鰊場作業唄
鰊場作業唄(にしんばさぎょううた)とは、北海道の日本海沿岸に伝わる民謡である。
概要
江戸時代後期から昭和時代中期まで隆盛を極めたニシン漁に従事する出稼ぎの漁師たちが、仲間の結束を固め作業の憂さを晴らすなかで自然に生まれた民謡である。北前船の乗組員や、東北地方からの出稼ぎ漁師が持ち込んだ東北民謡を基にした作業唄で、漁の流れに沿って四部構成を取る。
なお、鰊場作業唄の一節「沖上げ音頭」が洗練されたものが、北海道民謡として有名な「ソーラン節」である。
北海道におけるニシン漁史
漁法改良史
かつて北海道の日本海沿岸では、春になればニシンが産卵のために大群となって押し寄せてきた。メスが卵を産み、オスが一斉に放精するため、沿岸から数キロの海面は白く染まるほどだったという。
この豊かな水産資源を求め、蝦夷地でも日本海沿岸は早くから和人が進出した。記録の上では、文安4年(1447年)に陸奥国の馬之助なる者が松前郡白符村(現在の松前町白符)で行った漁を、和人によるニシン漁の嚆矢とするが[1]、建保4年(1216年)開基と伝えられる江差町姥神大神宮の創建伝承にもあるとおり、古くから和人が来道してニシン漁に従事していたことは疑いない。しかしその当時のニシン漁は、凪の時分を見計らって沖に漕ぎ出し、シナノキの皮から取った繊維で編んだタモ網で掬いとるようなごく簡素なものだった。
時代が下って延宝元年(1673年)には、越後国の者が麻で編んだ刺し網を松前藩内に持ち込んでの商売を始め[2]、宝永年間(1710年)には大型の網の使用も広まり始めた。和人そのものの活動範囲も広がり、寛政年間(1790年ごろ)には北海道北端の宗谷地方にまで和人の魚場が開かれた。天明3年(1783年)に江差を訪れた紀行家・平秩東作が著した旅行記『東遊記』によれば、江差の町は諸国からの出稼ぎ漁師やニシン製品の売買で喧騒を極め、一般の出稼ぎ者でも数ヶ月の働きで12、13貫、目端の利く者は30、40両を稼ぎ上げていたという[3]。
18世紀以降は内地においてミカンや藍、ワタなど商品作物の栽培が広まり、肥料としての効果が高い金肥が求められていた。干鰯の値段が高騰するとともに、ニシンから魚油を搾り出した際に残る搾りかす「鰊粕」が肥料として注目されることになる。鰊粕の需要増大を受けてニシン漁も改良が加えられ、安永年間(1775年)ごろには国後島や厚岸、さらに網走などオホーツク海沿岸で地曳網を使用した大規模な漁が始まり[4]、文政元年(1818年)ころから日本海沿岸の小樽や余市付近で笊網が導入される[2]。刺し網による漁では1漁期に30石程度だった漁獲高は、笊網の使用で180石に跳ね上がる。しかし、笊網は操業時に騒音を発する欠点があったため、文化年間(1810年)から弘化年間(1845年ごろ)にかけて行平網が使用されるようになる[5]。
行平網は騒音を発する欠点もなく、性能に優れていたため幕末まで全道的に広まり、さらに明治中期に角網が導入された。角網はもともと鮭の漁に使用する網だが、入り口が狭く、1度内部に進入した魚を逃しにくい利点がある。そのため瞬く間に普及し、明治32年(1899年)には全道の建網利権数約6千統のうち、4千統以上が角網で占められていた[6]。
一方、大網を用いて大量に捕獲したニシンを、陸上に運搬する方法にも工夫が加えられた。まず嘉永4年(1851年)、積丹半島美国(びくに)で使用されはじめたのが袋網である。これは長さ8間、口の周囲5間で40石のニシンを入れることができ、獲物を一時的に海中に沈めて保存し、折を見て陸まで運ぶ際に用いられた[7]。
しかし海中に沈めたままにされた袋網は、海流で流され海底で摩れて破れる恐れがある。そこで安政3年(1857年)、古平郡群来村の秋元金四郎が浮きを兼ねた丸太の枠に網を吊り下げた「枠網」を開発し、翌年には同村の白岩八左衛門が、網袋を船に直接吊り下げ、船付き場まで漕いで運ぶ方法を考案した[7]。 こうして、ニシンが250-300石 (200t) が入る枠網を取り付けた運搬用の船「枠舟」が開発された。行平網や角網に追い込んだニシンをそのまま海上で枠網に落とし込み、これを幾度も繰り返して枠網を魚で満たす。 枠網を吊り下げた枠舟が波静かな場所まで移動したところで、ニシン運搬専用の船「汲み船」が次々と漕ぎ寄せては網内部のニシンを汲み出し、船着場まで運んで陸揚げする。
