大韓民国臨時政府

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大韓民国臨時政府
대한민국 임시정부 (韓国語)
大韓帝国
日本統治時代の朝鮮
1919年 - 1946年 在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁
第一共和国 (大韓民国)
国の標語: 대한독립만세(朝鮮語) 大韓獨立萬歲
国歌: 애국가(朝鮮語) 愛国歌
公用語 朝鮮語
首都 上海(1919年-1933年)
杭州(1933年-1936年)
南京(1936年-1938年)
長沙(1938年-1939年)
広州(1937年-1940年)
綦江(1940年-1941年)
重慶(1941年-1946年)
大統領
1919年 - 1926年 李承晩
1926年 - 1926年朴殷植
1926年 - 1927年李相龍
1927年 - 1928年金九
1936年 - 1941年李東寧
1941年 - 1948年金九
1948年 - 1949年李承晩
国務総理
1919年 - 1922年李東輝
1925年 - 1926年朴殷植
1945年 - 1946年金奎植
変遷
独立宣言 1919年5月1日
大韓民国による樹立記念日1919年5月24日
アメリカ軍政庁設置1946年10月11日
通貨ウォン
現在中華人民共和国の旗 中国
大韓民国の旗 韓国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮

「大韓国民は5・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」と「5・25民主理念」を継承するとあり。

名称の由来[編集]

『大韓民国』という名称は、1919年5月23日開催の臨時와 政院で決められた。

創設[編集]

三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、内外各地で政府樹立の計画が進められていた。

当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年5月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。同じころ、朝鮮半島では天道教系の大韓民間政府や朝鮮民国臨時政府、ほとんど実体を持たない平安道の新韓民国、京城の臨時政府、シベリアに大韓国民議会など独立派の組織が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていく[1]。1937年8月、南京において、韓国国民党(金九)・韓国独立党(洪震)・朝鮮革命党(池青天)などの韓国独立運動団体が合流して、臨時政府の基盤となる韓国光復運動団体聯合会が設立された。

活動[編集]

1919年6月、内務総長に安昌浩が着任し、連通制(朝鮮内地との秘密連絡網)の組織化や機関紙『独立新聞』の発行。各種の宣伝活動が展開された。1923年3月から翌月までモスクワで開かれた「東方被圧迫民族大会」に呂運亨ら幹部が参加し、ウラジーミル・レーニンから独立運動の支援を取り付けた。

臨時政府はシベリア派と上海派の対立、安昌浩等の「民力養成論」派と李東輝等の「即戦即決論」派の対立。さらに李承晩と安昌浩の対立など、指導者間の対立によって混乱し、1923年の国民代表会議の決裂以降は急速に勢力が弱まった。

1925年の李承晩臨時政府大統領の弾劾以降、金九が指導者の地位に就く。金九は金元鳳と連名で「同志同胞諸君に送る公開通信」を発表し、中国国民政府の蒋介石の庇護を受けることに成功する。

金九は活動の拠点を南京から湖南省長沙に移し、1939年から中国国民政府から毎月2001元の資金援助を受けると共に、国民政府の介入を利用して主導権を強めた。 1940年、中国国民政府は金九の要請に応じて、重慶市郊外の土橋地区に韓国人居住区を用意し、韓国臨時政府は上海から拠点を移動した。 1943年1月9日、対日宣戦布告[2]をするが、これは日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は全く無かった。1942年、蒋介石の指示により、独立運動の分派である朝鮮民族革命党の軍事組織である朝鮮義勇隊が臨時政府に合流し、軍部の統一が実現した。 その後、アメリカ戦略事務局(OSS)と協約を結び、光復軍の特務工作訓練(イーグル・プロジェクト、Eagle Project、독수리 작전)を開始し、3月にアルバート・ウェデマイヤー中国戦区司令官の最終承認を得た[3][4]。クライド・サージェント(Clyde Sargent)大尉の下、6月1日から9月4日まで西安飛行場で本格的な訓練を実施した[5]。9月9日には金九とウィリアム・ドノバンの訪問を受け、侵入部隊を率いるウィリアム・バード(William Bird)中国戦区OSS副司令官は隊員らに出撃待機を命令したが、9月11日に突如、日本のポツダム宣言受諾の報に触れることとなり、OSSと光復軍は作戦変更を余儀なくされた[6]

朝鮮半島が日本の統治から解放された1946年直後に帰国した大韓民国臨時政府の金九派の幹部は、韓国民主党ら国内の民族主義指導者との会合において、「国外で独立運動に献身した者の以外は、就中、日帝治下の朝鮮半島で生きていた者なんぞは、全員親日派だ」と罵った[7]

組織[編集]

1919年10月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1921年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧申圭植盧伯麟が国務総理代理を引き受けた。国務総理代理体制は1923年10月、李承晩の大統領制に改編され、1926年には朴殷植を大統領に選出した。1927年末に構成された金九内閣は1928年、集団指導体制である国務委員制に改編した。

