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| 名前 = にしゃんた
| 名前 = にしゃんた
| 画像 = [[File:Nishanta.jpg|frameless]]
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| 本名 = ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ(Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha)→本名非公開
| 本名 = ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ(Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha)→多原樹一
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1969|07|18}}
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1969|07|18}}
| 出身地 = {{CEY}}
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| 公式サイト = [http://www.nishan.jp/ にしゃんたOfficial HP]
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'''にしゃんた'''([[1969年]][[7月18日]] - )は、[[社会学者]]、[[タレント]]、[[羽衣国際大学]]現代社会学部[[教授]]。学位は[[博士(経済学)]]<ref>専門は、[[スリランカ]]全般。アジア、多様性の活用による人づくり・組織づくり・社会づくり。</ref>。[[講演家]]、[[落語家]]<ref>社会人落語家として活動している。</ref>としても活動、初代[[京都府]]名誉友好大使。[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]](現[[スリランカ]])[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]で、ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ(Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha)として生まれる。日本国籍取得(本名非公開)<ref>[http://nishan.jp/profile/profile.html プロフィール - にしゃんた Official Homepage]</ref>。夜に生まれたこととの関連で、「にしゃんた」とは自身の母語の[[シンハラ語]]で「静夜(英語で言うSilent night)」を意味する
'''にしゃんた'''([[1969年]][[7月18日]] - )は、[[社会学者]]、[[タレント]]、[[羽衣国際大学]]現代社会学部[[教授]]。学位は[[博士(経済学)]]<ref>専門は、[[スリランカ]]全般。アジア、多様性の活用による人づくり・組織づくり・社会づくり。</ref>。[[講演家]]、[[落語家]]<ref>社会人落語家として活動している。</ref>としても活動、初代[[京都府]]名誉友好大使。[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]](現[[スリランカ]])[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]で、ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ(Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha)として生まれる。にしゃんたとは静かな夜に生まれたことから[[シンハラ語]]で「静夜」を意味する<ref>にしゃんた『日本で知った『幸せ』の値段〜無一文の留学生が、大学准教授になるまで〜』講談社 2012年、3頁</ref>


== 人物 ==
== 経歴 ==
高校生で[[ボーイスカウト]]の一員として来日<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 16頁</ref>。1か月の滞在でホテルかキャンプ場に泊まることが多く日本人に中々接触できなかったが[[滋賀県]][[大津市]][[坂本 (大津市)|坂本]]に住む一家に一夜だけホームステイした<ref name="Nishantha2012-13">『日本で知った『幸せ』の値段』 13頁</ref><ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 16頁</ref>。そして1987年10月5日、再来日して1年前にホームステイした一家に身を寄せる<ref name="Nishantha2012-13" />。事前連絡もせず突然電話で頼んで空港まで迎えに来てくれたが、にしゃんたの所持金が家を担保に作った7万円だけと知り、3か月だけ面倒を見るがそれまでに行き先が見つからない場合は帰ってくれ言われる<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 12頁</ref><ref name="Nishantha2012-13" /><ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 18頁</ref>。スリランカの実家はお金はないが周りの貧乏な子供の面倒を見て家の手伝いをさせつつ学校にも行かせるという生活を送っていたのでそういう「ゆとり」あったことからこの程度の所持金で受け入れられると思い込んでいた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 17頁</ref>。このとき、6歳で全寮制の男子校に入学して以来12年ぶりに泣いたという<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 18頁</ref>。
[[親日家]]で、2005年に日本国籍を取得した。平仮名で「'''にしゃんた'''」と自称する。もっとも大切にしている言葉が、[[セレンディピティ]](英語:serendipity)である。「予期せぬ素敵な発見・出会い」の意味で使われる<ref>この言葉はかつての自身の母国の国名であった[[セイロン島]]の語源であるとも言われている。</ref>。


一家の紹介で日本語学校に通うことになったが月謝が分割で毎月9万円だったので足りない分は一家に借りた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 18頁</ref>。アルバイトすることを考えるが家の周りに働き口がなくどうしようかと思っていたところ、隣に住む女性から英語を教えて欲しいと週一で時給500円で頼まれるが3時間経っても帰してもらえず、貰った給料は500円だった><ref name="Nishantha2012-22">『日本で知った『幸せ』の値段』 22頁</ref>。この女性は英語を覚える気がなく、夫を亡くしていたことから話相手が欲しかっただけと考えた<ref name="Nishantha2012-22" />。割に合わないので一家の友人の紹介で[[雄琴温泉]]の旅館で働くことになったが、就学生ビザで滞在していたので自分からお願いして規定の何倍もの時間、摘発されないか心配しながら働いていた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 22-24頁</ref>。バイトを終えて帰るのは夜遅くになるので一家に迷惑だと考え、旅館にお願いしてそこの社員寮に泊まることになり、家に滞在にしたのは1か月にも満たなかった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 25頁</ref>。
「多様性を語る人」を意味する[http://nishan.jp/profile/profile.html 「ダイバーシティ・スピーカー」]を名乗り、あらゆる違いや変化<ref>性・年齢・障害の有無・民族・国籍・宗教・地域等などに限らず一人一人の違いや自然界の違いなど</ref>を楽しみ、学び、力にする利点や喜び、また[[多様性#社会的多様性|多様性]]と[[包摂]]•社会参画 (Inclusion & social participation of Diversity) の必要性について語る。「[[民際]]」、「全員力」、「包み込む社会」や「共笑」などの言葉を用いる。あわせて外国出身者としての視点から見た多くの日本の魅力を紹介している。多様性([[多文化主義|多文化共生]]、ダイバーシティ)を自身の生涯のテーマとして位置づけ、訴えることになった最も大きな理由は、多様性を軽視された結果として引き起こされた母国の[[スリランカ内戦]]である。25年以上にわたった戦争で多数の学友を含む若人を死なせた辛い経験を有する。


摘発されないようになるべく外出せず寮でよくテレビを見ていたが<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 32頁</ref>、番組出演していた[[ケント・ギルバート]]、[[ケント・デリカット]]をジャパニーズドリームを手に入れた者と憧れ<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 33頁</ref>、近所にやってきていた移動古本屋で彼らの古本を購入、それを2年で読めるように決めた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 34頁</ref>。不法就労から脱却すべく大学を出てタレントになることを目指し<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 35頁</ref>、日本語学校のビザでは長く滞在できないのでどこでもいいと考えて<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 39頁</ref>、面接だけで入学できる名古屋の大学に合格するも、そこは山中にあることからバイト先が問題となり、[[立命館大学]]を留学生枠で受け直して合格した<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 36頁</ref>。旅館から大学の衣笠キャンパスまで片道2時間もかかりバイトができずバブル崩壊で客も減っていたことから京都の自動車部品工場で働くも勤務中の騒音に耐えかねて[[読売新聞]]の新聞奨学生を紹介してもらって嵐山の販売所で働く<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 40-41頁</ref>。来日したのは格闘技を学ぶためというのもあり<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 45頁</ref>、大学でラグビーをやったり空手道場に通っていたが、故障で何度も手術していくうちに激しい運動はできなくなったが、空手の指導員免許を取得して審判もつとめ空手をは関わり続ける<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 46-47頁</ref>。大学2年生時、京都府名誉友好大使に任命されよくパーティに参加したことから国際と付くと自分を歓迎してくれると思い込んでいた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 47-48頁</ref>。卒業を控えて就職を考えるも日本はバブル崩壊で買い手市場だったため留学生を雇ってくれるだろう「国際」と名のつく団体にあたるも国籍条項を理由にことごとく断られ、国際と言うのなら国家間の橋渡しを的な役割をしているはずなのに、日本に裏切られたとショックを受けるが販売所の同僚で大学の同級生から大学院へ進むことを提案される<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 49-50頁</ref>。
[[バラエティ番組|バラエティー]]をこなす顔も持ち合せている。[[2008年]]に、近未来(2050年代)の日本([[京都]])の[[国際化]]を題材にした映画『[[地球のヘソ (映画)|地球のヘソ]]』で主演俳優デビューし、同年に[[大阪府立上方演芸資料館|ワッハ上方]]の「落とし頃なお年頃 芸能界落語部」で高座デビューした<ref>演目は『[[時うどん]]』。この企画では、[[桂春蝶]]、[[原田伸郎]]や[[立原啓裕]] らと共演しており、にしゃんたがトリを務めた(順番はジャンケンで決まった)。この時、初めての舞台にして誰よりも笑いが多く、あまりにもウケが良かったので、本人は「自分に才能がある、いける」と勘違いして、落語を継続することを決めた(「日本で知った『幸せ』の値段」参照)。さらに同年[[R-1ぐらんぷり]]にも出ており、初めてにして3回戦進出を果した。そのことがきっかけになり『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』などのメディアを賑わす。持ちネタには、[[吉幾三]]の「[[俺ら東京さ行ぐだ]]」の替え歌の「[[ジェロ]]でもねぇ、[[バラク・オバマ|オバマ]]でもネェ、どれにもそれほどに似ていねぇ…」などがある</ref>。[[2009年]])には[[社会人落語初代日本一決定戦]]で全国362名の中から準優勝を果たす。大会審査委員長であった、桂三枝(現・[[桂文枝 (6代目)|桂文枝]])に「あのマクラにはかてまへんな」と言わしめた。また、三枝が、自身のブログ上でも「社会人落語日本一は、あやうくスリランカ人が日本一になりそうでした。残念ながらよく受けたのですが持ち時間をオーバーして、減点となりました。なかなかよくやるスリランカ人で落語も外国人に脅かされてきました。」と紹介している<ref>[http://sanshi.laff.jp/blog/2009/08/post-4772-1.html 席亭桂三枝の落語的日常 2009年8月16日]。[[社会人落語日本一決定戦]]において、大会開催以来3連続決勝戦に選ばれている。</ref>。この大会は本人が全国ネットのテレビに露出する大きなきっかけにもなった<ref>[[ペケ×ポン]]川柳などはその代表的な番組で、落語大会の際と同じ黄色い着物で毎回登場している。褐色に黄色い着物がトレードマークと化している。</ref>。また、[[上方落語]]にとどまらず、[[三遊亭好楽]]にも認められ、教えを受けている<ref>関西での生活が長いにしゃんたにとって上方落語が覚えやすいが、敬意を表し好楽から教わったネタを江戸弁でかけている。枕までが関西弁なのに、ネタに入り次第、江戸弁に切り替わることが観客に驚かれるときがある。</ref>。母国を離れて世界で活躍している人物をドキュメントする[[日本放送協会|NHK]]の国際放送[[NHKワールド]]の番組『[[A is AsiA]]』の第1回目の放送(2009年)で落語家としての活躍を紹介される。


