シン・シャル・イシュクン
シン・シャル・イシュクン | |
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在位 | 前627年頃 - 前612年 |
全名 |
Sîn-šar-iškun Sîn-šarru-iškun |
死去 |
前612年8月[2] ニネヴェ |
父親 | アッシュールバニパル |
母親 | リッバリ・シャルラト |
シン・シャル・イシュクン(Sîn-šarru-iškun、アッカド語:Sîn-šar-iškun[3]、またはSîn-šarru-iškun[4]。「シン神が我を王となし給う」、在位:前627年頃 - 前612年)は、最後から2番目のアッシリア王。兄弟のアッシュール・エティル・イラニが前627年に死去した後に王となり、前612年のニネヴェの戦いで死亡するまで統治した。
概要[編集]
必ずしも武力によるものではないと見られるが、彼が兄弟から王位を継承した状況は不明瞭である。即位後すぐに軍司令官のシン・シュム・リシルが王位を狙って反乱を起こした。シン・シャル・イシュクンはこれを比較的速やかに鎮圧したが、この反乱で政権が不安定になったことが別の将軍ナボポラッサルによるバビロニアでの権力確立を可能にしたのかもしれない。何年も討伐を繰り返したにもかかわらず、シン・シャル・イシュクンはナボポラッサルを打倒することができず、ナボポラッサルが地位を固め、1世紀に渡るアッシリアの支配から独立して新たに新バビロニアを興すことを許した。
新バビロニア王ナボポラッサルと新たに成立したメディアの王キュアクサレス2世はその後アッシリアの中核地帯(アッシュルの地)へと侵攻した。前614年にキュアクサレス2世はアッシリアの儀式・宗教の中心地であるアッシュール市を占領して略奪し、前612年には新バビロニアとメディアの連合軍がアッシリアの首都ニネヴェを攻撃して破壊した。その後のシン・シャル・イシュクンの運命はわからないが、ニネヴェでの戦いで死亡したものと推定される。恐らく息子であるアッシュール・ウバリト2世が王位を継ぎ、ハッラーンでアッシリアの残存兵力を再編した。
アッシリア学において、シン・シャル・イシュクンは誤ってしばしばエサルハドン2世ともされていた。エサルハドン2世の存在は、かつてのアッシリア王エサルハドンの娘シェルア・エテラトが書いた手紙によって想定されていた。これはシェルア・エテラトが有名なエサルハドン王と結びつけるには年が若すぎるとされたため、彼女が言及している「エサルハドン」は別の王であると考えられたことによる。アッシリア学者たちは19世紀後半にはエサルハドンという名前の王が2人いたという説を放棄した[5]。だが、エサルハドン2世という名称は時折シン・シャル・イシュクンを指すものとして登場する[6][7]。
背景と編年[編集]
アッシリア王アッシュールバニパルが死去する数年前から前612年のニネヴェの陥落までの時代は、明らかに残存史料が不足している。『アッシュールバニパルの年代記』はその治世を復元するための第一の史料であるが前636年までの情報しかない[8]。アッシュールバニパルの治世最後の年として前627年がしばしば採用されるが[9][10]、これはハッラーンで発見された1世紀近く後の新バビロニア王ナボニドゥスの母が作らせた碑文に依っている。アッシュールバニパルが生きて統治をしていたことを示す最後の同時代史料はニップル市で作成された前631年の契約書である[11]。証明された彼の後継者たちの治世期間と合致させるため、大半の学者は前631年にアッシュールバニパルが死亡したか退位した、あるいは追放されたという見解に同意している[12]。そして前631年の死亡・退位・追放という3つの可能性のうち、死亡したとする見解が最も受け入れられている[13]。もしアッシュールバニパルの治世を前627年まで延ばした場合、後継者であるアッシュール・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンによる碑文がバビロン市に数年分あることが説明不可能となる。バビロン市は前626年に新バビロニア王ナボポラッサルに占領されており、以後、アッシリア王が碑文を残すことはできなかった。そしてバビロン市はその後二度とアッシリアの手に戻ることはなかった[14]。
アッシュールバニパルは早くも前660年には後継者を定め、王太子(恐らくアッシュール・エティル・イラニ)を指名する文書が書き残された。アッシュールバニパルの治世の早い段階で1人、または2人の王子が生まれていた。この年長の王子たちが恐らくアッシュール・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンである[15]。アッシュール・エティル・イラニは前631年にアッシュールバニパルから王位を継承し、前627年に死亡した。シン・シャル・イシュクンがアッシュール・エティル・イラニと王位を争ったという想像が頻繁に行われるが、これを裏付ける史料は何もない[16]。
