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{{イラクの歴史}}
{{イラクの歴史}}
'''バビロニア'''({{lang-grc-short|Βαβυλωνία}}、{{lang-en-short|Babylonia}})、または'''バビュロニア'''は、現代の[[イラク]]南部、[[ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]下流の[[沖積平野]]一帯を指す歴史地理的領域。南北は概ね現在の[[バグダード]]周辺から[[ペルシア湾]]まで、東西は[[ザグロス山脈]]から[[シリア砂漠]]や[[アラビア砂漠]]までの範囲に相当する<ref name="オリエント事典バビロニア">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.440-442. 「バビロニア」の項目より。</ref>。その中心都市[[バビロン]]は[[旧約聖書]]に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部の[[シュメール]]地方と北部の[[アッカド]]地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。
'''バビロニア'''([[アッカド語]]: {{cuneiform|[[:wikt:𒆍𒀭𒊏𒆠|𒆍𒀭𒊏𒆠]]}}、[[古代ペルシア語]]: {{cuneiform|[[:wikt:𐎲𐎠𐎲𐎡𐎽𐎢𐏁|𐎲𐎠𐎲𐎡𐎽𐎢𐏁]]}}、{{lang-grc-short|Βαβυλωνία}}、{{lang-en-short|Babylonia}})は、[[メソポタミア]](現在の[[イラク]])南部を占める[[地域]]、またはそこに興った[[王国]]([[帝国]])。首都は'''[[バビロン]]'''<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/バビロニア-116019 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-03 }}</ref>。


バビロニアは世界で最も古くから[[農耕]]が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には[[文字]]が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築した[[シュメール人]]や[[アッカド人]]たちはバビロニア南部で[[ウル]]や[[ウルク]]、[[ニップル]]、[[ラガシュ]]などに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半には[[アッカド帝国]]がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更に[[ウル第3王朝]]がそれに続いた。
== 呼称 ==

バビュロニアとも。[[ヘブライ語聖書]]では「[[:en:Shinar|Shinar]]」という名前で8回言及されている。Shinarの語源は「[[シュメール]]」と考えられている。
前2000年期に入ると、[[アムル人]](アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つで[[バビロン]]に勃興した[[バビロン第1王朝]]は、[[ハンムラビ]]王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半には[[カッシート人]]が作った王朝([[バビロン第3王朝]])が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東の[[エラム]]との戦いによって滅亡した。

前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王[[ティグラト・ピレセル3世]](在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年に[[カルデア人]][[ナボポラッサル]]がアッシリア人を駆逐し、[[新バビロニア王国]](カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年に[[アケメネス朝]]の王[[キュロス2世]](在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼした[[アレクサンドロス3世]](大王、在位:前356年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入場し、また征服の後はバビロンで死去した。

アレクサンドロス大王の死後、後継者([[ディアドコイ]])の一人[[セレウコス1世]]がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点として[[セレウキア|ティグリス河畔のセレウキア]]を建設すると、バビロンの重要性は次第に失われて行き、続く[[パルティア|パルティア王国]](アルサケス朝)時代にはセレウキアとその対岸の都市[[クテシフォン]](テースィフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承された[[シュメール語]]や[[アッカド語|バビロニア語]]の文学的伝統も途絶えた。

[[法律]]、[[文学]]、[[宗教]]、[[芸術]]、[[数学]]、[[天文学]]などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、[[アラム人]]など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語は[[シュメール語]]及び[[アッカド語]](バビロニア語)から[[アラム語]]へと移り変わり、[[アレクサンドロス3世]](大王)による征服の後には[[ギリシア語]]も普及した。

なお、歴史上のどの時点からをバビロニアと呼び、またそれはいつまでであるのかについて明確な定義があるわけではない。本項では便宜上、[[バビロン]]市が史料に初めて登場するアッカド帝国時代前後から、バビロン市が完全に放棄され[[楔形文字]]による文字記録が途絶える西暦75年頃までを中心として述べる。

== 名称 ==
バビロニア(バビュロニア)と言う名称は、その主邑[[バビロン]](バビュローン、{{lang-grc-short|Βαβυλών}}、 ''Babylṓn'')に由来する[[古代ギリシア語|ギリシア語]]の名前、'''バビュローニアー'''({{lang-grc-short|Βαβυλωνία}}、''Babulōnía'') から来ている<ref name="西洋古典学事典2010バビロニア">[[#西洋古典学事典 2010|西洋古典学事典 2010]], pp. 925-926, 「バビュローニアー」の項目より</ref><ref name="中田2014p12">[[#中田 2014|中田 2014]], p. 12</ref>。従ってこれは外部からの呼称であり、現地においてギリシア語のバビュローニアーに完全に対応する地理概念が当初より存在したわけではない。なお、[[ギリシア人]]や[[ローマ人]]はしばしば[[アッシリア]](アッシュリア)とバビロニアを混同している<ref name="西洋古典学事典2010バビロニア"/>。

バビロニアに相当する地域は、現地では南部の[[シュメール]]と北部の[[アッカド]]と言う二つの地域として認識されていた<ref name="中田2014p12"/><ref name="松本2000p97_98">[[#松本 2000|松本 2000]], pp. 97-98</ref>。この二つの地名に由来する称号が「'''シュメールとアッカドの王'''([[シュメール語]]:''lugal ki.en.gi ki.uri''、[[アッカド語]]/[[バビロニア語]]:''Šar māt šumeri u akkadi'')」であり、[[ウル第3王朝]]の王[[ウル・ナンム]](在位:前2112年-前2095年)の時代に初めて登場して以来、バビロニア、メソポタミアの広い範囲を統治する王たちによって好んで用いられた<ref name="渡辺2003p146">[[#渡辺 2003|渡辺 2003]], p. 146</ref>。シュメールとアッカドと言う二つの土地('''シュメールとアッカドの地''')からなると伝統的に認識されていた地域は、カッシート朝(バビロン第3王朝、前15世紀頃-前1155年)の時代には'''{{仮リンク|カルドゥニアシュ|en|KarduniaŠ}}'''(''Karduniaš'')と言う名称の下で政治的統一体として認識されるようになった<ref name="前田ら2000pp81_82">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 81-82</ref>。[[アケメネス朝]]の王[[ダレイオス1世]](在位:前522年-前486年)が残した[[ベヒストゥン碑文]]には、彼が支配する国々の一つとして'''バービル'''(バービルシュ、''Bābiruš'')と言う名でバビロニアが言及されている<ref name="伊藤1974p22">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], p. 22</ref>。


== 地理 ==
== 地理 ==
[[File:Babylon city Iraq.jpg|thumb|left|復元されたバビロンの都]]
南半分の[[シュメール]]と北半分の[[アッカド]]を含み、北西側に[[アッシリア]]と隣接する。
バビロニアの地理的範囲は、現在の[[イラク]]、[[ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]に挟まれたいわゆる[[メソポタミア]]の下流域である。南北は概ね現在の[[バグダード]]から[[ペルシア湾]]までの範囲であり、東西は[[ザグロス山脈]]から[[シリア砂漠]]や[[アラビア砂漠]]までの範囲に相当する<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。バビロニアの最南部は湿地帯であり、人々は陸上のみならず海上で小舟の上で生活を送っていた<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。メソポタミアのバグダードよりも上流域の地方は[[アッシリア]]と呼ばれた<ref name="松本2000p97_98"/>。そしてバビロニアの東側、現在の[[イラン]]南西部には[[エラム]]と呼ばれる地域があり<ref name="オリエント事典エラム">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.101-102. 「エラム」の項目より。</ref>、いずれも有力な勢力としてバビロニアの政治・文化・歴史に大きな影響を及ぼした。バビロニアの西側には[[砂漠]]地帯が広がっている。これは砂砂漠ではなく、小礫を含んだ岩砂漠地帯であり、ユーフラテス川に合流する多数のワジ(涸れ河)と[[オアシス]]があり、[[遊牧民]]の活動地帯であった<ref name="松本2000p97_98"/>。バビロニアはティグリス川とユーフラテス川の沖積平野であり、起伏に乏しい広大な平原が広がっている<ref name="オリエント事典バビロニア"/><ref name="杉山1981pp108_110">[[#杉山 1981|杉山 1981]], pp. 108-110</ref>。バビロニアの北端部分にあたる[[バグダード]]周辺から南端部の[[バスラ]]までの高低差は極僅かであり、山の迫る北部メソポタミアの[[アッシリア]]地方とは異なる景観を有している<ref name="杉山1981pp108_110"/>。

[[File:Iraqi mudhif interior.jpg|thumb|right|現代の最南部の湿地帯で葦で造られた集会場の内部。シュメールの時代から大きくは変わらない様式で建造されている。]]
バビロニアを含むメソポタミア地域の地理・気候の条件が当時どのような物であったのかと言う予測は、ほとんど現在の状況からの投影に基づいている<ref name="Christensen2016p49">[[#Christensen 2016|Christensen 2016]], p. 49</ref>。ただし現在見られるイラク南部の景観は少なくとも部分的には数千年に渡る人類の活動の結果である<ref name="Christensen2016p49"/>。

この地域の気候は直近の1000年と大きく変化してはいないと予想され<ref name="Christensen2016p49"/>、年間雨量100ミリ以下という乾燥地帯であることに特徴づけられる<ref name="松本2000p97_98"/>。これは[[乾燥農業|乾地農業]]の理論的限界を下回っており、人々は収穫を得るために[[灌漑農業]]を発達させた<ref name="Christensen2016p49"/><ref name="オリエント事典バビロニア"/><ref name="杉山1981pp108_110"/>。灌漑のための水源はこの地域を縦断するユーフラテス川とティグリス川であったが、[[エジプト]]の[[ナイル川]]と異なりこの両河川を効果的に利用するには多くの困難があった。原因の一つは両河川の増水と減水のサイクルが、農作業のサイクルと一致しなかったことである<ref name="Christensen2016p49"/>。この地域では通常10月から11月に播種し、4月から6月にかけて収穫が行われる<ref name="Christensen2016p49"/>。しかし、ティグリス・ユーフラテス両河は毎年春、3月から4月頃にかけて雪解け水によって増水・氾濫し<ref name="杉山1981pp108_110"/>、水量が最大になるのはティグリス川が4月、ユーフラテス川が5月である<ref name="Christensen2016p49"/>。だが、この時期は既に灌漑を必要とせず、むしろ洪水の脅威をもたらした<ref name="Christensen2016p49"/>。逆に両河川の流量が最小となるのは8月から9月にかけてであり、灌漑用水がこれから必要になる時期である<ref name="Christensen2016p49"/>。このためにバビロニアでの灌漑農業には水量が減少する時期に灌漑用水をくみ上げて農地に導入するための運河の建設とメンテナンスが欠かせないものであった<ref name="Christensen2016p50">[[#Christensen 2016|Christensen 2016]], p. 50</ref>。また春に多発した洪水の惨禍から畑を保護するために堤防や貯水池も準備しなければならなかった<ref name="Christensen2016p50"/>。

この地域の農業に困難をもたらしたもう一つの要因は極めて傾斜の緩いその地勢である。南に進むにつれて川の流れは遅くなり、逆に土砂の堆積量は増大した<ref name="Christensen2016p50"/>。増水する春には、流されてきた荒い土砂によって自然堤防が形成される一方、細かい粒子は広い範囲に蓄積されて不浸透性のなめらかな表面を形成し、滞留した水がそれを覆った<ref name="Christensen2016p50"/>。このような状況は洪水の際の流路変更の原因となり、大洪水の際には川の流路が完全に変化してしまうこともあった<ref name="Christensen2016p50"/>。ティグリス川は[[サーサーン朝]]時代の5世紀の終わりに大きな流路変更を経験している<ref name="Christensen2016p50"/>。このような地勢のため、灌漑設備や農地からの排水は悪く、また土砂の堆積に対応するために継続的な清掃が必要であった<ref name="Christensen2016p50"/>。そして、灌漑用水のうちのかなりの割合が排水ではなく蒸発によって漏出したが、それに伴い地下水位が上昇し、[[毛細管現象]]によって地下から表面に出た水に含まれる塩分が深刻な塩害を引き起こしたため、これも定期的な休耕や農地の洗浄を要求した<ref name="Christensen2016p50"/>。

灌漑用水源としてはユーフラテス川が特に重要であった。これはユーフラテス川に合流する大きな支流が[[ハブール川]]だけであり、ティグリス川よりも相対的に安定していたためである<ref name="Christensen2016p49"/>。ティグリス川は[[ザグロス山脈]]から流れ込む[[大ザブ川]]、[[小ザブ川]]、[[ディヤラ川]]などと合流するため、その傾斜の落差と広大な流域面積によって不意の洪水が発生しやすく治水が困難であった<ref name="Christensen2016p49"/>。このため人口と農地はユーフラテス川沿いで密であり、ティグリス川沿いでは希薄であった<ref name="Christensen2016p52">[[#Christensen 2016|Christensen 2016]], p. 52</ref>。

バビロニアは[[鉱物]]資源に乏しく、樹木の植生も[[ナツメヤシ]]や[[タマリスク]]を中心として木材に適する物に乏しかったため、建造物は一般に[[日干し煉瓦]]や[[焼成煉瓦]]のような容易に手に入る[[泥]]を原材料とする建材で建造され、石は土台にしか用いられなかった<ref name="オリエント事典バビロニア"/>。南端部の湿地帯ではシュメール時代から大型の建造物が[[葦]]を用いて建設された。これは20世紀まで[[ハワール]](マーシュランド)と呼ばれるイラク南部地方で建設されていた葦で造られる集会場とよく似た様式であった<ref name="小口2000pp144_145">[[#小口 2000|小口(和) 2000]], pp. 144-145</ref>。メソポタミアの粘土質の土は、[[土器]]を作ることには適しており、前7000年期には土器が普及し始めていた<ref name="小口2000pp144_145"/>。土器のみならず、[[鎌]]のような生活用具や、模型などもみな土から作られた<ref name="小口2000pp144_145"/>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 編年 ===
バビロンについての最も早い言及は、[[紀元前23世紀]]頃の[[アッカド帝国]]([[:en:Akkadian Empire|en]])期の[[サルゴン]]の統治のタブレットに見ることができる。
バビロニアを含む古代オリエント世界の[[編年]]は完全には確立されていない。前1千年紀、特にアッシリア時代については[[アッシュール・ダン3世]]の治世中に発生した[[日食]]が紀元前763年6月15日のものであることが同定できており<ref name="前田ら2000p125">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 125</ref>、豊富な史料と組み合わせて現在の暦と接続された[[絶対年代]]が割り出されている。しかし、前2千年紀については、高年代説、中年代説、低年代説と呼ばれる3つの主要な説が存在し、未だ[[絶対年代]]は確定されていない<ref name=""中田b1988pp30_31">[[#中田b 1988|中田b 1988]], pp. 30-31</ref>。それぞれの学説において、現代の暦におけるハンムラビ王の在位は前1848年-1806年(高年代説)、前1792年-前1750年(中年代説)、前1728年-前1686年(低年代説)となる<ref name=""中田b1988pp30_31"/>。本節では最も頻繁に使用される中年代説に基づいて記述を行うが<ref name=""中田b1988pp30_31"/>、なお確定的な年代ではないことに注意されたい。バビロニアの編年についての詳細は'''[[古代オリエントの編年]]'''を参照。
[[シュメール文明]]と[[アッカド]]を征服して、[[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]の間を中心に栄え、後にアッシリアの支配を受けた。のちアッシリアが衰えると[[新バビロニア|新バビロニア王国]](帝国、「カルデア帝国」ともいう)が興り、[[ネブカドネザル2世]]の時その勢力は各地に及んだが、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア帝国]]に征服されてその属州となった。

=== シュメールとアッカド ===
{{Main|メソポタミア文明|シュメール初期王朝時代|アッカド帝国|ウル第3王朝}}
[[ファイル:Orientmitja2300aC.png|thumb|right|300px|アッカド帝国(緑)とその周辺]]
後世バビロニアと呼ばれることになるシュメールとアッカドの地では、前3200年頃には大きな人口を抱え、複雑な社会機構を持つ都市国家が誕生していた<ref name="山田2014pp195-196">[[#山田 2014|山田 2014]], pp. 195-196</ref>。その後、[[シュメール初期王朝時代]](前2900年頃-前2335年頃)にはメソポタミアと周辺の西アジア各地に都市文明が拡散していった<ref name="山田2014pp195-196"/><ref name="前田ら2000pp18_21">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 18-21</ref>。初期王朝時代末期の前2500年頃から、おぼろげながらも同時代史料に基づいてその歴史の一部を知ることができるようになる<ref name="山田2014pp195-196"/><ref name="前田ら2000pp21_28">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 21-28</ref>。バビロニアは(エジプトを除き)この時代の歴史を文字史料を通じて復元できる唯一の地域である<ref name="山田2014pp195-196"/><ref name="前田ら2000pp21_28"/>。

初期王朝時代末期にはシュメール人、アッカド人の都市国家が興亡を繰り返した。これらの都市国家の中でも有力となったものは次第に近隣都市を服属させて地域統合を果たすようになった<ref name="前田2017p39">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 39</ref>{{refnest|group="注釈"|古代メソポタミア史を研究する前田徹は、このような都市国家を中近世のドイツ史における[[領邦国家]](Territorialstaat)の概念を参考に領邦都市国家と命名している<ref name="前田2017p12">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 12</ref>。}}。そのような都市国家には[[キシュ]]、[[ニップル]]、[[アダブ]]、[[シュルッパク]]、[[ウンマ]]、[[ウルク]]、[[ウル]]などがある<ref name="前田2017p39"/>。これらの都市国家では王権が強化され特定の家系に王位が独占されていくとともに<ref name="前田2017pp45_49">[[#前田 2017|前田 2017]], pp. 45-49</ref>、各国の間で領土や覇権を巡って相互に激しい争いが行われた<ref name="前田2017pp49_55">[[#前田 2017|前田 2017]], pp. 49-55</ref>。この時代の都市国家の争いと覇権の移り変わりは、前21世紀頃に成立した『シュメール王朝表{{refnest|group="注釈"|『シュメール王朝表』と呼ばれるテキスト群は、伝統的には『シュメール王名表』と呼ばれており、こちらの名前で広く知られている。日本においてメソポタミア史研究の先駆者であった[[中原与茂九郎]]は、「諸都市王朝による継起的な南部メソポタミア支配がこれらのテキストの基本主題であることに正しく着目してこれらを『シュメール王朝表』と呼んだ」(前川和也)<ref name="前川1998pp165_166">[[#前川 1998a|前川 1998a]], pp. 165-166</ref>。}}』において、歴代王朝の覇権交代と言う形の伝承にまとめられている<ref name="前川1998pp165_166"/>。これは同時代に存在していた有力な都市国家全てに触れてはいないし、またそれぞれが順番に覇権を握っていったという体裁をとるが、実際にそのように整然と勢力が交代したわけではない<ref name="前川1998pp165_166"/>。

