アフガニスタン紛争 (2001年-)

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アフガニスタン紛争(2001年-現在)
US-UK-Sangin2007.jpg
戦争第二次アフガニスタン紛争
年月日2001年10月7日 - 現在
場所アフガニスタン
結果
交戦勢力
国際治安支援部隊の旗 NATO – ISAF

アフガニスタンの旗 アフガニスタン・イスラム共和国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ イギリスの旗 イギリス ドイツの旗 ドイツ
Flag of Afghanistan (WFB 1996).png 北部同盟

ターリバーンの旗 ターリバーン
アルカーイダの旗 アルカーイダ
ヘクマティヤール派
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗 デービッド・ペトレイアス
アメリカ合衆国の旗 ドナルド・トランプ
アメリカ合衆国の旗 バラク・オバマ
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・W・ブッシュ
ターリバーンの旗 ムハンマド・オマル
ターリバーンの旗 アフタル・ムハンマド・マンスール
ターリバーンの旗 ハイバトゥラー・アクンザダ
アルカーイダの旗 ウサーマ・ビン・ラーディン
戦力
NATO – ISAF: 132,381[1]

アフガニスタン軍: 270,000 (2011)[2]

120,000+[:en]
損害
NATO – ISAF:

死亡 2,697[3](アメリカ: 1,751, イギリス: 379, その他: 567 )
負傷 18,000以上 (アメリカ: 13,447[4]、イギリス: 4,091[5]カナダ: 1,580以上[6])
民間請負業者:
死亡 887, 負傷 11,000以上[7]
アフガニスタン軍:
死亡 7,500以上[8][9]
北部同盟:
死亡 200[10]
合計:
死亡 10,000以上

タリバンおよび反政府軍

死亡および捕虜 38,000以上 [:en]

Template:Campaignbox アフガニスタン紛争 (2001年-現在)

アフガニスタン紛争(2001年 - 現在)(アフガニスタンふんそう)では、2001年10月から現在までアフガニスタンで続いている紛争のこと。主にアフガニスタン政府やそれを支援するアメリカ合衆国北大西洋条約機構(NATO)加盟国などとターリバーンアルカーイダなどの武力集団の間で戦闘が行われている。

前史[編集]

2001年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分が北部同盟の支配下。

1978年の共産政権の成立にともない、全土でムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起した。これをうけて1979年にはソビエト連邦軍事介入を行ったが、東側社会以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、1989年にソ連軍は撤退した。

しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続いた。1994年頃からパキスタン軍の支援を受けたパシュトゥーン人の武装勢力であるターリバーンが勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。しかし、ターリバーン政権はイスラム原理主義的政権であり、同様に原理主義的思想を持つウサーマ・ビン=ラーディンアル・カーイダを国内に保護し、テロリストの訓練キャンプを設置していた。

このためターリバーン政権を承認したのはパキスタン、サウジアラビアアラブ首長国連邦の三国に留まり、アフガニスタンの国際連合における代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持していた。ラッバーニーをはじめとする旧ムジャーヒディーン勢力はターリバーンに対して同盟を組み、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けたが、ターリバーンに押されつつあった。

1998年、タンザニアケニアアメリカ大使館がアル・カーイダにより爆破される事件が発生し、アメリカは報復としてアフガニスタン国内の訓練キャンプをトマホークで攻撃した。このため12月8日には国際連合安全保障理事会国際連合安全保障理事会決議1214[11]が採択され、テロリストの国際司法機関への引き渡しが要求され、1999年には国際連合安全保障理事会決議1267[12]で、アル・カーイダとビン=ラーディンらを名指ししての引き渡しが要求された。しかしターリバーン政権は従わず、決議に基づく経済制裁が行われた(アメリカ同時多発テロ事件後はこの狙い撃ち制裁が拡大され、カディ事件サヤディ事件で人権侵害が問題化する[13])。

アル・カーイダの攻撃は引き続き起こり、2000年10月には米艦コール襲撃事件が発生した。このため12月に国際連合安全保障理事会決議1333[14]が採択され、再度アル・カーイダの引き渡しが求められたがターリバーン政権はこれにも従わなかった。ターリバーンとしては、アフガニスタンの客人歓待の伝統、ウサマ・ビン・ラーディンからの資金援助等の事情から、犯罪の証拠が示されることなく、ウサマ・ビン・ラーディンを引き渡すことはできなかった[15]

2001年2月26日にターリバーン政権は偶像破壊を名目にバーミヤンの大仏を破壊した。しかしこの事件も非イスラム諸国だけでなく、イスラム諸国からの批判も受けターリバーン政権は孤立状態にあった。

開戦までの経緯[編集]

炎上する世界貿易センタービル

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。12日、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言した。またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はウサマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。また同日、第56回国連総会でも米国政府と市民に哀悼と連帯を表して国連も本部を置くニューヨークなどへのテロ攻撃に対して速やかに国際協力すべきとする決議56/1を当時の全加盟国189カ国が全会一致で採択し[16]、国際連合安全保障理事会でも国際連合安全保障理事会決議1368[17]が採択された。

この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日にNATOが創設以来初めての北大西洋条約第5条の集団防衛条項による集団的自衛権の発動を決定する根拠となった。(#開戦の正当性に対する論議)。