統治[編集]
王位継承とシン・シュム・リシルの反乱[編集]
前627年の半ば、アッシュールバニパルの息子で後継者として王位にあったアッシュール・エティル・イラニが死亡し、兄弟であるシン・シャル・イシュクンがアッシリア王位についた[17]。何人かの歴史学者がアッシュール・エティル・イラニがシン・シャル・イシュクンのクーデターによって死亡したと述べているが、これを証明する史料は存在しない。シン・シャル・イシュクンの複数の碑文が、彼は「同等者」(例えば兄弟など)たちの中から神々によって王に選ばれたと述べている[18]。
また、アッシュール・エティル・イラニが死亡したのと概ね同じ頃、アッシリアの属王としてバビロンの王位にあったカンダラヌが死亡した。このためシン・シャル・イシュクンはバビロンの王にも即位した。このことはニップル、ウルク、シッパル、そしてバビロン市自体など、バビロニアの諸都市に彼が残した碑文によって証明されている[19]。シン・シャル・イシュクンによるバビロンの支配は長くは続かず、彼がバビロン王位に就いてからほとんど間を置かずに将軍シン・シュム・リシルが反乱を起こした[17]。シン・シュム・リシルはアッシュール・エティル・イラニの治世においてアッシリアの重要人物として権勢を誇っており、いくつもの反乱を鎮圧し、恐らく「事実上の」アッシリアの支配者であった。新たな王の即位が彼の地位を脅かした可能性があり、彼は反乱を起こして権力を掌握しようとしたのかもしれない[19]'。
シン・シュム・リシルはニップル市やバビロン市など北部バビロニアの都市の占領と支配に成功したが、3ヶ月後にシン・シャル・イシュクンによって破られた[17]。両者とも支配権を行使したが、シン・シャル・イクシュンもシン・シュム・リシルも公的にバビロン王を名乗ったことはない(「アッシリア王」の称号のみを用いた)。これは、バビロニアにおいてある種の空位期間があったことを意味する[20]。
新バビロニアの勃興[編集]
シン・シュム・リシルの反乱の数ヶ月後、バビロンで別の反乱が発生した。ナボポラッサル(ナブー・アパル・ウツル)と呼ばれる将軍が、恐らくはシン・シュム・リシルの反乱による混乱に乗じる形で[17]、ニップル市とバビロン市を攻撃した[n 1]。ナボポラッサルの軍勢はシン・シャル・イシュクンが現地に残していた守備隊からバビロニアの諸都市を奪取したが、シン・シャル・イシュクンの対応は迅速で、前626年10月にはアッシリア軍がニップル市を奪還しウルクでナボポラッサルを包囲すると同時にバビロン市の再占領(これはバビロン市に対してアッシリアが歴史上最後に取った行動となる)にも取り掛かった。しかし、バビロン市への攻撃はナボポラッサルの守備隊によって撃退され、ウルクへの攻撃も同様に失敗した[21]。
アッシリア軍による反撃失敗の余波の中で、ナボポラッサルは前626年1月22/23日にバビロン王に即位し、独立したバビロニア王国を再建した[21]。前625年から前623年にかけて、シン・シャル・イシュクンの軍勢は再度ナボポラッサルの打倒を試みて北部バビロニアに遠征を行った。当初は順調に進み、前625年にシッパル市を占領するとともに、ナボポラッサルによるニップル市の再占領を阻止した。この争いの最中にアッシリアの別の属国エラムはアッシリアへの貢納を打ち切り、デール市などいくつかのバビロニアの都市がナボポラッサルの反乱に加わった。これが引き起こす脅威を認識していたシン・シャル・イシュクンは自ら大軍を率いて反撃を行い、前623年にウルクの奪還に成功した[22]。
前622年にアッシリアの西方の属州で別のアッシリアの将軍による反乱が発生した。これがなければシン・シャル・イシュクンは最終的に勝利を収めていたかもしれない[22]。この名前不明の将軍はシン・シャル・イシュクンとアッシリア軍が留守にしている隙にニネヴェへと攻め上った。新たに編成された急造の軍隊は会敵すると戦うことなく降伏し、アッシリアの王位はこの将軍に奪われた。軍隊が降伏した事実は、この将軍がアッシリア人であり、恐らくは王族であるか少なくともそれに近しい(王と認められるほど)高い地位を持った人物であったことを示している[23]。当然のことながら、この事態の進展をシン・シャル・イシュクンが放置しておくことは不可能であり、彼はバビロニア遠征を放棄して対応することになった。100日間の内戦の後、この僭称者を撃破することに成功したが、アッシリア軍が退去したことによってナボポラッサルは前622年から前620年にかけてアッシリアが最後にバビロニアに残していた前哨地を征服した[22]。バビロニア軍によるウルク包囲は前622年10月に始まった。アッシリアと新バビロニアの間で争奪が繰り返されたこの古代都市ウルクは、前620年までには完全にナボポラッサルの手に落ちた。ニップル市もまた前620年に征服され、ナボポラッサルは全バビロニアの支配を固めた[24]。