こうした都市国家群は前24世紀半ばに[[ウンマ]]王で後に[[ウルク]]に拠点を遷した[[ルガルザゲシ]]によって大部分が征服され初めて統合された<ref name="前川1998p181">[[#前川 1998a|前川 1998a]], p. 181</ref>。このルガルザゲシの王国は、[[アッカド]]市(アガデ)の王[[サルゴン]](シャル・キン)によって打倒された<ref name="前川1998p182">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 182</ref>。サルゴンが建設した王国は[[アッカド帝国]]とも呼ばれ、一般に初の統一王朝として扱われる<ref name="前川1998p182"/>。バビロニアの中枢となる都市、バビロン(バーブイル/バーブ・イリ ''Bābili'')は後世の史料ではこのサルゴン王によって建設されたという<ref name="サルヴィニ2005p33">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 33</ref>。しかし、これは一つの伝説であり、同時代史料におけるバビロンの初出はアッカド帝国最後の王、[[シャル・カリ・シャッリ]](在位:前22世紀頃)の時代に建造された神殿の定礎碑文である<ref name="サルヴィニ2005p33"/>。

アッカド帝国は[[地中海]]沿岸地域にいたるまでユーフラテス川とティグリス川の流域を征服し、サルゴン王は「世界の王(シュメール語:''LUGAL KIŠ''、アッカド語:''šar kišš ati'')<ref name="渡辺2003pp138_139">[[#渡辺 2003|渡辺 2003]], pp. 138-139</ref>、[[ナラム・シン]]王の時代には「四方領域の王(シュメール語:''LUGAL ki-ib-ra-tim ar-ba-im'')」などの称号を採用し、都市国家を超えた領域を支配する王権観を発達させていった<ref name="渡辺2003pp139_140">[[#渡辺 2003|渡辺 2003]], pp. 138-139</ref><ref name="前田2017p102">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 102</ref>。アッカド帝国による統合は、シャル・カリ・シャッリの治世の後崩壊した。『シュメール王朝表』は彼の治世の後、「誰が王であり、誰が王でなかったか」と言う文章で書き始めている<ref name="前川1998p188">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 188</ref>。後世の伝承はアッカド帝国の崩壊とその後の混乱を蛮族[[グティ人]]の侵入の結果として描写するが、その史実性は疑わしいとされる<ref name="前田2017p115">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 115</ref>。この混乱と分裂は前22世紀の終わり頃、ウルクの将軍でウルの王となった[[ウル・ナンム]](ウル・ナンマ、在位:前2112年-前2095年)による統合で終止符が打たれた<ref name="前川1998p189">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 189</ref><ref name="前田2017p125">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 125</ref>。これを[[ウル第3王朝]]と呼ぶ<ref name="前川1998p189"/>。

ウル・ナンムは現在知られる限り後世バビロニアの支配者によって繰り返し使用される「シュメールとアッカドの王」と言う称号を用いた最初の王である<ref name="渡辺2003p146"/><ref name="前田2017p126">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 126</ref>。また、記録に残る最初の法典編纂が行われた(ウル・ナンム法典)<ref name="前田2017p130">[[#前田 2017|前田 2017]], p. 130</ref>。これは後に古バビロニア時代に行われる各種の法典編纂に先行するものである<ref name="前田2017p130"/>。この頃には[[正義]](シュメール語:''nig-si-sá'')の観念も整備され、後のバビロニアの王が従うべき道徳規範も形作られて行った<ref name="前田2017p130"/>。しかし、ウル第3王朝自体は100年余りしか存続しなかった。[[シュ・シン]](在位:前2037年-前2029年)の時代には西方からメソポタミアに移住していた[[アムル人]](アモリ人)の勢力が増し、その影響で辺境において徴税が不可能になっていることを訴える現地司令官の報告が残されている<ref name="前川1998pp196-198">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 196-198</ref>。また東方では[[エラム]]が[[ザブシャリ]]国を中心として反乱を起こしていた。シュ・シンは恐らくこの反乱を鎮圧したが<ref name="前川1998pp196-198"/>、次の王[[イビ・シン]](在位:前2028年-前2004年)の時代には[[イシン]]市でアムル人の将軍[[イシュビ・エッラ]]がウル第3王朝から事実上自立し、その力は大きく衰えた<ref name="前川1998pp196-198"/>。そしてイシュビ・エッラとの争いや他のアムル人諸部族の反抗の中で、エラムが再び反逆し前2004年にウルを占領した<ref name="前川1998pp198-200">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 198-200</ref>。これによってウル第3王朝は滅亡した。

=== 古バビロニア時代 ===
[[File:Hammurabi's Babylonia 1.svg|thumb|right|300px|ハンムラビ王時代のバビロン第1王朝]]
ウル第3王朝の滅亡(前2004年)から、[[バビロン第1王朝]]の滅亡(前1595年)までの時代は'''古バビロニア時代'''と呼ばれている<ref name="前田ら2000pp40_41">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], pp. 40-41</ref>。
更に、群雄割拠の時代(前期)と、バビロンによる統一の時代(後期)に二区分し、前期を[[イシン・ラルサ時代]]、後期をバビロン統一王朝時代、または[[ハンムラビ]]王国時代と区分するのが一般的である<ref name="前田ら2000pp40_41"/>。

==== イシン・ラルサ時代 ====
{{Main|イシン・ラルサ時代}}
ウル第3王朝滅亡後のメソポタミアでは、移住した'''アムル人'''たちが各地に王国を作り上げていった。この時代に有力勢力として現れる王国のほとんどはアムル系の王国である<ref name="前川1998pp202_205">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 202-205</ref>。これらの中でも、イシュビ・エッラが作り上げた[[イシン第1王朝]]と、[[ナプラヌム]]と呼ばれるアムル人が王朝を作った[[ラルサ]]が中心となって覇権争いを演じた<ref name="前川1998pp201_202">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 201-202</ref>。当初はイシンが最も有力であったが、第5代王[[リピト・イシュタル]](在位:前1932年-前1903年)の時代には、ラルサがやはり第5代の[[グングヌム]](前1932年-前1906年)王の下で強大化し、イシンを圧倒した<ref name="前川1998pp201_202"/>。イシンの第2代王[[シュ・イリシュ]]や、グングヌム以降のラルサ王はかつてのウル第3王朝時代の称号「シュメールとアッカドの王」を再び用いている<ref name="渡辺2003pp146_147">[[#渡辺 2003|渡辺 2003]], pp. 146-147</ref>。

この頃にバビロンが次第に成長し、南部メソポタミアに台頭し始める。バビロンはウル第3王朝時代には知事が派遣されていたことなどが記録に残るが、イシン・ラルサ時代の初め頃までは一地方都市に過ぎなかった<ref name="クレンゲル1980p33">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 33</ref>。この時代のバビロンの遺跡は地下水のために満足な調査が行われていないが、それでもこの都市がさしたる重要性を持っていなかったことは理解される<ref name="クレンゲル1980p33"/><ref name="マッキーン1976p37">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 37</ref>。前1894年頃、アムル人の首長[[スムアブム|スム・アブム]]、または[[スム・ラ・エル]]がこの都市を拠点として王朝を開いたとされる<ref name="マッキーン1976p37"/><ref name="山田2017p18_21">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 18-21</ref>{{refnest|group="注釈"|バビロン第1王朝の初代王は、『バビロン王名表』の記述に基づき「スム・アブム」とするのが通例である。しかし、初代スム・アブムと2代目スム・ラ・エルの間の血縁関係が付記されていないことや、後代のバビロン第1王朝の王たちが先祖に言及する際にスム・ラ・エルには言及するのに対し、スム・アブムに言及しないことなどから、このことは古くから疑問視されている。近年では、スム・アブムはバビロンの王と言うわけではなく、バビロニア北部の広範囲に宗主権を及ぼした人物であり、バビロンもその宗主権の下にあったものと考えられている。そして王名表編纂時にバビロン第1王朝の王として取り込まれたものとされる<ref name="山田2017p18_21"/>。}}。これが'''バビロン第1王朝'''である。バビロン第1王朝の王たちはイシン第1王朝や南方から勢力を拡大するラルサと戦いつつ周辺地域に勢力を拡大したが、[[ハンムラビ]](在位:前1792年-前1750年)が即位した時もなお、ささやかな領土を持つに過ぎなかった<ref name="クレンゲル1980p34">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 34</ref>。

ハンムラビの即位時、バビロンの南では既にイシンを滅ぼして南部メソポタミアの大部分を支配下に置くラルサ、東では[[エシュヌンナ]]、北では[[アッシリア]]を支配下に置く[[シャムシ・アダド1世]]の「上メソポタミア王国」が大きな勢力を持っていた<ref name="山田2017p22_23">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 22-23</ref>。特にシャムシ・アダド1世は当時メソポタミアで最も強大な勢力を誇った君主であり、その王国は北部メソポタミアの広い範囲に及んでいる<ref name="小口2000pp198_200">[[#小口(裕) 2000|小口(裕) 2000]], pp. 198-200</ref>。ハンムラビは即位時にはシャムシ・アダド1世の宗主権の下にあり、その支援を得てラルサやエシュヌンナと戦っていた<ref name="クレンゲル1980p41">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 41</ref><ref name="山田2017p22_23"/><ref name="小口2000p202">[[#小口(裕) 2000|小口(裕) 2000]], p. 202</ref>。シャムシ・アダド1世は前1781年頃に死亡した。彼の死亡は当時のメソポタミアにおける一大事であり、エシュヌンナのような外国においてもこの年の年名は「シャムシ・アダド1世が死んだ年」と名付けられている<ref name="小口2000p203">[[#小口(裕) 2000|小口(裕) 2000]], p. 203</ref>。彼の死後、「上メソポタミア王国」は急速に瓦解し、メソポタミアには「一人で十分強力な王はいない」とされる状態が訪れた<ref name="前川1998pp205-206">[[#前川 1998b|前川 1998b]], pp. 205-206</ref>。バビロンのハンムラビ、ラルサの[[リム・シン1世]]、エシュヌンナの[[イバル・ピ・エル2世]]、[[カトナ]]の[[アムト・ピ・エル]]、[[マリ (メソポタミア)|マリ]]の[[ジムリ・リム]]、そして[[ヤムハド]]([[アレッポ]])の[[ヤリム・リム]]などが有力な王として数えられた<ref name="中田2000p173">[[#中田 2000|中田 2000]], p. 173</ref>。長期にわたる戦いを経て、ハンムラビはその治世中にラルサ、エシュヌンナ、マリを征服し、南部メソポタミアの全域を支配下に置いた<ref name="クレンゲル1980pp40_51">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], pp. 40-51</ref>。彼自身が主張するところによれば、更にアッシリアまでも征服したとしている<ref name="クレンゲル1980pp40_51"/>。

==== バビロン第1王朝時代 ====
{{Main|バビロン第1王朝}}
{{Quote box
| quote = §196 もしアウィールム<ref group="注釈">当時バビロニアには、大きく分けてアウィールム、ムシュケーヌム、奴隷という三つの社会階層があったことが知られる。しかし奴隷以外の前二者がいかなる性質のものであるのか定説は無い。ハンムラビ法典ではアウィールム同士の傷害に対して同害復讐原理が適用されるのに対し、アウィールムからムシュケーヌム、ムシュケーヌムからムシュケーヌムへの傷害は金銭賠償とされており、奴隷からアウィールムへの傷害は、加えた傷害よりも重い罰を与えられた。</ref>がアウィールム仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。<br/>
§197 もし彼がアウィールム仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。<br/>
§198 もし彼がムシュケーヌムの目を損なったか、ムシュケーヌムの骨を折ったなら、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。<br/>
§199 もし彼がアウィールムの奴隷の目を損なったかアウィールムの奴隷の骨を折ったなら、彼は彼(奴隷)の値段の半額を支払わなければならない。<br/>
§200 もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。<br/>
§201 もし彼がムシュケーヌムの歯を折ったなら、彼は銀3分の1マナ(約167グラム)を支払わなければならない。
| source=- ハンムラビ法典<ref name="ハンムラビ法典">[[#ハンムラビ法典pp56_57|中田訳 1999]], pp. 56-57</ref>
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| width = 25em
}}
[[File:Code de Hammurabi - musée Champollion 01.JPG|thumb|right|ハンムラビ法典]]
ハンムラビは征服事業と並行して、戦乱で荒廃した運河網を整備拡充するとともに<ref name="山田2017p61_67">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 61-67</ref>、'''ハンムラビ法典'''と呼ばれる法典碑を作らせた。このハンムラビ法典は、商業、農業、犯罪、結婚、相続など、社会経済の多様な領域に対する「条文」を含んでおり、「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理でも名高い。この「法典」は多数のコピーが作成され広く行き渡ったが、実際には模範判例集に近いものであり、これに基づいて裁判を行ったような記録は現存していない<ref name="ハンムラビ法典まえがき">[[#ハンムラビ法典|中田訳 1999]], まえがき, i-v</ref><ref name="山田2017p68_92">[[#山田 2017|山田 2017]], pp. 68-92</ref>。しかし、ハンムラビが領内での裁判を監督し、場合によっては自ら裁定を下していたことは、現存する多数の裁判記録によって明らかとなっている<ref name="山田2017p68_92"/>。

ハンムラビの死後、バビロン第1王朝の王たちは反乱と外敵の侵入に対して長く対処しなくてはならなかった。次の王[[サムス・イルナ]](在位:前1749年-前1712年)の即位から程なく、ラルサで[[リム・シン2世]]が、エシュヌンナで[[トゥプリアシュ]]が反乱を起こした<ref name="クレンゲル1980p52">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 52</ref>。バビロンの年名はこれらに対する勝利を記録しているが、サムス・イルナの治世第20年に至ってもなお反乱勢力に対して「一年に八度の勝利」を記録しているように、その統治は安定しなかった<ref name="クレンゲル1980p52"/>。更にペルシア湾岸地方では[[イルマン]](イルマ・イルム)という人物が自立し、その後「[[海の国]]」と呼ばれる王朝を創立した(「海の国」第1王朝、バビロン第2王朝とも)<ref name="クレンゲル1980p53">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 53</ref>。更に重要なこととして、サムス・イルナの治世中に初めて'''カッシュ'''('''[[カッシート人]]''')の軍勢への言及が見られる<ref name="クレンゲル1980p53"/><ref name="フィネガン1983p81">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 81</ref>。サムス・イルナの次の王、[[アビ・エシェフ]](在位:前1711年-前1684年)は「海の国」に勝利したが、その統治を永続させることはできず、更にその治世にはマリ地方を拠点に「ハナ」王朝が創立された<ref name="クレンゲル1980p53"/>。この王朝の王はカッシート語の名前を持っており、当時カッシート人の集団がユーフラテス川中流域に移住を進めていたことを示す<ref name="クレンゲル1980p54">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 54</ref>。

アビ・エシェフの後の王たちの時代にも継続的にバビロン第1王朝の支配地域は縮小したが、この王朝の崩壊過程は時代が進むにつれ具体的な状況を把握することができなくなる<ref name="クレンゲル1980p54"/>。弱体化していたバビロン第1王朝は最後の王[[サムス・ディタナ]](前1625年-前1595年)の時、突如アナトリアからバビロニアへ長躯遠征を行った[[ヒッタイト]]の[[ムルシリ1世]]の攻撃によってバビロンを占領され滅亡した<ref name="前川1998p207">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 207</ref><ref name="クレンゲル1980p54"/>。このヒッタイトの遠征が行われた理由についてはよくわかっていない。ヒッタイト人が残した記録にもその意図を推測できるようなものはなく、彼らがバビロニアまでも含む巨大な王国を構築していようとしたとするような説は証明されない<ref name="クレンゲル1980p54"/>。バビロニア人もまた、非常に簡潔な記録を残すに過ぎない<ref name="クレンゲル1980p55">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 55</ref>。しかし、意図はともかく、結果だけを見ればヒッタイトによるバビロンの占領は一時的なものであり、弱体化したバビロン第1王朝にとどめを刺した事件であった<ref name="クレンゲル1980p55"/>。その後にシュメールとアッカドの地の政治的混乱を収拾して新しい秩序を確立したのはヒッタイト人ではなく、カッシート人であった<ref name="クレンゲル1980p55"/><ref name="フィネガン1983p82">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 82</ref><ref name="前田ら2000p74">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 74</ref>。

=== 中期バビロニア時代 ===
ヒッタイト人がバビロンを寇掠した後、アッシリアが帝国的な発展を遂げるまでの前1000年頃までの中間期を中バビロニア時代、または中期バビロニア時代と言う<ref name="前田ら2000p74"/><ref name="渡辺1998p275">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 275</ref>。この時代区分はまた、メソポタミアにおける[[後期青銅器時代]]に対応するが、[[新バビロニア]]の成立(前626年)までを中バビロニア時代として扱う学者もいる<ref name="フィネガン1983p83">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 83</ref>。この節では前者の区分に従い、アッシリアの興隆までの時期を扱う。この時代にはメソポタミア北部のアッシリアや、その周辺域にある[[ヒッタイト]]、[[ミタンニ]]、[[エジプト]]、[[エラム]]が勢力を拡張し、互いに争いつつ盛衰を繰り返した<ref name="前田ら2000p74"/>。これらの諸国の間に密接な関係が構築されていったことから、「国際化の時代」ともされる<ref name="前田ら2000p74"/>。

==== カッシート人の王朝 ====
{{Main|カッシート}}
[[File:Kassite Babylonia EN.svg|thumb|right|300px|カッシート(バビロン第3王朝)の征服。]]
前1595年にヒッタイト人がバビロンを去った後、[[カッシート人]]がバビロニアを手中に収めるまでの過程は、史料が極度に乏しいため確実に言えることがほとんどない<ref name="前田ら2000p74"/>。はっきりしているのは、前1500年頃にはカッシート人の王朝がバビロニアの中核部分を支配下に置いていた事である<ref name="前田ら2000p75">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 75</ref>。このことはカッシート人の王{{仮リンク|ブルナ・ブリアシュ1世|en|Burnaburiash I}}(在位:前1500年頃)がアッシリアの[[プズル・アッシュール3世]](在位:前1500年頃)との間で結んだ国境確定の条約によってわかる<ref name="前田ら2000p75"/><ref name="フィネガン1983p86">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 86</ref>。ブルナ・ブリアシュ1世の2代後の王、{{仮リンク|ウラム・ブリアシュ|en|Ulamburiash}}(在位:前15世紀初頭)とその甥の{{仮リンク|アグム3世|en|Agum III}}(在位:前15世紀初頭)は、「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)も滅ぼしてバビロニア全域を支配した<ref name="前田ら2000p75"/>。このカッシート人の王朝が'''バビロン第3王朝'''であるが、カッシート王朝、カッシート朝、カッシュ王朝などの呼び名の方がしばしば用いられる<ref name="フィネガン1983p84">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 84</ref>。