この後アメリカはターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。しかしターリバーンは引き渡しに応じなかった。

9月14日、オーストラリア太平洋安全保障条約第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した[18]。9月15日、アメリカのコリン・パウエル国務長官はパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。16日、湾岸協力会議を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。タリバンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。17日、イランモハンマド・ハータミー大統領はテロを非難したが、アラブ連盟イスラム諸国会議機構と同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。

9月18日、アメリカ合衆国議会テロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与えるとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。また欧州連合外相会議も全会一致で攻撃を支持した。

9月28日、国際組織法で初の「立法行為」[19][20]とされる国際連合安全保障理事会決議1373[21]が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置として厳罰化や情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。

アメリカはこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は有志連合諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした[22]。有志連合諸国は不朽の自由作戦という統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。

開戦の正当性に対する論議[編集]

アメリカはイギリスフランスカナダドイツ等と共同でアフガニスタンに攻撃を行った。これは国際連合憲章に定められた国連軍ではなく、国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛権の発動によるという論理であった。この論理は米州機構EU、そして日本を含む同盟国と法学者に広く認められた[23]

しかし、テロ攻撃に対して自衛権は発動出来ないという法学者も少なからずおり[23]、議論が発生している。また、これらは後のテロ対策特別措置法自衛隊インド洋派遣をめぐる国会論議でも取り上げられている。

以下、『テロ特措法の期限延長をめぐる論点』[23]に沿った争点の整理を行う。

自衛権[編集]

「テロ攻撃」は自衛権の対象となる「武力攻撃」にあたるかという問題である。また、自衛権は急迫不正の侵害に対して自国を防衛するための権利であり、テロ攻撃が今後も続く「除去しなければならない脅威」にあたるかという議論があった。

  • 肯定派
    • 安保理決議1373は国連憲章第7章のもとに行動することを定めている。これは個別的又は集団的自衛権を確認するものであり、テロ攻撃に自衛権が発動出来るということを示している。
    • 派遣される武装集団の規模や影響が武力攻撃に匹敵するほどであれば武力攻撃を構成しうるという国際司法裁判所の判例がある(ニカラグア事件判決)。
    • アル・カーイダの以前からの活動を見ると今後の攻撃も予想され、除去しなければならない脅威にあたる。
  • 否定派
    • 安保理決議1373にあげられた「すべての国がとるべき行動」には武力行使自体は書かれていない。
    • テログループは「私人」であり、国際法上の主体ではなく、その行動は「武力攻撃」 (armed attack)ではなく「武力行使」 (use of force)であり、自衛権の対象にならない。
    • 有志連合諸国による攻撃は一ヶ月以上後であり、自衛権の要件の一つである「時間的要件」(差し迫った脅威を取り除くため)に該当しない。
    • 安保理決議1378にあげられた必要な措置に、武力行使は含められない。

ターリバーンへの攻撃[編集]

テロ攻撃を行ったのは、ターリバーン政権自体ではなく、その庇護下にあるアル・カーイダである。この場合、ターリバーンに攻撃を行うのは正当かという問題がある。

  • 肯定派
    • 安保理決議1368および1373はテロ組織援助禁止を規定しており、ターリバーン政権のアル・カーイダへの援助は問題がある。
    • ターリバーン政権は1996年以来、安保理決議1267および1333によるアル・カーイダ引き渡しの要求を再三拒否しており、ターリバーンの擁護者である。
    • 友好関係原則宣言では、テロ組織の育成を禁じており、ターリバーンの行為はこれにあたる。
    • 11月14日に定められた国際連合安全保障理事会決議1378[24]は「タリバン政権を交代させようとするアフガニスタン国民の努力を支援」するとあり、ターリバーン政権の打倒を明確に支持している。
  • 否定派
    • ターリバーン政権は対する兵站支援や武器供与を行ったにすぎず、直接攻撃を行っていない。
    • 一テロ組織の行動をターリバーン政権の責任とするのは問題がある。
    • 政権崩壊に至るというターリバーン政府が受けた結果は、自衛権の要件である均衡性要件を欠く。

アルカーイダ問題[編集]

同時多発テロ当時、アルカーイダによる犯行声明などは行われておらず、アルカーイダを犯人と推定したのはアメリカ当局によるものであった。明確な関与が判明していない以上、攻撃を行うのは正当かという点も問題となった。

経緯[編集]

開戦後[編集]

2001年[編集]

オマーン海で「不朽の自由」作戦を行う5カ国空母艦隊(2002年4月18日)

2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件は不意打ちだった為、アメリカ軍はアフガニスタンで戦争を行うプランを持っていなかった[25]。急きょ作戦が立てられ、アフガニスタンのムジャーヒディーン軍閥にアルカーイダやターリバーンを攻撃させること、レーザー目標指示装置を装備した特殊部隊を派遣して空爆を支援させることなどが決まった[25]。アメリカ合衆国政府はこの作戦を対テロ戦争の一環と位置づけ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦であると主張し、作戦名を不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と名付けた。なお英国では「ヘリック作戦」 (Operation Herrick)と呼んでいる[26]。アメリカは同時多発テロの前からウズベキスタンの空軍基地で無人偵察機を運用していたので、無人偵察機にミサイルを積んで攻撃機としても使えるようにした[25]。10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、アメリカ合衆国イギリスを始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。アメリカ軍は米国本土やクウェートインド洋ディエゴガルシア島航空母艦から発着する航空機やミサイル巡洋艦を動員して、アフガニスタンに1万2000発[27]の爆弾を投下した。アメリカは軍事目標だけを攻撃していると発表していたが、実際には投下した爆弾の4割[27]は非誘導型爆弾であり民間人に多くの犠牲が出たと言われている。11月13日には北部同盟軍が首都カーブルを制圧した。