[[龍谷大学]]大学院と立命館大学大学院を受けるも試験前日はかなり飲酒としていたと言い、学部総代で卒業したことからタカをくくっていたら、両方とも落ちてしまい、滑り止めの[[名城大学]]大学院に合格<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 53頁</ref>。名古屋に行ってから膝の怪我が悪化、以前は嵐山で外科にかかっていたが2年間通院するも治らず、そこは「ヤブ医者」だったと知る<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 53-54頁</ref>。3か月入院して奨学金もないことから貯金300万円が1年後には底をついたことから京都に帰りたいと考えもう1度龍谷大学大学院を受験するとトップ合格、だが大学院の担当教員からあと1年いれば修士号が貰えると言われ当時交際していた彼女も反対<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 53-55頁</ref>、同じ学生寮で仲良くなった中国人留学生に相談すると両方通学することを提案され結果、両方から奨学金が下りて2つの修士号をとった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 56頁</ref>。
社会人落語初代日本一決定戦をきっかけに自身の志を表現する手段としても落語に力を入れはじめ、社会人落語家として本格的に全国行脚する。それまで行っていた講演活動に落語を組み合わせたり、「スタンドアップ落語」という新スタイルにも挑戦している<ref>講演(+落語)の代表的なテーマは、「ちがいを楽しみ、力にかえる〜多文化共生“新”時代〜」や「違う人との出会いは学びと成長のパスポート」などである</ref>。講演会の講師として人気があり、年間(2009年の時点で)100超える講演を行っている。学問的な背景に支えられた見聞を解りやすく、身近な事例を取り上げて楽しく語りかける。口調は落語調で、数分に一回笑わせる巧みな話術と愛嬌でみなさんのこころを掴み、最後に全員をファンになると評される<ref>http://blog.sbrain.co.jp/company/2010/10/post-139.html</ref>。茶目っ気たっぷりの明るいキャラクター。関西を中心に人気に火がつき、全国へ広がった。


龍谷大学大学院時代、外国人タレントの講演会行くと質疑応答の時間で自分にマイクが回ってきて、場違いだと前置きしつつあなたは外国人でありながら関西の顔をして活躍されているが後継者育成されてはどうか、あなたに憧れていて来日10年になる僕はどうでしょうかと言うと、そのタレントが所属する芸能事務所の人が来ているというので名刺交換、その事務所に所属することになった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 61-62頁</ref>。関西地方で放送されていた『[[カモン、フォリナー]]』でテレビ初出演、特技を披露することになったが何かあるかと聞かれ経緯は不明だがカップラーメンの味をすべて当てられる外国人として出演することになった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 62頁</ref>。当時よく食べていたがそこまでのカップ麺オタクではなかったことから事前に大量購入して味を食べ比べるも大して変りないので麺や調味料をよく観察、本番では全て正解することができた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 62-63頁</ref>。
== 来歴 ==
[[ボーイスカウト]]の一員として、高校時代の[[1987年]]に初来日(その時に[[大津市]][[坂本 (大津市)|坂本]]にホームステイ)。それがきっかけで、父親が家を担保にして作った7万円と片道切符を手に日本へ[[留学]]。「日本へ行って幸せになろう」と思って、再来日。当初は、坂本から[[京阪京津線]]で三条の[[キリスト教青年会|YMCA]]に通った。当時は、[[雄琴温泉|雄琴]]で布団敷きのアルバイトをしていた。来日(日本語勉学開始)1年で、非漢字圏出身者としては異例の[[日本語能力試験]]一級に合格。


大学院生時代にはある大学の非常勤講師をするも収入面で問題があると気付き<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 75頁</ref>、専任の大学教員を目指して博士論文を書くことにした<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 76頁</ref>。そんなとき周りの外国人から起業しないかと持ちかけられ、やってくれといわれて社長に就任した<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 78頁</ref>。その後、経営者ビザを申請しようとするも大学卒業後に数年間働いてないことから通訳としてビザが発給された<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 81頁</ref>。会社名は株式会社グローバルコンテンツ、事業は外国人向けに携帯電話で複数の言語によって情報を提供する有料サービスであった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 83頁</ref>。そこで携帯電話キャリアごとのサイトへのアクセス方法の図式化と営業を担当していた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 84頁</ref>。1年ほどで会社が急成長を遂げ、その頃に[[山口県立大学]]の教員として採用されることが決まり、同社を退職した<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 88-89頁</ref>。大学では経済学、国際経済論を担当、[[アマルティア・セン]]の言葉を引き合いに豊かさとは何だとGDPの低い国からやってきて日本でお金だけでは測れない自由や降伏を学生たちと考え、忘れかけている心の豊さに気付いてもらうためだと教える決意をした<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 93-94頁</ref>。当時は山口県の場所もわからず<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 91頁</ref>、大学側とメールでやり取りをしていたが、その相手は国際文化学部教授の[[安渓遊地]]だった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 94-95頁</ref>。
[[経済学]]や[[経営学]]を学びたいという思いと、武道にも強く興味を持ち、文武両道の学生生活を送る。[[立命館大学]]には4年間、嵐山で新聞奨学生をしながら通い、同学年に800人以上いた[[経営学部]]を学部総代で卒業した。外国人での初めての[[読売]][[新聞奨学生]]だった。卒業式では、和服姿で臨み、壇上で宙返りのパフォーマンスを演じ、[[大南正瑛]]総長が大きな拍手する等会場を沸かせ、そのタレントぶりを発揮している。また、大学在学中は、外国人弁論大会ですべて優勝したため「スピコン荒らし」のあだ名がつく。在学中に[[荒賀道場]]に通い[[全国空手道連盟]]公認四段と指導員の資格を取得。出世払いで月謝は払っていない。大学時代に出来た貯金は300万円。