カッシート王朝はバビロニアの王朝としては最も長く400年前後の期間バビロニアの支配権を維持することができ、その支配は前1155年まで続いた<ref name="渡辺1998p278">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 278</ref><ref name="前田ら2000p75"/>。その間に周辺諸国との緊密な外交が繰り広げられたことが、それぞれの国で発見された外交書簡などによってわかっている。最も名高いのはエジプトの[[ファラオ]]、[[アメンホテプ4世|アクエンアテン]]の王宮から発見されたいわゆる[[アマルナ文書]]で、カッシートの王女のエジプトへの輿入れや、贈答品のやりとり、[[カナン]]の地で殺害されたバビロニア商人の問題や、アッシリアとの確執などについての情報が残されている<ref name="前川1998pp280_283">[[#前川 1998a|前川 1998a]], pp. 280-283</ref><ref name="フィネガン1983p88">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 88</ref>。

カッシート人は古いバビロニアの文化を継承すると共に、より古いシュメール文化をも掘り起こし、シュメール語を[[円筒印章]]に用いるなど、一種の復古主義をもたらした<ref name="渡辺1998pp283_286">[[#渡辺 1998a|渡辺 1998a]], pp. 283-286</ref>。また、この王朝の時代には従来シュメールとアッカドの地と呼ばれた領域は'''{{仮リンク|カルドゥニアシュ|en|KarduniaŠ}}'''(''Karduniaš'')と言う単一の名称で呼称されるようになった<ref name="前田ら2000pp81_82"/>。また、年ごとに個別の年名が割り当てられる記録法に代わり、王の統治年数で記録する方法に変わった(年の途中で王が死亡した場合、死亡時までは前王の統治年であり、新王の即位後は即位年(シュメール語:''mu-sag-namlugal-ak, ''、アッカド語:''resh sharruti'')と呼ばれ、翌年が新王の「統治第1年」であった<ref name="フィネガン1983p89">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 89</ref>。

時代とともにアッシリアが強大化し、カッシート朝の後半期にはバビロニア(カッシート)の王とアッシリアの王の戦いの記録が数多く見出される<ref name="フィネガン1983p88"/>。アッシリアの王[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]](在位:前1244年-前1208年)は、碑文の一つでバビロニア王{{仮リンク|カシュ・ティリアシュ4世|en|Kashtiliash IV}}を捕らえ、裸にして連行し、バビロンの城壁を破壊したことを誇っている<ref name="フィネガン1983p89">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 89</ref>。バビロニアは7年間にわたりアッシリアの支配を受けたが、トゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺されアッシリアが混乱に陥った隙に{{仮リンク|アダド・シュマ・ウツル|en|Adad-shuma-usur}}(在位:1216年-前1187年)が独立を回復した<ref name="前田ら2000p77">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 77</ref>。しかし、王朝の弱体化は避け難く、アッシリア人と、東方のエラム人からの相次ぐ攻撃によって崩壊へと向かった。前1157年、エラムの王{{仮リンク|シュトゥルク・ナフンテ|en|Shutruk-Nahhunte}}はバビロニアを制圧してバビロニア王{{仮リンク|ザババ・シュマ・イディナ|en|Zababa-shuma-iddin}}を廃し、自分の息子[[クティル・ナフンテ]]をバビロニア王に擁立した<ref name="フィネガン1983p89"/>。ハンムラビ法典碑を含む戦利品もエラムに持ちさられ、カッシート最後の王{{仮リンク|エンリル・ナディン・アヒ|en|Enlil-nadin-ahi}}はなお3年間に渡り抵抗を続けたが、前1155年に遂に鎮圧されカッシート朝は滅亡した<ref name="フィネガン1983p89"/>。

==== イシン第2王朝 ====
{{Main|イシン第2王朝}}
{{Quote box
| quote = 私は偉大な主にして運命と決定の主、マルドゥクである。(私以外に)誰がこの旅をしただろうか。私が(それを)命じたのである。私はエラムへ行き、全ての神々が(そこへ)行った。(中略)(新たな)バビロンの王(ネブカドネザル1世)が現れ、すばらしい神殿エクル・サギラを修復する。彼はエクル・サギラ内に天と地の図面を描き、その高さを二倍にする。彼は我が町バビロンに対し解放令を発布する。彼は我が手を取って、〈私を〉我が町バビロンとエクル・サギラへと永遠に入れる。(中略)私ならびに全ての神は彼と和解する。彼はエラムを粉砕し、その町々を粉砕し、その要塞を取り除く。彼はデールの大王を彼のものではない玉座から立ち上がらせ、彼の(もたらした)荒廃を改め、彼の悪を…する。彼は彼の手を取って、彼をデールと(その神殿)エクル・ディムガル・カランマへと永遠に入れる。
| source=- マルドゥクの預言<ref name="マルドゥクの預言">[[#マルドゥクの預言|山田訳 2012]], pp. 46-47</ref>
| align = right
| width = 25em
}}
バビロニアからエラム勢力を一掃したのは、[[イシン]]市で{{仮リンク|マルドゥク・カビト・アヘシュ|en|Marduk-kabit-ahheshu}}(在位:前1157年-前1140年)が新たに打ち立てた王朝であった<ref name="渡辺1998p286">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 286</ref>。これを'''[[イシン第2王朝]]'''、または'''バビロン第4王朝'''と呼ぶ<ref name="渡辺1998p286"/><ref name="フィネガン1983p90">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 90</ref>。イシン第2王朝は、第2代の{{仮リンク|イッティ・マルドゥク・バラト|en|Itti-Marduk-balatu (king)}}(在位:前1139年-前1132年)の時代には既にバビロンを首都として周辺地域を支配下に置いていたと見られる<ref name="前田ら2000p77"/>。この王朝は短命であったが、その王[[ネブカドネザル1世]](ナブー・クドゥリ・ウツル1世、在位:前1124年-前1103年)はエラムに侵攻し、カッシート朝滅亡時に奪い去られていた[[マルドゥク]]神像を取り戻したことで名高い<ref name="フィネガン1983p90"/>。彼の功績を称揚する歴史文学が後世のコピーによって知られている<ref name="渡辺1998p286"/>。どの程度史実に忠実であるのかは不明であるが、この頃から神々の王としてバビロンの都市神マルドゥクの地位が高められ、次第に[[パンテオン]]の最高位に置かれるようになっていった<ref name="渡辺1998p286"/>。

{{仮リンク|マルドゥク・ナディン・アヘ|en|Marduk-nadin-ahhe}}(在位:前1099年-前1082年)の時代には、アッシリアの王[[ティグラト・ピレセル1世]]との戦いに敗れ、イシン第2王朝は大いに弱体化した<ref name="渡辺1998p286"/><ref name="前田ら2000p77"/>。その後出自不明の王が相次ぎ、この王朝は前1026年に滅亡した<ref name="渡辺1998p287">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], p. 287</ref><ref name="前田ら2000p77"/>。にもかかわらず、この混乱期にはアッシリアとの友好関係が保たれた。これは西方の[[アラム人]]や[[カルデア人]]の流入が両国にとって共通の脅威となっていたためと考えられる<ref name="渡辺1998p287"/>。

イシン第2王朝の崩壊と前後して、バビロニアでは短命の王朝がいくつも登場した。『バビロニア王名表』の記述に従えば、3人の王からなる「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝、前1024年-前1004年)、やはり3人の王からなるバズ王朝(バビロン第6王朝、前1003年-前984年)、そして単独の王{{仮リンク|マルビティ・アプラ・ウツル|en|Mar-biti-apla-usur}}からなるエラム王朝(バビロン第7王朝、前983年-前978年)である<ref name="フィネガン1983pp90_91">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], pp. 90-91</ref>。この間の詳細は詳らかでない。

=== アッシリア帝国の時代 ===
[[File:Map of Assyria.png|thumb|left|300px|[[アッシリア]]の帝国]]
前1000年期初頭のバビロニアの歴史は『バビロニア王名表』『アッシリア・バビロニア関係史』およびアッシリアの王碑文の部分的な記述からしか復元できず、極めて断片的にしかわからない<ref name="前田ら2000p133">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 133</ref>。前1000年期初頭の250年余りの期間は'''E王朝'''(バビロン第8王朝、前977年-前732年)と呼ばれ、ある程度国力を回復したであろうことが、アッシリアとの国境争いの記録から読み取れる<ref name="フィネガン1983p91">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 91</ref><ref name="前田ら2000p133"/>。バビロニアとアッシリアはおよそ100年余りの間均衡していたが、前9世紀後半にはアッシリアが強大化する一方でバビロニアは混乱し、南部と東部におけるアラム人やカルデア人の諸部族の侵入を抑え込むことができなかった<ref name="前田ら2000p133"/>。この王朝の末期の王、{{仮リンク|ナブー・ナツィル|en|Nabonassar}}(ナボナサル、在位:747年-734年)の治世から『バビロニア年代誌』がバビロニアの重要な政治的事件を記録し始める<ref name="前田ら2000p133"/>。この王の治世のすぐ後にはアッシリアの王[[ティグラト・ピレセル3世]]がバビロニアを征服し、アッシリアによるバビロニア支配がはじまった<ref name="前田ら2000p133"/>。アッシリア時代のバビロニアについては各種の膨大な史料が残されており、詳細な政治史が復元されている<ref name="前田ら2000p133"/>。

==== アッシリアの支配 ====
{{Main|アッシリア}}
前8世紀後半から前7世紀初頭にかけて、アッシリアは北は[[アナトリア半島]]南東部、西・南は[[エジプト]]、東はエラムに至る地域を支配する帝国を構築していった(アッシリア帝国/新アッシリア)。この時代のバビロンの王は『バビロニア王名表』にまとめられており、これを'''バビロン第9/第10王朝'''とする。<ref name="フィネガン1983p93">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 93</ref>。バビロン第9王朝の最初の王とされているのはアラム人とみられる{{仮リンク|ナブー・ムキン・ゼリ|en|Nabu-mukin-zeri}}(在位:前731年-前729年)であり、彼の治世前後からバビロニアにおけるアラム語使用の痕跡が確認され始める<ref name="フィネガン1983p93"/>。その次の王はプルとされている。これはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前728年-前727年<ref group="注釈">バビロニア王としての在位期間。</ref>)を指す。ティグラト・ピレセル3世はナブー・ムキン・ゼリからバビロンの支配権を奪った経緯、そしてマルドゥク神像の手を握る儀式を行って正式にバビロニアの王として即位したことを記録に残している<ref name="フィネガン1983p93"/>。

ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服した後、アッシリアが滅亡するまでの間のほとんどの王の時代にバビロニアでは反乱が発生した。アッシリアで[[サルゴン2世]](シャル・キン2世、在位:前721年-前705年)が即位した時、バビロニアではカルデア人部族の首長[[メロダク・バルアダン2世]](マルドゥク・アプラ・イディナ2世、在位:前721年-前710年)がエラム王[[フンバニガシュ]]の支援を受けてバビロン市を掌握し、アッシリアから自立してバビロニア王となった<ref name="渡辺1998p338">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 338</ref><ref name="フィネガン1983p94">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 94</ref>。最終的に彼の反乱はサルゴン2世によって鎮圧されたが、反乱は12年余りに及び、鎮圧後もメロダク・バルアダン2世は生き残ってエラムへと逃亡し、再起の機会を待った<ref name="渡辺1998p338"/><ref name="フィネガン1983p94"/>。アッシリアでサルゴン2世が死に、[[センナケリブ]](シン・アヘ・エリバ、在位:前704年-前681年)が即位すると、{{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ2世|en|Marduk-zakir-shumi II}}(在位:前703年)が再び反乱を起こし、その後にはエラムから舞い戻ったメロダク・バルアダン2世(在位:前703年)が反乱を継続した<ref name="渡辺1998p341">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 341</ref><ref name="フィネガン1983p94"/>。メロダク・バルアダン2世は最終的にキシュ平野の戦いでセンナケリブに敗れ、その後再起の機会は訪れなかった<ref name="渡辺1998p341"/><ref name="フィネガン1983p94"/>。センナケリブは新たなバビロニア王として「宮殿で小犬のごとく」成長した{{仮リンク|ベル・イブニ|en|Bel-ibni}}(在位:前702年-前700年)を王に据えたが、センナケリブの期待に反してベル・イブニも反逆者となった<ref name="フィネガン1983p94"/>。センナケリブはこの反乱も鎮圧し、今度はバビロニア王として自身の息子[[アッシュール・ナディン・シュミ]]を据えた<ref name="フィネガン1983p94"/>。しかし、アッシュール・ナディン・シュミはエラムの襲撃とバビロニアで発生した反乱によってエラムに連れ去られ行方不明となってしまった<ref name="フィネガン1983p94"/><ref name="渡辺1998p348">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 348</ref>。センナケリブは息子の犠牲と言う事態に再度のバビロン征服に乗り出し、前689年にバビロン市を破壊して毎年の新年祭を禁止した<ref name="フィネガン1983p94"/><ref name="サルヴィニ2005p41">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 41</ref>。

センナケリブによって破壊されたバビロンは、彼の後継者[[エサルハドン]](アッシュール・アハ・イディナ、在位:前680年-前669年)によって再建された<ref name="渡辺1998p348">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 348</ref>{{refnest|group="注釈"|センナケリブによるバビロンの破壊とエサルハドンによる再建は、彼ら自身が王碑文においてそのように語っていることからアッシリア史、バビロニア史において一般に史実として言及され強調される。しかし、センナケリブによる破壊は徹底したものではなく、バビロニアへの融和政策というエサルハドンの政策は、センナケリブ時代から始まっていたものを継続したものであるとする見解もある<ref name="佐藤1991p155">[[#佐藤 1991|佐藤 1991]], p. 155</ref>。}}。彼は即位後すぐに再建事業に取り掛かり、バビロニアへの優遇処置を矢継ぎ早に打ち出して民心の掌握に努めた<ref name="マッキーン1976p164">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 164</ref>。これが功を奏してか、エサルハドンはアッシリア帝国時代の王としては例外的にバビロニアの反乱に相対することがなかった<ref name="マッキーン1976p164"/>。メソポタミアにおいて圧倒的な求心力を誇ったバビロン市を中心とするバビロニアは、アッシリアにとって格段の配慮と警戒を要する支配地域であった<ref name="佐藤1991p156">[[#佐藤 1991|佐藤 1991]], p. 156</ref>。再建されたバビロンは、その政治的・宗教的な卓越性に加え、各種の特権を与えられ、国際商業の中枢として反映の時代を迎えた<ref name="佐藤1991p156"/>。バビロニアの[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド]]とも呼ばれる古代の大商人[[エギビ家]]の活動も、この時代のバビロニアで開始されていた<ref name="佐藤1991p156"/>。

エサルハドンはその死に際し、自分の王国を[[アッシュールバニパル]](在位:前668年-前627年)と[[シャマシュ・シュム・ウキン]](在位:前667年-前648年)と言う二人の王子に分割して継承させることを決定した。その規定ではアッシュールバニパルがアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王にそれぞれ即位し、前者が優越するものとされた<ref name="渡辺1998p350">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 350</ref>。その後実際にこの定めの通りに王位が継承された。少なくとも前651年までは平穏が保たれた<ref name="渡辺1998p358">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 358</ref>。アッシュールバニパルはバビロンに建てた石碑にこの兄弟の名前を刻む配慮を示したが、アッシリア王に対するバビロニア王の従属的地位は明らかであり、このことに不満を持っていたであろうシャマシュ・シュム・ウキンは前651年にエラムなど周辺諸勢力を引き込んで反乱を起こした([[兄弟戦争]])<ref name="渡辺1998p360">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 360</ref><ref name="マッキーン1976pp166_167">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 166-167</ref><ref name="フィネガン1983p95">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 95</ref>。この反乱は3年に渡り続いたが、最後にアッシュールバニパルが勝利を収め、前648年に包囲されたバビロンでシャマシュ・シュム・ウキンは死亡した<ref name="渡辺1998p361">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 361</ref>。その後は{{仮リンク|カンダラヌ|en|Kandalanu}}(在位:前647年-前627年)と言うバビロニア王の称号を与えられた代官が赴任してバビロニアを統治した<ref name="渡辺1998p361"/>。

=== 新バビロニア(カルデア) ===
{{Main|新バビロニア}}
[[File:Neo-Babylonian Empire.png|thumb|right|300px|[[新バビロニア]]の勢力範囲]]
アッシュールバニパルの没後、アッシリアの政局は混乱に陥ったらしく短期間に何人もの王が交代する事態となった<ref name="渡辺1998p364">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 364</ref>。王位争いは最終的に[[シン・シャル・イシュクン]](在位:前623年-前612年)が勝利して終わったが、この混乱に乗じて「海の国」の首長とされるカルデア人[[ナボポラッサル]](ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がバビロニアの支配権を握りアッシリアの支配から離脱した<ref name="渡辺1998p364"/>{{refnest|group="注釈"|ナボポラッサルの出自についてはメロダク・バルアダン2世などと同一の家系に属するとする考えや<ref name="フィネガン1983p140">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 140</ref>、「海の国」で最も有力なカルデア人の部族「ビート・ヤキン」の出自とする説などが出されている。しかし、実際にナボポラッサルがカルデア人であるとする明確な同時代史料もなく、確実なものではない。山田重郎は彼が「誰でもない者の子」であったにもかかわらず、マルドゥク神が王命を授けてくれたと記す建築記念碑分の存在から、直接バビロニア王の家系に連なる出自ではなかったとしている<ref name="山田2017p31">[[#山田 2017|山田2017]], p. 31</ref>。}}。彼が打ち立てた王朝は'''[[新バビロニア]]'''(バビロン第11王朝)、または'''カルデア王国'''と呼ばれる。ナボポラッサルは鎮圧のために派遣されたアッシリアの軍勢をバビロニアから排除することに成功し、更に東方の[[メディア王国|メディア人]]と同盟を結んでアッシリア本国に攻撃をかけ、前612年にはその首都[[ニネヴェ]]を陥落させることに成功した<ref name="渡辺1998p365">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 365</ref>。アッシリアの残党はなお[[ハッラーン]]に逃れて抵抗を続けたが、前609年にはこれも終わり、全メソポタミアがバビロンの支配の下に入った<ref name="渡辺1998p365"/><ref name="前田ら2000p140">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 140</ref><ref name="山田2017p26">[[#山田 2017|山田2017]], p. 26</ref>。

