隊に属する数機と飛行将校(陸軍中尉)が常駐していたらしいと伝えられるのみで、福井市の空襲に対する防衛には全く役に立たなかったという[44]

    したがって、福井市の防空対策は疎開消火を中心とする消極的な対策にとどまり[43]、頼みの綱は銃後の守りによるところが大きかったとみられる。

    銃後

    福井県下においては1932年(昭和7年)、県の計画に沿って、福井市と敦賀市で県内最初の防空訓練が行われた[46]。その後、1934年(昭和9年)には民間の防空団体である防護団を結成し、併せて防空監視哨の設置も進められた[46]。監視哨は県内の約50か所に設置されたが[注 7]、福井市では市役所屋上の1か所だけであった[46]1939年(昭和14年)には警防団令が発令され、福井市においても、警防団本部、特設分団および13の分団を組織し、市指定防護監視所を市内13か所(木田・毛矢・足羽・久保・花月・乾・片町・駅前・神明・尾上・進放・旭・勝見)に設けた[46][47]。また、家庭防空組織として、町内会ごとに防空係や防空隣保班が組織された[46][48]1944年(昭和19年)3月には、福井県防空本部が設置された[46][49]。同年11月より防空壕の建設が督励されたが、福井市は地下水位が高いために地下壕を作るには適せず[50]、地上壕も市街地は人家が密集していて空閑地が少なく[51]、資材・労力不足もあり建設は思うように進まず[51]、空襲の時点でも2000基余りが作られていたのみで[46]、郊外の地区では皆無のところもあったという[52]

    福井市における最初の空襲警報は1945年(昭和20年)1月3日に発令され、同月だけでも3回あった[46]。3月18日にはアメリカ軍機が市の上空を通過、7月に入ると警報は頻繁に発令されるようになった[46]。県は6月29日付で「決戦防空緊急強化ニ関スル通牒」を発出し[46]灯火管制および待避訓練防火用水の準備の徹底や、初期防火、緊急避難および罹災者収容の方法などを指示した[53]。これを受けて、福井市防空本部においても実施要綱を策定し、7月4日から19日に被災するまで防空訓練が繰り返し実施された[46][54]

    7月10日、鈴木貫太郎内閣は「空襲激化ニ伴フ緊急防衛対策要綱」を閣議決定し、アメリカ軍による都市爆撃の激化を踏まえて、防空態勢を強化するために全国規模で建物疎開をより徹底的かつ迅速に実施する方針を定めた[12]。これにより、防空法を根拠とし、重要施設の周囲および鉄道沿線にある民家を一定の範囲内で強制撤去させる疎開事業の対象都市として、県内では福井市と敦賀市の2市が指定された[10]。県は7月9日付の県報で地区を指定し、直ちに疎開作業が開始された[10]

    鯖江の救援部隊(中部第80部隊)は関係当局の要請に応じて、将校以下約100名、輓馬約50頭、輜重車約50輌を直ちに福井市に派遣し、同市内の学校および寺院を仮宿または馬撃場として部隊を分駐させ、市の疎開活動を援助した[55]。前夜に敦賀空襲を受け、事態が急迫してきた7月13日から県は、さらに輸送挺身隊510人、学生620人、営業馬車50台、貨物自動車15台を動員して疎開に協力させた[56]。全体として労働力と輸送力は極めて乏しかったものの、市街地から郊外地域へと向かうルートは重要物資の疎開で渋滞した[10]

    立ち退き期限の7月16日には疎開指定地区の約8割が立ち退きを完了し、19日からは建物の取り壊し作業が開始される予定であったが、取り壊しを開始した同日夜に福井市は空襲を受けることになる[57]

    空襲の概況

    アメリカ軍側

    作戦当夜の米軍機の航路図(実線が福井空襲機)

    7月19日、第20航空軍司令部野戦命令第2号により、第21爆撃軍団第58第73第313第314第315爆撃航空団に対して、本州の4都市(福井、日立銚子および岡崎)の市街地域ならびに尼崎日本石油関西精製所を攻撃するよう、指令が下された[58]。これらの都市は、空襲目標として選定された180の小工業都市の中に含まれていた[21]