だが教員生活は思うようにはいかなった。公舎に住んでいたが家を空けていると瞬く間にその情報が広がり、大学での人間関係がそこでも影響してくることに気付いて転居を考えるもいい物件が見つからず仕方なく学生用アパートに入居するが落ち着かず、アパートを転々とし、公舎に戻ったりもした<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 100-101頁</ref>。半年後の講演の依頼ですぐ決める必要があると言うので上司に報告すると教授会にかけて1か月かかるというので今度は報告せずに年休をとって依頼を受けると講演があることを知った上司に年休を取り消される、海外に学生を引率する書類を誤字脱字があるかもしれないが見てほしいと言って提出すると教授会でみんなに配布した上で、こんなに誤字脱字の多い人に引率を任せていいのかと指摘される、授業が終わって1時間に1本しかない電車に乗ろうとしたとき上司から電話がかかってきて話があるというので呼び戻されるなど、いじめを受けていた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 102-103頁</ref>。その結果、ヤケ酒に走り10円禿ができたり急性B型肝炎で1か月半分入院、しばらく自宅療養した<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 103-104頁</ref>。山口に来てから半年後、そこにいるのが嫌になって京都に町屋を借りてそこと山口を週2往復する生活で給料は交通費、酒代、家賃に消えていた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 104頁</ref>。最終的に妻からもう辞めろ言われるまで7年間勤めていた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 105頁</ref>。
大学卒業後は大学院に進み[[名城大学]]で[[修士(商学)]]、[[龍谷大学]]で[[修士(経済学)]]、[[2003年]]に[[博士(経済学)]]を取得。龍谷大学の[[中村尚司]](地域自立経済学)、[[鶴見良行]](民際学)、[[田中宏 (経済学者)|田中宏]]([[日本の外国人|在日外国人]]論)や[[スリランカ]]・[[コロンボ大学]]学長のW.D.ラクシュマン(スリランカ経済)に師事した。南アジア研究の第一人者の中村尚司を指導教授として頼った理由は、にしゃんたが17歳でスリランカを離れているため母国のことがあまりにも解らないことに気づいたためである。


一方、大学の仕事自体や学生との交流は楽しかった。経済学士はとったがまだまだ経済のことをわかっておらず、勉強もしつつ教えると学生と同じ目線になったことで好評であった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 107頁</ref>。自分が学生のとき担当教員だった[[鶴見良行]]に倣い、学外の定食屋でゼミを行ったりもした<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 109頁</ref>。あるとき、留学生が家賃を払うのは馬鹿らしいと広い2階建て公舎に住まわせてほしい言われ、受け入れた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 110頁</ref>。これを機に公舎を学生に使わせていたが、大学関係者は見て見ぬふりだったという<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 111頁</ref>。
大学院在学中(2001年)に、在日少数言語を対象に多言語で情報を発信する携帯電話ポータルサイト「@nippon」運営を目的に株式会社グローバルコンテンツを立ち上げ、初代の代表取締役になる。博士(経済学)を取得した後、大学教員として、「国際経済論」「アジア経済」などをの科目を担当し、日本で学んでスリランカに持って帰るはずの経済学を日本の次世代に教える。7年間の[[山口県立大学]]准教授を経て、2010年より[[羽衣国際大学]]で准教授、後に教授となる。


大学を辞めてから1年ほど失業期間が続き、講演やタレント業に専念することを考えるも安定した職業が欲しいと考えていたそんなときに[[羽衣国際大学]]で教員の話が舞い込み、私立であることから講演メディア出演も自由であることから引き受けた<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 143頁</ref>。
大学教員に至った背景には、大学時代の二つの経験が関係している。一つは、ラグビーの試合で怪我をし、医師の[[誤診]]により治療が数年遅れ、足に障害が残ったこと。走るなどの運動が不自由となり、身体を活かした仕事は選択肢から消えていること<ref>7回にわたる手術の最後は骨切手術で、現在{{いつ|date=2015年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->は、左右の足の形はそれぞれX脚とO脚になっている(『留学生が愛した国・日本』より)</ref>。そして、もう一つは、卒業時に日本の国際機関での就職を希望するも、[[国籍条項]]を理由に断られたこと。よって、大学卒業後は大学院に進むが、好きになった日本に残るための、消去法による決意だった。「経済学博士になり、大学教員になった自分を羨む人はいるが、途中の過程を考えたらむしろ哀れな人です。私は、日本にはまだ多様性の受容に対し閉鎖的な部分も残っており、改善の余地もあるということを露呈している皮肉な素材でもあると同時に、日本は外国出身者でも夢を実現できる素晴らしい国であることを証明している材料でもあります」。また「長い日本滞在は[[入国管理局]]の制度は窮屈だったが、今になって思うと入管は日本での特に学生時代の親代わりをしてくれてたような気もします。理不尽なところもある、頑固で厳しい親でしたが、今のような人間に自分を育てくれたかと思うと感謝したいと思う」と講演で語っている。


妻とは大学院生時代に講師として参加した青年洋上大学で知り合い、講義を聴きに来た参加者だった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 117頁</ref>。妻の両親は外国出身であることから中々結婚を認めてもらえなかったが2008年正月、家に呼ばれて改めて頭を下げると、意思が固いことを知った父は承諾した<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 121頁</ref>。
39歳で日本人と結婚しているが、当初妻の両親からは3つの理由で反対された。1.肌色が褐色の孫は(日本の社会で虐められるから)困る、2.母国を捨てた人間は(結婚以前に日本国籍を取得していたため)妻や子をも捨てる可能性があるから信用できない、3.仏教徒かつ長男であるのに実家の墓を守っていないことがだらしがない。後に結婚が許される際に妻の母から手渡された手紙をお守りにしている<ref>講演の後半、この手紙を胸の内ポケットから取り出して読み上げることがある(『日本で知った「幸せ」の値段』を参照)</ref>。仏前で結婚式を挙げており、かかった費用は3000円。


== 人物 ==
大学教員の傍ら、テレビ・ラジオ出演、執筆活動を行う。また、ダイバーシティ(多文化共生)、[[生涯学習]]、[[まちづくり|町づくり]]、[[男女共同参画社会]]、子育てや人権などのあらゆる分野において講演活動を精力的に行なう。難しいこともいかに楽しく笑いを通して伝えられるかをモットーにしている。専門的内容も、人生の前半は親日国のスリランカで、後半が日本の都会と地方の両方で生活して肌で感じたことなどをもユーモアたっぷりに[[京言葉]]・[[近畿方言|関西弁]]交じりの日本語で語る。
[[親日家]]で、2005年に日本国籍を取得した。平仮名で「'''にしゃんた'''」と自称する。もっとも大切にしている言葉が、[[セレンディピティ]](英語:serendipity)である。「予期せぬ素敵な発見・出会い」の意味で使われる<ref>この言葉はかつての自身の母国の国名であった[[セイロン島]]の語源であるとも言われている。</ref>。


「多様性を語る人」を意味する[http://nishan.jp/profile/profile.html 「ダイバーシティ・スピーカー」]を名乗り、あらゆる違いや変化<ref>性・年齢・障害の有無・民族・国籍・宗教・地域等などに限らず一人一人の違いや自然界の違いなど</ref>を楽しみ、学び、力にする利点や喜び、また[[多様性#社会的多様性|多様性]]と[[包摂]]•社会参画 (Inclusion & social participation of Diversity) の必要性について語る。「[[民際]]」、「全員力」、「包み込む社会」や「共笑」などの言葉を用いる。あわせて外国出身者としての視点から見た多くの日本の魅力を紹介している。多様性([[多文化主義|多文化共生]]、ダイバーシティ)を自身の生涯のテーマとして位置づけ、訴えることになった最も大きな理由は、多様性を軽視された結果として引き起こされた母国の[[スリランカ内戦]]である。25年以上にわたった戦争で多数の学友を含む若人を死なせた辛い経験を有する。
社会活動として、京都府赤十字血液センターの一日所長を務めたことがあり、献血ルームにて「にしゃんた献血落語会」を開催している。


