ワジリスタン紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ワジリスタン紛争
Marriot Hotel Islamabad Pakistan bombing.jpg
戦争:ワジリスタン紛争
年月日2004年3月 -
場所パキスタン連邦直轄部族地域カイバル・パクトゥンクワ州
結果:継続中
交戦勢力
 パキスタン
中央政府支持部族
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
Flag of Taliban.svg パキスタン・ターリバーン運動
Tnsm-flag.svg イスラーム法強化運動英語版
Flag of Jihad.svg アルカーイダ
Flag of Jihad.svg ラシュカレイスラム英語版
Flag of Jihad.svg ウズベキスタン・イスラム運動
指導者・指揮官
Flag of Pakistan.svg アースィフ・アリー・ザルダーリー
Flag of Pakistan.svg アシュファク・パルヴェーズ・キアニ
Flag of Pakistan.svg マスード・アスラム
Flag of Pakistan.svg タリク・カーン
Flag of Pakistan.svg ジャウェード・アクバル
以前の司令官
Flag of Pakistan.svg パルヴェーズ・ムシャラフ
Flag of Pakistan.svg アラム・カタック
Flag of Pakistan.svg アハメド・シュジャー・パシャ
Flag of Pakistan.svg サフダル・フセイン
Flag of Taliban.svg ムハンマド・オマル
Flag of Taliban.svg ハキームッラー・マフスード
Flag of Taliban.svg バイトゥッラー・マフスード
Flag of Taliban.svg ハーフィズ・グル・バハドゥル
Flag of Taliban.svg マウルヴィ・ナジル
Flag of Taliban.svg ファクリ・モハンマド
Flag of Taliban.svg ネク・ムハンマド・ワズィール英語版
Flag of Taliban.svg ジャラールッディーン・ハッカーニー英語版(軍閥ハッカーニー・ネットワーク英語版
Flag of Taliban.svg スィーラジュッディーン・ハッカーニー英語版ハッカーニー・ネットワーク英語版
Tnsm-flag.svg スーフィー・ムハンマド (捕虜)
Tnsm-flag.svg マウラナ・ファズルッラー
Flag of Jihad.svg ウサーマ・ビン=ラーディン
Flag of Jihad.svg アイマン・ザワーヒリー
Flag of Jihad.svg アブー・ファラジュ・アッ=リービー英語版 (捕虜)
Flag of Jihad.svg アブ・ハムザ・ラビア
Flag of Jihad.svg アブ・ライス・アル・リビ
Flag of Jihad.svg サイード・アル=マスリー
Flag of Jihad.svg マンガル・ベグ
Flag of Jihad.svg タヒル・ユルダシェフ
戦力
パキスタン軍 80,000[1]
辺境軍団 80,000
不明
損害
軍人・警官の死亡 1,558
部族民の死亡 175
民兵の死亡 345
警官の拉致や拘束(公式発表分)
軍人・警官の死亡 1,966
部族民の死亡 245
捕虜・行方不明の兵士 869(解放527)
(報道側の主張)
過激派死亡 5,512[2][3]
(そのうちの外国籍人 809[4])
ワジリスタン紛争
パキスタン全土地図。緑色のエリアがワジリスタン。

ワジリスタン紛争(ワジリスタンふんそう)は、有志連合諸国のアフガニスタン侵攻以降に、パキスタン北西部のワズィーリスターン(ワジリスタン)を含む連邦直轄部族地域および北西辺境州(現・カイバル・パクトゥンクワ州)やアフガニスタン・パキスタン国境のデュアランド・ライン地帯で発生した、パキスタン政府及びアメリカ合衆国を始めとする不朽の自由作戦参加の有志連合諸国と、ワジリスタンに潜伏するターリバーンアル・カーイダやそれを支持する現地部族勢力のパキスタン・ターリバーン運動等との戦いの総称。

前史[編集]