漁具や漁法の改良が繰り重ねられた結果、明治・大正期には一箇所の漁場における数ヶ月の操業で400石から3000石 (700t-2250t) の漁獲を誇るようになった。
出稼ぎ漁師の生活
一連のニシンの漁期を「始納中」(しのうちゅう)と呼ぶ。始納中は毎年3月から5月の短期間ながら、膨大な労働力を必要とし、当時の北海道の人口ではとても賄いきれないため、漁期には北海道内はもとより東北地方各地より出稼ぎ労働者が北海道西海岸に集結した。 すでに江戸期から数万人の労働者が蝦夷地へニシン稼ぎに渡っていたが、東北地方に大打撃を与えた天保の飢饉以降は一層顕著となり、明治初期で5、6万人、さらに北海道開拓が本格化した明治20年(1887年)で10万人近くに上った。 大正14年(1925年)の調査では、ニシン労働者約6万5千人の内訳は地元3割、道内2割、道外5割となる。そのうち道外者は青森県出身者が最も多く、ついで秋田県や岩手県などの東北各地である[8]。
彼ら出稼ぎ労働者のうち男性は「ヤドイ」(雇い)、あるいは「ヤン衆」と呼ばれていた。「ヤン」の語は、アイヌ語で「向こうの陸地」つまり本州を意味する「ヤウン・モシリ」に由来するとも、網曳き漁を意味する「ヤーシ」に由来するとも言う[8]。しかし、「ヤン衆」には俗語めいたニュアンスが伴うため、漁場の親方は彼らを「若い衆」と呼んでいた。 一方、女性の出稼ぎ者はオロロンと呼ばれた。彼女達は陸上でのニシン運搬やニシン潰し(ニシンの加工)に従事したが、実直な手仕事に耐えられずヤン衆相手の売春に糧を求める者も少なからずいた。彼女たち漁場の娼婦は七連(ななつら)と呼ばれた。一回の相場が身欠きニシン7連(約140匹)だったことが名の由来である。
前年の秋に周旋屋(人材派遣業)と契約を結んだ出稼ぎ漁師たちは、年明けて3月中旬になれば簡単な夜具と自前の食料、あるいは南部煎餅や干し柿など親方への土産物を手にしてニシン漁場へと向い、宿舎を兼ねた親方の大邸宅・鰊御殿に集結する。網子合わせ(アゴアワセ)と呼ばれる大漁願いを兼ねた顔合わせの祝宴を催した後は、漁への臨戦態勢として除雪作業や漁具の整備、或いは鰊粕製造用の薪の確保に奔走する[9]。
3月下旬には大安吉日を選んで「網下ろし」が執り行われる。親方や船頭が神棚に拍手を打って豊漁祈願をしたのち、漁夫一同に規則と各自の役割を申し渡す。以降は無礼講で飲み交わし、鰊場作業唄に合わせて親方や船頭、さらに地域の顔役などを胴上げして大漁を祈る。 やがて4月になれば、浦々にニシンの群れが集団で押し寄せ、産卵・放精のために海面が白く染まる現象「群来」(くき)の知らせが届き始める。江戸期のニシン漁では資源保護のため群来を実際に見極めた上で漁を始めたが、明治以降は周辺海域の群来情報から予測を立ててあらかじめ網を仕掛け、ニシンを待ち構えた[8]。 以降、出稼ぎ者は一日につき7、8合の割合であてがわれる豊富な白米飯と焼き魚の代償として、船漕ぎに網起こし、ニシン運搬、ニシン加工とあらゆる肉体労働に邁進した。
一連のニシン漁が終了するのは5月下旬である。今期の漁で破損した漁具を陸揚げして修理するほか、魚網は腐敗を防ぐため染料とともに煮沸する。後片付けを済ませた上で、「あご別れ」と呼ばれる解散の宴を催す。雇い漁師には規定の報酬とともに、九一(くいち[note 1])と呼ばれるボーナス、さらに土産物の干しカズノコや身欠き鰊が支給された。 平均的な出稼ぎ者の報酬は、米1俵が3円だった明治30年代で30-40円。九一は30円あまりである[8]。