[[2008年]]に、近未来(2050年代)の日本([[京都]])の[[国際化]]を題材にした映画『[[地球のヘソ (映画)|地球のヘソ]]』で主演俳優デビュー同年に[[大阪府立上方演芸資料館|ワッハ上方]]の「落とし頃なお年頃 芸能界落語部」で高座デビューした<ref>この企画では、[[桂春蝶]]、[[原田伸郎]]や[[立原啓裕]] らと共演しており、にしゃんたがトリを務めた(順番はジャンケンで決まった)。この時、初めての舞台にして誰よりも笑いが多く、あまりにもウケが良かったので、本人は「自分に才能がある、いける」と勘違いして、落語を継続することを決めた(「日本で知った『幸せ』の値段」参照)。さらに同年[[R-1ぐらんぷり]]にも出ており、初めてにして3回戦進出を果した。そのことがきっかけになり『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』などのメディアを賑わす。持ちネタには、[[吉幾三]]の「[[俺ら東京さ行ぐだ]]」の替え歌の「[[ジェロ]]でもねぇ、[[バラク・オバマ|オバマ]]でもネェ、どれにもそれほどに似ていねぇ…」などがある</ref>。落語を始めた理由はテレビ番組で共演した[[桂春蝶 (3代目)|桂春蝶]]に軽い気持ちで落語を教えてほしいと頼むとそれから1後、まだ教えてほしいのか聞かれて考えに変わりないことを伝えると落語のDVDを送ってきて、収録されていた『[[時うどん]]』を練習した<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 135頁</ref>。そして[[2009年]])には同じ演目で[[社会人落語初代日本一決定戦]]で全国362名の中から準優勝を果たす。大会審査委員長であった、桂三枝(現・[[桂文枝 (6代目)|桂文枝]])に「あのマクラにはかてまへんな」と言わしめた。また、三枝が、自身のブログ上でも「社会人落語日本一は、あやうくスリランカ人が日本一になりそうでした。残念ながらよく受けたのですが持ち時間をオーバーして、減点となりました。なかなかよくやるスリランカ人で落語も外国人に脅かされてきました。」と紹介している<ref>[http://sanshi.laff.jp/blog/2009/08/post-4772-1.html 席亭桂三枝の落語的日常 2009年8月16日]。[[社会人落語日本一決定戦]]において、大会開催以来3連続決勝戦に選ばれている。</ref>。この大会は本人が全国ネットのテレビに露出する大きなきっかけにもなった<ref>[[ペケ×ポン]]川柳などはその代表的な番組で、落語大会の際と同じ黄色い着物で毎回登場している。褐色に黄色い着物がトレードマークと化している。</ref>。また、[[上方落語]]にとどまらず、[[三遊亭好楽]]にも認められ、教えを受けている<ref>関西での生活が長いにしゃんたにとって上方落語が覚えやすいが、敬意を表し好楽から教わったネタを江戸弁でかけている。枕までが関西弁なのに、ネタに入り次第、江戸弁に切り替わることが観客に驚かれるときがある。</ref>。母国を離れて世界で活躍している人物をドキュメントする[[日本放送協会|NHK]]の国際放送[[NHKワールド]]の番組『[[A is AsiA]]』の第1回目の放送(2009年)で落語家としての活躍を紹介される。
ライフワークとして「民際交流」、「共生社会づくり」や「日本再発見」などをキーワードとした活動を行っている。

社会人落語初代日本一決定戦をきっかけに自身の志を表現する手段としても落語に力を入れはじめ、社会人落語家として本格的に全国行脚する。それまで行っていた講演活動に落語を組み合わせたり、「スタンドアップ落語」という新スタイルにも挑戦している<ref>講演(+落語)の代表的なテーマは、「ちがいを楽しみ、力にかえる〜多文化共生“新”時代〜」や「違う人との出会いは学びと成長のパスポート」などである</ref>。講演会の講師として人気があり、年間(2009年の時点で)100超える講演を行っている。学問的な背景に支えられた見聞を解りやすく、身近な事例を取り上げて楽しく語りかける。口調は落語調で、数分に一回笑わせる巧みな話術と愛嬌でみなさんのこころを掴み、最後に全員をファンになると評される<ref>http://blog.sbrain.co.jp/company/2010/10/post-139.html</ref>。茶目っ気たっぷりの明るいキャラクター。関西を中心に人気に火がつき、全国へ広がった。


== 造語 ==
== 造語 ==
;共笑
;共笑
:「ともえ」と読む。既存の「共生」に対して新たに提示されている概念である。違いや変化といかに生きるべきかの理想形として、便利な言葉として使われる「共生」は、実際のところ、同化であったり、棲み分けであったり、下手すると排斥であったりする。関係し合う者の片方だけが笑っていることが多い。ただ共に生きるだけでは不十分。共に笑うことが大事で、その組み合わせにのみ[[平和]]、[[持続可能性]]や[[発展]]があると言う<ref>[テレビ寺子屋の講演にて発言 http://www.sut-tv.com/sp/show/terakoya/backnumber/post_262/]</ref>。
:「ともえ」と読む。既存の「共生」に対して新たに提示されている概念である。違いや変化といかに生きるべきかの理想形として、便利な言葉として使われる「共生」は、実際のところ、同化であったり、棲み分けであったり、下手すると排斥であったりする。関係し合う者の片方だけが笑っていることが多い。ただ共に生きるだけでは不十分。共に笑うことが大事で、その組み合わせにのみ[[平和]]、[[持続可能性]]や[[発展]]があると言う<ref>[テレビ寺子屋の講演にて発言 http://www.sut-tv.com/sp/show/terakoya/backnumber/post_262/]</ref>。なお、この名前はにしゃんたの長女の名前でもある(読みも同じ)<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 144頁</ref>。


== エピソード ==
== エピソード ==
* 幼稚園の時は、牛車に乗って園に通っていて、道中で会う象を数えることが日課だった。象の数が奇数だと良いことが起きるという子どものジンクスがあった。
* 小学校の教科書の一章として掲載されていた「日本からの手紙」によって日本を初めて知った。
* 小学校の教科書の一章として掲載されていた「日本からの手紙」によって日本を初めて知った。
* 中学生の時、テレビで『[[おしん]]』を見て日本とスリランカは似ていたので「親近感」を覚えた。しばらくしてスリランカの道を走る日本車を見て、日本が経済成長したことを知って、日本が「憧れの国」に変わった。
* 中学生の時、テレビで『[[おしん]]』を見て日本とスリランカは似ていたので「親近感」を覚えた。しばらくしてスリランカの道を走る日本車を見て、日本が経済成長したことを知って、日本が「憧れの国」に変わった。
* [[サンフランシスコ講和会議]]において日本を援護する内容の名演説を行ない日本の戦後復興を願い、死後には片目の角膜を日本人に提供した日本の恩人とされる、初代スリランカ大統領[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ]]に日本が素晴らしい国だと勧められたことが、来日決意に至った一因だった。ジャヤワルダナとは2度会っており、メディアなどでジャヤワルダナを通して築かれた日本とスリランカの絆について紹介している<ref>[[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]]や[[未来世紀ジパング]]など。</ref>。
* [[サンフランシスコ講和会議]]において日本を援護する内容の名演説を行ない日本の戦後復興を願い、死後には片目の角膜を日本人に提供した日本の恩人とされる、初代スリランカ大統領[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ]]に日本が素晴らしい国だと勧められたことが、来日決意に至った一因だった。ジャヤワルダナとは2度会っており、メディアなどでジャヤワルダナを通して築かれた日本とスリランカの絆について紹介している<ref>[[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]]や[[未来世紀ジパング]]など。</ref>。
* 日本名は京都の神社で名付けと貰おうと出向くと午前11時に並びだして午後7時にやっと順番が回ってきて、宮司に名付けてほしいこととスリランカ出身であることを告げると[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]があったことを言いながら「広海にしゃんた」と紙に書いてもらうも、しっくりこないし周りからも不評だったことからこの名前は選ばなかった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 3-4頁</ref>。次に易学者に名付けてもらおうと行くと本人は病気で休んでいるということで代わりにその妻によってスリランカは獅子の国と呼ばれそこから来日して根を張れるようにという意味で「獅子桜(ししざくら)にしゃんた」という名前を考えてもらうもこちらもしっくりこなかった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 4頁</ref>。申請の期日が迫る中、当時住んでいた近所で営業していたフルーツパーラーを営む女性に考えてもらうことを頼むと夜中に店を訪れたとき、酔っぱらってきちんと覚えてないというが「大勢の人が集まる大きな野原に立派に聳えるような樹木になれ。そこから人生を再スタートせよ」という意味で多原樹一と決まった<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 5頁</ref>。
* 滋賀県の[[雄琴温泉]]で布団敷き上げや風呂掃除のアルバイトをしながら日本語学校に通っていて、借金を抱え流れてきたような訳ありの傷ついた人たちに育てられた。
* 日本名は、いい名前にしたいと神社や易学をあたるもしっくりこず、最終的に行きつけの定食屋に考えてもらった。