パキスタン北西部のワズィーリスターンは連邦直轄部族地域(トライバル・エリア)に含まれており、パシュトゥーン人を中心とする伝統的な部族勢力の統治下にあったため、パキスタン政府の影響力は限定的にしか及ばなかった。またパキスタンとアフガニスタンの国境地帯にあるこの険しい山岳地帯は、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)ソ連軍と戦うムジャーヒディーンの恰好の根拠地となった。

2001年のアメリカ同時多発テロ事件をきっかけとして、アメリカを中心とした有志連合諸国および北部同盟がアルカーイダを匿うアフガニスタンのターリバーン政権をアフガニスタン紛争 (2001年-)により転覆させると、連邦直轄部族地域を中心としたパキスタンとアフガニスタンの国境地帯は、ターリバーン残党勢力やアルカーイダの恰好の潜伏場所となった。

経過[編集]

紛争勃発[編集]

2001年12月、アフガニスタン・パキスタン国境地域のアフガニスタン側でアル・カーイダ掃討作戦を行っていた米軍に呼応する形で、パキスタン側に逃れてきたアル・カーイダを待ち受けるべく、パキスタン軍は独立以来初めて部族地域に進駐した[5]。パキスタン軍は部族勢力と協議してこの地域からターリバーンやアル・カーイダなどの武装勢力の追放を図ったが、いくつものミスが重なり交渉は失敗した。2003年12月にはパルヴェーズ・ムシャラフ大統領を狙った暗殺未遂事件が発生し、部族勢力および武装勢力とパキスタン政府の対立は明らかになった。

2004年ごろから、アフガニスタンから逃れてきたターリバーンの影響を受け、部族地域でイスラム原理主義思想を持ち、過激化した武装勢力(アフガニスタンのターリバーンと同じように、「ターリバーン」を名乗るため、両者を区別し、「ローカル・ターリバーン」あるいは「パキスタン・ターリバーン」と呼ばれる)が台頭してくるようになった[6]

2004年3月16日、南ワズィーリスターン管区英語版の中心地ワナ英語版にアルカーイダの幹部アイマン・ザワーヒリーが潜伏している情報を察知したパキスタン軍はワナを攻撃し、ターリバーンの間で激しい戦闘が起こった(ワナの戦い)。

2004年4月、パキスタン政府は南ワジリスタンの3つの武装勢力と和平協定を結んだ。しかしこれらの協定は戦闘の停止には結びつかず、6月にはアメリカ軍が攻撃に参加し、ヘルファイアミサイルでアル・カーイダとターリバーンの訓練キャンプを運営するネク・ムハンマド・ワズィール英語版)を殺害している。ネクの勢力はバイトゥッラー・マフスードが引き継ぎ、戦闘を続けた。

2005年5月4日、パキスタン軍はペシャーワルの北にあるマルダーンでアル=カーイダのナンバー3のアブー・ファラジュ・アッ=リービー英語版を逮捕した。2003年にハリド・シェイク・モハメドが逮捕されて以降は、アブー・ファラジュ・アッ=リービーがナンバー3の地位を引き継いでいた。CIAは同月中にアブー・ファラジュ・アッ=リービーの有力後継候補のハイサム・アル・イエメニを無人攻撃機により殺害した。

2005年12月、CIAは新たなナンバー3となったアブ・ハムザ・ラビア(Abu Hamza Rabia)を無人攻撃機により爆殺した。

2006年[編集]

2006年1月13日、アメリカ軍はアフガニスタン国境に隣接するバージャウル管区英語版ダーマドーラ英語版への空爆(ダーマドーラ空爆英語版)を開始した。

6月21日、ワズィーリスターンにおけるスィーラジュッディーン・ハッカーニー(en:Sirajuddin Haqqani)率いる武装集団はパキスタン軍と戦うのはターリバーンの意志ではないと声明した。しかし、その後もワズィーリスターンやパキスタン国内での自爆テロが続いた。