アッシリア帝国の崩壊[編集]

続く数年間、ナボポラッサルは繰り返しアッシリア軍を打ち破った。前616年、ナボポラッサルの軍勢はバリフ川の遥か北にまで達していた。アッシリアの同盟者であったエジプトのファラオ・プサムテク1世(プサメティコス1世)は深刻な状況を認識し、シン・シャル・イシュクンを助けるため軍勢を率いて進発した。レヴァントの小都市国家群に対する支配を確立するため、プサムテク1世はこの頃数年間にわたって遠征を行っており、アッシリアがメディアやバビロニアとエジプトの間の緩衝国として東方で生き残ることを望んでいた[24]。エジプトとアッシリアはガブリヌ(Gablinu)市の占領を狙う共同作戦を前616年10月から開始したが、エジプト軍はユーフラテス川の西方に留まり限られた支援しか提供しておらず、失敗に終わった[25]。
この失敗の後、アッシリアは瞬く間に崩壊した。前615年3月、アッシリア軍はティグリス河岸でナボポラッサルに大敗を喫し、小ザブ川まで押し込まれた。同年5月のナボポラッサルによるアッシュール市(アッシリアの儀式的・宗教的な中心都市)占領の試みは失敗し、彼はタクリート(Takrit、現:ティクリート)市に後退したが、アッシリア軍はタクリートへの攻撃に失敗しナボポラッサルを倒すことはできなかった。さらに別の失敗も重ねたアッシリア軍はアッシュール市へと引いた。前615年の10月か11月、メディア王キュアクサレス2世がアッシリアに侵入し、シン・シャル・イシュクンに対する最後の攻撃に備えてアラプハ市とその周辺を征服した[25] 。
前614年の7月または8月、メディア軍はカルフ(ニムルド)市とニネヴェ市に対する攻撃に取り掛かった。またタルビス市の征服に成功し、その後アッシュール市も包囲して占領した。彼らはこのアッシリア発祥の地を略奪し、多くの住民を虐殺した。ナボポラッサルは既に略奪が開始された後にアッシュール市に入り、キュアクサレス2世と対面して対アッシリアの同盟条約を結んだ。アッシュール市陥落の直後、シン・シャル・イシュクンは彼にとって最後となる反撃を試み、敵軍に包囲されたラヒル市を救援すべく急行したが、ナボポラッサルの軍勢は戦闘になる前に撤退した[2] 。
前612年4月、ナボポラッサルの治世14年目の始まり(バビロニア暦の新年は春分に最も近い新月の日に始まった)と共に、メディアとバビロニアの連合軍はニネヴェへと進軍した。同年の7月から8月にかけて、アッシリアの首都ニネヴェは包囲された。そして8月に城壁が突破され、凄惨な略奪が長期間行われた[2]。シン・シャル・イシュクンの運命ははっきりとわからないが、ニネヴェでの防衛戦で死亡したとするのが一般的である[26][27]。
遺産[編集]
後継者[編集]
前614年のアッシュール市の破壊と前612年のニネヴェ市の破壊によって、アッシリア帝国は実質的に滅亡した[28]。シン・シャル・イシュクンの地位は別のアッシリア王アッシュール・ウバリト2世によって継承された。彼は恐らくシン・シャル・イシュクンの息子であり、ニネヴェにあった前626年と前623年の碑文に登場する王太子と同一人物であると見られる。アッシュール・ウバリト2世は西方のハッラーン市で即位した[26]。アッシュール市が破壊されていたことにより、アッシュール・ウバリト2世はアッシリア王の伝統的な戴冠式を行うことができなかっため、国家神アッシュールから王権を授かることができなかった。このため、彼の短い治世の間に残された碑文においては彼は臣下たちにとっての法的な君主ではなかったので、未だ王ではなく王太子として登場している。従ってアッシリア人にとってシン・シャル・イシュクンは真の意味での最後の王であった[29]。
アッシュール・ウバリト2世はナボポラッサルが前610年にハッラーン市を攻撃すると逃亡に追い込まれ、その治世は3年しか続かなかった[30][31]。そして、エジプト軍の支援を受けてアッシリア軍の残党がハッラーンの再占領を試みたがこれも失敗した。これを最後にアッシュール・ウバリト2世とその指揮下にあったアッシリア人たちは歴史から姿を消し、バビロニアの史料に再び登場することはなかった[32][33]。
アッシリア滅亡の原因[編集]