== 学歴 ==
== 学歴 ==
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* 京都府消防応援団 団員
* 京都府消防応援団 団員


==受賞歴 ==
== 受賞歴 ==
* 1989年10月 ボーイスカウト指導者ウッドバッジ
* 1989年10月 ボーイスカウト指導者ウッドバッジ
* 1989年12月 [[日本語能力検定試験]]1級
* 1989年12月 [[日本語能力検定試験]]1級
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

* [[親日]]・[[知日派]]
* [[親日]]・[[知日派]]
* [[アントン・ウィッキー]] - 年代は異なるも来歴のよく似るスリランカ出身のタレント・大学教員。
* [[アントン・ウィッキー]] - 年代は異なるも来歴のよく似るスリランカ出身のタレント・大学教員。憧れた外国人タレントの一人<ref>『日本で知った『幸せ』の値段』 34頁</ref>


== 出典 ==
== 参考文献 ==
* 『留学生が愛した国・日本』単著、2002年5月16日、[[現代書館]]。
* 『留学生が愛した国・日本』単著、2002年5月16日、[[現代書館]]。
* 「『共生を求められた日本の国際化の課題』-スリランカから帰化した者の民際的な視点で-」<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006391557 『山口県立大学国際文化学部紀要』第13号(2007年3月)]</ref>。
* 「『共生を求められた日本の国際化の課題』-スリランカから帰化した者の民際的な視点で-」<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006391557 『山口県立大学国際文化学部紀要』第13号(2007年3月)]</ref>。
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[[Category:1969年生]]
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[[Category:存命人物]]
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2018年3月11日 (日) 20:58時点における版

にしゃんた
本名 ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ(Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha)→多原樹一
生年月日 (1969-07-18) 1969年7月18日(54歳)
出身地

セイロン

(現在日本の旗 日本国籍)
血液型 O (Rh+)
身長 175
言語 日本語
方言 関西弁・京言葉・英語・シンハラ語
最終学歴 博士(経済学)
師匠 鶴見良行中村尚司田中宏
現在の代表番組 ペケ×ポン知りたがり!
過去の代表番組 世界一受けたい授業おもしろ京都検定極上!KYOTOグルメガイドなど
作品 映画:地球のヘソ
他の活動 羽衣国際大学教授講演家落語家
配偶者 有り
公式サイト にしゃんたOfficial HP
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にしゃんた1969年7月18日 - )は、社会学者タレント羽衣国際大学現代社会学部教授。学位は博士(経済学)[1]講演家落語家[2]としても活動、初代京都府名誉友好大使。セイロン(現スリランカキャンディで、ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ(Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha)として生まれる。にしゃんたとは静かな夜に生まれたことからシンハラ語で「静夜」を意味する[3]

経歴

高校生でボーイスカウトの一員として来日[4]。1か月の滞在でホテルかキャンプ場に泊まることが多く日本人に中々接触できなかったが滋賀県大津市坂本に住む一家に一夜だけホームステイした[5][6]。そして1987年10月5日、再来日して1年前にホームステイした一家に身を寄せる[5]。事前連絡もせず突然電話で頼んで空港まで迎えに来てくれたが、にしゃんたの所持金が家を担保に作った7万円だけと知り、3か月だけ面倒を見るがそれまでに行き先が見つからない場合は帰ってくれ言われる[7][5][8]。スリランカの実家はお金はないが周りの貧乏な子供の面倒を見て家の手伝いをさせつつ学校にも行かせるという生活を送っていたのでそういう「ゆとり」あったことからこの程度の所持金で受け入れられると思い込んでいた[9]。このとき、6歳で全寮制の男子校に入学して以来12年ぶりに泣いたという[10]

一家の紹介で日本語学校に通うことになったが月謝が分割で毎月9万円だったので足りない分は一家に借りた[11]。アルバイトすることを考えるが家の周りに働き口がなくどうしようかと思っていたところ、隣に住む女性から英語を教えて欲しいと週一で時給500円で頼まれるが3時間経っても帰してもらえず、貰った給料は500円だった>[12]。この女性は英語を覚える気がなく、夫を亡くしていたことから話相手が欲しかっただけと考えた[12]。割に合わないので一家の友人の紹介で雄琴温泉の旅館で働くことになったが、就学生ビザで滞在していたので自分からお願いして規定の何倍もの時間、摘発されないか心配しながら働いていた[13]。バイトを終えて帰るのは夜遅くになるので一家に迷惑だと考え、旅館にお願いしてそこの社員寮に泊まることになり、家に滞在にしたのは1か月にも満たなかった[14]

摘発されないようになるべく外出せず寮でよくテレビを見ていたが[15]、番組出演していたケント・ギルバートケント・デリカットをジャパニーズドリームを手に入れた者と憧れ[16]、近所にやってきていた移動古本屋で彼らの古本を購入、それを2年で読めるように決めた[17]。不法就労から脱却すべく大学を出てタレントになることを目指し[18]、日本語学校のビザでは長く滞在できないのでどこでもいいと考えて[19]、面接だけで入学できる名古屋の大学に合格するも、そこは山中にあることからバイト先が問題となり、立命館大学を留学生枠で受け直して合格した[20]。旅館から大学の衣笠キャンパスまで片道2時間もかかりバイトができずバブル崩壊で客も減っていたことから京都の自動車部品工場で働くも勤務中の騒音に耐えかねて読売新聞の新聞奨学生を紹介してもらって嵐山の販売所で働く[21]。来日したのは格闘技を学ぶためというのもあり[22]、大学でラグビーをやったり空手道場に通っていたが、故障で何度も手術していくうちに激しい運動はできなくなったが、空手の指導員免許を取得して審判もつとめ空手をは関わり続ける[23]。大学2年生時、京都府名誉友好大使に任命されよくパーティに参加したことから国際と付くと自分を歓迎してくれると思い込んでいた[24]。卒業を控えて就職を考えるも日本はバブル崩壊で買い手市場だったため留学生を雇ってくれるだろう「国際」と名のつく団体にあたるも国籍条項を理由にことごとく断られ、国際と言うのなら国家間の橋渡しを的な役割をしているはずなのに、日本に裏切られたとショックを受けるが販売所の同僚で大学の同級生から大学院へ進むことを提案される[25]

龍谷大学大学院と立命館大学大学院を受けるも試験前日はかなり飲酒としていたと言い、学部総代で卒業したことからタカをくくっていたら、両方とも落ちてしまい、滑り止めの名城大学大学院に合格[26]。名古屋に行ってから膝の怪我が悪化、以前は嵐山で外科にかかっていたが2年間通院するも治らず、そこは「ヤブ医者」だったと知る[27]。3か月入院して奨学金もないことから貯金300万円が1年後には底をついたことから京都に帰りたいと考えもう1度龍谷大学大学院を受験するとトップ合格、だが大学院の担当教員からあと1年いれば修士号が貰えると言われ当時交際していた彼女も反対[28]、同じ学生寮で仲良くなった中国人留学生に相談すると両方通学することを提案され結果、両方から奨学金が下りて2つの修士号をとった[29]

龍谷大学大学院時代、外国人タレントの講演会行くと質疑応答の時間で自分にマイクが回ってきて、場違いだと前置きしつつあなたは外国人でありながら関西の顔をして活躍されているが後継者育成されてはどうか、あなたに憧れていて来日10年になる僕はどうでしょうかと言うと、そのタレントが所属する芸能事務所の人が来ているというので名刺交換、その事務所に所属することになった[30]。関西地方で放送されていた『カモン、フォリナー』でテレビ初出演、特技を披露することになったが何かあるかと聞かれ経緯は不明だがカップラーメンの味をすべて当てられる外国人として出演することになった[31]。当時よく食べていたがそこまでのカップ麺オタクではなかったことから事前に大量購入して味を食べ比べるも大して変りないので麺や調味料をよく観察、本番では全て正解することができた[32]