    マリアナ時刻(GMT+10)19日17時から18時43分の間[59]に次々とテニアン島の基地[45]を飛び立った第58航空団(作戦任務番号277[60])の4個航空群[58]は、飛行計画通り、編隊を組まずに[36]硫黄島上空を通過し[45]紀伊半島木本の東方地点を陸地初視点とし[45]琵琶湖北端の葛籠尾半島を良好なレーダー初視点として飛行し[45]、南方より目標の福井市へ来襲した[61]

    空襲目標地域となった福井市

    福井市の上空では、主力部隊に先行する11機の先導機が、福井城址よりやや北西の辺りを爆撃の中心点としてマークし[62](右画像参照)、まず市北部上空に照明弾を投下[46]。その灯火を目印として、続く主力のB-29爆撃機116機が[63]、12,400フィート (3,800 m)から14,000フィート (4,300 m)の低高度より[63]、総計953.4トンの爆弾を[63]、114回は有視界[64]、13回はレーダーで[64]、日本時刻(GMT+9)19日午後11時24分から翌0時45分までの81分間にわたり投弾した[63]

    第20航空軍司令部統計課が作成した日本本土空襲関係資料によれば、福井市に投下された爆弾は、3個航空群に[65]500ポンド (230 kg)M69集束焼夷弾3,785発(計757トン)、残る1個航空群に[65]100ポンド (45 kg)M47膠化ガソリン焼夷弾英語版5,651発(計195トン)、そして30型焼夷弾30発(計2トン)と、高性能爆弾(500ポンドM64準徹甲爆弾)5発であった[66]。照明弾は計5発、使用された[67]

    集束焼夷弾は、M69(子弾)を48発の束にしてE46(親弾)の容器に入れたもので、これを空中で分解して、ガソリンが充填されたM69の六角弾筒を散布した[68]。この焼夷弾の数は、上空で弾けた焼夷筒単位でみると、当時の福井市の人口1人あたり2発、1戸あたり7、8発の計算になる[69]

    また、焼夷弾以外に高性能爆弾5発を投下した目的について、福井空襲史刊行会 (1978)は、同司令部作成の資料中の「焼夷弾と共に少数の高性能爆弾を使用することは、消防隊と市民防衛隊の不安を更に大きくし、焼夷弾に対する努力を分散させるのにいくらか利益がある。」との記述を引用して、日本側の官民の防災対策を攪乱するためであったのだろうと推察している[66]

    市勢の概要節で引用したルメイ報告書の内容からすると、空襲目的は確かに工業兵站の破壊に設定されていたものの、実際の空襲においては、爆撃の中心は工場ではなく市街地(住宅地)そのものであった[65]。それは、平均弾着点が福井城郭の北西付近とされ、そこを中心とする半径4,000フィート (1,200 m)[36][70]の範囲内(画像参照)に当時の福井市街の大部分が収まること、および後述するB-29の搭載爆弾が工業・住居混在地域の破壊に適した性能と数量を有していたことからいえる[71]。全国でも最悪の水準の破壊率99.5%を記録した[72]富山大空襲においても、郊外の軍需工場のほとんどが損害を受けることはなく、アメリカ軍は当初から非戦闘員の住民を標的にして空爆を行っていた事実が、機密解除されたアメリカ軍資料の調査研究から判明している[73]

    福井空襲史刊行会 (1978)によれば、爆撃機は編隊を組まず、爆撃は個々の飛行機によって行われたとされる[45]。一方、日本の空襲編集委員会 (1980)によると、爆撃機は28機と99機の2団に分かれて波状的に来襲したとされる[69]。また、稲木 (1975)では、B-29部隊が福井へ飛来した方向は概ね南の方角であったろうとしながらも、福井市上空に近づいてからは、いくつかの小編隊に分かれて周辺で旋回したりして、多方面から市街地に接近し、爆撃したであろうことが、地上から様子を見ていた市民の目撃談とともに綴られている[74]

    なお、B-29爆撃機は往路の途上、敦賀、立石岬武生にて日本側の貧弱・不正確な対空砲火に遭遇したとされる一方、作戦参加機の半数以上が対空砲火は皆無だったと報告している[64]

    日本側

    7月19日午後10時55分頃[注 8]空襲警報が発令され、福井監視哨のサイレンが鳴り響くと同時に神明神社付近に火の手が上がる[77]。それを目標にして焼夷弾の雨が容赦なく降り注ぎ、市街地は火の海と化した[76]

