伊号第四十七潜水艦

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Japanese submarine I-47.jpg
回天を搭載して出撃する伊47
(内海西部、1944年12月25日[1]
艦歴
計画 昭和17年度計画(マル急計画
起工 1942年11月21日
進水 1943年9月29日
就役 1944年7月10日
その後 1946年4月1日海没処分
除籍 1945年11月30日
性能諸元
排水量 基準:2,184トン 常備:2,554トン
水中:3,561トン
全長 109.3m
全幅 9.10m
吃水 5.34m
機関 艦本式2号10型ディーゼル2基2軸
水上:14,000馬力
水中:2,000馬力
速力 水上:23.6kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで14,000海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油
乗員 95名[2]
兵装 40口径14cm単装砲1門
25mm機銃連装1基2挺
53cm魚雷発射管 艦首8門
九五式魚雷20本
22号電探1基
航空機 なし
備考 安全潜航深度:100m

伊号第四十七潜水艦(いごうだいよんじゅうななせんすいかん、旧字体:伊號第四十七潜水艦)は、日本海軍潜水艦伊十六型潜水艦(巡潜丙型)の7番艦[3]

艦歴[編集]

1941年昭和16年)の昭和17年度計画(通称マル急計画)により、佐世保海軍工廠1942年(昭和17年)11月21日起工、1943年(昭和18年)7月31日に艦艇類別等級別表に加えられ[3]9月29日進水、1944年(昭和19年)4月15日、折田善次少佐が艤装員長に着任。7月10日に竣工し、折田少佐は艦長に着任。横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊の第六艦隊第11潜水戦隊に編入。

10月8日、伊47は第15潜水隊に編入された。

その後、伊47は横須賀から大津島に移動し、回天特別攻撃隊(菊水隊)の1隻として11月6日に大津島を出港する。20日0030、ウルシー付近で浮上し、佐藤章少尉(兵科3期予備士官)、渡辺幸三少尉(兵科3期予備士官)が甲板上から回天に乗り込んだ。その後伊47は潜航し、0300に発進予定地点のマガヤン島南東4浬地点付近に到着。仁科関夫中尉(兵71期)、福田斉中尉(海機53期)が交通筒を通って回天に乗り込んだ。折田艦長は主要航路のムガイ水道を避け、南隣のマガヤン島とローラン島の間の狭い水道を通過して泊地に入った後、それぞれ指示された方向の敵艦を攻撃するよう各艇に命令した。0328以降、5分間隔で0342までに回天4基全てが発進。発進完了後、伊47は直ちに浮上し、20ノットの速力で南東へ避退した。0416、艦尾方向にオレンジ色の大火柱が上がるのを望見、0422、同一方向に再度閃光と火焔を望見した。その後なおも浮上航走中、右舷艦首前方、距離6000mの位置に米駆逐艦がいるのを発見し急速潜航した。0416の爆発は米測量艦サムナー英語版(USS Sumner, AGS-5)からも目撃されており、その位置はプグリュー島の1.5浬南方のサンゴ礁であるとされた。これは、伊47が回天を発進した場所が発進予定地点から少し離れた位置だったためで、サンゴ礁に座礁した回天が自爆したことによるものであった。その後、1132にも同じ地点で座礁した回天の自爆による爆発をサムナーと、修理を受けていた軽巡リノ(USS Reno, CL-96)が報告している。また、1基が0547に給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)に命中し、同艦を撃沈した。0600、軽巡モービル(USS Mobile, CL-63)が防潜網付近の海面で水煙を発見。そのあと潜望鏡が2~4ノットの速力で真っ直ぐに接近してくるのを発見して、5インチ砲と機銃で射撃を開始。mmミリ機銃の集中射撃が多数命中したが、潜航艇は潜航し、その後水面直下を走る潜水艦が起こすような小さな波が左舷正横に近づき、50mでそれも見えなくなった。モービルから「魚雷が艦首の下を通り抜けた」との通報を受けて、出動可能な護衛駆逐艦群が付近の捜索を開始した。0608、モービルは隣に停泊中の軽巡ビロクシ(USS Biloxi, CL-80)との間の海面に渦を発見。護衛駆逐艦ラール英語版(USS Rall, DE-304)が礁湖を横切ってモービルに近づき、両軽巡の間に発生している渦に向けて[注釈 1]、0647に爆雷を投下。その後到着した護衛駆逐艦2艦隻も渦の上を航過して浅深度に設定した爆雷を投下した。0653 ラールが2回目の爆雷を投下したあと海面に泳ぐ日本兵を発見[注釈 2]。波の中に日本兵の顔が見えたが長くは浮かんでいなかった。現場を捜索した米軍の短艇は女学生が差入れた座布団と日本語が書かれた木片を拾い上げた。3日後、日本兵の遺体がこの爆雷投下地点の付近で揚収された。30日に到着。その後、大津島に移動して回天を搭載した。

12月25日、伊47は回天特別攻撃隊(金剛隊)として大津島を出撃し、ニューギニア島方面に向かう。1945年(昭和20年)1月12日0100、ホーランディア付近で村松実上等兵曹、佐藤勝美一等兵曹が甲板上から回天に乗り込み、伊47は潜航した。0230、川久保輝夫中尉(海兵72期)、原敦郎少尉が交通筒から回天に乗り込んだ。0316~0326の間に回天を全て発進。その後浮上して退避に移った。0455、薄明るくなりかけたホーランディアの方向にかかった灰色の靄を破るように、大きな赤橙色の閃光を望見した。0515、米リバティ船ポンタス・H・ロス(Pontus H. Ross、7,176トン)の左舷3番船倉に突然魚雷が命中した。しかし、直径22cmほどの凹みができただけで、魚雷は海面上を滑って離れ、ポンタス・H・ロスの側面を回って船首前方右舷寄りに90m離れてから大爆発した。爆発は激しかったが、船体の損傷は軽微であった。2月1日、呉に到着。