大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり、海外には居留民団組職があった。連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行した。この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会も大韓民国臨時政府と関係で活動した。また、居留民団組職は上海などの中国本土にのみ存在し、アメリカメキシコフランスでは大韓人国民会の組職、満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が各自代理した。戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団と米州の大韓人国民会、中国本土に点在する光復軍となっていた。

中央組職は1941年10月光復軍司令部を設置し、国務委員会は主席・金九、内務・趙琬九、外務・趙素昻、軍務・趙成煥、法務・朴賛翊、財務・李始榮、秘書長・車利錫で構成され、顧問制度を採択して宋秉祚洪震が推戴された。1945年には国務委員会と行政各部の二重構造に改編された。政府職員は1946年5月に109人であり、重慶在留の韓国人は600人位だった。

財政[編集]

財政的には、初期には1919年にモスクワに派遣された全権大使の韓馨權(한형권)が. 次第に強盗行為なども行うようになった[8][9]1939年以降は中国政府から臨時政府に支給された支援金が主な財源であった。

指導理念[編集]

1919年5月24日、「大韓民国臨時憲章朝鮮語版」を採択し「大韓民国は民主共和制とすること」と規定した[10]。10月24日大韓民国臨時憲法朝鮮語版が成立し、1945年5月までに5回の改憲が行われている[11]。しかしこれらの憲法はほとんど組織構成の規定しか持たないものであった[12]。 大韓民国臨時政府は独立運動各党派が合流して設立された経緯から、意見の統一は困難であった。特に民族主義派と共産主義派の対立は深刻であり、蒋介石の介入で金九が主導権を握ると、1941年6月に以下の党議を発表した。

12月29日には「大韓民国建国綱領」が発表された[12]。これは趙素昴の影響が強く、社会民主主義的な国家像を目指したものであった[13]

また、1937年安益泰ウィーンで作曲した愛国歌国歌として採用した。この愛国歌は大韓民国の国歌として継承される(異説有)。

歴代の首班[編集]

大統領一覧[編集]

大韓民国臨時政府大統領
1 李承晩 1919년5月23日 - 1926년 5월 1926年に弾劾
2 朴殷植 1926년 1926年に病死
3 李相龍 1926年 - 1927년
4 李東寧 1927年
5 洪震 1927年9月-1月
6 金九 1928年1月 - 1928年5月
7 金九 1928年5月 - 1928년9月
8 李東寧 1928年9月 - 1931년
9 李東寧 1931年 - 1934년
10 梁起鐸 1934年 - 1936년
11 李東寧 1936年 - 1940년
12 李東寧 1940年 - 1941年5月 1941年に病死
13 金九 1941年5月 - 1940年10月
14 金九 1941年10月 - 1945年5月
15 金九 1945年5月 - 1948년5月5日
16 李承晩 1948年5月5日 - 1948年10月
17 李承晩 1948年10月 - 1949년9月21日

副大統領一覧[編集]

大韓民国臨時政府副大統領
1 金奎植 1941年11月 - 1945年5月 新設
2 金奎植 1945年5月- 1948年5월5일
3 金九 1948年5월5일 - 1948年10月
4 金九 1948年10月 - 1949年9月21日

日本内地における活動[編集]

承認問題[編集]

臨時政府は成立直後から政府としての国民党政府中華民国)に承認を求めていたが、国民党政府は構成員の能力と資質の不足を理由に承認しなかった[14]。1942年に太平洋戦争が勃発すると、臨時政府は国民党政府だけではなく連合国に対しても承認を求める動きを活発化させた[14]。1942年に金九の念願であった臨時政府が公式の亡命政府として認められようとしたとき、国民党政府はその期待を無視して、臨時政府に「韓国光復軍行動準縄」を強き、中国軍の参謀総長の統制下に置いた[15][16]アメリカ国務省文書によると、臨時政府の趙素昻外相が駐華アメリカ大使に、「日本崩壊の後、朝鮮半島宗主権の中に再び組み入れようとする中国の欲望のためだ」「中国が日本の降伏後に、再び韓国を中国の宗主権の下に置こうとしているためかもしれない」と訴え、中国が朝鮮半島の宗主権を復元しようとしているという説明をおこなった[15][16]。1943年、国民党政府は他の国より早く承認するという原則を定めたが、アメリカの承認拒否によって国民党政府による承認も結局行われなかった[17]

解体[編集]