開戦当初、ターリバーンの指導者のムハンマド・オマルカンダハールの自宅に居たので、空爆によって殺害する機会はあった[25]。しかしアメリカは民間人の被害を恐れてオマルの逃亡を許した[25]。オマルはハーミド・カルザイを通じて降伏に同意したが、アメリカは降伏を認めなかった[25]。アメリカは数千人のターリバーンを殺害したので、ターリバーンは自然消滅すると考えていた[25]

アルカイーダのアラブ人チェチェン人、ウズベク人やアフリカ人などの外国人兵士はカブールが陥落すると都市部を放棄して、対ソ戦時代に建設されたパキスタン国境の地下要塞トラボラに立てこもった(トラボラの戦い[27]。対ソ戦時代、ソ連軍は爆撃で地下要塞を破壊しようとしたが上手くいかなかった[27]。アメリカ軍も同様に爆撃を行ったが地下要塞を破壊することは出来なかった[27]。トラボラ周辺の国境地帯は広大だったが、2000~3000人のアメリカ軍が包囲すればビンラディンを捕らえることが出来たと考えられている[27]。しかしアメリカ軍は派遣できる部隊が存在していたにも関わらずリスクを恐れてトラボラ周辺に部隊を派遣しなかった[27]。代わりに派遣されたアフガニスタン軍閥の戦意は低く、パキスタン軍はヘリコプターが揃わないため十分に兵力を展開することが出来なかった[27]。ビンラディンは死を覚悟していたが、国境を越えてパキスタンに脱出することが出来た[27]。アメリカのブッシュ政権は最小限の被害でターリバーン政権を崩壊させたことに満足し、戦後の国家建設や平和維持には興味を示さなかった[27]。アフガニスタンの国家建設や平和維持は国連に託された。

ハーミド・カルザイ大統領

2001年11月、ドイツボン近郊のケーニヒスヴィンターにおいて北部同盟を含むアフガニスタンの4つのグループの代表を国際連合が招集して会議が開かれた。ボン会合当時、ターリバーンとの戦闘は継続していたが、すでに北部同盟軍がカーブルを占領しており、早急に暫定政府の設立、国際的な部隊による治安維持を決める必要が生じたので、急遽、ボン会合が招集されることとなった[28]。これにより暫定政府の成立、ロヤ・ジルガの招集、国際治安支援部隊 (ISAF)の成立と国連アフガニスタン支援ミッション (UNAMA)の設立が合意され、翌日国連安全保障理事会において承認された(国際連合安全保障理事会決議1383)。これをボン合意といい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。

同月、国際連合安全保障理事会決議1378が採択され、国際連合安全保障理事会はタリバンを非難し、有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政権の打倒を支持した。また、その後の国内外の軍事行動は151013861746等複数の決議によって承認されており、国連アフガニスタン支援ミッション等と連携して行われている。

12月、ISAFは国際連合安全保障理事会決議1386、UNAMAは国際連合安全保障理事会決議1401によって正式に承認され、以降のカーブル周辺の治安維持活動はISAFが担うこととなった。しかし、ターリバーンはボン合意に参加しておらず、また、ボン合意に基づき成立した暫定政府にタジク人が多かったため、パシュトゥン人の不満が高まり、ターリバーンが復活する一因となった[29]

2001年12月22日にはハーミド・カルザイを議長とする暫定政府アフガニスタン暫定行政機構が成立し、正式な政府成立までの行政を行った。同月、テロ対策特別措置法に基づいて日本海上自衛隊海上阻止行動に参加し、2010年までインド洋で給油活動を行った(自衛隊インド洋派遣)。

2002年[編集]

2002年1月、アルカーイダには数百人から2000人ほどの兵力があり、パクティーカー州の都市ガルデーズ付近のシャーヒーコート渓谷に潜伏していた[30]。シャーヒーコート渓谷にはハッカニー・ネットワークの基地があり、主にウズベキスタン・イスラム運動の兵士が立てこもっていた。3月、アメリカ軍は「アナコンダ作戦」を行い、シャーヒーコート渓谷を掃討した[30]。この作戦でアメリカ軍は150人~800人ほどのアルカーイダを殺害したと考えられているが、アメリカ軍の損害も比較的多かった。生き残ったアルカーイダの兵士はパキスタンの連邦直轄部族地域に撤退した[30]