ナボポラッサルは更に王太子[[ネブカドネザル2世]](ナブー・クドゥリ・ウツル2世、在位:前604年-前562)に、アッシリア残党を支援した[[古代エジプト|エジプト]]([[エジプト第26王朝|第26王朝]])を攻撃させ、前605年に[[カルケミシュの戦い]]でエジプトを敗退させ、[[シリア]]・[[パレスチナ]]を支配下に置くことに成功した<ref name="渡辺1998p366">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 366</ref>。翌年即位したネブカドネザル2世は、[[旧約聖書]]にある[[バビロン捕囚]]の実行者としても有名である。彼は前597年に[[エルサレム]]を占領すると、その王[[ヨヤキン]]他有力者たちをバビロンへと連行し、[[ゼデキヤ]]を王位につけた<ref name="渡辺1998p366"/>。更に前586年にはゼデキヤが反乱を起こしたため、これを討伐して再びエルサレムを占領し、ゼデキヤとユダの人々を連行した<ref name="渡辺1998p366"/>。この結果ユダ王国は滅亡した。彼は更に[[フェニキア]]の都市[[ティルス]]や周辺の王国を攻撃して併呑し、パレスチナはバビロニアの属領となった<ref name="渡辺1998p366"/><ref name="山田2017p49">[[#山田 2017|山田2017]], p. 49</ref>。

ネブカドネザル2世はバビロニアにおける建築活動を熱心に行った事が大量に残された建築記念碑文や、その他の文書から知られている<ref name="山田2017p54">[[#山田 2017|山田2017]], p. 54</ref>。彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高い[[イシュタル門]]や、[[バベルの塔]]のモデルとなったともされるマルドゥク神殿[[エサギラ]]の[[ジッグラト]]跡などが含まれ、また現在発掘調査が行われているバビロン市の遺構は大部分が彼の治世のものである<ref name="渡辺1998pp367">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], pp. 367-368</ref>。

最後の王[[ナボニドゥス]](ナブー・ナイド、在位:前555年-前539年)は、祭祀に没頭し政治を顧みなかったとされる<ref name="渡辺1998p369">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 369</ref>。彼は[[月神]][[シン (メソポタミア神話)|シン]]の崇拝に没頭し、バビロンの南西800キロにあるアラビアのオアシス都市[[テイマ]]に10年に渡って滞在するという不可解な行動をとった<ref name="渡辺1998p369"/><ref name="山田2017p93">[[#山田 2017|山田2017]], p. 93</ref>。この都市はウルやハッラーンと並ぶ月神信仰の中心地であった<ref name="フィネガン1983p150">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 150</ref>。本国の政治は王太子[[ベルシャザル]](ベル・シャル・ウツル)に任された<ref name="渡辺1998p370">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 370</ref>。

この頃、[[イラン高原]]ではメディアを打倒した[[アンシャン]]の王[[キュロス2世]](クル2世、在位:前559年-前530年)が新たな世界帝国を築きつつあった。これは一般に[[アケメネス朝]]やペルシア帝国などと呼ばれる。前540年までにはエジプトを除くバビロニアの周辺諸国はアケメネス朝の支配下に落ちていた。テイマ周辺の遊牧民の族長たちもキュロス2世になびき、ナボニドゥスはテイマを放棄して本国へ帰還せざるを得なかった<ref name="マッキーン1976pp194">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 194</ref>。前539年3月にはキュロス2世はバビロニアに侵攻し、ナボニドゥスは迎撃したが国内からは離反者が相次いだ<ref name="マッキーン1976pp195">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 195</ref>。10月10日に[[シッパル]]が陥落し、アケメネス朝の軍勢は10月12日にはバビロンへ達した<ref name="フィネガン1983p152">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 152</ref>。同日中にバビロンは無血開城し、シッパル陥落の報に接して逃亡したナボニドゥスは遊牧民に捕らわれてバビロンへ差し出された<ref name="マッキーン1976pp196">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 196</ref>。10月29日、キュロス2世は市民の歓呼の中でバビロンに入城し、バビロニアはアケメネス朝の支配下に入った<ref name="マッキーン1976pp196"/>。

=== アケメネス朝 ===
[[File:Achaemenid Empire En.svg|thumb|right|300px|[[アケメネス朝]](ペルシア帝国)]]
キュロス2世はバビロニア人からの支持を維持することに腐心し、バビロニアの伝統的な王号である「世界の王」「シュメールとアッカドの王」「四方領域の王」などを採用すると同時に、マルドゥク神とナブー神と言うバビロニアの神がキュロスに王権を与えたことを宣言している<ref name="田辺2003p155">[[#田辺 2003|田辺 2003]], p. 155</ref>。また新バビロニア時代に強制移住によってバビロニアに連れてこられた人々に対し故郷への帰還を許可し、「ナボニドゥスの悪行」によって荒廃した建造物と信仰とを救い出すことを喧伝した<ref name="マッキーン1976pp275">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 275</ref>。アケメネス朝の支配下にあってもバビロニアの経済的繁栄は継続し、エギビ家のような大商人や銀行家は栄え続けた<ref name="マッキーン1976pp278">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 278</ref>。キュロス2世はバビロニアを離れる時、息子の[[カンビュセス2世]](在位:前530年-前522年)をバビロンの総督に任命し、彼は父の死までの間平穏に統治することができた<ref name="マッキーン1976pp279">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 279</ref><ref name="山本1997p124">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 124</ref>。前530年にキュロス2世が[[マッサゲダイ]]との戦闘中に戦死した後、カンビュセス2世の即位にあたってはバビロニアを含め帝国内は平穏であり目立った反乱は発生しなかった<ref name="山本1997p125_126">[[#山本 1997|山本 1997]], pp. 125-126</ref>。

しかし、カンビュセス2世が死ぬと僭称者とされる[[スメルディス]]([[ガウマータ]])を排除して王位に昇った[[ダレイオス1世]](ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)は帝国全土で発生した反乱の鎮圧に追われた<ref name="山本1997p131">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 131</ref>。バビロニアもこの時反乱を起こした属州の一つであった。ダレイオス1世が残した[[ベヒストゥン碑文]]の記録などから、バビロニアでは前522年10月に{{仮リンク|ネブカドネザル3世|en|Nebuchadnezzar III}}(ナブー・クドゥリ・ウツル3世、ニディントゥ・ベール、在位:前522年)が、そして前521年には[[アルメニア人]]とされる{{仮リンク|ネブカドネザル4世|en|Nebuchadnezzar IV}}(ナブー・クドゥリ・ウツル4世、アラカ、在位:前521年)が、それぞれ反乱を起こして鎮圧された<ref name="森谷2016pp67_68">[[#森谷 2016|森谷 2016]], pp. 67-68</ref><ref name="マッキーン1976pp281">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 281</ref><ref name="山本1997p131"/>。バビロニアはこの反乱にもかかわらず繁栄を維持し、後継者と定められた[[クセルクセス1世]](クシャヤールシャン1世、在位:前486年-前465年)は王の代理人としてバビロンに駐在した<ref name="マッキーン1976pp283">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 283</ref>。

クセルクセス1世が即位した後、バビロニアでは再び反乱が発生した。前482年にバビロニア総督ゾビュラスは暴動の中で殺害され、ベル・シマンニとシャマシュ・エリバと言う人物が王位を主張した<ref name="マッキーン1976pp284">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 284</ref>。ペルシア軍によって反乱はたちまち制圧されたが、この代償は高くつき、バビロンの城壁、マルドゥク神殿とジッグラトは破壊され、黄金製のマルドゥク神像は融解された<ref name="マッキーン1976pp284"/><ref name="サルヴィニ2005p138">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 138</ref>。クセルクセス1世は、父の代まで用いられてきた「バビロンの王」と言う称号を拒否し、バビロニア属州(バービル)はアッシリア属州(アスラー)と合併させられた<ref name="マッキーン1976pp284"/>。

=== ヘレニズム時代 ===
[[File:Alexander and Bucephalus - Battle of Issus mosaic - Museo Archeologico Nazionale - Naples BW.jpg|thumb|left|アレクサンドロス3世(大王)]]
[[マケドニア]]の王[[アレクサンドロス3世]](大王、在位:前336年-前323年)は[[古代ギリシア|ギリシア]]全土の支配権を握り、前334年春には[[ダーダネルス海峡]]を越えて東征を開始した<ref name="小川1997p182">[[#小川 1997|小川 1997]], p. 182</ref>。アケメネス朝の最後の王[[ダレイオス3世]](ダーラヤワウ3世、在位:前336年-前330年)はこれを迎え撃ったが、[[イッソスの戦い]](前333年)と[[ガウガメラの戦い]](前331年)の敗北によってアケメネス朝は瓦解し、その遺領はアレクサンドロス3世に制圧された<ref name="小川1997pp182_190">[[#小川 1997|小川 1997]], pp. 182-190</ref>。[[インド亜大陸|インド]]北西部までを征服したアレクサンドロス3世は前323年にバビロンで病死した<ref name="小川1997p190">[[#小川 1997|小川 1997]], p. 190</ref>。彼の死後、その将軍たちは後継者([[ディアドコイ]])であることを主張し、互いに争った<ref name="小川1997p191">[[#小川 1997|小川 1997]], p. 191</ref>。バビロンでその遺領の後継を巡る会議が開かれると、主導権を握った[[ペルディッカス]]らによって帝国各地の統治分担が決定された<ref name="小川1997p191"/>。ペルディッカスが内戦と権力闘争に敗れ暗殺されると、前321年に[[アンティパトロス]]の主導でシリアの[[トリパラデイソス]]で再度領土分割の会議が持たれ、この結果バビロニアは[[セレウコス1世]](在位:前305年-前281年)の所領となった<ref name="小川1997p191"/>。

この会議において卓越した地位を獲得したのは主導者のアンティパトロスと[[アンティゴノス1世]]であった。前319年のアンティパトロスの死後、その後継者となった[[ポリュペルコン]]はアンティゴノス1世と激しく対立し、長い戦争が繰り広げられることになった<ref name="マッキーン1976pp294">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 294</ref>。アンティゴノス1世に与したセレウコス1世を、ポリュペルコン麾下の将軍[[カルディアのエウメネス]]が攻撃し、前318年10月にバビロンが占領され、セレウコス1世の反撃は失敗した<ref name="マッキーン1976pp294"/>。翌年にアンティゴノス1世の助力を得て北部バビロニアに戻り、前316年にアンティゴノス1世のエウメネス討伐軍に合流してこれを破る事に成功した<ref name="マッキーン1976pp294"/><ref name="シャムー2011p71">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 71</ref>。旧アレクサンドロス王国の大部分を支配下に収めたアンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世を疎んずるようになり、前315年にセレウコス1世はバビロニアを脱してエジプトの[[プトレマイオス1世]]の下に身を寄せた<ref name="ウォールバンク1988p68">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 68</ref>。そしてプトレマイオス1世とアンティゴノス1世の戦いに乗じる形で、前311年にバビロニアに舞い戻りその支配権を奪回した<ref name="シャムー2011p73">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 73</ref>。後に[[セレウコス朝]]で用いられる[[セレウコス暦]]はこの年をもってセレウコス朝の統治の始まりと規定し、数世紀にわたってバビロニアを含むその領土で共通の暦法として用いられた<ref name="シャムー2011p73"/>。この戦い([[ディアドコイ戦争]])の過程で地中海からメソポタミアに至る地域にヘレニズム王朝([[アンティゴノス朝]]、[[プトレマイオス朝]]、[[リュシマコス朝]]、[[カッサンドロス朝]]、[[セレウコス朝]])と呼ばれるグレコ・マケドニア系の諸王国が成立した。バビロニアの支配を盤石なものとしたセレウコス1世は、[[イラン高原]]全域を支配下に収め、東はインドとの境まで<ref name="シャムー2011p74">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 74</ref>、西は前301年に[[イプソスの戦い]]でアンティゴノス1世を破ってシリア・アナトリアまでを支配下に収めた<ref name="シャムー2011p81">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 81</ref>。

バビロニアにおけるセレウコス朝時代の極めて重要な変化は、セレウコス1世が新たなバビロニアの中心として新都市、[[セレウキア|ティグリス河畔のセレウキア]]を建設したことであった<ref name="マッキーン1976pp295">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 295</ref>。セレウキア市の建設はセレウコス朝がバビロニアを重視していたからこそであったが<ref name="大戸1993p327">[[#大戸 1993|大戸 1993]], p. 327</ref>、商業的中心としてのバビロンの地位を脅かし、その最終的な放棄へと至る出発点となった<ref name="マッキーン1976pp295"/>。バビロンの人口は徐々に減り始め、その建物の建材はセレウキアでの建設活動に転用された<ref name="マッキーン1976pp296">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 296</ref>。セレウコス1世の後継者[[アンティオコス1世]](在位:前281年-前261年)はバビロンの神殿建設を続けてはいるが、前275年頃にバビロンの市民にセレウキアへ移住するように命じ、その家屋を没収した<ref name="マッキーン1976p296">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 296</ref><ref name="サルヴィニ2005p139">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 139</ref>。この時没収された土地は[[アンティオコス2世]](在位:前261年-前247年)の時代に返還された<ref name="マッキーン1976p297">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 297</ref>。セレウコス朝はなおバビロニアの伝統的な宗教に一定の敬意を払った。当時バビロニアでは既にアッカド語(バビロニア語)は口語としては死語となりつつあり、一部では[[ギリシア語]]が普及し、そしてより広い範囲ではアラム語が支配的な言語となっていたが、考古学的発見によって、バビロンとウルクの神殿では伝統的なアッカド語(バビロニア語)の楔形文字文書が作成され続けていることがわかっている<ref name="大戸1993pp328_337">[[#大戸 1993|大戸 1993]], pp. 328-337</ref>。

=== パルティアの征服とバビロンの放棄 ===
バビロニアは前141年7月、[[パルティア]](アルサケス朝)の王[[ミトラダテス1世]](ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)に征服された。その後、セレウコス朝とパルティアのバビロニア争奪戦の中でバビロンの支配者は何度も入れ替わり、最終的に[[ミトラダテス2世]](ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)によってパルティアのバビロニア支配が確定した<ref name="マッキーン1976pp298_299">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], pp. 298_299</ref>。この間にバビロンは大きく破壊され、多くの住民がメディアへと連れ去られた<ref name="マッキーン1976pp298_299"/>。

商業的中心がセレウキアと、パルティア人がその対岸に作った[[クテシフォン]](テースィフォーン)に移った後も、バビロンはなお宗教的中心としての役割は残していた<ref name="サルヴィニ2005p139">[[#サルヴィニ 2005|サルヴィニ 2005]], p. 139</ref>。また、パルティア時代にはいくつかの大型建造物が再建されており<ref name="サルヴィニ2005p139"/>、西暦0年代頃には[[パルミラ|パルミュラ人]]商人の居留地がバビロンに建設された<ref name="マッキーン1976pp298_299"/>。これがバビロン最後の繁栄となり、半世紀後にパルミュラ人たちがセレウキア・クテシフォンへと移動するとともにバビロンは孤立した都市として衰亡の一途をたどった<ref name="マッキーン1976pp298_299"/>。[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]はマルドゥク神殿がなお瓦礫の中に立っており、活動を継続していたことを報告している<ref name="サルヴィニ2005p139"/><ref name="マッキーン1976pp298_299"/>。だが最後に残った神官、学者たちも1世紀の終わりにはバビロンを離れた<ref name="サルヴィニ2005p139"/>。西暦116年にパルティア遠征を行い、バビロニアを征服した[[ローマ帝国|ローマ]][[ローマ皇帝|皇帝]][[トラヤヌス]](在位:98年-117年)は、バビロン市の名望に惹かれ遠征の途上でこの都市を訪れたが既に廃墟となっており、アレクサンドロス3世が死去したと伝えられる部屋で犠牲を捧げバビロンを去った<ref name="マッキーン1976pp298_299"/>。

バビロンの終焉と共に、古代シュメール時代から連綿と受け継がれてきた楔形文字による文筆活動は完全に停止し、アッカド語(バビロニア語)も忘れ去られた。その後もバビロニアに相当する地域は中東の経済的中心の一つであったが、バビロニア文化の多くは後のペルシア文化やイスラーム文化に痕跡を残しつつ終焉を迎えた。現在知られている最後の楔形文字によるアッカド語文書は西暦74年または75年の天文記録である<ref name="コトバンクアッカド語">[[#コトバンク アッカド語|コトバンク 「アッカド語」の項目より]]</ref>。

== 言語と住民 ==
=== 「民族」 ===
バビロニアの歴史では数多くの「民族」が登場し、様々な王朝を打ち立てた。このためしばしばその歴史は「諸民族の興亡」の過程として描かれる<ref name="柴田2014pp23_25">[[#柴田 2014|柴田 2014]], pp. 23-25</ref>。しかし、バビロニア史(さらにはメソポタミア史)に登場する「民族(エトノス)」、例えばシュメール人、アッカド人、カッシート人、アラム人などを日本人、フランス人、ロシア人のような現代の「民族(ネイション)」と同質の物として扱うことに対しては複数の学者が警鐘を鳴らしている<ref name="柴田2014pp23_25"/>。こうしたバビロニアの「民族」を現代の学者が区分する時、しばしばその根拠は彼らが母語としていた(と予想される)言語の分類に依っている<ref name="柴田2014p27">[[#柴田 2014|柴田 2014]], p. 27</ref>。即ちシュメール人とはシュメール語を母語とする人々であり、カッシート人とはカッシート語を母語とする人々という事になる<ref name="柴田2014p27"/>。また、多くの言語は系統毎に分類が行われている([[アフロ・アジア語族]]:セム語に分類されるアッカド語、アラム語など)。

しかし、こうした言語は共同体意識の形成上重要な要素の一つであったと考えられるものの、バビロニアの人々のアイデンティティや共同体意識が言語区分に従って形成されていたことは必ずしも証明されない<ref name="柴田2014pp29_33">[[#柴田 2014|柴田 2014]], pp. 29-33</ref>。少なくともバビロニア(シュメールとアッカドの地)という地域的まとまりが形成される以前のシュメール人たちやアッカド人たちが残した文書からは言語毎にまとまった共同体意識が存在したことを読み取ることはできず、彼らの帰属意識はむしろ各々の都市にあったことが示されている<ref name="前田2003pp163_166">[[#前田 2003|前田 2003]], pp. 163-166</ref>。