9月5日、パキスタン政府と北ワズィーリスターン管区英語版の部族勢力の間で以下のような和平協定が結ばれた(ワジリスタン合意)。

  • パキスタン軍は、北ワズィーリスターンの部族地域でのインフラ再構築を援助する。
  • 外国人武装勢力はパキスタンの領土を使用出来ない。
  • ターリバーンなどの武装勢力への支援は容認されない。パキスタン軍は北ワズィーリスターンに進駐し、監視にあたる。
  • パキスタン政府は、戦闘による犠牲者と財産の補償を部族指導者に行う。

10月30日、パキスタン軍はバージャウル管区を空襲し、マドラサ(イスラム神学校)を破壊した(en:conducted an air strike)。これが翌年のパキスタン・ターリバーン運動の発足の契機となる。

2007年[編集]

2007年3月、バージャウルにおけるターリバーンの指導者ファクリ・モハンマドen:Faqir_Mohammed)とパキスタンの間で和平協定が結ばれた。

しかし、この頃からアル=カーイダとつながりのあるウズベク人系イスラーム原理主義組織ウズベキスタン・イスラム運動がワズィーリスターンに侵入し、政府派の部族との間に衝突が起きた。4月2日には地元部族の長老会議によって外国人過激派に対するジハードが宣言され、戦闘はさらに激しくなった。

2007年1月からイスラマバードにあるラール・マスジッドというモスクに神学生らが立てこもり、政府に対し、イスラム法の厳格な適用などを要求した。立てこもった神学生らと治安当局との間でにらみ合いとなり、膠着状態が続いていたが、7月3日にムシャラフ大統領は制圧作戦を開始し、7月12日に制圧された。多くの神学生らは投降の呼びかけに応じたが、最後まで抵抗を続けた者もおり、死者は102人に達した[7]。 ラールマスジッドの神学生の多くは部族地域出身であり、ターリバーンの関係者らも含まれていたという[8]。そのため、ラール・マスジッド事件後に、その報復と見られる治安部隊を狙った自爆テロが相次いだ。7月15日にはターリバーンは北ワジリスタン和平合意破棄を宣言し、戦闘が再開されることとなった。

第1次スワートの戦い英語版10月25日 - 12月8日)が始まる。11月3日、ムシャラフ大統領は全土に非常事態宣言を発令し、憲法は停止された。12月15日に非常事態は解除されたが、ムシャラフ大統領の再選問題に絡む統制であるという声があふれ、反発は強まった。さらに12月27日にはパキスタン人民党党首、ベーナズィール・ブットーが暗殺され、反ムシャラフ勢力と政府側の衝突はより激しくなった。

12月、ターリバーンを支持するパキスタン人武装勢力を統合する目的で、パキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体してパキスタン・ターリバーン運動が発足した。最高指導者はバイトゥッラー・マフスード

2008年[編集]

2008年1月、アメリカ軍はアルカーイダの序列3位で報道官兼ゲリラ戦の専門家のアブー・ライス・アッ=リービーを無人攻撃機によって爆殺した。

2月7日、パキスタン・ターリバーン運動指導者のバイトゥッラー・マフスードによって和平が提案され、5月21日にパキスタン軍はスワート渓谷英語版スワート地区英語版)から徐々に撤退して捕虜を返還する代わりに、武装勢力は自爆テロを中止して訓練キャンプを閉鎖するという合意が行われた。しかしなおも衝突はやまず、和平は実現しなかった。

9月はじめ、政府支持の部族勢力はターリバーンと戦うことを宣言し、3万人の部隊を組織した。8月18日、ムシャラフ大統領は退陣し、ブットーの夫であったアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領となった。大統領交代後、アメリカ軍は連邦直轄地域での攻撃を強化していた。

9月23日にはイスラーマーバードのマリオットホテルが爆弾テロ攻撃を受け、70名が死亡した。このテロ攻撃への報復としてパキスタン軍とアメリカ軍は共同してバージャウル管区を攻撃し、1000人以上の武装勢力を殺害した[9]

