「仲哀天皇」の版間の差分

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→‎陵墓: 節名を「陵・霊廟」とする(陵墓は天皇皇后陵と皇族墓の総称、御陵は百科事典にそぐわない敬意表現により、陵1字を採用)。
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また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風[[諡号]]から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい([[天智天皇|中大兄皇子]]のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。さらに前述の通り、『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない<ref name=kokusi/><ref name=nihonsi/>。
また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風[[諡号]]から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい([[天智天皇|中大兄皇子]]のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。さらに前述の通り、『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない<ref name=kokusi/><ref name=nihonsi/>。


== 陵 ==
== 陵・霊廟 ==
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恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)に葬られた。『[[日本書紀]]』に「[[河内国]]長野陵」、『[[古事記]]』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」とする。同陵は[[大阪府]][[藤井寺市]]の[[岡ミサンザイ古墳]]([[前方後円墳]])に比定される。幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。
恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)に葬られた。『[[日本書紀]]』に「[[河内国]]長野陵」、『[[古事記]]』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」とする。同陵は[[大阪府]][[藤井寺市]]の[[岡ミサンザイ古墳]]([[前方後円墳]])に比定される。幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。
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**後円部 - 径148m、高さ19.5m、円頂部標高53.5m
**後円部 - 径148m、高さ19.5m、円頂部標高53.5m
*所在地 - [[大阪府]][[藤井寺市]]藤井寺4丁目([[古市古墳群]])
*所在地 - [[大阪府]][[藤井寺市]]藤井寺4丁目([[古市古墳群]])

また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


== 在位年と西暦との対照 ==
== 在位年と西暦との対照 ==

2013年12月20日 (金) 17:59時点における版

仲哀天皇

在位期間
仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日
先代 成務天皇
次代 応神天皇

陵所 恵我長野西陵
別称 足仲彦天皇
帯中日子天皇
父親 日本武尊
母親 両道入姫命
皇后 神功皇后
子女 応神天皇
坂皇子
忍熊皇子
誉屋別皇子
皇居 穴門豊浦宮筑紫橿日宮

実在性の低い天皇の一人。[1][2]
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仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12、13、14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。 容姿端正、身長一丈[3]

神功皇后の夫で、応神天皇の父とされるが、実在性を含めて諸事績の史実性には疑いが持たれる[1][2]

系譜

天皇系図 8~15代

日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。

  • 皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后息長宿禰王の女)
    • 誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇
  • 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
  • 妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
    • 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)

皇居

事績

日本書紀』によれば叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年1月即位。白鳥となって天に昇った父日本武尊(景行天皇43年死去)をしのんで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。仲哀天皇2年1月11日、仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。

8年熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神[4]のお告げを受けた。 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。遺体は武内宿禰により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮でされた。『(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。

  • 「この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定めたまひき。」(『古事記』)
  • 元年二月条に「即月に、淡路の屯倉を定む。」(『日本書紀』)
屯倉は、朝廷直轄の農業経営地あるいは直轄領。

仲哀天皇架空説

仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられているが、その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物であり、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、仲哀天皇架空説である。日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げた物であり、神功皇后の話は白村江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯をもとに神話として記紀に挿入された物である、との見方がある。[要出典]

また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。さらに前述の通り、『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない[1][2]

陵・霊廟

岡ミサンザイ古墳

恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)に葬られた。『日本書紀』に「河内国長野陵」、『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」とする。同陵は大阪府藤井寺市岡ミサンザイ古墳前方後円墳)に比定される。幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。

  • 墳丘全長 - 242m
    • 前方部 - 幅182m、高さ16.0m
    • 後円部 - 径148m、高さ19.5m、円頂部標高53.5m
  • 所在地 - 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目(古市古墳群

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照

当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

脚注

  1. ^ a b c 『国史大辞典9』吉川弘文堂 2003年 467ページ「仲哀天皇は、日本武尊神功皇后の説話を皇室系譜上に位置づけるため、後次的に歴史に加えられた存在である可能性が強い」(笹山晴生)
  2. ^ a b c 『日本史大事典4』 平凡社 1997年 92ページ「仲哀紀には、日本武尊の白鳥伝説に関連した説話と神功皇后の新羅征討につながる説話しかなく、このふたりの伝承を天皇紀に組み込む装置としての仲哀天皇の位置づけがよくあらわされている。」(春名宏昭)
  3. ^ 『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版
  4. ^ 通説ではこの神は住吉大神ではないかとされるが、地元にある神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる天照皇大神宮では天照大神が祀られている。

関連項目

外部リンク