一連の漁期が一段落した5月の北海道西海岸は、ニシン製品の売買や積み出し、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師達の喧騒で「江戸にも無い」と称されるほどの賑わいに包まれた。
鰊場作業唄の成立
建て網一枚を運営する組織単位を「統」と呼ぶ。ニシン漁の親方が1ヶ統を運営するには30人あまりの漁夫が必要であり、建て網5ヶ統を構える大網元ともなれば数百人のヤン衆を抱えることになる。大勢の雇い人たちをまとめ上げ、さらに辛い肉体労働を要領よくこなし、仕事の憂さを晴らさせるには「唄」による結束が不可欠である。鰊場作業唄はその中で自然発生的に生まれた。逆に言えば、鰊場作業唄の成立年代は、ニシン漁の規模が大型化し多数のヤン衆を抱えるようになった近世末期以降と考えられる[10]。
出稼ぎ漁師が出身地の民謡や流行歌を漁場の仕事の中で歌い上げ、作業唄の原型を造る。後に「ソーラン節」として編集された「沖上げ音頭」は青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」から変化したとされる[11][12]。國學院大學民族歌謡文学の須藤豊彦名誉教授によれば、江戸時代中期の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集に"沖のかごめに"と言う一節に酷似した歌詞があり、やん衆が北海道に伝えたという。 「網起こし音頭」のうち「切り声」「木遣り」と呼ばれる部分は伊勢神宮の遷宮に関わる行事・お木曳きの際に唄われる木遣唄が北前舟で持ち込まれたものと考えられる[12][13]。北前舟の航路に当たる石川県能登半島の民謡「帆柱起こし音頭」の囃し言葉は、網起こし音頭の旋律に似ている。
家族を故郷に残し、一人異郷で働く漁師たちは仕事の愚痴や男女の仲をネタに新たな歌詞を作っては歌い上げ、仕事を終えて故郷に戻った後は、地元で鰊場作業唄を広めた。かつて北海道に大量のヤン衆を送り込んだ青森県野辺地町や八戸市には、ヤン衆によって持ち帰られた鰊場作業唄が伝承されている。
鰊場作業唄
鰊場作業唄はニシンの水揚げ作業の段階に伴い、「船漕ぎ音頭」・「網起こし音頭」・「沖揚げ音頭」・「子叩き音頭」の四部から構成されている。 以下、明治、大正時代のニシン漁の手順に従って各唄を解説する。
舟漕ぎ音頭
ニシン漁に使われる舟は、「保津舟」(ぼつぶね)、「三半舟」(さんぱんぶね)と呼ばれる全長13mほどの手漕ぎの和船である。船の左右に長さ3mの櫂が合計で8から6丁、艫(船尾)に1丁の艪が取り付けられ、櫂に漁夫1人が取り付いて船を漕ぎ進める。
網を仕掛けるため、或いは群来の知らせを受けて漁場に繰り出す漁師たちが舟漕ぎの調子を整えるため歌われた唄が舟漕ぎ音頭である。船頭や音頭取りのハオエ(独唱)に続いて漕ぎ手全員がシタゴエ(斉唱)で答える形式を取る。
(太字は船頭のハオエ(独唱)、下線は漕ぎ手のシタゴエ(斉唱))
- オーシコー オーシコー
- エンヤァーアエー オーシコー
- エンヤサァーアエー オーシコーオー
- オオコーイヨー オーオシコー
以下、繰り返し
- ホーラァー ホーラァーヨエサァーエー
- エンヤレ ホーラアオーシコーオー
- オオコーイーヨ オーオシコー
地方によって掛け声や旋律に多少の差があるものの、音頭取りのハオエに漕ぎ手が「オーシコー」の斉唱で答える形式は、全道的に変わりがない。
時に船頭は「ホラ道中は長いぞ」「ホラ若い衆が揃った」「今日は日も良し…雇いの盆だでぁ」「ホラこれさえ済めば…ホラ髪長お酌で」などと即興で歌詞を作って歌い上げる。ハオエの語尾とシタゴエの語頭が重なり合って微妙な和音が作り出され、ニシン漁場独特の空気を醸しだす[15]。
網起こし音頭
海岸から数キロの沖合いに仕掛けられた網の左右には、漁夫たちが乗る「枠船」と「起こし舟」が陣取り、ニシンが「乗る」瞬間を待ち構える。ニシンの群来は俗に「ニシン曇り」と呼ばれる気温が高い曇天の日の夜半が多いため、漁夫は筵屋根を仕掛けた船に乗り込み、胴の間に据えられた炉の火で体を温めつつ徹夜で海を見張り続ける。