    日本の空襲編集委員会 (1980)によると、最初の爆弾は市の東方に隣接する村に投下、福井市上空には東方から侵入し、市内への第一弾は、監視哨にいた市防空係長の話では、北部の神明神社または西別院方面とされる[61]。そして、市の東方と西方へ連続的に投下され、市街地の周辺部を火の輪で囲った後、中心部に投下されるという徹底的な絨毯爆撃が行われたという[69]

    城下町である福井市の中心部には、周りを石垣で囲われた福井城本丸跡に県庁舎があり、その南を足羽川が流れている[69][78]。焼夷弾による火に囲まれて逃げ場を失った市民は、熱を避けようとして堀や足羽川に飛び込み、そこで折り重なるように死んでいった[79]。安全なはずの足羽川原も堤防の草に火が着き、川水には火のついた油脂が流れ、空から降ってくる焼夷弾の直撃を受けて亡くなる者もいた[76][80]

    事前の防空訓練では、老人や子供は近くの防空壕や広場に避難することになっていたが、防空壕に逃げ込んで焼死・窒息死した者も無数にいた[76][80]。境内が広く、避難者が集まっていた神明神社や西別院などでも多くの死者を出した[81]。市民の多くは、バケツリレーなどによる消火訓練も繰り返し受けていたが、想定をはるかに超える事態を目の当たりにして、もはや消火活動は焼け石に水であり、とにかく着の身着のまま火の気のないところへ逃げるほかなかったという[76]

    県庁舎も猛火に包まれ、情報活動の拠点であった防空監視隊本部も「福井市全滅」との一報を発したのを最後に通信が途絶した[82]

    市内の火災は、翌日の明け方には勢いが衰え[82]、燃えるものがほとんど燃え尽きた昼ごろに鎮火したとされるが[76]、中には数日間燃え続けたところもあったという[82]

    以上がいわゆる福井大空襲であるが、より小規模な空襲が他に同市内で発生していた可能性を示唆する目撃証言もいくつかある[83]。大空襲当日の午前にも投弾のない空襲があった[注 9]と話す県庁勤めの女性[83]や、同じ日に新田塚付近で空襲警報とP-51戦闘機の爆音を聞いたという、学徒動員で農協に勤めていた男子[83]、さらに、8月10日の夜10時すぎにB-29爆撃機1機が36発の焼夷弾を落としたとする詳細不明のアメリカ軍資料[85]などである。

    被害の概要

    第一復員省資料課が作成した福井市の戦災概況図(赤い網掛け部が焼失区域)

    福井市の被害統計は今もなお確定していないが、福井市復興本部援護課の「昭和二十年度福井市事務報告」によると、死亡者1,576人(女915人、男661人)、重傷後死亡者108人、重傷者1,210人、軽傷者5,209人、罹災世帯21,992戸(罹災前25,691戸)、罹災人口85,603人(罹災前103,049人)、半焼37戸とされる[86]

    周辺農村部も含めた焼失面積は約180万 (594 ha)[19]、罹災人口率[注 10][65]は東京・八王子市八王子大空襲)に次ぐ93.2%(全国2位)、家屋焼失率は96%とされる[43]。アメリカ軍の資料によると、計画目標地域に対する破壊率は95.0%、密集地域に対する破壊率(面積焼夷率)は富山市富山大空襲)の99.5%と沼津市沼津大空襲)の89.5%に次ぐ84.8%(全国3位)とされる[43][88]

    以上のように、1都市に対する1回の空襲による被害としては、全国有数の規模であった[43]。これほどまでに被害が拡大したのは、アメリカ軍のB-29部隊の中でも最も練度の高い航空団の爆撃を受けたことや[76][89]、空襲当夜の天候が快晴で[77]視界良好と、攻撃側に有利な条件が重なったことが理由として挙げられる。

    市街地のうち焼失を免れたのは次の地区のみである[90]

    • 橋南はしなみ地区 - 花堂町、月見町、葵町、昭和町、木田・山奥・春日・氷川・寿・不動・川上・千年各町の一部
    • 東部地区 - 町屋・長本・志比口・四ツ井本町各町の一部
    • 西部地区 - 明里町・東明里町の一部
    • 北部地区 - 幾久町

    木造建築物は言うに及ばず、鉄筋コンクリート造の建物も、市公会堂(市役所3階)が数発の焼夷弾を受けて全焼するなどし[91]、市内のほとんどの建築物・施設が焼失した[92]