アメリカのブッシュ政権はアフガニスタンに深入りすることを恐れて、少数の部隊(5200人)しか派遣していなかった[31]。ブッシュ政権はアフガニスタンの国家建設も各国の分担で行うことを主張し、アフガニスタン軍の再建はアメリカ、警察の再建はドイツ、司法の再建はイタリア、麻薬取り締まりはイギリスに任せて、国連に統括させた[31]。6月11日から8日間、カーブルにおいて緊急ロヤ・ジルガが開催された。会議の結果、暫定行政機構に代わり、カルザーイを大統領とするアフガニスタン・イスラム移行政府が成立した。ブッシュ政権はターリバーンは打倒されたと考えており、今後は敗残兵の掃討を行えばよいと考えていた[31]。アメリカのアフガニスタンに対する予算は極めて少なく、援助を期待していた地方住民は失望した[31]。また少ない予算の中から学校の建設が行われたが、アフガニスタンの特に田舎では女学校の建設は社会の急進的な変化や欧米の価値観の押し付けとみなされ、一部の住民が反発した[32]

パキスタンではムッラー・ダードゥッラーなどのターリバーンの幹部がクエッタ郊外で公然と暮らしており、結婚式に州の幹部や軍人を招くほどだった[33]。アメリカはいずれ撤退するとターリバーンや周辺諸国は考えており足元を見ていた[33]。ターリバーンはパキスタンから近隣のカンダハールに出撃して迫撃砲で攻撃し、「夜の手紙」(シャブナーマ)を使って住民を脅迫し支配下に組み入れた[33]

2003年[編集]

2003年、アフガニスタンで戦闘は続いていたが、ブッシュ政権はアフガニスタンについてほとんど何も考えていなかった[34]。特にラムズフェルド国防長官は戦争は終結したと 公言しており、コソボ紛争を教訓に外国軍の長期的な駐留を避けようとしていた[34]。アメリカ軍もイラクで次の戦争を始めようとしていた(イラク戦争[34]。8月11日、国連とアフガニスタン政府の要請により、ISAFの指揮権がNATOに委譲された。10月13日の国際連合安全保障理事会決議1510においてISAFの活動範囲がアフガニスタン全土に拡大され、OEF-A参加部隊の指揮権はISAFに移譲されることとなった。また武装解除・動員解除・社会復帰が行われ、アフガニスタン北部では伊勢崎賢治などが中心となり軍閥から武器を取り上げた。

パキスタンはアメリカ同時多発テロ事件の後、アメリカ政府から「空爆して石器時代に戻す」と脅迫され、アメリカに協力していた[35]。しかしパキスタンは19世紀のグレート・ゲームや20世紀のインド・パキスタン分離独立などの結果、パンジャーブ人パシュトゥーン人などの複数の民族が相互不干渉の微妙なバランスの下で1つの国家を形成しているだけで、パンジャーブ人が主体となる中央政府がパシュトゥーン人の領域(連邦直轄部族地域)を支配している訳ではなかった[35]。大英帝国の時代から連邦直轄部族地域(FATA)はパシュトゥーン部族の自治が認められており、中央政府の法律は現在でも及んでいない[35]。また中央政府の軍隊が連邦直轄部族地域に入ったことも無かった[35]。パキスタンは建国後も苦難の歴史が続き、印パ戦争で3回インドに敗北し、東パキスタン(バングラディッシュ)を失い、現在もカシミール地方をいつ失うか分からない状態が続いている[35]。インド軍はパキスタン軍の2倍の戦力を誇りパキスタンは通常戦力では歯が立たない為、軍統合情報局(ISI)がターリバーンやカシミール過激派を養成して、インド軍に対してゲリラ戦やテロ攻撃を仕掛けることを黙認している[35]。またパキスタンは国家統一を図り、インドのヒンドゥー・ナショナリズムに対抗するためにイスラム化を進めたので、パキスタン国民の大半はオサマ・ビン・ラディンを英雄だと思っていた[35]。パキスタンが国内でターリバーンやアルカーイダを取り締まることは困難であり、また将来の印パ戦争やカシミール紛争に向けてターリバーンを取り締まりすぎることは国益に合致しない。アメリカに対する協力は国内の反発を生み、2003年12月にカシミール過激派がムシャラフ大統領の暗殺未遂事件を起こした[36]。パキスタン政府は重い腰を上げ、建国以来初めて南ワジリスタンに軍を派遣した(ワジリスタン紛争[36]。しかしパキスタンは国内のターリバーンの存在は否認しており[36]、アメリカ軍の無人攻撃機や特殊部隊もクエッタなどの大都市には手を出せないでいた[36]。連邦直轄部族地域の国境警備は現地採用の辺境部隊が担当しているが、辺境部隊の兵士はターリバーンと同じ民族であり思想的にも近いため、取り締まりには非協力的でありターリバーンの越境時に援護射撃を行う場合すらあった[36]

第一回大統領選挙後[編集]

2004年[編集]

2003年12月14日から2004年1月4日にかけて、カーブルにおいて憲法制定ロヤ・ジルガが開催された。これによりアフガニスタン憲法が成立し、2004年1月26日から施行された。10月9日にはアフガニスタン全土およびイランパキスタンを投票地域とする大統領選挙が行われ、カルザイが55.4%の票を獲得。アフガニスタン・イスラム共和国初代大統領に選出された。カルザイは12月に大統領に就任し、アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立した。しかし地方の政治は軍閥に委ねられており、住民サービスを行うどころか住民に対して州知事がゆすり集りを行い、敵対部族をターリバーンとみなしてアメリカ軍に攻撃させていた[37]。カルザイ大統領の異母弟のアフマド・ワリー・カルザイカンダハール州の実力者として権勢をふるい、麻薬取引にも関わっていたと言われている[37]