やがて海面に気泡が立ち、魚鱗が光るなどの前兆の末にニシンが乗り込み始めるや、船頭の号令を合図に漁夫は臨戦態勢に入る。船頭は網の口から伸びる「サワリ糸」を指の股に挟み、糸にぶつかるニシンの感触で乗り込んだ量を判断する[16]。
人力で引き揚げられ、なおかつ網が破れない程度にニシンが追い込まれたと判断すれば「起こせ!」と号令して即座に枠舟側で網の口を閉じさせ、起こし舟側で一斉に網起こしにかかる。十数人がかりで建て網を引き上げ、枠舟に取り付けられた運搬専用の網「枠網」の中に膨大な量のニシンを追い込んでいく。
この作業の中で唄われたのが「網起こし音頭」である。以下は、小樽市忍路の例[17]。
(太字は船頭のハオエ(独唱)、下線は漕ぎ手のシタゴエ(斉唱))
- ヤーセイ ヤーセイ
- ヤーセイ ヤーセイ
- ヤサホイ ヤーセイ
- ヤーセイ ヤーセイ
単調な旋律で始まり、網が徐々に引き揚げられニシンが網の片側に集められるにつれ掛け声も変わる。
- エーンヤサ エーンヤサ
- エーンヤサ コーラヤサ
- エーンヤサ エーンヤサ
- エーンヤサ コーラヤサ
- ホーラー ホーラーオーシコイサー
- ソーラー ソーラーオーシコイサー
- ホーラー ホーラーオーシコイサー
- ソーラー ソーラーオーシコイサー
1 時間以上も網起こし作業を続ければ、ニシンは網の中心部分にまで追い込まれていく。その重量が人力では持て余すまでに至ると掛け声は「キリ声」あるいは「木遣り」と呼ばれる最大限に気合の篭った合唱に至る。
- どっこーおせー どっここせーいのこら
- エー
- よいやーさー
- アラ ヨーヤサー
- やさの よーいさーあ
- エーエエ ヨイヤアサー
- よーいとおーなあ
- ホーラア エンヤ アラアラードオーオーコイ ヨーイトーコ ヨーイトーコナー
- ほーらあーえーえ こりゃ得たも道理じゃ やーあえーい
- ヤートコセー ヨー ホーラア
- 千両万両の 金じゃもの よーいとなあ
- ホーラー エンヤ アラアラードッコイ ヨーイトコー ヨーイトコーナー
- ほーらあーえーえ これでも起きねば やーあえーい
- ヤートコセー ヨー ホーラア
- 神々頼む よーいとなあ
- ホーラー エンヤ アラアラードッコイ ヨーイトコー ヨーイトコーナー
(以下、繰り返し)
掛け声を斉唱しつつ網を引き揚げる漁夫たちは、音頭取りが唄う歌詞の部分で小休止して息を整える。そして次の掛け声の部分で再度渾身の力を振るって建て網を引き上げることを繰り返し、建て網に満ちるニシンを枠網の中に落としこんでいく。 300石 (200t) の容積がある枠網を満たすには、どんなに大漁でも6、7回の網起こし作業を必要とした。
沖揚げ音頭(ソーラン節)
網起こし作業が一段落した後、ニシンで満ちた枠網を海中に吊るした枠舟は、陸に近く波穏やかな場所まで漕ぎ進む。陸からは10人ほどが乗り込んだニシン運搬専用の船・汲船(くみぶね)が往来し、枠網内のニシンを直径1m、深さ2mはある巨大なタモ網で掬い上げ、汲船内部に移しかえる。タモ網の容積は400キログラムにも及ぶため、周囲の者が「アンバイ棒」と呼ばれる二股の棒でタモ網の柄を支え、「ヤシャ鉤」と呼ばれる長さ1mほどの木製の鉤で網を引き揚げて補佐する。
この沖揚げ作業の中で歌われるのが「沖揚げ音頭」である。
- ヤーレンソーランソーラン ヤレン ソーランソーラン ハイハイ
- 鰊来たかと鴎に訊けば わたしゃ発つ鳥 波に聞け チョイ
- ヤサエンエンヤーーーァサーァノ ドッコイショ ハードッコイショドッコイショ
(以下、囃し言葉省略)
一団の中で特に腕力が優れた若者がタモ網の柄を握り、枠網に突き入れる。タモがニシンで満ちるまでの間、周囲の漁夫はヤシャ鉤やアンバイ棒で船板を打って調子を取りつつ「ソーラン」「ソーラン」と囃したてる。現在、「北海道民謡」として洗練された「ソーラン節」では、「ソーラン」の掛け声は5回か6回の繰り返しだが、沖揚げ音頭ではニシンが満ちるまでは幾度も繰り返した。