無論、言語自体は人々を区別する上で重要な要素の一つではあり、例えばアラム人(Aramāya)という用語で呼ばれていた遊牧民の部族集団の主たる言語はアラム語であったと考えられている<ref name="柴田2014pp29_33"/>。だが、この用語は(同義語とみられるストゥ人''Sutiu/Sutũ''と共に)「アラム人ではない者」から用いられる外部からの呼称として登場し、「アラム人」自身が共同体意識を持っていた事は確認されていない<ref name="柴田2014pp29_33"/>。彼ら自信の自己認識・帰属意識を決定していたのは血縁や部族、共通した生活習慣などであったと考えられる<ref name="柴田2014pp29_33"/>。従って、「アラム人」と言う概念は当時より存在したものの、政治的一体性や共同体意識を持った「アラム人」と言う集団が存在していたわけではなく、あくまでアラム系と呼びうる人々の分類が存在したに過ぎない<ref name="柴田2014pp29_33"/>。

つまり、バビロニアに登場する様々な「民族」が覇権を争い、あるいは主導権争いをしていたわけではなく、より様々な要素で分類されうる多様な共同体がそれぞれにバビロニアの住民としてその歴史に関わっていたのであり、現代において言語毎に設定された「民族」の分類は古い学説の援用<ref name="柴田2014pp33_39">[[#柴田 2014|柴田 2014]], pp. 33-39</ref>、または便宜上のものである{{refnest|group="注釈"|ただし、2005年の段階でも、「バビロニア人」や「アッシリア人」といった用語をあたかも現代の「フランス人」や「ドイツ人」といった用語と等価の分類として扱うような研究は存在する<ref name="柴田2014pp23_25"/>。}}。

=== 文字に残されたバビロニアの言語 ===
[[File:Cuneiform prism describing the restoration of Babylon by Esarhaddon, stamped with Assyrian hieroglyphic inscription MET DP375615.jpg|thumb|right|250px|アッシリア王[[エサルハドン]]によるバビロン再建記念文書]]
バビロニアはその長い歴史を通じて多数の「民族」が住み着き、多様な言語が使用されていた。しかし、筆記法を備え文字記録によって現代に残されているものは限られている。主要な言語としてまず挙げられるのは、初期王朝時代以前から使用され、楔形文字を直接生み出した系統不明の言語である'''[[シュメール語]]'''である。シュメール語は前2千年紀の初頭、少なくともハンムラビ時代頃までには口語としては使用されなくなっていたと考えられる。しかし、学問の言語として、また祈りの言語として文語としては使用され続け、セレウコス朝時代までシュメール語による文書が残されている。バビロニアの歴史上の多くの期間において中心的な言語となったのは'''[[アッカド語]]'''である。アッカド語は[[アフロ・アジア語族]]の中の[[東セム語]]に分類される言語であり、[[アッシリア語]]、[[バビロニア語]]は共にこのアッカド語の方言と分類される<ref name="オリエント事典アッカド語">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.14-15. 「アッカド語」の項目より。</ref><ref name="渡辺1998p255">[[#渡辺 1998a|渡辺 1998a]], p. 255</ref>。前2千年紀はアッカド語はオリエント世界の共通語として広く外交言語や商業言語としても用いられ、例えばエジプトで発見された[[アマルナ文書]]からはアッカド語(バビロニア語)の外交書簡が発見されている<ref name="渡辺1998pp272_275">[[#渡辺 1998b|渡辺 1998b]], pp. 272-275</ref>。

同じくアフロ・アジア語族の[[西セム語]]に分類される'''[[アラム語]]'''は前1千年紀に入ると広く普及し、アッカド語もアラム語から大きな影響を受けた<ref name="オリエント事典アッカド語"/>。[[アラム人]]は、その商業活動による移住とアッシリア帝国時代の強制移住とによってオリエント世界の広範囲に居住するようになり、それに伴いアラム語が広く通じる共通語となっていった<ref name="高階1985pp288-293">[[#高階 1985|高階 1985]], pp. 288-285</ref><ref name="オリエント事典アラム人">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.40-41. 「アラム人」の項目より。</ref>。この影響を受けて、アッシリアとともにバビロニア人の日常言語も次第にアッカド語からアラム語へと切り替わっていった。既にアッシリア帝国時代には書記が二人一組でアッカド語とアラム語の記録を取る様子が壁画に残されており、アラム語の普及が始まっていたことがわかる<ref name="渡辺1998p355">[[#渡辺 1998c|渡辺 1998c]], p. 355</ref>。前7世紀頃にはアッカド語で書かれた粘土板の外部に文書の概要をアラム語でメモ書きしたものも見られるようになり、アラム語の普及を示している<ref name="高階1985pp288-293"/>。

アッカド語からアラム語への変化は、記録媒体の変化をも伴っていた。アッカド語が[[楔形文字]]で粘土板に筆記されたのに対し、アラム語は[[アラム文字]](アルファベット)で[[羊皮紙]]や[[パピルス]]などに筆写された<ref name="高階1985pp288-293"/><ref name="渡辺1998p355"/>。このためアラム語は楔形文字で筆記される言語に比べ早く書くことができ、また書写材の制限も少なかったことが普及の大きな要因であった<ref name="高階1985pp288-293"/>。しかし、これらは粘土板に比べて耐久性に劣ったため、アラム語で書かれた文書の多くは風化し現代に残されていない。このためにアッカド語が衰退しアラム語に切り替わっていった前1千年紀後半は、現地史料が極めて乏しくなっている。楔形文字による記録は少なくともバビロンとウルクではセレウコス朝、更にパルティア時代まで続いたが、この時代のアッカド語文書はもはや口語としてのアッカド語が死語となり、日常言語が完全にアラム語に切り替わっていたことを示している<ref name="大戸1993p332">[[#大戸 1993|大戸 1993]], p. 332</ref>{{refnest|group="注釈"|大戸千之はヘレニズム時代のウルクにおける粘土板文書について以下のように述べる。「ヘレニズム期ウルクの粘土板文書についてみるならば、アッカド語に通じた書記の手になるものとは考えがたいところがある。つまり、書きまちがいが少なくないということだ。それは格変化を誤ったり、性をとりちがえたりするというにとどまらず、複数人称の動詞語尾をつけるのに名詞のそれとまちがったりするほどのものであるという。(中略)当時日常の言語は、くりかえしいうようにアラム語であったと考えられる。粘土板契約文書の中には、一部にアラム語が数語、ぞんざいに書き込まれている例がある。これはいうまでもなく当事者のメモであって、楔形文字で書くということは、やはり特別のことなのだ、と感じさせる<ref name="大戸1993p336">[[#大戸 1993|大戸 1993]], p. 336</ref>。」}}。

アレクサンドロス3世による征服の後には[[ギリシア語]]も一部に普及した。しかし、アラム語と同様に羊皮紙やパピルスに筆記されたその文書は現代には残されていない。これらの文書が「かつて存在したこと」だけが、その文書を保管するために用いられていた封印が多数残されていることによって理解される<ref name="大戸1993p332"/>。

=== その他の言語 ===
かつてバビロニアで使用されていたであろうその他の言語は、筆記法を持たなかったためにその人名や神名のような固有名詞や極一部の単語を除き、詳細を知る術がほとんどない。前2千年紀前半にバビロニアを席巻した[[アムル人]](アモリ人)の諸部族が話していた言語は[[アムル語]]と呼ばれているが、この言語で書かれた文書は存在しない<ref name="オリエント事典アモリ人">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp.29-30. 「アモリ人」の項目より。</ref>。アムル語は西セム語に分類され、アラム語や[[ヘブライ語]]と密接な関わりを持っていると考えられている<ref name="オリエント事典アモリ人"/>。

前16世紀以降、バビロニアを統一する王朝を作り上げた[[カッシート人]]たちの言語([[カッシート語]])もバビロニアで使用されていたはずであるが、情報源はアッカド語文中に登場する僅かな数の固有名詞と単語に限られるため、どのような言語系統に属するのか明らかではない<ref name="前田ら2000p79">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 79</ref>。かつては[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ語]]の一つとされたこともあるが、現在では支持されていない<ref name="渡辺1998p275"/>。


==歴代君主==
==歴代君主==
=== バビロン第1王朝(古バビロニア)===
[[Image:Hammurabi's Babylonia Locator Map 1.svg|right|thumb|300px|ハンムラビ バビロニア, 紀元前1792年 - 紀元前1750年]]
===バビロン第1王朝(古バビロニア)===
#[[スムアブム]](前1894年 - 前1881年)
#[[スムアブム]](前1894年 - 前1881年)
# {{仮リンク|スムラエル|en|Sumu-la-El}}(前1880年 - 前1845年)
# {{仮リンク|スムラエル|en|Sumu-la-El}}(前1880年 - 前1845年)
110行目: 284行目:
* {{仮リンク|カシュシュ・ナディン・アッヘ|en|Kashshu-nadin-ahi}} (前1007年 - 前1004年)
* {{仮リンク|カシュシュ・ナディン・アッヘ|en|Kashshu-nadin-ahi}} (前1007年 - 前1004年)


===バ王朝(バビロン第6王朝)===
===バ王朝(バビロン第6王朝)===
* {{仮リンク|エウルマ・シャキン・シュミ|en|Eulmash-shakin-shumi}} (前1003年 - 前987年)
* {{仮リンク|エウルマ・シャキン・シュミ|en|Eulmash-shakin-shumi}} (前1003年 - 前987年)
* {{仮リンク|ニヌルタ・クドゥルリ・ウスル|en|Ninurta-kudurri-usur I}} (前987年 - 前985年)
* {{仮リンク|ニヌルタ・クドゥルリ・ウスル|en|Ninurta-kudurri-usur I}} (前987年 - 前985年)
118行目: 292行目:
* {{仮リンク|マール・ビティ・アプラ・ウスル|en|Mar-biti-apla-usur}} (前984年 - 前977年)
* {{仮リンク|マール・ビティ・アプラ・ウスル|en|Mar-biti-apla-usur}} (前984年 - 前977年)


=== バビロンE王朝(バビロン第8王朝 / バビロン第9王朝) ===
=== バビロンE王朝(バビロン第8王朝 / バビロン第9王朝)===


* {{仮リンク|ナブー・ムキン・アプリ|en|Nabû-mukin-apli}} (前977年 - 前942年)
* {{仮リンク|ナブー・ムキン・アプリ|en|Nabû-mukin-apli}} (前977年 - 前942年)
140行目: 314行目:
* {{仮リンク|ナブー・ムキン・ゼリ|en|Nabu-mukin-zeri}}({{lang|en|Bīt-Yakin}}, King of the Sealand, 『海の国の王』の意)/アッシリア王による兼任又は傀儡王、並びにカルデア人による一時的な独立王。
* {{仮リンク|ナブー・ムキン・ゼリ|en|Nabu-mukin-zeri}}({{lang|en|Bīt-Yakin}}, King of the Sealand, 『海の国の王』の意)/アッシリア王による兼任又は傀儡王、並びにカルデア人による一時的な独立王。


===バビロン第10王朝 ===
=== バビロン第10王朝 ===
{{main|[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア帝国]]|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア帝国の歴代君主]]}}
{{main|[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア帝国]]|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア帝国の歴代君主]]}}
* [[ティグラト・ピレセル3世]](プル(アッシリア王))
* [[ティグラト・ピレセル3世]](プル(アッシリア王))
158行目: 332行目:
* {{仮リンク|カンダラヌ|en|Kandalanu}}(アッシリア王[[アッシュールバニパル]]?又は彼の兄弟、配下)
* {{仮リンク|カンダラヌ|en|Kandalanu}}(アッシリア王[[アッシュールバニパル]]?又は彼の兄弟、配下)


===新バビロニア(カルデア)===
===新バビロニア(バビロン第11王朝、カルデア)===
{{main|新バビロニア}}
{{main|新バビロニア}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references/>
<references group="注釈"/>

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
=== 原典史料 ===
* {{Cite book|和書|translator=[[中田一郎]] |title=原典訳 ハンムラビ「法典」 |date=1999-12 |publisher=[[リトン]] |series=古代オリエント資料集成ⅰ |isbn=978-4-947668-41-7 |ref=ハンムラビ法典}}
* {{Cite book|和書|translator=[[山田雅道]] |chapter=マルドゥクの預言|title= 古代のオリエントと地中海世界 |date=2012-7 |publisher=[[岩波書店]] |series=世界史史料1 |pages=46-47 |isbn=978-4-00-026379-5 |ref=マルドゥクの預言}}
* {{Cite book |和書 |translator=[[伊藤義教]]|title=古代ペルシア |chapter=ベヒストゥン碑文|publisher=[[岩波書店]] |date=1974-1 |isbn=978-4007301551 |ref=ベヒストゥン碑文 }}

=== 二次資料(書籍) ===
* {{Cite book |和書 |author=[[伊藤義教]]|title=古代ペルシア |publisher=[[岩波書店]] |date=1974-1 |isbn=978-4007301551 |ref=伊藤 1974 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[大戸千之]] |title=ヘレニズムとオリエント |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |date=1993-5 |isbn= 978-4-623-02271-7 |ref=大戸 1998 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[小川英雄]] |title=オリエント世界の発展 |chapter=5 地中海アジアの隷属|series=世界の歴史4|publisher=[[中央公論社]]|date=1997-7|pages=159-192|isbn=978-4-12-403404-2 |ref=小川 1997}}
* {{Cite book |和書 |author=[[小口和美]] |chapter=古代文明への視点 文明の美と形 人々の暮らしと遊び2 |title=NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア |publisher=[[NHK出版]] |date=2000-7 |pages=144-145|isbn=978-4-14-080533-6 |ref=小口(和) 2000 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[小口裕通]] |chapter=シャムシ・アダド1世とその王国の興亡 |title=NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア |publisher=[[NHK出版]] |date=2000-7 |pages=188-204|isbn=978-4-14-080533-6 |ref=小口(裕) 2000 }}
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* {{Cite book |和書 |author=[[ピョートル・ビエンコフスキ]]|author2=アラン・ミラード編|translator=[[池田裕]]、[[山田重郎]]監訳、[[池田潤]]、[[山田恵子]]、[[山田雅道]] |title=大英博物館版 図説 古代オリエント事典 |publisher=[[東洋書林]] |date=2004-7 |isbn=978-4-88721-639-4 |ref=オリエント事典 2004 }}

=== 二次資料(洋書) ===
* {{Cite book |洋書 |author=ピーター・クリステンセン(Peter Christensen)|translator=スティーヴン・サンプソン(Steven Sampson)|title=The Decline of Iranshahr: Irrigation and Environment in the Middle East, 500 BC-AD 1500 |publisher=Tauris Academic Studies |date=2016-4 |isbn=978-1-78453-318-2 |ref=Christensen 2016 }}(ペーパーバック版。原著:1993年、)

=== 二次資料(Web) ===
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==関連項目==
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2018年5月27日 (日) 17:35時点における版

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バビロニア古希: Βαβυλωνία: Babylonia)、またはバビュロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川ユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域。南北は概ね現在のバグダード周辺からペルシア湾まで、東西はザグロス山脈からシリア砂漠アラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。その中心都市バビロン旧約聖書に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部のシュメール地方と北部のアッカド地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた[1]

バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人アッカド人たちはバビロニア南部でウルウルクニップルラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第3王朝がそれに続いた。

前2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つでバビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半にはカッシート人が作った王朝(バビロン第3王朝)が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東のエラムとの戦いによって滅亡した。

前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサルがアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝の王キュロス2世(在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前356年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入場し、また征服の後はバビロンで死去した。

アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の一人セレウコス1世がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点としてティグリス河畔のセレウキアを建設すると、バビロンの重要性は次第に失われて行き、続くパルティア王国(アルサケス朝)時代にはセレウキアとその対岸の都市クテシフォン(テースィフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承されたシュメール語バビロニア語の文学的伝統も途絶えた。

法律文学宗教芸術数学天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、アラム人など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語はシュメール語及びアッカド語(バビロニア語)からアラム語へと移り変わり、アレクサンドロス3世(大王)による征服の後にはギリシア語も普及した。

なお、歴史上のどの時点からをバビロニアと呼び、またそれはいつまでであるのかについて明確な定義があるわけではない。本項では便宜上、バビロン市が史料に初めて登場するアッカド帝国時代前後から、バビロン市が完全に放棄され楔形文字による文字記録が途絶える西暦75年頃までを中心として述べる。

名称

バビロニア(バビュロニア)と言う名称は、その主邑バビロン(バビュローン、古希: ΒαβυλώνBabylṓn)に由来するギリシア語の名前、バビュローニアー古希: ΒαβυλωνίαBabulōnía) から来ている[2][3]。従ってこれは外部からの呼称であり、現地においてギリシア語のバビュローニアーに完全に対応する地理概念が当初より存在したわけではない。なお、ギリシア人ローマ人はしばしばアッシリア(アッシュリア)とバビロニアを混同している[2]

バビロニアに相当する地域は、現地では南部のシュメールと北部のアッカドと言う二つの地域として認識されていた[3][4]。この二つの地名に由来する称号が「シュメールとアッカドの王シュメール語lugal ki.en.gi ki.uriアッカド語/バビロニア語Šar māt šumeri u akkadi)」であり、ウル第3王朝の王ウル・ナンム(在位:前2112年-前2095年)の時代に初めて登場して以来、バビロニア、メソポタミアの広い範囲を統治する王たちによって好んで用いられた[5]。シュメールとアッカドと言う二つの土地(シュメールとアッカドの地)からなると伝統的に認識されていた地域は、カッシート朝(バビロン第3王朝、前15世紀頃-前1155年)の時代にはカルドゥニアシュ英語版Karduniaš)と言う名称の下で政治的統一体として認識されるようになった[6]アケメネス朝の王ダレイオス1世(在位:前522年-前486年)が残したベヒストゥン碑文には、彼が支配する国々の一つとしてバービル(バービルシュ、Bābiruš)と言う名でバビロニアが言及されている[7]

地理

復元されたバビロンの都

バビロニアの地理的範囲は、現在のイラクティグリス川ユーフラテス川に挟まれたいわゆるメソポタミアの下流域である。南北は概ね現在のバグダードからペルシア湾までの範囲であり、東西はザグロス山脈からシリア砂漠アラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。バビロニアの最南部は湿地帯であり、人々は陸上のみならず海上で小舟の上で生活を送っていた[1]。メソポタミアのバグダードよりも上流域の地方はアッシリアと呼ばれた[4]。そしてバビロニアの東側、現在のイラン南西部にはエラムと呼ばれる地域があり[8]、いずれも有力な勢力としてバビロニアの政治・文化・歴史に大きな影響を及ぼした。バビロニアの西側には砂漠地帯が広がっている。これは砂砂漠ではなく、小礫を含んだ岩砂漠地帯であり、ユーフラテス川に合流する多数のワジ(涸れ河)とオアシスがあり、遊牧民の活動地帯であった[4]。バビロニアはティグリス川とユーフラテス川の沖積平野であり、起伏に乏しい広大な平原が広がっている[1][9]。バビロニアの北端部分にあたるバグダード周辺から南端部のバスラまでの高低差は極僅かであり、山の迫る北部メソポタミアのアッシリア地方とは異なる景観を有している[9]