3月28日、伊47は呉を出港し、に移動。29日、回天特別攻撃隊(多々良隊)の1隻として光を出港。同日1600、日向灘200号駆潜特務艇と共に航行中、米艦載機の攻撃を受ける。伊47は急速潜航で難を逃れたが、200号駆潜特務艇は撃沈されてしまう。日没後に浮上するも、近くを米艦載機2機が哨戒をしており爆雷攻撃を受ける。伊47は損傷しながらも離脱に成功した。30日0230、種子島東方20浬地点付近で浮上して充電中、前方に米哨戒艇2隻を発見し急速潜航をするも、メインバラストタンクのベント1基の操作に失敗、艦首が50度下に傾いた状態で深度80mまで沈下してしまう。それでも、乗員の必死の操作で深度60mの地点で艦を水平に戻すことができた。それから11時間後に潜望鏡観測をしたところ、燃料漏れを起こしているのを発見。一旦本土に戻るべく浮上したものの、米哨戒機2機に発見されてしまう。伊47はすぐに潜航したものの20発以上の爆雷攻撃をうけて損傷してしまう。それでもなんとか敵をやりすごした後に浮上。31日に鹿児島県内之浦に移動して損害を調査したところ、不発の爆雷1発が司令塔に残留しているのを発見した。伊47は損傷が著しいことから作戦を中止し、4月1日に光に到着して回天と搭乗員を降ろした後、翌2日に呉に帰投して修理を受ける。

17日、修理を終えた伊47は呉を出港して光に移動。20日には光から平生に移動する。22日、回天特別攻撃隊(天武隊)の1隻として平生を出港し、沖縄方面に進出する。26日、沖縄南東200浬地点付近で右舷ディーゼル機関が故障。2日かけて修理を行った。5月1日深夜、伊47は沖大東島南南西100浬地点付近で35km離れた位置に輸送船団がいるのを電探で発見。追跡を行い、4000mまで近づいたところで魚雷4本を発射。3つの爆発音を聴取した。2日0900、伊47は沖大東島南南西160浬地点付近で大型タンカーと護衛の2隻の駆逐艦を発見し、回天の発進準備を行う。1100に1番艇の柿崎実中尉(海兵72期)艇を発進。その5分後に4号艇の山口重雄 一兵曹艇を発進。それから15分後に爆発音がした。その爆発は激しく、伊47は揺さぶられた。その5分後に爆発音を聴取。1120には新たに聴音でフレッチャー級駆逐艦2隻を発見し、2番艇の古川七郎 上等兵曹艇を発進。回天の推進器音は20分後に途絶えたが、それから28分後には高速回転する回天の推進器音がして、まもなく爆発音がした。爆発音の後、伊47はこの海域からすぐに離脱した。7日、伊47は英リアンダー級軽巡洋艦を電探で発見し回天の発進準備を行うも、6番艇の新海菊雄 二飛曹艇と3番艇の横田寛 二飛曹艇は電話機の不調により通信ができなくなっていたため、5番艇の前田肇中尉艇を発進。24分後、爆発音を聴取。12日、光に到着して回天と搭乗員、整備員を降ろした後呉に移動し、翌13日に呉に帰投した。同日、鈴木正吉少佐が艦長に着任。

7月17日、伊47は呉を出港して光へ移動し、回天と搭乗員、整備員を乗せる。18日に潜航試験を行った後、19日に回天特別攻撃隊(多聞隊)の1隻として光を出港し沖縄方面に進出。29日にはフィリピン方面に進出する。30日、伊47は台風の中に入ったため、浮上充電をしながら台風が去るのを待った。8月1日、1番艇の加藤正中尉(海機54期)艇が波にさらわれて流出。他の回天も浸水する被害を受けた。搭乗員はいずれも乗っていなかったため人的被害はなかった。13日、光に到着して回天と搭乗員、整備員を降ろした後呉に移動し、翌14日に呉に帰投した。翌15日、終戦を迎えた。

11月30日除籍[4]1946年(昭和21年)4月1日五島列島沖でアメリカ海軍により海没処分された。

撃破総数は1隻で、撃破トン数は7,176トンである。

沈没艦の発見[編集]

平成29年9月7日、五島列島沖で沈没艦の調査をしていたラ・プロンジェ深海工学会が本艦及びその他の艦の艦種を特定したと発表した[5][6][7][8]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』419-420頁による。

艤装員長[編集]

  • 折田善次 少佐:1944年4月15日 -

艦長[編集]

  • 折田善次 少佐:1944年7月10日 -
  • 鈴木正吉 少佐:1945年4月24日 -

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 渦は前部に受けた40mm機銃弾の炸裂で出来た破孔から浸水し前が重くなったためか、或いは横舵系統を破壊されたためかの理由で、そのまま水深42mの海底に突き刺さり、推進器が回転を続けていたことにより海水を攪拌して形成されたものと思われる。
  2. ^ 爆雷の衝撃でハッチの掛け金が外れて開き、中の空気とともに艇外に流れ出たものと思われる。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 渡辺博史 『海軍艦船要覧 艦艇・特務艦艇・特設艦船・その他』 ブックショップマイタウン、2013年4月5日ISBN 978-4-938341-86-2

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

太平洋戦争戦記