タモ網が満たされたところで音頭取りが歌詞を歌い上げ、その間に一同が小休止する。そして「ヤサ」の声を合図にしてヤシャ鉤で一気にタモ網を引き上げ、「ドッコイショ」の声と共に汲舟にニシンを打ち撒ける。タモ内部のニシンが一度で落ちなければ、やはり幾度でも「ドッコイショ」を繰り返す[13]。
沖上げ作業を30分も続ければ、汲み船は満杯になる。汲船の積載量は10石程度ゆえ、枠網1杯300石のニシンを処理するには20往復は必要であり、文字通り不眠不休の重労働である。揺れ動く船の上での単調な肉体労働は疲れと眠気を誘う。4月の北海道の海は冷たく、海に転落すれば命にかかわりかねない。そのため音頭取りは、わざとおどけた内容、或いは卑猥な内容の歌詞を歌い上げ、漁夫の目を覚まさせ笑いを誘う。
以下は、卑猥な歌詞の一例である[18]。
- 破れふんどし将棋の駒よ カクと思えば金が出る
- へのこ 竹の子 竹の子 へのこ おがるたんびに 皮むける
- 姉コ木登り下から見れば 大工墨壷下げたよだ
- おがちゃ小便すりゃ 鳩ポッポのぞく のぞく筈だよ 豆がある
- 下手の剣術マヌケの夜這い いつもシナイで叩かれる
- あまりしたいのでお定さんとしたら 抜いたとたんにマラが無い
- オソソの中にもお寺がござる 坊主来るたびトロロ飯
- おやじへっぺしておらこしらえて おらがへっぺすりゃ意見する[note 2]
漁場によっては唄の音頭取りのみを担当する「ハオエ船頭」が船に乗り込み、作業中にあらゆる唄を繰り出しては漁夫の統制を図っていた。ハオエ船頭は網起こしなどの肉体労働には関わらない立場ながら報酬は高く、一般漁夫の給金が一漁期で30円だった時代に50円を稼ぎ揚げた[19]。そのかわり、美声で歌唱力に優れ、なおかつ即興で歌詞を作り出しては唄い上げる才能が要求される。
以降は、陸上の作業に移る。船着場に横付けされた汲船のニシンをポンタモ(ポンはアイヌ語で小さいの意)と呼ばれる小型のタモで掬い上げ、運搬係が背負う木製の背負い箱「モッコ」に移す。モッコ背負いは港とロウカ[note 3]を往復し、ニシン運びに邁進する。
汲船1艘に詰まれるニシンは容積20kgのモッコで120-130杯分となり、モッコ背負い20人が休まず運んでも1時間は要する。つまり300石の枠網を満たすニシンをすべて陸揚げするには丸2日かかるわけである[20]。そのため枠網2、3枚が満杯になるような大漁の折は、漁夫や雇いの女衆、さらに近在の女子供までが出面(でめん)[note 4]に雇われ、食事は握り飯の歩き食いで済ませながら不眠不休でモッコ背負いに従事した。
モッコ背負いの報酬は「貰いモッコ」と呼ばれるニシン現物支給で支払われる。 沖行きの漁夫が1日7、8モッコ、モッコ背負い専門の男子が6モッコ、飯炊きや鰊潰し(鰊加工)の女衆が4モッコなのに対し、沖上げでタモ網を操る「タモ立て」は重労働の見返りとして9、10モッコも貰えた[21]。
ロウカに蓄えられた生ニシンは少量を生で出荷するほかは、すべて身欠きニシンや鰊粕に加工して本州方面に出荷する。
子叩き音頭(イヤサカ音頭)
一連のニシン漁に使用された網には、追い込まれたニシンが産んだ大量の魚卵(カズノコ)がこびり付いている。 そのまま放置すれば乾燥して固まり、網の水切れを悪くして漁の妨げになってしまう。そのために漁ごとに網を陸上に揚げ、10数人掛りで広げて竹の棒で打ち、卵をふるい落とさなくてはならない。この作業の折に唄われたのが、子叩き音頭である。元唄は青森県民謡の「鯵ヶ沢甚句」だと考えられる[12]。現在では囃し言葉にちなみ、「イヤサカ音頭[18]」とも呼ばれている。
- ヨーイヨーイ ヨイヨイヨイ アリャリャン コリャリャン ヨーイトナー ヨイヨイ
- 咲いた桜になぜ駒繋ぐ
- アラ イヤサカサッサ
- 駒が勇めば ノォ 花が散る
- アリャ 花が散る 駒が勇めば ノォ 花が散る
(以下、囃し言葉省略)