同年、ターリバーンの最高評議会(クエッタ・シューラ)が軍事作戦の再開に向けた文書を作成したと言う[37]。アルカーイダはパキスタンの南ワジリスタンのワナやシカイ渓谷に拠点を持っていた[37]。ワナはワズィール族の武装組織指導者のネーク・ムハンマドが支配していたが、アメリカは無人攻撃機を使って爆殺した[37]

同年、アメリカで大統領選挙が行われ、ブッシュ大統領が再選した。ブッシュ政権はパキスタンに協力を求める一方で、パキスタンの主敵であるインドと米印原子力協力について協議を行うなど政策が首尾一貫していなかった[37]。アメリカはアフガニスタンの国家建設が順調に進んでいるため、ターリバーンの復活の可能性は低いと考えており[37]、アフガニスタンの治安維持をNATO軍に任せて、イラク戦争に専念した[37]

2005年[編集]

ターリバーンの勢力拡大(2002年~2006年)

2005年9月18日、下院議員選挙と県会議員選挙が行われた。

2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起した。このタリバンの蜂起は国際治安支援部隊(ISAF)が南部や東部に展開し始めた時期と重なっている。当時、ISAF側はタリバンの攻撃増加はタリバンがISAFに追い込まれた結果として抵抗するためのものである、という強気の見方を示していた[38] 。しかし、ISAFの説明とは異なりアフガニスタンの治安は急速に悪化していった。対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの自爆テロを行なってきたアル・カーイダの影響を指摘する声もある。

同年、パキスタン軍は南ワジリスタンで和平を結び、北ワジリスタンに進軍した[39]。一方、軍統合情報局(ISI)はサウジアラビアの支援を受けて、ターリバーンに対する支援を積極化させたと言う意見がある[40]。軍統合情報局は2万5千人の職員を擁し、秘密工作を行うS局など様々な部門があり統制が取れていなかった[41]。アメリカはビンラディンの探索を続けていたが難航していた[40]。アメリカは連邦直轄部族地域にターリバーンやアルカーイダが潜伏してアフガニスタンを攻撃していることを理解していたが、核兵器保有国のパキスタンに対する遠慮があり越境攻撃をためらっていた[40]。また住民の協力も得られないため攻撃を強行しても成果が出なかった[40]

ターリバーンやアルカーイダは「アッ=サハーブ」や「トラボラ」などのウェブサイトやネットマガジンを使って宣伝戦を積極的に行っており[40]、イギリス在住のパキスタン人などがテロを行っていた(ロンドン同時爆破事件)。

2006年[編集]

有志連合の月別の損害(2002年~2015年)

2006年、アフガニスタン南部に国際治安支援部隊(ISAF)が展開し、「マウント・スラスト作戦」を実施した。イギリス軍は手付かずだったヘルマンド州に展開したが、ターリバーンに包囲されて苦戦した[42]カンダハール州ではターリバーンが攻勢に転じてカナダ軍に塹壕戦を挑んだが、カナダ軍に撃退された(マウント・スラスト作戦、メデューサ作戦[42]ウルーズガーン州ではオーストラリア国防軍パース作戦を実行した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・アフタル・ウスマーニを殺害するなどの戦果を挙げたものの[43]、アフガニスタンの治安は大幅に悪化し、アフガニスタンにおける治安事件の数は2003年の10倍に達した[42]。またアヘンの収穫量が急増し、国連薬物犯罪事務所 (UNODC) が警告を発した[44]。アヘンの大半はヘルマンド州で生産されており、ターリバーンの資金源となっていると言う[45]。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという意見もある[46]

アフガニスタンのアヘンの生産量(1994年~2016年)

同年、パキスタンではパキスタンの特殊部隊がハッカニー・ネットワークの複数の拠点を攻撃したことに地元武装勢力が反発したことなどにより[47]、パキスタン軍の被害が増大した[39]。ハッカニー・ネットワークは北ワジリスタンのミランシャー郊外のダンデ・ダルパヘイルにある大規模な神学校を拠点にしている[47]。パキスタン軍は北西辺境州のオークラザイ知事の提案で、ワジリスタンの部族長やターリバーン、外国人戦闘員と和平協定を結んだ(ワジリスタン和平合意)[47]。パキスタン軍は連邦直轄部族地域から撤退したので、ターリバーンはアフガニスタンに自由に越境できるようになった[47]。パキスタン政府は数千人の戦闘員を擁し政府に対して好戦的なマスード族に対抗するために、ワズィール族と手を結ぼうとしていた[47]。一方、パキスタンの軍統合情報局(ISI)はISAFの展開はアメリカ軍撤退の兆しであると考え、アメリカ撤退後のターリバーン政権の樹立について真剣に考えていたという意見がある[47]。アメリカでは中間選挙民主党が勝利し、アフガニスタンに対する予算がようやく増加した[47]

2007年[編集]