大学院生時代にはある大学の非常勤講師をするも収入面で問題があると気付き[33]、専任の大学教員を目指して博士論文を書くことにした[34]。そんなとき周りの外国人から起業しないかと持ちかけられ、やってくれといわれて社長に就任した[35]。その後、経営者ビザを申請しようとするも大学卒業後に数年間働いてないことから通訳としてビザが発給された[36]。会社名は株式会社グローバルコンテンツ、事業は外国人向けに携帯電話で複数の言語によって情報を提供する有料サービスであった[37]。そこで携帯電話キャリアごとのサイトへのアクセス方法の図式化と営業を担当していた[38]。1年ほどで会社が急成長を遂げ、その頃に山口県立大学の教員として採用されることが決まり、同社を退職した[39]。大学では経済学、国際経済論を担当、アマルティア・センの言葉を引き合いに豊かさとは何だとGDPの低い国からやってきて日本でお金だけでは測れない自由や降伏を学生たちと考え、忘れかけている心の豊さに気付いてもらうためだと教える決意をした[40]。当時は山口県の場所もわからず[41]、大学側とメールでやり取りをしていたが、その相手は国際文化学部教授の安渓遊地だった[42]

だが教員生活は思うようにはいかなった。公舎に住んでいたが家を空けていると瞬く間にその情報が広がり、大学での人間関係がそこでも影響してくることに気付いて転居を考えるもいい物件が見つからず仕方なく学生用アパートに入居するが落ち着かず、アパートを転々とし、公舎に戻ったりもした[43]。半年後の講演の依頼ですぐ決める必要があると言うので上司に報告すると教授会にかけて1か月かかるというので今度は報告せずに年休をとって依頼を受けると講演があることを知った上司に年休を取り消される、海外に学生を引率する書類を誤字脱字があるかもしれないが見てほしいと言って提出すると教授会でみんなに配布した上で、こんなに誤字脱字の多い人に引率を任せていいのかと指摘される、授業が終わって1時間に1本しかない電車に乗ろうとしたとき上司から電話がかかってきて話があるというので呼び戻されるなど、いじめを受けていた[44]。その結果、ヤケ酒に走り10円禿ができたり急性B型肝炎で1か月半分入院、しばらく自宅療養した[45]。山口に来てから半年後、そこにいるのが嫌になって京都に町屋を借りてそこと山口を週2往復する生活で給料は交通費、酒代、家賃に消えていた[46]。最終的に妻からもう辞めろ言われるまで7年間勤めていた[47]

一方、大学の仕事自体や学生との交流は楽しかった。経済学士はとったがまだまだ経済のことをわかっておらず、勉強もしつつ教えると学生と同じ目線になったことで好評であった[48]。自分が学生のとき担当教員だった鶴見良行に倣い、学外の定食屋でゼミを行ったりもした[49]。あるとき、留学生が家賃を払うのは馬鹿らしいと広い2階建て公舎に住まわせてほしい言われ、受け入れた[50]。これを機に公舎を学生に使わせていたが、大学関係者は見て見ぬふりだったという[51]

大学を辞めてから1年ほど失業期間が続き、講演やタレント業に専念することを考えるも安定した職業が欲しいと考えていたそんなときに羽衣国際大学で教員の話が舞い込み、私立であることから講演メディア出演も自由であることから引き受けた[52]

妻とは大学院生時代に講師として参加した青年洋上大学で知り合い、講義を聴きに来た参加者だった[53]。妻の両親は外国出身であることから中々結婚を認めてもらえなかったが2008年正月、家に呼ばれて改めて頭を下げると、意思が固いことを知った父は承諾した[54]

人物

親日家で、2005年に日本国籍を取得した。平仮名で「にしゃんた」と自称する。もっとも大切にしている言葉が、セレンディピティ(英語:serendipity)である。「予期せぬ素敵な発見・出会い」の意味で使われる[55]

「多様性を語る人」を意味する「ダイバーシティ・スピーカー」を名乗り、あらゆる違いや変化[56]を楽しみ、学び、力にする利点や喜び、また多様性包摂•社会参画 (Inclusion & social participation of Diversity) の必要性について語る。「民際」、「全員力」、「包み込む社会」や「共笑」などの言葉を用いる。あわせて外国出身者としての視点から見た多くの日本の魅力を紹介している。多様性(多文化共生、ダイバーシティ)を自身の生涯のテーマとして位置づけ、訴えることになった最も大きな理由は、多様性を軽視された結果として引き起こされた母国のスリランカ内戦である。25年以上にわたった戦争で多数の学友を含む若人を死なせた辛い経験を有する。

2008年に、近未来(2050年代)の日本(京都)の国際化を題材にした映画『地球のヘソ』で主演俳優デビュー。同年にワッハ上方の「落とし頃なお年頃 芸能界落語部」で高座デビューした[57]。落語を始めた理由はテレビ番組で共演した桂春蝶に軽い気持ちで落語を教えてほしいと頼むとそれから1年後、まだ教えてほしいのか聞かれて考えに変わりないことを伝えると落語のDVDを送ってきて、収録されていた『時うどん』を練習した[58]。そして2009年)には同じ演目で社会人落語初代日本一決定戦で全国362名の中から準優勝を果たす。大会審査委員長であった、桂三枝(現・桂文枝)に「あのマクラにはかてまへんな」と言わしめた。また、三枝が、自身のブログ上でも「社会人落語日本一は、あやうくスリランカ人が日本一になりそうでした。残念ながらよく受けたのですが持ち時間をオーバーして、減点となりました。なかなかよくやるスリランカ人で落語も外国人に脅かされてきました。」と紹介している[59]。この大会は本人が全国ネットのテレビに露出する大きなきっかけにもなった[60]。また、上方落語にとどまらず、三遊亭好楽にも認められ、教えを受けている[61]。母国を離れて世界で活躍している人物をドキュメントするNHKの国際放送NHKワールドの番組『A is AsiA』の第1回目の放送(2009年)で落語家としての活躍を紹介される。

社会人落語初代日本一決定戦をきっかけに自身の志を表現する手段としても落語に力を入れはじめ、社会人落語家として本格的に全国行脚する。それまで行っていた講演活動に落語を組み合わせたり、「スタンドアップ落語」という新スタイルにも挑戦している[62]。講演会の講師として人気があり、年間(2009年の時点で)100超える講演を行っている。学問的な背景に支えられた見聞を解りやすく、身近な事例を取り上げて楽しく語りかける。口調は落語調で、数分に一回笑わせる巧みな話術と愛嬌でみなさんのこころを掴み、最後に全員をファンになると評される[63]。茶目っ気たっぷりの明るいキャラクター。関西を中心に人気に火がつき、全国へ広がった。

造語

共笑
「ともえ」と読む。既存の「共生」に対して新たに提示されている概念である。違いや変化といかに生きるべきかの理想形として、便利な言葉として使われる「共生」は、実際のところ、同化であったり、棲み分けであったり、下手すると排斥であったりする。関係し合う者の片方だけが笑っていることが多い。ただ共に生きるだけでは不十分。共に笑うことが大事で、その組み合わせにのみ平和持続可能性発展があると言う[64]。なお、この名前はにしゃんたの長女の名前でもある(読みも同じ)[65]

エピソード

  • 小学校の教科書の一章として掲載されていた「日本からの手紙」によって日本を初めて知った。
  • 中学生の時、テレビで『おしん』を見て日本とスリランカは似ていたので「親近感」を覚えた。しばらくしてスリランカの道を走る日本車を見て、日本が経済成長したことを知って、日本が「憧れの国」に変わった。
  • サンフランシスコ講和会議において日本を援護する内容の名演説を行ない日本の戦後復興を願い、死後には片目の角膜を日本人に提供した日本の恩人とされる、初代スリランカ大統領ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナに日本が素晴らしい国だと勧められたことが、来日決意に至った一因だった。ジャヤワルダナとは2度会っており、メディアなどでジャヤワルダナを通して築かれた日本とスリランカの絆について紹介している[66]
  • 日本名は京都の神社で名付けと貰おうと出向くと午前11時に並びだして午後7時にやっと順番が回ってきて、宮司に名付けてほしいこととスリランカ出身であることを告げるとスマトラ島沖地震があったことを言いながら「広海にしゃんた」と紙に書いてもらうも、しっくりこないし周りからも不評だったことからこの名前は選ばなかった[67]。次に易学者に名付けてもらおうと行くと本人は病気で休んでいるということで代わりにその妻によってスリランカは獅子の国と呼ばれそこから来日して根を張れるようにという意味で「獅子桜(ししざくら)にしゃんた」という名前を考えてもらうもこちらもしっくりこなかった[68]。申請の期日が迫る中、当時住んでいた近所で営業していたフルーツパーラーを営む女性に考えてもらうことを頼むと夜中に店を訪れたとき、酔っぱらってきちんと覚えてないというが「大勢の人が集まる大きな野原に立派に聳えるような樹木になれ。そこから人生を再スタートせよ」という意味で多原樹一と決まった[69]