    福井郵便局電話室では、電話交換業務に従事していた女性職員20名と、彼女らを救出しに行った警防団員3名が殉職した[82]。それ以外にも、官庁、会社、工場などの職場で多数の殉職者を出した[82]。町内住民の避難誘導にあたった町内会長1名の死亡もあった[81]

    市内の学校は、応急集団罹災所となっていた春山みのり東安居円山啓蒙道明の各国民学校および、福井商業学校福井中学校福井農林学校が焼け残ったのみで、市街地の学校は春山国民学校を除いて壊滅した[86]。そのため、罹災した市民は周辺の村への二次避難を余儀なくされた[86]。同年12月末日の時点で、福井市全体では14,650世帯、50,335人が疎開生活を送っていた[86]

    空襲後の7月30日に警視庁カメラマン石川光陽が撮影した「国破れて山河あり」の如き惨状を呈す福井市南部のパノラマ光景写真.中央には足羽川に架かる幸橋、奥には足羽三山(足羽山兎越山八幡山)を望む.

    救援

    軍の各部隊の活動の概要は次の通りである[93]

    1. 特設警備隊は炎上中の倉庫の救援に向かい、多数の負傷者を収容し、翌日中に道路の啓開を完了させた。
    2. 芦原と鯖江の陸海軍病院は他の部隊に先んじて駆けつけ、傷病者の診療にあたった。
    3. 中部第80部隊の不発弾処理部隊は、警防団と連絡を取りながら不発弾を迅速に処理し、危険の未然防止に努めた。
    4. 中部第80部隊は握り飯3万個をつくり、罹災者に送った。
    5. 中部第80部隊、憲兵隊、地区司令部は、災害地の警備に尽力した。
    6. 5.に加えて、給水班を組織し、罹災者に飲料水を供給した。

    中部第80部隊

    大名町交差点(7月30日撮影)

    鯖江から福井に分駐し、疎開活動に従事していた救援部隊は、予定では7月19日に活動を終え、翌朝に福井を出発し、鯖江連隊に復帰することになっていた[55]。しかし、その夜に不幸にも福井で空襲に遭うことになる[55]。将兵らは空襲警報が鳴ったのを聞くなり、軍馬撃留場に繋留してあった愛馬に乗り、焼夷弾が降り注ぐ中を街はずれに退避し、鯖江連隊に復帰するべく、集団に分かれて暗闇の国道を南へ行進した[55]

    鯖江の連隊補充隊は、福井の空襲を察知するや、直ちに非常呼集を行い、緊急態勢を整えた[55]。補充隊長は、各中隊に福井市救援のための出動命令を下達し、現地副官とする少尉を同伴して、福井市へと向かった[55]。途中、福井市街から退避してきた前述の救援部隊と合流し、同部隊は中隊長の指揮下に入り、補充隊の主力部隊に収容された[94]

    先発隊が福井市に到着した頃には、B-29爆撃部隊は同市上空を去った後であり、同市中心部は猛烈な火勢で炎上中であった[95]。先発隊は炎の中を必死で進み、大名町十字路付近に至って、連隊区司令部、県庁、市役所などと連絡協定を保とうとしたが、市内は灼熱地獄さながらの光景で、その所在の確認すらできず、これら関係機関との連絡は完全に途絶えてしまった[95]

    とりあえず、花堂町、月見町、木田方面の延焼を防ぐため、橋南はしなみ地区に2個中隊を投入して、建物の破壊消火活動に当たり、残存家屋の類焼を食い止めた[95]。もう1個中隊は、市東部に迂回して、志比口、和田方面において、倉庫や格納庫に保管されていた食糧や軍需品などの搬出を援助しつつ、施設の防火活動にも当たった[95]

    一方、鯖江に残留した連隊の監守要員は、同連隊の炊飯施設をフル稼働させて、軍用米で握り飯を約3万個(1人1食分程度)作り、20日午前10時に福井市の被災者らに届けた[95]

    さらに、市内各所にはB-29により投下されたものの不発に終わった相当な量の不発弾が点在・埋没しており、それらによる危害の未然防止は緊急を要したため、同部隊は20日午後より、技術将校を長とする不発弾処理班2班を編成して福井市に急派し、その処理に当たった[95]

    警防団

    各地域の警防団、軍の特設警備隊および警察は、決死の覚悟で消火・救護・避難誘導などの活動にあたり、中でも福井市警防団は前記の通り、福井郵便局電話室で女子職員の救助中に3名の団員が殉職したほか、市内各地で避難者の誘導中に5名の団員が殉職した[30]