- 恋の九つ 情けの七つ あわせ十六投げ島田
- 姉コこちゃ向け かんざし落ちる かんざし落ちない顔見たい
- 松と付けるな 女の子でも 松は世間の門に立つ
- お前行くならわしゃどこまでも 蝦夷や千島のはてまでも
- 場所の娘と蝦夷浜茄子は 波のしぶきに濡れて泣く
- 蝦夷地海路の御神威様は 何故におなごの足止める[note 5]
男女共同で行う陸上の安全な作業ゆえ、仕事唄として唄われる子叩き音頭は洗練された上品な歌詞が多い。
現在の鰊場作業唄
明治30年(1897年)には97万5千tの漁獲高を誇り、近代の北海道経済と西日本の農業を担ったニシンだが、昭和30年代を境にして漁獲量が激減する。その理由については「森林破壊」、「海流、海水温の変化」、「乱獲」など様々な説があるが、決定的な物はない。ニシン漁が廃れ、漁村が過疎の波に飲まれる中で鰊場作業唄が唄われる場も失われた。2000年代以降、北海道日本海沿岸ではニシンの漁獲量が回復しつつあるが、漁の機械化や雇用形態の変化を経た現在、ニシン漁の場で唄われることはない。
しかし、鰊場作業唄から生まれたソーラン節は北海道の代表的な民謡として全国的に流布しているほか、かつてニシンの「千石場所」として栄えた小樽市忍路や積丹町、さらに多くのヤン衆を輩出した青森県野辺地町などでは「郷土芸能」として鰊場作業唄が伝承されている。江差町姥神大神宮で毎年夏に執り行われる姥神大神宮渡御祭では、山車の曳き手が辻々で鰊場作業唄の網起こし音頭「切り声」を斉唱する。
また、作曲家の寺嶋陸也は、北海道東部・オホーツク海沿岸の紋別市に伝わる鰊場作業唄を元に「男声合唱のためのオホーツク・スケッチ」を作曲した。
脚注
引用
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』12頁。
- ^ a b 『北海道の生業2 漁業・諸職』13頁。
- ^ 『民謡地図③追分と宿場・港の女たち』58頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』21頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』23頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』27頁。
- ^ a b 『北海道の生業2 漁業・諸職』25頁。
- ^ a b c d 『北海道の生業2 漁業・諸職』69頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』127頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』131頁。
- ^ 『日本民謡大観 九州篇(南部)、北海道篇』514頁。
- ^ a b c 日本の民謡 曲目解説{北海道}
- ^ a b 『日本民謡大観 九州篇(南部)、北海道篇』513頁。
- ^ 『北海道の民謡』126頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』37頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』46頁。
- ^ 『北海道の民謡』127頁。
- ^ a b 高田裕『そうらん節』
- ^ 『民謡地図③追分と宿場・港の女たち』53頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』55頁。
- ^ 『北海道の生業2 漁業・諸職』54頁。
参考文献
- 『北海道の生業2 漁業・諸職』明玄書房 昭和56年
- 『民謡地図③追分と宿場・港の女たち』竹内勉 平成15年
- 『そうらん節』高田裕 昭和60年
- 『北海道の民謡』北海道教育委員会 平成元年
- 『日本民謡大観 九州篇(南部)、北海道篇』日本放送協会 昭和55年