現代の最南部の湿地帯で葦で造られた集会場の内部。シュメールの時代から大きくは変わらない様式で建造されている。

バビロニアを含むメソポタミア地域の地理・気候の条件が当時どのような物であったのかと言う予測は、ほとんど現在の状況からの投影に基づいている[10]。ただし現在見られるイラク南部の景観は少なくとも部分的には数千年に渡る人類の活動の結果である[10]

この地域の気候は直近の1000年と大きく変化してはいないと予想され[10]、年間雨量100ミリ以下という乾燥地帯であることに特徴づけられる[4]。これは乾地農業の理論的限界を下回っており、人々は収穫を得るために灌漑農業を発達させた[10][1][9]。灌漑のための水源はこの地域を縦断するユーフラテス川とティグリス川であったが、エジプトナイル川と異なりこの両河川を効果的に利用するには多くの困難があった。原因の一つは両河川の増水と減水のサイクルが、農作業のサイクルと一致しなかったことである[10]。この地域では通常10月から11月に播種し、4月から6月にかけて収穫が行われる[10]。しかし、ティグリス・ユーフラテス両河は毎年春、3月から4月頃にかけて雪解け水によって増水・氾濫し[9]、水量が最大になるのはティグリス川が4月、ユーフラテス川が5月である[10]。だが、この時期は既に灌漑を必要とせず、むしろ洪水の脅威をもたらした[10]。逆に両河川の流量が最小となるのは8月から9月にかけてであり、灌漑用水がこれから必要になる時期である[10]。このためにバビロニアでの灌漑農業には水量が減少する時期に灌漑用水をくみ上げて農地に導入するための運河の建設とメンテナンスが欠かせないものであった[11]。また春に多発した洪水の惨禍から畑を保護するために堤防や貯水池も準備しなければならなかった[11]

この地域の農業に困難をもたらしたもう一つの要因は極めて傾斜の緩いその地勢である。南に進むにつれて川の流れは遅くなり、逆に土砂の堆積量は増大した[11]。増水する春には、流されてきた荒い土砂によって自然堤防が形成される一方、細かい粒子は広い範囲に蓄積されて不浸透性のなめらかな表面を形成し、滞留した水がそれを覆った[11]。このような状況は洪水の際の流路変更の原因となり、大洪水の際には川の流路が完全に変化してしまうこともあった[11]。ティグリス川はサーサーン朝時代の5世紀の終わりに大きな流路変更を経験している[11]。このような地勢のため、灌漑設備や農地からの排水は悪く、また土砂の堆積に対応するために継続的な清掃が必要であった[11]。そして、灌漑用水のうちのかなりの割合が排水ではなく蒸発によって漏出したが、それに伴い地下水位が上昇し、毛細管現象によって地下から表面に出た水に含まれる塩分が深刻な塩害を引き起こしたため、これも定期的な休耕や農地の洗浄を要求した[11]

灌漑用水源としてはユーフラテス川が特に重要であった。これはユーフラテス川に合流する大きな支流がハブール川だけであり、ティグリス川よりも相対的に安定していたためである[10]。ティグリス川はザグロス山脈から流れ込む大ザブ川小ザブ川ディヤラ川などと合流するため、その傾斜の落差と広大な流域面積によって不意の洪水が発生しやすく治水が困難であった[10]。このため人口と農地はユーフラテス川沿いで密であり、ティグリス川沿いでは希薄であった[12]

バビロニアは鉱物資源に乏しく、樹木の植生もナツメヤシタマリスクを中心として木材に適する物に乏しかったため、建造物は一般に日干し煉瓦焼成煉瓦のような容易に手に入るを原材料とする建材で建造され、石は土台にしか用いられなかった[1]。南端部の湿地帯ではシュメール時代から大型の建造物がを用いて建設された。これは20世紀までハワール(マーシュランド)と呼ばれるイラク南部地方で建設されていた葦で造られる集会場とよく似た様式であった[13]。メソポタミアの粘土質の土は、土器を作ることには適しており、前7000年期には土器が普及し始めていた[13]。土器のみならず、のような生活用具や、模型などもみな土から作られた[13]

歴史

編年

バビロニアを含む古代オリエント世界の編年は完全には確立されていない。前1千年紀、特にアッシリア時代についてはアッシュール・ダン3世の治世中に発生した日食が紀元前763年6月15日のものであることが同定できており[14]、豊富な史料と組み合わせて現在の暦と接続された絶対年代が割り出されている。しかし、前2千年紀については、高年代説、中年代説、低年代説と呼ばれる3つの主要な説が存在し、未だ絶対年代は確定されていない[15]。それぞれの学説において、現代の暦におけるハンムラビ王の在位は前1848年-1806年(高年代説)、前1792年-前1750年(中年代説)、前1728年-前1686年(低年代説)となる引用エラー: 冒頭の <ref> タグは正しくない形式であるか、不適切な名前です。本節では最も頻繁に使用される中年代説に基づいて記述を行うが引用エラー: 冒頭の <ref> タグは正しくない形式であるか、不適切な名前です、なお確定的な年代ではないことに注意されたい。バビロニアの編年についての詳細は古代オリエントの編年を参照。

シュメールとアッカド

アッカド帝国(緑)とその周辺

後世バビロニアと呼ばれることになるシュメールとアッカドの地では、前3200年頃には大きな人口を抱え、複雑な社会機構を持つ都市国家が誕生していた[16]。その後、シュメール初期王朝時代(前2900年頃-前2335年頃)にはメソポタミアと周辺の西アジア各地に都市文明が拡散していった[16][17]。初期王朝時代末期の前2500年頃から、おぼろげながらも同時代史料に基づいてその歴史の一部を知ることができるようになる[16][18]。バビロニアは(エジプトを除き)この時代の歴史を文字史料を通じて復元できる唯一の地域である[16][18]

初期王朝時代末期にはシュメール人、アッカド人の都市国家が興亡を繰り返した。これらの都市国家の中でも有力となったものは次第に近隣都市を服属させて地域統合を果たすようになった[19][注釈 1]。そのような都市国家にはキシュニップルアダブシュルッパクウンマウルクウルなどがある[19]。これらの都市国家では王権が強化され特定の家系に王位が独占されていくとともに[21]、各国の間で領土や覇権を巡って相互に激しい争いが行われた[22]。この時代の都市国家の争いと覇権の移り変わりは、前21世紀頃に成立した『シュメール王朝表[注釈 2]』において、歴代王朝の覇権交代と言う形の伝承にまとめられている[23]。これは同時代に存在していた有力な都市国家全てに触れてはいないし、またそれぞれが順番に覇権を握っていったという体裁をとるが、実際にそのように整然と勢力が交代したわけではない[23]

こうした都市国家群は前24世紀半ばにウンマ王で後にウルクに拠点を遷したルガルザゲシによって大部分が征服され初めて統合された[24]。このルガルザゲシの王国は、アッカド市(アガデ)の王サルゴン(シャル・キン)によって打倒された[25]。サルゴンが建設した王国はアッカド帝国とも呼ばれ、一般に初の統一王朝として扱われる[25]。バビロニアの中枢となる都市、バビロン(バーブイル/バーブ・イリ Bābili)は後世の史料ではこのサルゴン王によって建設されたという[26]。しかし、これは一つの伝説であり、同時代史料におけるバビロンの初出はアッカド帝国最後の王、シャル・カリ・シャッリ(在位:前22世紀頃)の時代に建造された神殿の定礎碑文である[26]

アッカド帝国は地中海沿岸地域にいたるまでユーフラテス川とティグリス川の流域を征服し、サルゴン王は「世界の王(シュメール語:LUGAL KIŠ、アッカド語:šar kišš ati[27]ナラム・シン王の時代には「四方領域の王(シュメール語:LUGAL ki-ib-ra-tim ar-ba-im)」などの称号を採用し、都市国家を超えた領域を支配する王権観を発達させていった[28][29]。アッカド帝国による統合は、シャル・カリ・シャッリの治世の後崩壊した。『シュメール王朝表』は彼の治世の後、「誰が王であり、誰が王でなかったか」と言う文章で書き始めている[30]。後世の伝承はアッカド帝国の崩壊とその後の混乱を蛮族グティ人の侵入の結果として描写するが、その史実性は疑わしいとされる[31]。この混乱と分裂は前22世紀の終わり頃、ウルクの将軍でウルの王となったウル・ナンム(ウル・ナンマ、在位:前2112年-前2095年)による統合で終止符が打たれた[32][33]。これをウル第3王朝と呼ぶ[32]

ウル・ナンムは現在知られる限り後世バビロニアの支配者によって繰り返し使用される「シュメールとアッカドの王」と言う称号を用いた最初の王である[5][34]。また、記録に残る最初の法典編纂が行われた(ウル・ナンム法典)[35]。これは後に古バビロニア時代に行われる各種の法典編纂に先行するものである[35]。この頃には正義(シュメール語:nig-si-sá)の観念も整備され、後のバビロニアの王が従うべき道徳規範も形作られて行った[35]。しかし、ウル第3王朝自体は100年余りしか存続しなかった。シュ・シン(在位:前2037年-前2029年)の時代には西方からメソポタミアに移住していたアムル人(アモリ人)の勢力が増し、その影響で辺境において徴税が不可能になっていることを訴える現地司令官の報告が残されている[36]。また東方ではエラムザブシャリ国を中心として反乱を起こしていた。シュ・シンは恐らくこの反乱を鎮圧したが[36]、次の王イビ・シン(在位:前2028年-前2004年)の時代にはイシン市でアムル人の将軍イシュビ・エッラがウル第3王朝から事実上自立し、その力は大きく衰えた[36]。そしてイシュビ・エッラとの争いや他のアムル人諸部族の反抗の中で、エラムが再び反逆し前2004年にウルを占領した[37]。これによってウル第3王朝は滅亡した。

古バビロニア時代

ハンムラビ王時代のバビロン第1王朝

ウル第3王朝の滅亡(前2004年)から、バビロン第1王朝の滅亡(前1595年)までの時代は古バビロニア時代と呼ばれている[38]。 更に、群雄割拠の時代(前期)と、バビロンによる統一の時代(後期)に二区分し、前期をイシン・ラルサ時代、後期をバビロン統一王朝時代、またはハンムラビ王国時代と区分するのが一般的である[38]

イシン・ラルサ時代

ウル第3王朝滅亡後のメソポタミアでは、移住したアムル人たちが各地に王国を作り上げていった。この時代に有力勢力として現れる王国のほとんどはアムル系の王国である[39]。これらの中でも、イシュビ・エッラが作り上げたイシン第1王朝と、ナプラヌムと呼ばれるアムル人が王朝を作ったラルサが中心となって覇権争いを演じた[40]。当初はイシンが最も有力であったが、第5代王リピト・イシュタル(在位:前1932年-前1903年)の時代には、ラルサがやはり第5代のグングヌム(前1932年-前1906年)王の下で強大化し、イシンを圧倒した[40]。イシンの第2代王シュ・イリシュや、グングヌム以降のラルサ王はかつてのウル第3王朝時代の称号「シュメールとアッカドの王」を再び用いている[41]

この頃にバビロンが次第に成長し、南部メソポタミアに台頭し始める。バビロンはウル第3王朝時代には知事が派遣されていたことなどが記録に残るが、イシン・ラルサ時代の初め頃までは一地方都市に過ぎなかった[42]。この時代のバビロンの遺跡は地下水のために満足な調査が行われていないが、それでもこの都市がさしたる重要性を持っていなかったことは理解される[42][43]。前1894年頃、アムル人の首長スム・アブム、またはスム・ラ・エルがこの都市を拠点として王朝を開いたとされる[43][44][注釈 3]。これがバビロン第1王朝である。バビロン第1王朝の王たちはイシン第1王朝や南方から勢力を拡大するラルサと戦いつつ周辺地域に勢力を拡大したが、ハンムラビ(在位:前1792年-前1750年)が即位した時もなお、ささやかな領土を持つに過ぎなかった[45]

ハンムラビの即位時、バビロンの南では既にイシンを滅ぼして南部メソポタミアの大部分を支配下に置くラルサ、東ではエシュヌンナ、北ではアッシリアを支配下に置くシャムシ・アダド1世の「上メソポタミア王国」が大きな勢力を持っていた[46]。特にシャムシ・アダド1世は当時メソポタミアで最も強大な勢力を誇った君主であり、その王国は北部メソポタミアの広い範囲に及んでいる[47]。ハンムラビは即位時にはシャムシ・アダド1世の宗主権の下にあり、その支援を得てラルサやエシュヌンナと戦っていた[48][46][49]。シャムシ・アダド1世は前1781年頃に死亡した。彼の死亡は当時のメソポタミアにおける一大事であり、エシュヌンナのような外国においてもこの年の年名は「シャムシ・アダド1世が死んだ年」と名付けられている[50]。彼の死後、「上メソポタミア王国」は急速に瓦解し、メソポタミアには「一人で十分強力な王はいない」とされる状態が訪れた[51]。バビロンのハンムラビ、ラルサのリム・シン1世、エシュヌンナのイバル・ピ・エル2世カトナアムト・ピ・エルマリジムリ・リム、そしてヤムハドアレッポ)のヤリム・リムなどが有力な王として数えられた[52]。長期にわたる戦いを経て、ハンムラビはその治世中にラルサ、エシュヌンナ、マリを征服し、南部メソポタミアの全域を支配下に置いた[53]。彼自身が主張するところによれば、更にアッシリアまでも征服したとしている[53]

バビロン第1王朝時代

§196 もしアウィールム[注釈 4]がアウィールム仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。

§197 もし彼がアウィールム仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。
§198 もし彼がムシュケーヌムの目を損なったか、ムシュケーヌムの骨を折ったなら、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。
§199 もし彼がアウィールムの奴隷の目を損なったかアウィールムの奴隷の骨を折ったなら、彼は彼(奴隷)の値段の半額を支払わなければならない。
§200 もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。

§201 もし彼がムシュケーヌムの歯を折ったなら、彼は銀3分の1マナ(約167グラム)を支払わなければならない。
- ハンムラビ法典[54]
ハンムラビ法典

ハンムラビは征服事業と並行して、戦乱で荒廃した運河網を整備拡充するとともに[55]ハンムラビ法典と呼ばれる法典碑を作らせた。このハンムラビ法典は、商業、農業、犯罪、結婚、相続など、社会経済の多様な領域に対する「条文」を含んでおり、「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理でも名高い。この「法典」は多数のコピーが作成され広く行き渡ったが、実際には模範判例集に近いものであり、これに基づいて裁判を行ったような記録は現存していない[56][57]。しかし、ハンムラビが領内での裁判を監督し、場合によっては自ら裁定を下していたことは、現存する多数の裁判記録によって明らかとなっている[57]

ハンムラビの死後、バビロン第1王朝の王たちは反乱と外敵の侵入に対して長く対処しなくてはならなかった。次の王サムス・イルナ(在位:前1749年-前1712年)の即位から程なく、ラルサでリム・シン2世が、エシュヌンナでトゥプリアシュが反乱を起こした[58]。バビロンの年名はこれらに対する勝利を記録しているが、サムス・イルナの治世第20年に至ってもなお反乱勢力に対して「一年に八度の勝利」を記録しているように、その統治は安定しなかった[58]。更にペルシア湾岸地方ではイルマン(イルマ・イルム)という人物が自立し、その後「海の国」と呼ばれる王朝を創立した(「海の国」第1王朝、バビロン第2王朝とも)[59]。更に重要なこととして、サムス・イルナの治世中に初めてカッシュカッシート人)の軍勢への言及が見られる[59][60]。サムス・イルナの次の王、アビ・エシェフ(在位:前1711年-前1684年)は「海の国」に勝利したが、その統治を永続させることはできず、更にその治世にはマリ地方を拠点に「ハナ」王朝が創立された[59]。この王朝の王はカッシート語の名前を持っており、当時カッシート人の集団がユーフラテス川中流域に移住を進めていたことを示す[61]

アビ・エシェフの後の王たちの時代にも継続的にバビロン第1王朝の支配地域は縮小したが、この王朝の崩壊過程は時代が進むにつれ具体的な状況を把握することができなくなる[61]。弱体化していたバビロン第1王朝は最後の王サムス・ディタナ(前1625年-前1595年)の時、突如アナトリアからバビロニアへ長躯遠征を行ったヒッタイトムルシリ1世の攻撃によってバビロンを占領され滅亡した[62][61]。このヒッタイトの遠征が行われた理由についてはよくわかっていない。ヒッタイト人が残した記録にもその意図を推測できるようなものはなく、彼らがバビロニアまでも含む巨大な王国を構築していようとしたとするような説は証明されない[61]。バビロニア人もまた、非常に簡潔な記録を残すに過ぎない[63]。しかし、意図はともかく、結果だけを見ればヒッタイトによるバビロンの占領は一時的なものであり、弱体化したバビロン第1王朝にとどめを刺した事件であった[63]。その後にシュメールとアッカドの地の政治的混乱を収拾して新しい秩序を確立したのはヒッタイト人ではなく、カッシート人であった[63][64][65]

中期バビロニア時代

ヒッタイト人がバビロンを寇掠した後、アッシリアが帝国的な発展を遂げるまでの前1000年頃までの中間期を中バビロニア時代、または中期バビロニア時代と言う[65][66]。この時代区分はまた、メソポタミアにおける後期青銅器時代に対応するが、新バビロニアの成立(前626年)までを中バビロニア時代として扱う学者もいる[67]。この節では前者の区分に従い、アッシリアの興隆までの時期を扱う。この時代にはメソポタミア北部のアッシリアや、その周辺域にあるヒッタイトミタンニエジプトエラムが勢力を拡張し、互いに争いつつ盛衰を繰り返した[65]。これらの諸国の間に密接な関係が構築されていったことから、「国際化の時代」ともされる[65]

カッシート人の王朝

カッシート(バビロン第3王朝)の征服。

前1595年にヒッタイト人がバビロンを去った後、カッシート人がバビロニアを手中に収めるまでの過程は、史料が極度に乏しいため確実に言えることがほとんどない[65]。はっきりしているのは、前1500年頃にはカッシート人の王朝がバビロニアの中核部分を支配下に置いていた事である[68]。このことはカッシート人の王ブルナ・ブリアシュ1世英語版(在位:前1500年頃)がアッシリアのプズル・アッシュール3世(在位:前1500年頃)との間で結んだ国境確定の条約によってわかる[68][69]。ブルナ・ブリアシュ1世の2代後の王、ウラム・ブリアシュ英語版(在位:前15世紀初頭)とその甥のアグム3世英語版(在位:前15世紀初頭)は、「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)も滅ぼしてバビロニア全域を支配した[68]。このカッシート人の王朝がバビロン第3王朝であるが、カッシート王朝、カッシート朝、カッシュ王朝などの呼び名の方がしばしば用いられる[70]