学歴

著書

  1. 『文藝春秋オピニオン2016年の論点100 』共著,2015年11月,文藝春秋。「国内政策の失敗を移民拡大でごまかすなー(にしゃんた)」
  2. 『ブッダと歩く神秘の国 スリランカ』単著,2015年9月,キノブックス
  3. 『日本で知った『幸せ』の値段〜無一文の留学生が、大学准教授になるまで〜』単著,2012年9月,講談社
  4. 『留学生が愛した国・日本』単著,2002年5月,現代書館
  5. 『Japanese Management in Sri Lanka 』reality or wishful thinking,単著,2005年4月,Karunaratne & sonsSri Lanka.
  6. 「国際化時代における日本の経営学教育への提言―スリランカと日本のはざまで」『外国人教授が見たニッポンの大学教育:これでいいのか経営学の教え方・学び方』単著,2003年9月,中央経済社
  7. 『The Distant Neighbors』「Japanese style of Management in Sri Lanka」単著,2003年5月,Sri Lanka Association of Economics.
  8. 「隣国スリランカと日本への期待」単著,2003年11月,『未来経営』フジタ研究所
  9. 『日本的経営は海を越えられたか!?』単著, 2006年2月,ふくろう出版
  10. 『スリランカからのことづけ』共著(ビデオ作品),2005年3月,One-Asia・Hot-Heart。

主な出演

テレビ番組

ラジオ番組

ほか

映画

論文

  1. 「The Adoption of Japanese System of Management in Business out side Japan: The Case of Sri Lanka」,単著,2002年3月31日提出済,博士論文(龍谷大学)。
  2. 「スリランカにおける日系企業の経営-平等主義の日本的経営は階層社会に通用するか-」単著,1998年10月,『経済学論集-龍谷大学』38巻,第2号。
  3. 「スリランカ日系企業における従業員の意識」単著,1999年6月,『経済学論集-龍谷大学』39巻 第1号
  4. 「スリランカ日系企業の経営に関する考察-日本人駐在員に対するアンケート調査を中心に-」単著,2000年3月,『経済学論集-龍谷大学』39巻,4号(民際学特集)
  5. 「Japanese Style of Management and its Possibilities of Internationalization」単著,2000年7月,『経済学論集-龍谷大学』40巻,第1号
  6. 「 Liberalization and FDI in a Small Country - The case of Sri Lanka -」単著,2000年8月『経営学論集-龍谷大学』40巻,第2号
  7. 「Problems and Prospects of Investment in a Small Economy: The Case of Japanese Investments in Sri Lanka」単著,2001年12月,『経済学論集-龍谷大学』第41巻,3号
  8. 「Comparative Studies of International Management The case of Management Culture in Sri Lanka」単著,2004年2月『山口県立大学国際文化学部論集』10号
  9. Japanese-style Human Resource Management in Sri Lanka-The Case study of Usui Lanka (Pvt.) Ltd.,単著,2004年3月『経済学論集-龍谷大学』43巻4号
  10. 「Japanese-style Human Resource Management in Sri Lanka―The Case study of Noritake Lanka (Pvt.) Ltd.,単著,2006年3月,『山口県立大学国際文化学部紀要』第12号
  11. 「Possibility of internationalization of Japanese Style of Management to Asia-research Review」,単著,2005年3月『山口県立大学国際文化学部紀要』第11号
  12. 「共生を求められた日本の国際化の課題-スリランカから帰化した者の民際的な視点で-」,単著,2007年3月『山口県立大学国際文化学部紀要』第13号

そのほか

  1. 「日本的経営の海外移転の限界と日本企業側の要因」単著,2002年5月『アジア経営研究』第8号
  2. 「日本における外国籍住民生活実態調査と地域の課題について-異文化間ネットワークの必要性について」 共著,2004年2月『山口県立大学国際文化学部論集』10号
  3. 「『TSUNAMI現場から日本へことづけ』-在日の被災地出身者の走り書き記録-」単著,2006年3月『山口県立大学国際文化学部論集』12号
  4. 「スリランカ内戦と解決のための日本の役割」単著,2007年3月『山口県立大学国際文化学部論集』13号

学会発表

  1. 「スリランカにおける日本的経営に移転可能性について」単, 1998年6月, アジア経営学会西部部会(於龍谷大学)
  2. 「スリランカの経済開発における外国直接投資」単, 1998年10月, 国際開発学会全国大会(於龍谷大学)
  3. 「スリランカ日系企業の労務管理に関する考察」単, 1999年11月, アジア経営学会全国大会(於龍谷大学)
  4. 「日本的経営の海外移転の限界と日本企業側の要因-スリランカの調査を通して-」単, 2001年10月, アジア経営学会全国大会(於立命館大学)
  5. 「日本におけるエスニックビジネスの可能性について-現状展望及び社会の壁-」単, 2001年10月, 工業経営研究学会全国大会(於龍谷大学)
  6. 「異文化の中の日本的経営」単,2005年7月2日,日本国際文化学会
  7. 「スリランカから日本へのことづけ-ツナミから学ぶ-」共, 2005年10月3日, 日本南アジア学会
  8. 「スリランカから日本へのことづけ(続編)」共, 2006年10月7日, 日本南アジア学会

そのほか

  1. 「ツナミ 貧しい漁民直撃」 単著 2006年4月28日 『朝日新聞』
  2. 「信仰を支えに心は前向き」 単著 2006年4月29日 『朝日新聞』
  3. 「市民レベルの支援期待」 単著 2006年4月30日 『朝日新聞』
  4. 「真の支援 人材育成急の」 単著 2006年1月17日 『中国新聞』
  5. 「被災地に温もり伝える」 単著 2006年1月24日 『中国新聞』
  6. 「心豊かな学問教えたい」 単著 2006年1月31日 『中国新聞』
  7. 「こころもからだもぽっかぽか」 単著 2006年2月7日 『中国新聞』
  8. 「挨拶は暮らしの潤滑油」 単著 2006年2月14日 『中国新聞』
  9. 「学べる幸せかみしめて」 単著 2006年2月21日 『中国新聞』
  10. 「手に持たぬ美学 和の心」 単著 2006年2月28日 『中国新聞』
  11. 「会話弾めば心にも栄養」 単著 2006年3月7日 『中国新聞』
  12. 「国渡り歩く若人を応援」 単著 2006年3月14日 『中国新聞』
  13. 「異郷学ぶ絶好の教科書」 単著 2006年3月28日 『中国新聞』
  14. 「平仮名表記で問題提起」 単著 2006年4月4日 『中国新聞』
  15. 「くせで再認識する己」 単著 2006年4月11日 『中国新聞』
  16. 「愛情感じ違いを楽しむ」 単著 2006年4月18日 『中国新聞』
  17. 「心豊かな母国では不要」 単著 2006年4月25日 『中国新聞』
  18. 「歴史に埋もれた[功績]」単著,2006年5月2日『中国新聞』
  19. 「若者よ世界へと羽ばたけ」単著,2006年5月9日『中国新聞』
  20. 「New Comer」から見た「Old Comer-忘れられた国際人-」単著,2000年8月『百色百光』第3号
  21. 「国際化の裏で根強い外国人差別」単著,1998年8月27日 『朝日新聞』
  22. 「いくら国際交流を重ねても」単著 1998年12月3日 『朝日新聞』
  23. 「留学生しか歓迎しないの」単著 1999年3月18日 『朝日新聞』
  24. 「途上国の人に冷たい対応」単著 1999年5月13日 『朝日新聞』
  25. 「マイノリティーに法の光を」単著 1999年7月15日 『朝日新聞』
  26. 「本名のまま生きる韓国人三世の友人」 単著 1999年10月15日 『朝日新聞』
  27. 「国際交流は盛んだが、企画は日本人向け」単著 1999年12月3日 『朝日新聞』
  28. 「変な『異文化理解』身近な人と共生を」 単著 2000年1月28日 『朝日新聞』
  29. 「暮らしにくい日本外国籍の子支援を」 単著 2000年3月31日 『朝日新聞』
  30. 「留学生は管理の対象なの?」 単著 2000年6月16日 『朝日新聞』
  31. 「中国に残る日本侵略のつめ跡」 単著 2000年10月13日 『朝日新聞』
  32. 「武士道精神に欠ける戦後補償」 単著 2000年12月15日 『朝日新聞』
  33. 「外国人にも印鑑なぜ強要?」 単著 2001年2月13日 『朝日新聞』
  34. 「携帯電話が壊れても一大事」 単著 2001年3月23日 『朝日新聞』
  35. 「片言の外国人は『怪しいもの』?」 単著 2001年7月13日 『朝日新聞』
  36. 「友よ、『先見の明』ある君に敬服」 単著 2001年9月21日 『朝日新聞』
  37. 「いつまで?脱亜入欧」 単 著 2001年9月21日 『朝日新聞』
  38. 「病気で知る共生の道のり」 単著 2002年1月11日 『朝日新聞』
  39. 「しかることを忘れた学校」(新世界が見えてくる大阪) 単 著 1998年8月23日 『産経新聞』
  40. 「踏み台にせず真の交流を」(新世界が見えてくる大阪) 単 著 1999年3月14日 『産経新聞』
  41. 「外国人の人権にも関心を」 単著 2000年4月22日 『読売新聞』