    近隣の足羽郡東郷村吉田郡松岡町下志比村今立郡鯖江町中河村丹生郡立待村西安居村三方村など[96]、遠くは坂井郡三国町石川県大聖寺町などの各町村からも警防団が応援に駆けつけ、遺体の収容や消火活動などに協力した[30]

    救護隊

    負傷者の救護には、鯖江陸軍病院、同分院、海軍病院分院の各救護班をはじめとする救護隊が駆けつけ、20日夕方までに一通りの応急手当てが完了した[97]。地区司令部も臨時救護所を市衛生課内に開設した[98]。重傷者は、福井赤十字病院、小林医院、福井中央病院(平岡脳病院)、道明国民学校内の臨時救護所、福井中学校内の仮設病院、森田町第一国民学校内の仮設病院に収容された[98]

    近隣町村の住民

    県や市当局の要請に応じた炊き出し以外にも、握り飯、じゃがいもなど、他市町村民からの隣人愛による自発的な食糧援助も多く寄せられ、罹災市民を激励した[96]。さらに、配給が順調に行われるまでに治安が回復し、自立復興の兆しが見え始めた22日には、握り飯に代えて米や梅干などの副食物の配給も行われた[99]

    布団毛布蚊帳などの寝具衣服炊事用具、ちり紙などの日用品も、県から市に割り当てられ、配給された[100]。また、県内外の各市町村、各種団体、個人からも、支援物資および見舞金が数多く寄せられた[101]

    応急復旧

    市役所

    20日未明、福井市役所は市長室に福井市災害対策本部を設置し、緊急の課長会議を開いて応急対策を決定し、直ちに罹災者に対する罹災証明書の発行事務が開始された[102]。さらに、罹災者に対する食糧の供給、傷病者の救護、遺体の処理、罹災者の収容、援助物資の配給などに着手した[102]

    初めに着手した応急対策は清掃事業で、市は坪あたり5円を交付して清掃を奨励しつつ、瓦礫の処理は国庫の補助を受けながら県と市で分担して実施した[103]

    同年8月20日から市は、戦時災害保護法に基づく各種給与金の申請を受け付け、12月から支給を開始した[104]

    水道

    市水道局は、局員総出で水道施設の修理を行い、7月27日に一部通水を開始した[105]。漏水箇所の応急修理は11月中旬に完了した[105]

    電気

    北陸配電福井支店は、空襲直後より昼夜兼行で復旧作業を進め[105]、夜が明けた20日午前には、春江変電所、牧島変電所、橋南変電所など近隣の変電所から福井市の中心部へ送電し[105]、官公庁、放送局、郵便局の業務が一部始まった[81]

    住宅

    住宅の復旧に関しては、疎開先から帰って自力で建て直す人も増えてきて、福井警察署の調査によると、同年10月中旬ごろには完成した本建築が1,190戸、建築中が821戸、バラック住居が1,804戸という状況だった[106]

    学校

    学校の授業は、焼け残った学校の校舎に焼失した学校の児童・生徒を収容したり、民家や寺社などを仮の教場としたりして、8月5日から一斉に再開された[107]。授業の方法は、午前と午後の交替制や二部授業など、学校ごとに委ねられていた[108]。もと通っていた児童の約半数は疎開先の学校に転校したため、それに伴って教員の一部は9月1日付で市外の学校へ転任となった[108]

    鉄道

    福井駅前通り(7月30日撮影)

    20日午前10時には、国鉄北陸本線福井駅福井操車場間が下り線のみ開通し、関西方面へは汽車で行けるようになった[81]。21日には定期券の旅客を、23日からは軍や公務関係の旅客を、25日には一般の旅客を取り扱い開始した[109]。なお、同月末までは罹災証明書を提示すれば罹災者の運賃は無料とされた[110]

    京福電鉄の電車は、駅が焼失した市内の区間を除き、越前本線(大野線)が20日から開発駅大野三番駅の間で、三国芦原線(三芦線)も同日より新田塚駅三国駅の間で、営業を再開した[105]

    バス

    県バス(福井県乗合自動車)は、25日から運行を再開した[81]