カッシート王朝はバビロニアの王朝としては最も長く400年前後の期間バビロニアの支配権を維持することができ、その支配は前1155年まで続いた[71][68]。その間に周辺諸国との緊密な外交が繰り広げられたことが、それぞれの国で発見された外交書簡などによってわかっている。最も名高いのはエジプトのファラオアクエンアテンの王宮から発見されたいわゆるアマルナ文書で、カッシートの王女のエジプトへの輿入れや、贈答品のやりとり、カナンの地で殺害されたバビロニア商人の問題や、アッシリアとの確執などについての情報が残されている[72][73]

カッシート人は古いバビロニアの文化を継承すると共に、より古いシュメール文化をも掘り起こし、シュメール語を円筒印章に用いるなど、一種の復古主義をもたらした[74]。また、この王朝の時代には従来シュメールとアッカドの地と呼ばれた領域はカルドゥニアシュ英語版Karduniaš)と言う単一の名称で呼称されるようになった[6]。また、年ごとに個別の年名が割り当てられる記録法に代わり、王の統治年数で記録する方法に変わった(年の途中で王が死亡した場合、死亡時までは前王の統治年であり、新王の即位後は即位年(シュメール語:mu-sag-namlugal-ak, 、アッカド語:resh sharruti)と呼ばれ、翌年が新王の「統治第1年」であった[75]

時代とともにアッシリアが強大化し、カッシート朝の後半期にはバビロニア(カッシート)の王とアッシリアの王の戦いの記録が数多く見出される[73]。アッシリアの王トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:前1244年-前1208年)は、碑文の一つでバビロニア王カシュ・ティリアシュ4世英語版を捕らえ、裸にして連行し、バビロンの城壁を破壊したことを誇っている[75]。バビロニアは7年間にわたりアッシリアの支配を受けたが、トゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺されアッシリアが混乱に陥った隙にアダド・シュマ・ウツル英語版(在位:1216年-前1187年)が独立を回復した[76]。しかし、王朝の弱体化は避け難く、アッシリア人と、東方のエラム人からの相次ぐ攻撃によって崩壊へと向かった。前1157年、エラムの王シュトゥルク・ナフンテ英語版はバビロニアを制圧してバビロニア王ザババ・シュマ・イディナ英語版を廃し、自分の息子クティル・ナフンテをバビロニア王に擁立した[75]。ハンムラビ法典碑を含む戦利品もエラムに持ちさられ、カッシート最後の王エンリル・ナディン・アヒ英語版はなお3年間に渡り抵抗を続けたが、前1155年に遂に鎮圧されカッシート朝は滅亡した[75]

イシン第2王朝

私は偉大な主にして運命と決定の主、マルドゥクである。(私以外に)誰がこの旅をしただろうか。私が(それを)命じたのである。私はエラムへ行き、全ての神々が(そこへ)行った。(中略)(新たな)バビロンの王(ネブカドネザル1世)が現れ、すばらしい神殿エクル・サギラを修復する。彼はエクル・サギラ内に天と地の図面を描き、その高さを二倍にする。彼は我が町バビロンに対し解放令を発布する。彼は我が手を取って、〈私を〉我が町バビロンとエクル・サギラへと永遠に入れる。(中略)私ならびに全ての神は彼と和解する。彼はエラムを粉砕し、その町々を粉砕し、その要塞を取り除く。彼はデールの大王を彼のものではない玉座から立ち上がらせ、彼の(もたらした)荒廃を改め、彼の悪を…する。彼は彼の手を取って、彼をデールと(その神殿)エクル・ディムガル・カランマへと永遠に入れる。
- マルドゥクの預言[77]

バビロニアからエラム勢力を一掃したのは、イシン市でマルドゥク・カビト・アヘシュ英語版(在位:前1157年-前1140年)が新たに打ち立てた王朝であった[78]。これをイシン第2王朝、またはバビロン第4王朝と呼ぶ[78][79]。イシン第2王朝は、第2代のイッティ・マルドゥク・バラト英語版(在位:前1139年-前1132年)の時代には既にバビロンを首都として周辺地域を支配下に置いていたと見られる[76]。この王朝は短命であったが、その王ネブカドネザル1世(ナブー・クドゥリ・ウツル1世、在位:前1124年-前1103年)はエラムに侵攻し、カッシート朝滅亡時に奪い去られていたマルドゥク神像を取り戻したことで名高い[79]。彼の功績を称揚する歴史文学が後世のコピーによって知られている[78]。どの程度史実に忠実であるのかは不明であるが、この頃から神々の王としてバビロンの都市神マルドゥクの地位が高められ、次第にパンテオンの最高位に置かれるようになっていった[78]

マルドゥク・ナディン・アヘ英語版(在位:前1099年-前1082年)の時代には、アッシリアの王ティグラト・ピレセル1世との戦いに敗れ、イシン第2王朝は大いに弱体化した[78][76]。その後出自不明の王が相次ぎ、この王朝は前1026年に滅亡した[80][76]。にもかかわらず、この混乱期にはアッシリアとの友好関係が保たれた。これは西方のアラム人カルデア人の流入が両国にとって共通の脅威となっていたためと考えられる[80]

イシン第2王朝の崩壊と前後して、バビロニアでは短命の王朝がいくつも登場した。『バビロニア王名表』の記述に従えば、3人の王からなる「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝、前1024年-前1004年)、やはり3人の王からなるバズ王朝(バビロン第6王朝、前1003年-前984年)、そして単独の王マルビティ・アプラ・ウツル英語版からなるエラム王朝(バビロン第7王朝、前983年-前978年)である[81]。この間の詳細は詳らかでない。

アッシリア帝国の時代

アッシリアの帝国

前1000年期初頭のバビロニアの歴史は『バビロニア王名表』『アッシリア・バビロニア関係史』およびアッシリアの王碑文の部分的な記述からしか復元できず、極めて断片的にしかわからない[82]。前1000年期初頭の250年余りの期間はE王朝(バビロン第8王朝、前977年-前732年)と呼ばれ、ある程度国力を回復したであろうことが、アッシリアとの国境争いの記録から読み取れる[83][82]。バビロニアとアッシリアはおよそ100年余りの間均衡していたが、前9世紀後半にはアッシリアが強大化する一方でバビロニアは混乱し、南部と東部におけるアラム人やカルデア人の諸部族の侵入を抑え込むことができなかった[82]。この王朝の末期の王、ナブー・ナツィル英語版(ナボナサル、在位:747年-734年)の治世から『バビロニア年代誌』がバビロニアの重要な政治的事件を記録し始める[82]。この王の治世のすぐ後にはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服し、アッシリアによるバビロニア支配がはじまった[82]。アッシリア時代のバビロニアについては各種の膨大な史料が残されており、詳細な政治史が復元されている[82]

アッシリアの支配

前8世紀後半から前7世紀初頭にかけて、アッシリアは北はアナトリア半島南東部、西・南はエジプト、東はエラムに至る地域を支配する帝国を構築していった(アッシリア帝国/新アッシリア)。この時代のバビロンの王は『バビロニア王名表』にまとめられており、これをバビロン第9/第10王朝とする。[84]。バビロン第9王朝の最初の王とされているのはアラム人とみられるナブー・ムキン・ゼリ英語版(在位:前731年-前729年)であり、彼の治世前後からバビロニアにおけるアラム語使用の痕跡が確認され始める[84]。その次の王はプルとされている。これはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前728年-前727年[注釈 5])を指す。ティグラト・ピレセル3世はナブー・ムキン・ゼリからバビロンの支配権を奪った経緯、そしてマルドゥク神像の手を握る儀式を行って正式にバビロニアの王として即位したことを記録に残している[84]

ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服した後、アッシリアが滅亡するまでの間のほとんどの王の時代にバビロニアでは反乱が発生した。アッシリアでサルゴン2世(シャル・キン2世、在位:前721年-前705年)が即位した時、バビロニアではカルデア人部族の首長メロダク・バルアダン2世(マルドゥク・アプラ・イディナ2世、在位:前721年-前710年)がエラム王フンバニガシュの支援を受けてバビロン市を掌握し、アッシリアから自立してバビロニア王となった[85][86]。最終的に彼の反乱はサルゴン2世によって鎮圧されたが、反乱は12年余りに及び、鎮圧後もメロダク・バルアダン2世は生き残ってエラムへと逃亡し、再起の機会を待った[85][86]。アッシリアでサルゴン2世が死に、センナケリブ(シン・アヘ・エリバ、在位:前704年-前681年)が即位すると、マルドゥク・ザキル・シュミ2世英語版(在位:前703年)が再び反乱を起こし、その後にはエラムから舞い戻ったメロダク・バルアダン2世(在位:前703年)が反乱を継続した[87][86]。メロダク・バルアダン2世は最終的にキシュ平野の戦いでセンナケリブに敗れ、その後再起の機会は訪れなかった[87][86]。センナケリブは新たなバビロニア王として「宮殿で小犬のごとく」成長したベル・イブニ英語版(在位:前702年-前700年)を王に据えたが、センナケリブの期待に反してベル・イブニも反逆者となった[86]。センナケリブはこの反乱も鎮圧し、今度はバビロニア王として自身の息子アッシュール・ナディン・シュミを据えた[86]。しかし、アッシュール・ナディン・シュミはエラムの襲撃とバビロニアで発生した反乱によってエラムに連れ去られ行方不明となってしまった[86][88]。センナケリブは息子の犠牲と言う事態に再度のバビロン征服に乗り出し、前689年にバビロン市を破壊して毎年の新年祭を禁止した[86][89]

センナケリブによって破壊されたバビロンは、彼の後継者エサルハドン(アッシュール・アハ・イディナ、在位:前680年-前669年)によって再建された[88][注釈 6]。彼は即位後すぐに再建事業に取り掛かり、バビロニアへの優遇処置を矢継ぎ早に打ち出して民心の掌握に努めた[91]。これが功を奏してか、エサルハドンはアッシリア帝国時代の王としては例外的にバビロニアの反乱に相対することがなかった[91]。メソポタミアにおいて圧倒的な求心力を誇ったバビロン市を中心とするバビロニアは、アッシリアにとって格段の配慮と警戒を要する支配地域であった[92]。再建されたバビロンは、その政治的・宗教的な卓越性に加え、各種の特権を与えられ、国際商業の中枢として反映の時代を迎えた[92]。バビロニアのロスチャイルドとも呼ばれる古代の大商人エギビ家の活動も、この時代のバビロニアで開始されていた[92]

エサルハドンはその死に際し、自分の王国をアッシュールバニパル(在位:前668年-前627年)とシャマシュ・シュム・ウキン(在位:前667年-前648年)と言う二人の王子に分割して継承させることを決定した。その規定ではアッシュールバニパルがアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王にそれぞれ即位し、前者が優越するものとされた[93]。その後実際にこの定めの通りに王位が継承された。少なくとも前651年までは平穏が保たれた[94]。アッシュールバニパルはバビロンに建てた石碑にこの兄弟の名前を刻む配慮を示したが、アッシリア王に対するバビロニア王の従属的地位は明らかであり、このことに不満を持っていたであろうシャマシュ・シュム・ウキンは前651年にエラムなど周辺諸勢力を引き込んで反乱を起こした(兄弟戦争[95][96][97]。この反乱は3年に渡り続いたが、最後にアッシュールバニパルが勝利を収め、前648年に包囲されたバビロンでシャマシュ・シュム・ウキンは死亡した[98]。その後はカンダラヌ(在位:前647年-前627年)と言うバビロニア王の称号を与えられた代官が赴任してバビロニアを統治した[98]

新バビロニア(カルデア)

新バビロニアの勢力範囲

アッシュールバニパルの没後、アッシリアの政局は混乱に陥ったらしく短期間に何人もの王が交代する事態となった[99]。王位争いは最終的にシン・シャル・イシュクン(在位:前623年-前612年)が勝利して終わったが、この混乱に乗じて「海の国」の首長とされるカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がバビロニアの支配権を握りアッシリアの支配から離脱した[99][注釈 7]。彼が打ち立てた王朝は新バビロニア(バビロン第11王朝)、またはカルデア王国と呼ばれる。ナボポラッサルは鎮圧のために派遣されたアッシリアの軍勢をバビロニアから排除することに成功し、更に東方のメディア人と同盟を結んでアッシリア本国に攻撃をかけ、前612年にはその首都ニネヴェを陥落させることに成功した[102]。アッシリアの残党はなおハッラーンに逃れて抵抗を続けたが、前609年にはこれも終わり、全メソポタミアがバビロンの支配の下に入った[102][103][104]

ナボポラッサルは更に王太子ネブカドネザル2世(ナブー・クドゥリ・ウツル2世、在位:前604年-前562)に、アッシリア残党を支援したエジプト第26王朝)を攻撃させ、前605年にカルケミシュの戦いでエジプトを敗退させ、シリアパレスチナを支配下に置くことに成功した[105]。翌年即位したネブカドネザル2世は、旧約聖書にあるバビロン捕囚の実行者としても有名である。彼は前597年にエルサレムを占領すると、その王ヨヤキン他有力者たちをバビロンへと連行し、ゼデキヤを王位につけた[105]。更に前586年にはゼデキヤが反乱を起こしたため、これを討伐して再びエルサレムを占領し、ゼデキヤとユダの人々を連行した[105]。この結果ユダ王国は滅亡した。彼は更にフェニキアの都市ティルスや周辺の王国を攻撃して併呑し、パレスチナはバビロニアの属領となった[105][106]

ネブカドネザル2世はバビロニアにおける建築活動を熱心に行った事が大量に残された建築記念碑文や、その他の文書から知られている[107]。彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高いイシュタル門や、バベルの塔のモデルとなったともされるマルドゥク神殿エサギラジッグラト跡などが含まれ、また現在発掘調査が行われているバビロン市の遺構は大部分が彼の治世のものである[108]

最後の王ナボニドゥス(ナブー・ナイド、在位:前555年-前539年)は、祭祀に没頭し政治を顧みなかったとされる[109]。彼は月神シンの崇拝に没頭し、バビロンの南西800キロにあるアラビアのオアシス都市テイマに10年に渡って滞在するという不可解な行動をとった[109][110]。この都市はウルやハッラーンと並ぶ月神信仰の中心地であった[111]。本国の政治は王太子ベルシャザル(ベル・シャル・ウツル)に任された[112]

この頃、イラン高原ではメディアを打倒したアンシャンの王キュロス2世(クル2世、在位:前559年-前530年)が新たな世界帝国を築きつつあった。これは一般にアケメネス朝やペルシア帝国などと呼ばれる。前540年までにはエジプトを除くバビロニアの周辺諸国はアケメネス朝の支配下に落ちていた。テイマ周辺の遊牧民の族長たちもキュロス2世になびき、ナボニドゥスはテイマを放棄して本国へ帰還せざるを得なかった[113]。前539年3月にはキュロス2世はバビロニアに侵攻し、ナボニドゥスは迎撃したが国内からは離反者が相次いだ[114]。10月10日にシッパルが陥落し、アケメネス朝の軍勢は10月12日にはバビロンへ達した[115]。同日中にバビロンは無血開城し、シッパル陥落の報に接して逃亡したナボニドゥスは遊牧民に捕らわれてバビロンへ差し出された[116]。10月29日、キュロス2世は市民の歓呼の中でバビロンに入城し、バビロニアはアケメネス朝の支配下に入った[116]

アケメネス朝

アケメネス朝(ペルシア帝国)

キュロス2世はバビロニア人からの支持を維持することに腐心し、バビロニアの伝統的な王号である「世界の王」「シュメールとアッカドの王」「四方領域の王」などを採用すると同時に、マルドゥク神とナブー神と言うバビロニアの神がキュロスに王権を与えたことを宣言している[117]。また新バビロニア時代に強制移住によってバビロニアに連れてこられた人々に対し故郷への帰還を許可し、「ナボニドゥスの悪行」によって荒廃した建造物と信仰とを救い出すことを喧伝した[118]。アケメネス朝の支配下にあってもバビロニアの経済的繁栄は継続し、エギビ家のような大商人や銀行家は栄え続けた[119]。キュロス2世はバビロニアを離れる時、息子のカンビュセス2世(在位:前530年-前522年)をバビロンの総督に任命し、彼は父の死までの間平穏に統治することができた[120][121]。前530年にキュロス2世がマッサゲダイとの戦闘中に戦死した後、カンビュセス2世の即位にあたってはバビロニアを含め帝国内は平穏であり目立った反乱は発生しなかった[122]

しかし、カンビュセス2世が死ぬと僭称者とされるスメルディスガウマータ)を排除して王位に昇ったダレイオス1世(ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)は帝国全土で発生した反乱の鎮圧に追われた[123]。バビロニアもこの時反乱を起こした属州の一つであった。ダレイオス1世が残したベヒストゥン碑文の記録などから、バビロニアでは前522年10月にネブカドネザル3世英語版(ナブー・クドゥリ・ウツル3世、ニディントゥ・ベール、在位:前522年)が、そして前521年にはアルメニア人とされるネブカドネザル4世(ナブー・クドゥリ・ウツル4世、アラカ、在位:前521年)が、それぞれ反乱を起こして鎮圧された[124][125][123]。バビロニアはこの反乱にもかかわらず繁栄を維持し、後継者と定められたクセルクセス1世(クシャヤールシャン1世、在位:前486年-前465年)は王の代理人としてバビロンに駐在した[126]

クセルクセス1世が即位した後、バビロニアでは再び反乱が発生した。前482年にバビロニア総督ゾビュラスは暴動の中で殺害され、ベル・シマンニとシャマシュ・エリバと言う人物が王位を主張した[127]。ペルシア軍によって反乱はたちまち制圧されたが、この代償は高くつき、バビロンの城壁、マルドゥク神殿とジッグラトは破壊され、黄金製のマルドゥク神像は融解された[127][128]。クセルクセス1世は、父の代まで用いられてきた「バビロンの王」と言う称号を拒否し、バビロニア属州(バービル)はアッシリア属州(アスラー)と合併させられた[127]

ヘレニズム時代

アレクサンドロス3世(大王)