2007年、アフガニスタンでは自爆テロ無差別爆撃によってISAFや民間人に多数の犠牲者が出ていた[48][49]。ターリバーンはカブールで自爆テロを開始した[50]。歩兵戦も続き、国際治安支援部隊(ISAF)はアフガニスタン南部でクリプトナイト作戦(ヘルマンド州)やフーバー作戦(カンダハール州)などを行った。またウルーズガーン州ではターリバーンが攻勢に出てオランダ軍と戦闘を行った(チョーラの戦い)。アフガニスタン北部ではドイツ軍などがハレカテ・ヨロ作戦を実施した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・オバイドゥラー・アクンドを拘束し、ムラー・ダードゥラーを殺害するなどの戦果を挙げたがターリバーンの勢いは衰えなかった[51]。アフガニスタン大統領のハーミド・カルザイはターリバーンに和平を提案したが、ターリバーンは外国軍の存在を理由に拒絶した[52]。ターリバーンは外国人を敵視しており2007年ターリバーン韓国人拉致事件が起きた。

パキスタンではラール・マスジッド籠城事件が起き、ワジリスタン和平合意が破れ戦闘が再開した[53]。アメリカは権力を失いつつあるムシャラフ大統領に代わってブット元首相を再登板させようと考えたが選挙中に爆殺された[54]

9月、ISAFの活動期限延長を主題とし、不朽の自由作戦 (OEF)に対する謝意が前文に盛り込まれた国際連合安全保障理事会決議1776が採択されたが、ロシアが棄権にまわった。

2008年[編集]

2008年、アフガニスタン北部では雨不足による穀物の不作により出稼ぎや難民が発生した[55]。アフガニスタン南部ではGarmsirの戦い(カンダハール州)、Eagle's Summit作戦(ヘルマンド州)などが行われた。ウルズガーン州ではヘルト・ウィルダースの製作した反イスラム的な短編映画に対する報復と称してターリバーンがオランダ軍にIED攻撃や自爆攻撃[56][57]、待ち伏せ攻撃を行った(Khaz Oruzganの戦い)。アフガニスタン東部のワナトの戦いなどの結果、アメリカ軍の戦死者は155人に及び(3割増)、NATO軍の戦死者も増加した[58]。アフガニスタンにはNATO軍を主力とする39か国5万5千人の部隊が展開していたが、統一した指揮がなく各部隊がバラバラに戦っていた[58]。ターリバーンは効果の薄い自爆攻撃や空爆を招く大規模な歩兵戦を避けて、即席爆発装置(IED)による攻撃を増加させた。ターリバーンはアルカーイダやパキスタン軍の訓練によって練度を上げ、迫撃砲の命中精度を向上させた[58]。またアフガニスタン政府の支配が地方まで及ばないため、ターリバーンがもめごとの仲裁などの住民サービスを行って住民の心をつかんだ[58]。ターリバーンと同じようにNPONGOがアフガニスタン政府に代わって住民サービスを担ったが、ターリバーンはNPOを攻撃しアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。米国のマコネル国家情報長官は「ターリバーンはアフガニスタンの約10~11%を支配している」と述べた[59]

パキスタンでは首都から240キロのスワート地区を過激派が占領し[58]、首都から100キロにまで迫り、核兵器備蓄基地のタルベラを脅かした[60]。アルカーイダは連邦直轄部族地域でパキスタンのターリバーンとも連携を取り、両国のターリバーンと行動を共にするようになった[58]。アメリカ軍は無人攻撃機や特殊部隊を使って連邦直轄部族地域のアルカーイダを攻撃したが、アルカーイダもパキスタン国内の外国大使館などを攻撃して反撃した[58]。また無人攻撃機の活用により民間人の被害が急増した。事態は緊迫し、もはや単なるテロ対策ではなく反乱鎮圧を真剣に行う必要があるとアメリカも認めざるを得なかった。一方、イラクでは戦争がようやく落ち着きつつあった。アメリカ大統領選挙ではオバマ候補がアフガニスタンへの関与を拡大する考えを示し、アメリカ軍も新大統領の下で増派を行う決意を固めた[58]

2008年9月20日、OEF参加諸国、海上阻止行動への謝意を前文に盛り込んだ国際連合安全保障理事会決議1833が採択され、全会一致で採択された。

第二回大統領選挙後[編集]

2009年[編集]

1月に就任したアメリカのバラク・オバマ大統領はアフガニスタン重視の姿勢を示しており、同年2月17日、同国への17000人規模の米軍増派を発表した。具体的な内訳としては海兵隊遠征旅団が8000人、陸軍・装甲車部隊が4000人、人道支援部隊が5000人規模となっている。同年2月の段階で米軍の駐留規模は38000人余で、これに増援部隊を加え最終的な規模は6万人規模になると見られている。同年9月現在、同国には67000人規模の(ISAF参加含む)米軍が駐留している。

2月、NATOはカイバル峠の輸送ルートを封鎖した。

同年5月、オバマ大統領は同戦争に対する成果が乏しいことから、ISAFのデービッド・マキャナン司令官を事実上更迭[61]。後任として、統合参謀本部中将(現・大将)のスタンリー・マクリスタル三顧の礼で迎える。翌月15日、マクリスタルはISAF司令官に正式に就任する[62]

9月4日、ドイツ部隊(アフガン・クンドゥーズ洲駐留)がタリバンに燃料輸送車を奪われたことに対して空爆した。その結果、69人のタリバン兵と30人の民間人が死亡した。メルケル首相は12月1日空爆について謝罪し、同3日グッテンベルク国防相は民間人を殺傷した空爆は不適切だったことを認めた。