    復興と戦後

    足羽川畔に立つ戦災慰霊碑

    1945年(昭和20年)10月20日、福井市復興本部が発足し、同月に就任したばかりの熊谷太三郎市長の確固たる文化的思想と卓越した政治手腕のもと[111]、復興都市計画が推し進められた[92]

    住宅建設の迅速な実行を主張した宮田笑内県知事に対し、熊谷は都市計画の策定、特に道路計画の決定を急いだ[112]。復興計画の基本方針に盛り込まれた、産業の発展と防火都市を実現するため、街路の幅員の大幅な拡大により、交通のスピード化が図られた[113]。そのほか、市街地全域に総延長約172 km[114]下水道を敷設して、環境衛生を改善すると同時に、排水の悪い市街地における足羽川流域の水害防止にも利用した[113]

    1946年(昭和21年)1月に斎藤武雄知事が赴任して以後、福井市は福井県と共同で戦災復興事業を推進することとなり[115]、同市にとって空前の大規模な復興都市計画事業および土地区画整理事業は、県が施行を担うことで合意された[116]

    同年10月9日に福井市は特別都市計画法に基づく戦災都市の指定を受け、翌1947年(昭和22年)4月7日には土地区画整理設計が認可された[115]

    戦災から2年が経った1947年(昭和22年)7月には、福井市戦災復興記念祭が開催された[68]

    1948年(昭和23年)2月の時点で、福井市は区画整理の換地指定を完了していた[115]。これは、全国でも2番目に早い復興であった[115]。しかし、実際に移転が行われたのは50戸程度にとどまっていた[117]

    その矢先、同年6月28日福井大震災が福井市を襲い、同市街地は再び廃墟と化した[118]。ところが、この震災により、都市計画遂行の妨げとなっていた要移転家屋の多くが倒壊したため、むしろ都市復興の歩みは促進される形となり、戦災復興都市計画は震災復興都市計画に名を改め、継続して遂行された[119][120]

    この土地区画整理事業の総事業費は約7億600万円、施行区域面積は約557 ha、総移転戸数は約6000戸、整備された公園緑地は42か所(総面積にして約13 ha)、平均減歩率は約17%で、1966年(昭和41年)に換地処分された[114]

    当空襲と続く地震による福井市の戦災・震災犠牲者の追悼式は、毎年6月28日に福井市小山谷町にある足羽山西墓地の戦災・震災犠牲者慰霊碑塔前で執り行われる[121]

    脚注

    注釈

    1. ^ 本文中に記載。
    2. ^ 重傷後死亡者108人を含む[2]
    3. ^ 福井市援護課「昭和20年援護課事務報告」に基づく[2]
    4. ^ 西藤島村麻生津村河合村を含む。統計データは「昭和20年11月福井県衛生行政概況」に基づく[2]
    5. ^ 報告書では、ほとんど問題にならない程度の損傷が、このように表現される[16]
    6. ^ もっとも、日本の防空態勢は、大都市でさえも、夜間戦闘機は少なく、高射砲も不完全であったこと[42]を考慮すると、その形勢は、「交戦」とは名ばかりの、ほとんど一方的な空襲であった。
    7. ^ 鯖江歩兵第三十六連隊史編纂委員会 (1976, p. 292)に当時の福井県の防空監視網概要図が掲載されている。
    8. ^ 発令時刻に関しては、午後10時45分とする北陸配電資料から、午後10時50分とする福井駅長の報告に基づく国鉄資料、午後11時11分とする県の資料まであり、正確な時刻は不詳[75]。また、米軍側資料に記載された空襲開始時刻である午後11時24分とも時間的に開きがあり[76]、情報の信頼性の程は定かではない。
    9. ^ 一般的な見方をすれば、空襲当日に一弾も投じることなく飛び去ったとされる単機は、作戦の直前に目標付近の雲や風の状態を観測通報するために飛来した気象観測機であった可能性も考えられる[84]
    10. ^ 罹災都市の総人口に対する罹災人口の比率[87]

    出典

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    参考文献

    アメリカ軍資料

    日本側資料

    関連項目

    • 日本本土空襲
      • 敦賀空襲 - 当空襲の7日前にあった同県敦賀市に対する空襲
      • 日立空襲 - 当空襲と同日に決行された茨城県日立市に対する空襲
      • 銚子空襲 - 当空襲と同日に決行された千葉県銚子市に対する空襲
      • 岡崎空襲 - 当空襲と同日に決行された愛知県岡崎市に対する空襲

    外部リンク