マケドニアの王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)はギリシア全土の支配権を握り、前334年春にはダーダネルス海峡を越えて東征を開始した[129]。アケメネス朝の最後の王ダレイオス3世(ダーラヤワウ3世、在位:前336年-前330年)はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い(前333年)とガウガメラの戦い(前331年)の敗北によってアケメネス朝は瓦解し、その遺領はアレクサンドロス3世に制圧された[130]インド北西部までを征服したアレクサンドロス3世は前323年にバビロンで病死した[131]。彼の死後、その将軍たちは後継者(ディアドコイ)であることを主張し、互いに争った[132]。バビロンでその遺領の後継を巡る会議が開かれると、主導権を握ったペルディッカスらによって帝国各地の統治分担が決定された[132]。ペルディッカスが内戦と権力闘争に敗れ暗殺されると、前321年にアンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、この結果バビロニアはセレウコス1世(在位:前305年-前281年)の所領となった[132]

この会議において卓越した地位を獲得したのは主導者のアンティパトロスとアンティゴノス1世であった。前319年のアンティパトロスの死後、その後継者となったポリュペルコンはアンティゴノス1世と激しく対立し、長い戦争が繰り広げられることになった[133]。アンティゴノス1世に与したセレウコス1世を、ポリュペルコン麾下の将軍カルディアのエウメネスが攻撃し、前318年10月にバビロンが占領され、セレウコス1世の反撃は失敗した[133]。翌年にアンティゴノス1世の助力を得て北部バビロニアに戻り、前316年にアンティゴノス1世のエウメネス討伐軍に合流してこれを破る事に成功した[133][134]。旧アレクサンドロス王国の大部分を支配下に収めたアンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世を疎んずるようになり、前315年にセレウコス1世はバビロニアを脱してエジプトのプトレマイオス1世の下に身を寄せた[135]。そしてプトレマイオス1世とアンティゴノス1世の戦いに乗じる形で、前311年にバビロニアに舞い戻りその支配権を奪回した[136]。後にセレウコス朝で用いられるセレウコス暦はこの年をもってセレウコス朝の統治の始まりと規定し、数世紀にわたってバビロニアを含むその領土で共通の暦法として用いられた[136]。この戦い(ディアドコイ戦争)の過程で地中海からメソポタミアに至る地域にヘレニズム王朝(アンティゴノス朝プトレマイオス朝リュシマコス朝カッサンドロス朝セレウコス朝)と呼ばれるグレコ・マケドニア系の諸王国が成立した。バビロニアの支配を盤石なものとしたセレウコス1世は、イラン高原全域を支配下に収め、東はインドとの境まで[137]、西は前301年にイプソスの戦いでアンティゴノス1世を破ってシリア・アナトリアまでを支配下に収めた[138]

バビロニアにおけるセレウコス朝時代の極めて重要な変化は、セレウコス1世が新たなバビロニアの中心として新都市、ティグリス河畔のセレウキアを建設したことであった[139]。セレウキア市の建設はセレウコス朝がバビロニアを重視していたからこそであったが[140]、商業的中心としてのバビロンの地位を脅かし、その最終的な放棄へと至る出発点となった[139]。バビロンの人口は徐々に減り始め、その建物の建材はセレウキアでの建設活動に転用された[141]。セレウコス1世の後継者アンティオコス1世(在位:前281年-前261年)はバビロンの神殿建設を続けてはいるが、前275年頃にバビロンの市民にセレウキアへ移住するように命じ、その家屋を没収した[142][143]。この時没収された土地はアンティオコス2世(在位:前261年-前247年)の時代に返還された[144]。セレウコス朝はなおバビロニアの伝統的な宗教に一定の敬意を払った。当時バビロニアでは既にアッカド語(バビロニア語)は口語としては死語となりつつあり、一部ではギリシア語が普及し、そしてより広い範囲ではアラム語が支配的な言語となっていたが、考古学的発見によって、バビロンとウルクの神殿では伝統的なアッカド語(バビロニア語)の楔形文字文書が作成され続けていることがわかっている[145]

パルティアの征服とバビロンの放棄

バビロニアは前141年7月、パルティア(アルサケス朝)の王ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)に征服された。その後、セレウコス朝とパルティアのバビロニア争奪戦の中でバビロンの支配者は何度も入れ替わり、最終的にミトラダテス2世(ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)によってパルティアのバビロニア支配が確定した[146]。この間にバビロンは大きく破壊され、多くの住民がメディアへと連れ去られた[146]

商業的中心がセレウキアと、パルティア人がその対岸に作ったクテシフォン(テースィフォーン)に移った後も、バビロンはなお宗教的中心としての役割は残していた[143]。また、パルティア時代にはいくつかの大型建造物が再建されており[143]、西暦0年代頃にはパルミュラ人商人の居留地がバビロンに建設された[146]。これがバビロン最後の繁栄となり、半世紀後にパルミュラ人たちがセレウキア・クテシフォンへと移動するとともにバビロンは孤立した都市として衰亡の一途をたどった[146]大プリニウスはマルドゥク神殿がなお瓦礫の中に立っており、活動を継続していたことを報告している[143][146]。だが最後に残った神官、学者たちも1世紀の終わりにはバビロンを離れた[143]。西暦116年にパルティア遠征を行い、バビロニアを征服したローマ皇帝トラヤヌス(在位:98年-117年)は、バビロン市の名望に惹かれ遠征の途上でこの都市を訪れたが既に廃墟となっており、アレクサンドロス3世が死去したと伝えられる部屋で犠牲を捧げバビロンを去った[146]

バビロンの終焉と共に、古代シュメール時代から連綿と受け継がれてきた楔形文字による文筆活動は完全に停止し、アッカド語(バビロニア語)も忘れ去られた。その後もバビロニアに相当する地域は中東の経済的中心の一つであったが、バビロニア文化の多くは後のペルシア文化やイスラーム文化に痕跡を残しつつ終焉を迎えた。現在知られている最後の楔形文字によるアッカド語文書は西暦74年または75年の天文記録である[147]

言語と住民

「民族」

バビロニアの歴史では数多くの「民族」が登場し、様々な王朝を打ち立てた。このためしばしばその歴史は「諸民族の興亡」の過程として描かれる[148]。しかし、バビロニア史(さらにはメソポタミア史)に登場する「民族(エトノス)」、例えばシュメール人、アッカド人、カッシート人、アラム人などを日本人、フランス人、ロシア人のような現代の「民族(ネイション)」と同質の物として扱うことに対しては複数の学者が警鐘を鳴らしている[148]。こうしたバビロニアの「民族」を現代の学者が区分する時、しばしばその根拠は彼らが母語としていた(と予想される)言語の分類に依っている[149]。即ちシュメール人とはシュメール語を母語とする人々であり、カッシート人とはカッシート語を母語とする人々という事になる[149]。また、多くの言語は系統毎に分類が行われている(アフロ・アジア語族:セム語に分類されるアッカド語、アラム語など)。

しかし、こうした言語は共同体意識の形成上重要な要素の一つであったと考えられるものの、バビロニアの人々のアイデンティティや共同体意識が言語区分に従って形成されていたことは必ずしも証明されない[150]。少なくともバビロニア(シュメールとアッカドの地)という地域的まとまりが形成される以前のシュメール人たちやアッカド人たちが残した文書からは言語毎にまとまった共同体意識が存在したことを読み取ることはできず、彼らの帰属意識はむしろ各々の都市にあったことが示されている[151]

無論、言語自体は人々を区別する上で重要な要素の一つではあり、例えばアラム人(Aramāya)という用語で呼ばれていた遊牧民の部族集団の主たる言語はアラム語であったと考えられている[150]。だが、この用語は(同義語とみられるストゥ人Sutiu/Sutũと共に)「アラム人ではない者」から用いられる外部からの呼称として登場し、「アラム人」自身が共同体意識を持っていた事は確認されていない[150]。彼ら自信の自己認識・帰属意識を決定していたのは血縁や部族、共通した生活習慣などであったと考えられる[150]。従って、「アラム人」と言う概念は当時より存在したものの、政治的一体性や共同体意識を持った「アラム人」と言う集団が存在していたわけではなく、あくまでアラム系と呼びうる人々の分類が存在したに過ぎない[150]

つまり、バビロニアに登場する様々な「民族」が覇権を争い、あるいは主導権争いをしていたわけではなく、より様々な要素で分類されうる多様な共同体がそれぞれにバビロニアの住民としてその歴史に関わっていたのであり、現代において言語毎に設定された「民族」の分類は古い学説の援用[152]、または便宜上のものである[注釈 8]

文字に残されたバビロニアの言語

アッシリア王エサルハドンによるバビロン再建記念文書

バビロニアはその長い歴史を通じて多数の「民族」が住み着き、多様な言語が使用されていた。しかし、筆記法を備え文字記録によって現代に残されているものは限られている。主要な言語としてまず挙げられるのは、初期王朝時代以前から使用され、楔形文字を直接生み出した系統不明の言語であるシュメール語である。シュメール語は前2千年紀の初頭、少なくともハンムラビ時代頃までには口語としては使用されなくなっていたと考えられる。しかし、学問の言語として、また祈りの言語として文語としては使用され続け、セレウコス朝時代までシュメール語による文書が残されている。バビロニアの歴史上の多くの期間において中心的な言語となったのはアッカド語である。アッカド語はアフロ・アジア語族の中の東セム語に分類される言語であり、アッシリア語バビロニア語は共にこのアッカド語の方言と分類される[153][154]。前2千年紀はアッカド語はオリエント世界の共通語として広く外交言語や商業言語としても用いられ、例えばエジプトで発見されたアマルナ文書からはアッカド語(バビロニア語)の外交書簡が発見されている[155]

同じくアフロ・アジア語族の西セム語に分類されるアラム語は前1千年紀に入ると広く普及し、アッカド語もアラム語から大きな影響を受けた[153]アラム人は、その商業活動による移住とアッシリア帝国時代の強制移住とによってオリエント世界の広範囲に居住するようになり、それに伴いアラム語が広く通じる共通語となっていった[156][157]。この影響を受けて、アッシリアとともにバビロニア人の日常言語も次第にアッカド語からアラム語へと切り替わっていった。既にアッシリア帝国時代には書記が二人一組でアッカド語とアラム語の記録を取る様子が壁画に残されており、アラム語の普及が始まっていたことがわかる[158]。前7世紀頃にはアッカド語で書かれた粘土板の外部に文書の概要をアラム語でメモ書きしたものも見られるようになり、アラム語の普及を示している[156]

アッカド語からアラム語への変化は、記録媒体の変化をも伴っていた。アッカド語が楔形文字で粘土板に筆記されたのに対し、アラム語はアラム文字(アルファベット)で羊皮紙パピルスなどに筆写された[156][158]。このためアラム語は楔形文字で筆記される言語に比べ早く書くことができ、また書写材の制限も少なかったことが普及の大きな要因であった[156]。しかし、これらは粘土板に比べて耐久性に劣ったため、アラム語で書かれた文書の多くは風化し現代に残されていない。このためにアッカド語が衰退しアラム語に切り替わっていった前1千年紀後半は、現地史料が極めて乏しくなっている。楔形文字による記録は少なくともバビロンとウルクではセレウコス朝、更にパルティア時代まで続いたが、この時代のアッカド語文書はもはや口語としてのアッカド語が死語となり、日常言語が完全にアラム語に切り替わっていたことを示している[159][注釈 9]

アレクサンドロス3世による征服の後にはギリシア語も一部に普及した。しかし、アラム語と同様に羊皮紙やパピルスに筆記されたその文書は現代には残されていない。これらの文書が「かつて存在したこと」だけが、その文書を保管するために用いられていた封印が多数残されていることによって理解される[159]

その他の言語

かつてバビロニアで使用されていたであろうその他の言語は、筆記法を持たなかったためにその人名や神名のような固有名詞や極一部の単語を除き、詳細を知る術がほとんどない。前2千年紀前半にバビロニアを席巻したアムル人(アモリ人)の諸部族が話していた言語はアムル語と呼ばれているが、この言語で書かれた文書は存在しない[161]。アムル語は西セム語に分類され、アラム語やヘブライ語と密接な関わりを持っていると考えられている[161]

前16世紀以降、バビロニアを統一する王朝を作り上げたカッシート人たちの言語(カッシート語)もバビロニアで使用されていたはずであるが、情報源はアッカド語文中に登場する僅かな数の固有名詞と単語に限られるため、どのような言語系統に属するのか明らかではない[162]。かつてはインド・ヨーロッパ語の一つとされたこともあるが、現在では支持されていない[66]

歴代君主

バビロン第1王朝(古バビロニア)

  1. スムアブム(前1894年 - 前1881年)
  2. スムラエル英語版(前1880年 - 前1845年)
  3. サビウム(前1844年 - 前1831年)
  4. アピル・シン(前1830年 - 前1813年)
  5. シン・ムバリト英語版(前1812年 - 前1793年)
  6. ハンムラビ(前1792年 - 前1750年)
  7. サムス・イルナ(前1749年 - 前1712年)
  8. アビ・エシュフ(前1711年 - 前1684年)
  9. アンミ・ディタナ(前1683年 - 前1647年)
  10. アンミ・サドゥカ(前1646年 - 前1626年)
  11. サムス・ディタナ英語版(前1625年 - 前1595年)

「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)

  • イルマ・イルム(イルマ,前1732年頃? - ?,60年)
  • イティ・イリ・ニビ(イティリ,56年)
  • ダミク・イリシュ(ダミク・イリ,36年)
  • イシュキバル(15年)
  • シュシュシ(24年)
  • グルキシャル(55年)
  • DIŠ-U-EN (不明)
  • ペシュガルダラマシュ (50年)
  • アダラカランマ (28年)
  • エクルドゥアンナ (26年)
  • メラムクルクッカ (7年)
  • エアガムイル (9年)

初期カッシート王朝(バビロン第3王朝)

  • ガンダシュ
  • アグム1世
  • カシュティリアシュ1世
  • ウシュシ
  • アビラッタシュ
  • カシュティリアシュ2世
  • ウルジグルマシュ
  • ハルバシフ
  • ティプタクジ

カッシート王朝(バビロン第3王朝)

中アッシリア帝国トゥクルティ・ニヌルタ1世による支配:前1235年 - 前1227年)

イシン第2王朝(バビロン第4王朝)

「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝)

バズ王朝(バビロン第6王朝)

エラム王朝(バビロン第7王朝)

バビロンE王朝(バビロン第8王朝 / バビロン第9王朝)

バビロン第10王朝

新バビロニア(バビロン第11王朝、カルデア)

脚注

注釈

  1. ^ 古代メソポタミア史を研究する前田徹は、このような都市国家を中近世のドイツ史における領邦国家(Territorialstaat)の概念を参考に領邦都市国家と命名している[20]
  2. ^ 『シュメール王朝表』と呼ばれるテキスト群は、伝統的には『シュメール王名表』と呼ばれており、こちらの名前で広く知られている。日本においてメソポタミア史研究の先駆者であった中原与茂九郎は、「諸都市王朝による継起的な南部メソポタミア支配がこれらのテキストの基本主題であることに正しく着目してこれらを『シュメール王朝表』と呼んだ」(前川和也)[23]
  3. ^ バビロン第1王朝の初代王は、『バビロン王名表』の記述に基づき「スム・アブム」とするのが通例である。しかし、初代スム・アブムと2代目スム・ラ・エルの間の血縁関係が付記されていないことや、後代のバビロン第1王朝の王たちが先祖に言及する際にスム・ラ・エルには言及するのに対し、スム・アブムに言及しないことなどから、このことは古くから疑問視されている。近年では、スム・アブムはバビロンの王と言うわけではなく、バビロニア北部の広範囲に宗主権を及ぼした人物であり、バビロンもその宗主権の下にあったものと考えられている。そして王名表編纂時にバビロン第1王朝の王として取り込まれたものとされる[44]
  4. ^ 当時バビロニアには、大きく分けてアウィールム、ムシュケーヌム、奴隷という三つの社会階層があったことが知られる。しかし奴隷以外の前二者がいかなる性質のものであるのか定説は無い。ハンムラビ法典ではアウィールム同士の傷害に対して同害復讐原理が適用されるのに対し、アウィールムからムシュケーヌム、ムシュケーヌムからムシュケーヌムへの傷害は金銭賠償とされており、奴隷からアウィールムへの傷害は、加えた傷害よりも重い罰を与えられた。
  5. ^ バビロニア王としての在位期間。
  6. ^ センナケリブによるバビロンの破壊とエサルハドンによる再建は、彼ら自身が王碑文においてそのように語っていることからアッシリア史、バビロニア史において一般に史実として言及され強調される。しかし、センナケリブによる破壊は徹底したものではなく、バビロニアへの融和政策というエサルハドンの政策は、センナケリブ時代から始まっていたものを継続したものであるとする見解もある[90]
  7. ^ ナボポラッサルの出自についてはメロダク・バルアダン2世などと同一の家系に属するとする考えや[100]、「海の国」で最も有力なカルデア人の部族「ビート・ヤキン」の出自とする説などが出されている。しかし、実際にナボポラッサルがカルデア人であるとする明確な同時代史料もなく、確実なものではない。山田重郎は彼が「誰でもない者の子」であったにもかかわらず、マルドゥク神が王命を授けてくれたと記す建築記念碑分の存在から、直接バビロニア王の家系に連なる出自ではなかったとしている[101]
  8. ^ ただし、2005年の段階でも、「バビロニア人」や「アッシリア人」といった用語をあたかも現代の「フランス人」や「ドイツ人」といった用語と等価の分類として扱うような研究は存在する[148]
  9. ^ 大戸千之はヘレニズム時代のウルクにおける粘土板文書について以下のように述べる。「ヘレニズム期ウルクの粘土板文書についてみるならば、アッカド語に通じた書記の手になるものとは考えがたいところがある。つまり、書きまちがいが少なくないということだ。それは格変化を誤ったり、性をとりちがえたりするというにとどまらず、複数人称の動詞語尾をつけるのに名詞のそれとまちがったりするほどのものであるという。(中略)当時日常の言語は、くりかえしいうようにアラム語であったと考えられる。粘土板契約文書の中には、一部にアラム語が数語、ぞんざいに書き込まれている例がある。これはいうまでもなく当事者のメモであって、楔形文字で書くということは、やはり特別のことなのだ、と感じさせる[160]。」

出典

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  7. ^ 伊藤 1974, p. 22
  8. ^ オリエント事典, pp.101-102. 「エラム」の項目より。
  9. ^ a b c d 杉山 1981, pp. 108-110
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参考文献

原典史料

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二次資料(書籍)

二次資料(洋書)

  • ピーター・クリステンセン(Peter Christensen) スティーヴン・サンプソン(Steven Sampson)訳 (2016-4). The Decline of Iranshahr: Irrigation and Environment in the Middle East, 500 BC-AD 1500. Tauris Academic Studies. ISBN 978-1-78453-318-2 (ペーパーバック版。原著:1993年、)

二次資料(Web)

コトバンク アッカド語”. 2018年5月6日閲覧。

関連項目

外部リンク