学会及び社会における活動等

  • 初代京都府名誉友好大使
  • 京都ユースホステル協議会評議員
  • 全国空手連盟公認指導員
  • 全国空手連盟公認審判員
  • 京都立誠空手道場 主宰
  • NPO One-Asia (one-asia.com)主催
  • 日本国際文化学会
  • 日本南アジア学会
  • 日本経営学会会員
  • アジア経営学会会員
  • 国際開発学会会員
  • 工業経営研究学会会員
  • 関西留学生新聞 編集委員長
  • 京都市基本構想等審議会審議員
  • 京都市外国籍市民施策懇話会 懇話員
  • (特別非営利組織)多文化共生センター理事
  • 21世紀京都市幕開事業企画委員会 企画・実行委員
  • (特)OSAKAすいた国際交流芸術文化協会 設立代表者
  • (特別非営利組織)多文化共生センターきょうと代表
  • 多民族共生人権教育センター理事 (現在に至る)
  • 献血ルーム一日所長(京都)
  • 「にしゃんた献血友の会」発足(2007年)
  • 京都府消防応援団 団員

受賞歴

  • 1989年10月 ボーイスカウト指導者ウッドバッジ
  • 1989年12月 日本語能力検定試験1級
  • 1992年3月 第2回京都府留学生スピーチコンテスト「自由題」 最優秀賞
  • 1992年12月 京都市国際交流会館主催・外国人による日本語弁論大会 「国際化と京都への提案」 最優秀賞
  • 1993年9月 第14回留学生の主張日本語による在日留学生弁論大会(全国大会)「21世紀への提案」最優秀賞
  • 1994年2月 日本拳法二段
  • 1994年3月 講道館柔道初段
  • 1995年6月 名古屋内外学生センター主催 第9回「アルバイト体験発表論文」「心の豊かさを求めて」 最優秀賞
  • 1995年11月 龍谷大学留学生別科10周年記念第6回 「日本語弁論大会」「はじめの一歩」 最優秀賞
  • 1995年11月 第20回 関西地区外国人留学生による「日本語弁論大会」「世界の民族問題」 最優秀賞
  • 1997年10月 全日本空手連盟指導員免許取得
  • 1997年10月 全日本空手連盟公認四段
  • 1997年11月 第18回神戸市長杯バイリンガルスピーチコンテスト(日・英-全国大会)「平和を考える-ラグビー・フィフティーンに捧げる」 最優秀賞
  • 1997年12月 京都内外学生センター主催 第1回「アルバイト体験発表論文」「真の国際交流とは」 最優秀賞
  • 1998年5月 内外学生センター主催全国大会「アルバイト体験発表論文」(全国大会)「真の国際交流とは」 最優秀賞
  • 1998年10月 全国空手連盟京都府審判員
  • 1998年12月 京都市自治100周年記念『 京都元気大賞 』(全国大会:応募者8500作品中)「三条大橋」最優秀賞
  • 2001年6月 新世紀かがやき交流賞(京都府開庁記念日記念式典において代表を務める多文化共生センターきょうとの地域における多文化共生に関する社会貢献に対して受賞)
  • 2004年10月 国際化推進特別感謝状(京都市自治記念式典において京都市の国際交流及び多文化共生への貢献に対して表彰)
  • 2009年 8月 社会人落語初代日本一決定戦準優勝

関連項目

参考文献

脚注

  1. ^ 専門は、スリランカ全般。アジア、多様性の活用による人づくり・組織づくり・社会づくり。
  2. ^ 社会人落語家として活動している。
  3. ^ にしゃんた『日本で知った『幸せ』の値段〜無一文の留学生が、大学准教授になるまで〜』講談社 2012年、3頁
  4. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 16頁
  5. ^ a b c 『日本で知った『幸せ』の値段』 13頁
  6. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 16頁
  7. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 12頁
  8. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 18頁
  9. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 17頁
  10. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 18頁
  11. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 18頁
  12. ^ a b 『日本で知った『幸せ』の値段』 22頁
  13. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 22-24頁
  14. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 25頁
  15. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 32頁
  16. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 33頁
  17. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 34頁
  18. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 35頁
  19. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 39頁
  20. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 36頁
  21. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 40-41頁
  22. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 45頁
  23. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 46-47頁
  24. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 47-48頁
  25. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 49-50頁
  26. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 53頁
  27. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 53-54頁
  28. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 53-55頁
  29. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 56頁
  30. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 61-62頁
  31. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 62頁
  32. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 62-63頁
  33. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 75頁
  34. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 76頁
  35. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 78頁
  36. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 81頁
  37. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 83頁
  38. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 84頁
  39. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 88-89頁
  40. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 93-94頁
  41. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 91頁
  42. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 94-95頁
  43. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 100-101頁
  44. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 102-103頁
  45. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 103-104頁
  46. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 104頁
  47. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 105頁
  48. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 107頁
  49. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 109頁
  50. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 110頁
  51. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 111頁
  52. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 143頁
  53. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 117頁
  54. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 121頁
  55. ^ この言葉はかつての自身の母国の国名であったセイロン島の語源であるとも言われている。
  56. ^ 性・年齢・障害の有無・民族・国籍・宗教・地域等などに限らず一人一人の違いや自然界の違いなど
  57. ^ この企画では、桂春蝶原田伸郎立原啓裕 らと共演しており、にしゃんたがトリを務めた(順番はジャンケンで決まった)。この時、初めての舞台にして誰よりも笑いが多く、あまりにもウケが良かったので、本人は「自分に才能がある、いける」と勘違いして、落語を継続することを決めた(「日本で知った『幸せ』の値段」参照)。さらに同年R-1ぐらんぷりにも出ており、初めてにして3回戦進出を果した。そのことがきっかけになり『笑っていいとも!』などのメディアを賑わす。持ちネタには、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の替え歌の「ジェロでもねぇ、オバマでもネェ、どれにもそれほどに似ていねぇ…」などがある
  58. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 135頁
  59. ^ 席亭桂三枝の落語的日常 2009年8月16日社会人落語日本一決定戦において、大会開催以来3連続決勝戦に選ばれている。
  60. ^ ペケ×ポン川柳などはその代表的な番組で、落語大会の際と同じ黄色い着物で毎回登場している。褐色に黄色い着物がトレードマークと化している。
  61. ^ 関西での生活が長いにしゃんたにとって上方落語が覚えやすいが、敬意を表し好楽から教わったネタを江戸弁でかけている。枕までが関西弁なのに、ネタに入り次第、江戸弁に切り替わることが観客に驚かれるときがある。
  62. ^ 講演(+落語)の代表的なテーマは、「ちがいを楽しみ、力にかえる〜多文化共生“新”時代〜」や「違う人との出会いは学びと成長のパスポート」などである
  63. ^ http://blog.sbrain.co.jp/company/2010/10/post-139.html
  64. ^ [テレビ寺子屋の講演にて発言 http://www.sut-tv.com/sp/show/terakoya/backnumber/post_262/]
  65. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 144頁
  66. ^ 世界・ふしぎ発見!未来世紀ジパングなど。
  67. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 3-4頁
  68. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 4頁
  69. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 5頁
  70. ^ 『日本で知った『幸せ』の値段』 34頁
  71. ^ 『山口県立大学国際文化学部紀要』第13号(2007年3月)

外部リンク