しかしながら、09年の同戦争は例年にも増して、ターリバーンの攻勢が過酷を極め、9月末日までの米兵の死者は220人を超え(08年の米兵死者は150人)、米兵の犠牲は過去最悪のペースで戦況の悪化が進んでいる。こうした状況を受け、マックリスタル司令官は最低で4万人の兵力増強をオバマ大統領に直訴。仮に兵力増強を逡巡すれば、同戦争に対する敗北は必定との旨を記した書簡を同年10月1日、ホワイトハウスに送付した[63]。アフガンへの兵力増強を巡っては、軍部や共和党内の大勢が賛意を示す一方、ジョー・バイデン副大統領ら民主党内の左派は激しくこの案に反発している。一方、既に9000人の兵力を投入している英国ゴードン・ブラウン首相は、10月14日の下院での審議で、500人の兵力増強を発表した。

12月1日、オバマ米大統領は、米ニューヨーク州の陸軍士官学校で演説をした。その演説で、大統領は3万人規模の米軍を来夏までに追加派兵し、再来年(2011年7月)にはアフガン駐留米軍の削減を開始するなどのアフガニスタン新戦略を明らかにした。この増派でアフガン駐留米軍は10万人規模に達し、それに伴う追加戦費は300億ドルといわれている。この戦略発表の裏には、米兵の死者の増加[注 1]、金融・経済危機による巨額の財政赤字の下での戦費負担も深刻さを増しており、兵士の精神的ストレス[注 2]も大きな問題となり、大統領の支持率が50%を割り込んでいる[注 3]ことなどが考えられる。他方、NATO(北大西洋条約機構)は2日オバマ新戦略を歓迎し、NATO加盟国も少なくとも5000人の新規派遣を行う見通しを示した。

2010年[編集]

1月26日、ドイツのヴェスターヴェレ外相は、アフガニスタンに派遣しているドイツ部隊を2011年から撤退させたい意向を表明した。これはメルケル首相・同外相・グッテンベルク国防相らの関係閣僚が決めたアフガン総合政策による。ドイツ軍500人が一旦派遣され、さらに350人を選挙監視などに充てる。総計では、現在の4500人から5350人に増員される。このうち、治安部隊・警察の教育訓練に充てる兵員数は280人から1400人に大幅に増員される、戦闘部隊は減員される。同外相によると今年中にも一部地域で治安権限委譲をはじめ、2014年末までに完全な委譲を終わらせる考えである。また、アフガンの再建・開発支援のため、総額4億3000万ユーロ(約543億円)、武装勢力の社会復帰を支援する基金に5年間で5000万ユーロ(約63億円)を拠出する方針である。[64]

2月13日未明から、米海兵隊員中心の国際治安支援部隊 (ISAF)とアフガン治安部隊等延べ15000人による、イスラム武装勢力タリバンに対する大規模な掃討作戦(モシュタラク作戦)が、ヘルマンド州マルジャ地区にて開始。同月14日、同作戦開始2日目に、標的を外れたロケット弾に巻き込まれ民間人12人が死亡し、米軍司令官がカルザイ大統領に謝罪した。同月21日、同作戦開始9日目までに、推計でNATO軍13人タリバン120人が戦死。[65]

8月30日、2回の爆破攻撃で米兵7人が死亡している。 8月31日、アフガニスタンに駐留する米軍主導の国際治安支援部隊 (ISAF) は、駐留軍兵士5人[注 4]が爆破攻撃で戦死したことを明らかにした。[66]

2011年[編集]

5月2日(米国現地時間5月1日)、CNNが「アメリカ軍の特殊部隊イスラマバード郊外のアボタバードにある邸宅でビン=ラーディンを殺害した」と報道した[67][68]。CNNの報道直後にアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、アメリカ当局がビン=ラーディンとされる遺体を回収し、DNA鑑定の結果遺体がビン=ラーディンであることが確認されたとの声明を発表した[69]

年表[編集]