アッシリア(新アッシリア帝国)とその文明が滅亡した原因として、アッシュール・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの王位継承の争いがアッシリアを弱体化させたという理由が最も一般的に広まっている考えの一つであるが、これを事実であることを裏付けるような同時代史料は無い。この兄弟の争いに触れた碑文史料は存在しない。アッシュール・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの即位直後にはいずれも反乱が発生しているが、これらは小規模であり速やかに処理されている。このように、アッシリアの王位候補者間の長引く内戦がアッシリアの滅亡の原因ということはないであろう[34]。
シン・シャル・イシュクンの治世におけるアッシリアの滅亡の原因は、アッシリアが初めて南部メソポタミアを征服して以来歴代の王が悩まされてきた「バビロニア問題(Babylonian problem)」を解決できなかったことである可能性が高い。絶え間なく続くバビロニアの反乱を様々な方法を用いて解決しようとサルゴン王朝の王たちは多くのことを試みた。センナケリブはバビロン市を破壊し、エサルハドンはそれを再建した。にもかかわらず、反乱と暴動は常に発生し続けた。ナボポラッサルの反乱はアッシリア人に対するバビロニア人の反乱の長い歴史の最後の一コマであり、シン・シャル・イシュクンはそれを何年にもわたる挑戦にもかかわらず押しとどめることができなかった。このことがアッシリアの命運を決定づけた。新バビロニアの脅威とメディアの勃興(アッシリアは長年にわたりメディアに繰り返し遠征を行い、統一勢力の形成を阻止しようと試みていた)が、最終的にはアッシリアの崩壊へと繋がっていった[35]'。
称号[編集]
ニネヴェにおける建築活動を記念するシン・シャル・イシュクンの碑文では彼の称号は次のようになる[36]。
「 | シン・シャル・イシュクン、偉大なる王、強き王、世界の王、[欠落]、アッシュール神とニンリル神に選ばれし者、マルドゥク神とサルパニトゥム神に愛されし者、[欠落]の心に親しき者、ナブー神とマルドゥク神に確固として選ばれし者、[欠落]の寵愛を受けし者、アッシュール神、ニンリル神、ベール、ナブー神、シン神、ニン・ガル神、ニネヴェのイシュタル神、アルベラのイシュタル神が彼の同胞の中から確かな好意を向け、全ての大都市で王権を授けた者。全ての聖域の聖職と全ての民の支配のために、神々の庇護はもたらされ続ける。父母のように、敵を屠り、敵を弱くし、[欠落]世界の支配と全ての[欠落]の中の支配者の冠を授けられた者、万物の守護者たるナブー神が、彼の臣民を導くためにその手に王笏と正義の杖[欠落]を置いた者[訳語疑問点]。 | 」 |
神殿の再建を記念する別の碑文では、シン・シャル・イシュクンは彼の祖先に触れている[37]。
「 | 偉大なる王、強き王、世界の王、アッシリアの王、シン・シャル・イシュクン。偉大なる王、強き王、世界の王、アッシリアの王、バビロンの副王、シュメールとアッカドの王、アッシュール・バニ・アプリ(アッシュールバニパル)の子。偉大なる王、強き王、世界の王、アッシリアの王、バビロンの副王、シュメールとアッカドの王、アッシュール・アハ・イディナ(エサルハドン)の孫。偉大なる王、強き王、世界の王、アッシリアの王、無比の王子、シン・アヘ・エリバ(センナケリブ)の曾孫、偉大なる王、強き王、世界の王、アッシリアの王、バビロンの副王、シュメールとアッカドの王、シャル・キン(サルゴン2世)の裔。 | 」 |
関連項目[編集]
注釈[編集]
- ^ ナボポラッサルがシン・シュム・リシルの反乱の際にその同盟者として反乱を起こしており、それを継続していただけである可能性もある。しかしこの説は具体的な証拠を欠き、成立させるためにはより多くの仮定を必要とする[19]。
出典[編集]
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参考文献[編集]
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参考サイト[編集]
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外部リンク[編集]
- ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル: Ancient Records of Assyria and Babylonia Volume 2: Historical Records of Assyria From Sargon to the End, シン・シャル・イシュクンの碑文の英訳を見ることができる。
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