10月頃から過激派勢力はアフガニスタンに向かうNATOや国際連合世界食糧計画の輸送隊を攻撃し始めた。国境地帯の要所であるカイバル峠は激しい戦いの場となった。

2009年[編集]

2009年2月3日、NATOはカイバル峠の補給ルートを切断し、別ルートからの輸送に切り替えた。2月16日、パキスタン北西辺境州政府は、同州マラカンド地区英語版のターリバーンとの間で和平協定を結んだ。協定では、同地域からのパキスタン国軍の撤退及びイスラーム法(シャリーア)の導入などで合意。事実上、マラカンドとスワートにおいてターリバーンによるイスラーム法導入を認めた。この協定は欧米諸国やアフガニスタン、インドなど周辺諸国を含め「過激派に降伏した」として、国際的な非難を浴びた。

ターリバーンは、同地域でシャリーアに則った独自の統治を開始し、男性の髭を剃ることを禁じ、ヴェールの着用の強制、女子の教育を禁じて女子校を破壊した。イスラーム法に違反したとされる者は、ターリバーンのメンバーにより、「ムチ打ち」や斬首などの私刑を受けた。

ターリバーンは、イスラーム法地域を拡大し、周辺のバンヌ辺境地区英語版にまで支配域を拡大した。4月20日、スワート地区の中心都市ミンゴラ英語版で、「イスラーム法強化運動英語版」(テフリーケ・ナファーゼ・シャリーアテ・ムハンマディー、TNSM)の指導者スーフィー・ムハンマドが支持者に説教を行い、民主主義がイスラームに反するとし、今後、裁判官、弁護士、政府派のウラマー協会などは、「反逆者」だと語り、4月23日までに全ての政府から派遣された裁判官は、同地域から出ていくよう警告し、 出て行かない場合は実力行使に出ることを表明した。またターリバーンは州政府と合意されたブネール地区英語版からの撤退に応じず拠点を築いていた。

4月22日、ターリバーンはスワート地区英語版に隣接するシャングラ地区英語版を無抵抗で制圧し、首都イスラーマーバードに迫る勢いで勢力圏を広げた。26日からパキスタン軍は、ブネール地区とロウワー・ディール地区英語版に対する攻撃を開始した。[10]28日、パキスタン軍はディール地区を制圧したと発表した。

これに対し、ターリバーンは5月4日、攻勢を開始してスワート地区を攻撃した。同地区・ミンゴラの警察署、発電所、検問を襲撃して、商業地域や主要道路を占拠。銃撃戦で治安部隊員2名が死亡している。これにより、停戦は事実上崩壊した。

パキスタン軍主席報道官のアサル・アッバース少将によると、8日のスワート地区での戦闘で、武器保管庫や訓練キャンプに対する攻撃により、過激派140人が死亡、パキスタン軍も兵士2人が死亡したと発表した。また、ブネール、ロウワー・ディール両地区での戦闘で、31人の過激派を殺害、兵士3人が死亡したと述べた。 一方でターリバーンが、一般市民を「人間の盾」として利用しており、戦闘地域からの避難を妨害しているとした。ミンゴラでは、避難民の列にターリバーンが迫撃砲を打ち込んだと、難民の一人が証言した。また、地元の少年らを拉致して自爆テロ要員にするために南ワズィーリスターン管区英語版に連行した可能性があるという。[11]

第2次スワートの戦い英語版5月16日 - 7月15日)が始まる。5月27日ラーホールで自爆テロが発生。30人が死亡した。翌28日にも北西辺境州で3件のテロがあり、14人が死亡。攻撃を続けるパキスタン政府に対する報復テロと見られる。5月30日、パキスタン軍のアサル・アッバース報道官は、同軍がスワート地区の最大都市ミンゴラをターリバーンから奪還したと発表した。ただし、ミンゴラ周辺ではまだ、散発的な戦闘が続いているとしている[12]。これまでの戦闘で、多くの難民が発生しており、約200万人がスワート地区から脱出。16万人が難民キャンプで劣悪な生活を強いられており、国連は人道上の危機が起こることを懸念している。