2001年
2002年
2003年
2004年
  • 1月憲法公布。
  • 10月 大統領選挙を目前にタリバンが再結成し、駐留軍に対して攻撃を始めた。
  • 10月9日 アフガニスタン初の国民投票による大統領選挙が実施された。投票所の襲撃事件などが発生した。
  • 12月7日 ハーミド・カルザイが初代大統領に就任し、正式新政府が発足した。
2005年
  • 5月 武装勢力の活動が活発になり、駐留軍とアフガニスタン軍が戦後最大規模の空爆を伴う攻撃を行なった。武装勢力と思われる者を40名以上を殺したが、民間人も多数が死亡したと報道された。
  • 5月29日 米軍車両による交通死亡事故が引き金となり、カーブルで暴動が発生。政府、夜間外出禁止令を発令。
  • 6月23日 G8外相会議、アフガニスタンの治安維持や復興支援の継続を表明
  • 6月30日 DDRによる軍閥兵士の武装解除作業が完了。
2006年
  • 9月2日 ISAF、大規模掃討作戦『メドゥーサ』を開始(~9月17日)。南部で200人以上の武装勢力を殺害。
  • 9月6日 ブッシュ米大統領、テロ容疑者を尋問する秘密収容所の存在を認める。
  • 9月7日 ジョーンズNATO最高司令官、2000~2500人の増派を要請。9月9日には参謀長会議が加盟国に増派を要請。ポーランドが1000人の増派に応じる。
  • 9月27日 カルザイ大統領、ブッシュ米大統領、ムシャラフ・パキスタン大統領が会談。
  • 10月5日 アフガニスタン東部の指揮権が米軍からISAFに移管。
2007年
  • 2月 アメリカが3200人、イギリスが1400人の増派を決定する。
  • 2月1日 アフガニスタン下院、1979年以来の内戦による戦犯全員に対し恩赦を与える「国家和解法案」を可決。
    • ターリバーン、ISAFとの間で停戦が成立していた南部のヘルマンド州ムサカラ地区を襲撃。
  • 2月8日 アフガニスタン・パキスタン国境の管理をNATOが行うことについて合意。
  • 2月27日 訪問していたディック・チェイニー米副大統領を狙ったターリバーンの自爆テロが発生。
  • 3月6日 南部ヘルマンド州の北部で、NATO・アフガニスタン軍の共同掃討作戦「アキレス作戦」が開始される。
  • 3月8日 パキスタン政府、国内のアフガニスタン難民2400万人を2009年以内に帰国させる方針を決定。
    • 同日、エルドマンNATO事務次長が日本に対し自衛隊派遣を求めていないことを表明
  • 3月11日 アメリカ、アフガニスタンに3500人、イラクに4000人の増派を決定
  • 4月6日 カルザイ大統領、ターリバーンとの和平交渉の存在を公表
  • 4月19日 アフガニスタン軍とパキスタン軍が国境地帯で衝突
  • 4月30日 米軍がヘラートで136人以上のターリバーン戦闘員を殺害。
    • 同日、カルザイ大統領とムシャラフ・パキスタン大統領、共同でテロに対処するという共同声明を発表。
  • 5月8日 ヘルマンド州で駐留外国軍の空爆により、民間人21人が死亡。
  • 6月19日 アフガニスタン南部でISAFと武装勢力の戦闘激化
  • 7月20日 大韓イエス教の宣教に訪れた韓国人23人がターリバーンに拉致される事件が発生。2人が殺害される。
  • 8月22日 韓国駐留軍の撤退とキリスト教宣教の中止を条件に、ターリバーンが人質を解放する。
    • 同日、多国籍軍がカンダハールで付近で空爆によりターリバーン戦闘員100人を殺害と発表。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 増え続ける米兵者数は、2001年12人、2002年49人、2003年48人、2004年52人、2005年89人、2006年98人、2007年117人、2008年155人、2009年299人(12月1日現在)
  2. ^ 陸軍基地での銃乱射事件、アフガン兵士の5人に一人が精神的な問題を抱えており、陸軍全体の自殺者は今年既に140人に達しているという。
  3. ^ 11月下旬のギャラップ世論調査では大統領のアフガン施策への支持は、前回の9月の49%から16ポイントも低下した。逆に不支持率は42%から13ポイント跳ね上がった。
  4. ^ AFP通信によると全員が米兵。国際治安支援部隊によると2件の仕掛け爆弾攻撃で4人が死亡したほか、武装勢力の攻撃で1人が死亡した。犯行声明は出ていない。民間ウェブサイトによると今年の米兵死者は8月31日までに320人となった。昨年一年間の死者は317人であった。
  5. ^ 海上自衛隊のインド洋派遣は、テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法テロ対策特別措置法に基づいて派遣された。

出典[編集]

  1. ^ http://www.isaf.nato.int/images/stories/File/Placemats/16%20August%202011%20Placemat.pdf
  2. ^ http://www.isaf.nato.int/images/stories/File/factsheets/0423-11_ANSF_LR_en(1).pdf
  3. ^ http://icasualties.org/OEF/index.aspx
  4. ^ http://www.defense.gov/news/casualty.pdf
  5. ^ http://www.mod.uk/DefenceInternet/AboutDefence/CorporatePublications/DoctrineOperationsandDiplomacyPublications/OperationsInAfghanistan/OpHerrickCasualtyAndFatalityTables.htm , http://icasualties.org/OEF/index.aspx
  6. ^ http://www.thecoast.ca/RealityBites/archives/2010/02/02/1580-canadian-soldiers-injured-and-killed-in-afghanistan
  7. ^ http://www.dol.gov/owcp/dlhwc/dbaallnation.htm
  8. ^ http://www.mcclatchydc.com/227/story/77193.html
  9. ^ http://english.aljazeera.net/news/asia/2011/01/201111072951940489.html
  10. ^ Scores Killed in Fresh Kunduz FightingFoxNEWS
  11. ^ (1998) UNdemocracy - S-RES-1214 (1998) Security Council Resolution 1214 (1998)
  12. ^ 安保理決議1267(訳文) 外務省
  13. ^ 小畑郁「個人に対する国連安保理の強制措置と人権法によるその統制―アルカイダ・タリバン制裁をめぐる最近の動向」国際問題592号11頁(2010年6月)
  14. ^ 安保理決議1333(訳文) 外務省
  15. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、45-46頁、ISBN 9784763405302
  16. ^ 国連安全保障理事会決議1373号第6項に基づくテロ対策委員会への報告 - Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]