8月6日、パキスタン情報当局はパキスタン・ターリバーン運動の指導者のバイトゥッラー・マフスードがアメリカの無人偵察機による空爆で死亡したと発表した[13]。パキスタン・ターリバーン運動の幹部のカファヤート・ウッラーもマフスードの死亡を確認した[14]。後任の指導者には、マフスードの親戚であるハキームッラー・マフスードが選ばれた。

10月19日、パキスタン軍は南ワズィーリスターン地区に軍部隊を進攻させ、空軍による空爆を含む大規模なターリバーン及びイスラーム過激派掃討作戦を開始。これまでに過激派90人を殺害。パキスタン軍兵士も13人が戦死した。南ワズィーリスターンには28万の過激派組織の戦闘員がいるとされ、1万人のターリバーン兵と1000人のウズベク人、アラブ人戦闘員で構成されているとされる。

2010年[編集]

  • 2010年3月、アルカーイダの若手有力幹部のフセイン・アル・イエメニがアメリカ軍の無人攻撃機により爆殺された。
  • 2010年5月21日、アルカーイダのナンバー3で財政責任者兼アフガニスタンの「最高司令官」のサイード・アル=マスリー(別名:ムスタファ・アブ・アルヤジド)がアメリカ軍の無人攻撃機により殺害され、6月1日にアルカーイダが公式にこれを認めた。
  • 2010年9月、サイード・アル=マスリーの後任のシェイク・モハンマド・ファテフ・マスリがアメリカ軍の無人攻撃機により殺害された。
  • 2010年12月7日、ムフマンド管区英語版のガラナイ総合行政庁舎で自爆テロ攻撃があり、40人以上が死亡、60人が負傷した。当日は、庁舎内で部族会議があり、出席する部族長老、政府高官、反ターリバーン組織関係者らが標的となった。このテロについては、パキスタンのターリバーン運動が犯行声明を出している[15]

2011年[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Bloomberg.com Pakistani Troops Kill 150 Militants in Tribal Region 2008年10月19日
  2. ^ Thenews.com.pk.1,080 Pak soldiers among thousands killed in terror war 2008年10月19日
  3. ^ News.xinhuanet.com. Pakistan army kills over 1,000 militants in Bajaur tribal region 2008年10月19日
  4. ^ Thenews.jang.com.Briefing parliament Archived 2009年6月17日, at the Wayback Machine. 2008年10月19日
  5. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、217頁、ISBN 9784763405302
  6. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、221頁、ISBN 9784763405302
  7. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、251-253頁、ISBN 9784763405302
  8. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、255頁、ISBN 9784763405302
  9. ^ パキスタン、軍事作戦で武装勢力1000人を殺害AFP NEWS
  10. ^ タリバーン掃討で難民3万人 パキスタン、拡大の恐れ asahi.com 2009年4月28日19時54分配信
  11. ^ http://www.wibw.com/home/headlines/44616582.html
  12. ^ http://www.nytimes.com/aponline/2009/05/30/world/AP-AS-Pakistan.html
  13. ^ http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2628425/4432290
  14. ^ http://www.guardian.co.uk/world/2009/aug/07/baitullah-mehsud-dead-taliban-pakistan
  15. ^ パキスタン部族地域の行政庁舎で自爆攻撃、40人死亡(AFP.BB.News.2010年12月7日)2010年12月10日閲覧
  16. ^ Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT
  17. ^ ビンラディン容疑者が死亡、米大統領演説へ Archived 2011年5月3日, at the Wayback Machine. 2011年5月2日日本時間午後12時08分
  18. ^ President Barack Obama is expected to announce that Osama bin Laden is dead. Movie Stream2011/5/1 EDT. CNN.com

関連項目[編集]