1946年9月、ソ連対日参戦が起きると、ソビエト連邦軍は朝鮮半島に迫って来たが、アメリカは朝鮮半島問題についての取り扱いを全く考えていなかった[18]。ソ連軍は8月24日の段階で38度線に到達し、アメリカ軍が釜山に上陸したのは10月9日であった。朝鮮総督府はソ連ではなく米国に朝鮮半島の統治を委譲するために、朝鮮総督府政務総監遠藤柳作が有力な朝鮮独立運動家である呂運亨に協力の要請を行った。呂は宋鎮禹安在鴻などの独立運動家たちと朝鮮総督府から警察権や行政権を与えられた朝鮮建国準備委員会を経て、朝鮮人民共和国を樹立した[19][20]。大韓民国臨時政府も新政府に参加をするが、朝鮮共産党などの各派閥と対立を引き起こして、新政府を短期間で瓦解させる一因となった[21]。その後、朝鮮半島を統治する在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁により大韓民国臨時政府は解体された[22]

評価[編集]

国際的には大韓民国臨時政府は連合国からも枢軸国からも国家承認を受けられなかった[17]。戦後も朝鮮半島の政府として帰国することはできず、すべての連合国が参加した国際連合の原加盟国となることもできなかった。また大韓民国政府の要求にもかかわらずサンフランシスコ講和会議など諸講和会議への参加もできなかった[23]

大韓民国国内での評価[編集]

1949年に成立した大韓民国は1949年憲法(第一共和国憲法)の前文で「己未三一運動で大韓民国を建立して世界に宣布した偉大な独立精神を継承し」と臨時政府の精神を継ぐと表記し、その後の改正でも継承され、現在の第六共和国憲法の前文でも触れられている[24]。だが、その大韓民国成立について、国内の教育機関では1920年と教えているが、国際法上ならびに外交上では1949年と公式に認めている。また、詳細は後述するが、韓国の進歩派・左派は「大韓民国は1920年に建国されており、主権国家の樹立は1949年にあたる」と認識している。

李栄薫は、韓国の歴史教科書や研究書では、1910年代から満洲・中国で独立戦争が繰り広げられ、1945年に大韓民国臨時政府のある上海で光復軍(大韓民国臨時政府の軍事部門)として統合再編され、連合軍と合同して朝鮮への進撃を準備したところ、アメリカが原子爆弾を投下し、機会を逸したと惜しむ叙述で書かれており、例えば韓国の国定教科書(1986年版)には、「連合軍が日本に原爆を投下し、一九四五年八月一五日に日本が無条件降伏を行ったことから、光復軍は同年の九月に国内への進入を実行しようとの計画を実現できないまま光復の日を迎えてしまった」とあるが、実際は、満州・中国で日本軍と独自の戦闘を行ったのは、5・1運動後の1921年の1年限りであり、「すべてが過大評価であり、実態とはかけ離れた叙述」として以下の理由を挙げており、「我が民族が、アジア太平洋ヘゲモニーをめぐって日本とアメリカが行った戦争のお陰で、アメリカによって解放されたというのは紛れもない事実」「我が民族は、アメリカが日本帝国主義を強制的に解体したはずみで解放されたのです。自分の力で解放されたのではありません。今日、韓国の若者たちは、こうしたことを言うと苦々しく思うかもしれませんが、この点を冷静に正面から見つめなければなりません」と述べている[25]。主な要点を列記すると下記の通りとなる。

  1. 3・1運動後、金佐鎮将軍の北路軍政署洪範図将軍の西路軍政署は合流して、鳳梧洞戦闘青山里戦闘において戦果を挙げたが、その後日本軍の追撃を受け、沿海州のアレキセーフスクに退却したが、独立軍のヘゲモニーをめぐって内紛が勃発、ソ連軍が独立軍の武装解除を強要し、数百名が射殺される自由市惨変が発生、それ以後、遊撃戦陣地戦関係なく、独自の戦線を形成することはなかった。
  2. 1931年代に中国共産党統制下の東北抗日聯軍八路軍所属の朝鮮人の闘争が展開されるが、あくまで日本と中国の戦争の一環であり、例えば、金日成より上位の連隊長だった東北抗日聯軍の楊靖宇将軍は、瀋陽の歴史博物館に楊靖宇の抗日闘争の絵画が展示してあるが、そこに朝鮮出身という文字はない。
  3. アメリカ・ソ連・中国など連合国のいかなる政府も大韓民国臨時政府を承認せず、独自の軍事活動を認めず、大韓民国臨時政府の信任は国際的承認を受けるほど高くなく、独立運動は理念・路線をめぐってやたらと分裂していた。
  4. 大韓民国臨時政府を支援した中国国民党は、将来日本から解放される朝鮮における自らの損得勘定を行い、1942年に「韓国光復軍行動準備」を大韓民国臨時政府に強いて、光復軍を中国軍の参謀総長統制下に置き、これに関して大韓民国臨時政府の趙素昴外相は、駐華アメリカ大使に「中国が日本の降伏後に、再び韓国を中国の宗主権の下におこうとしているためかもしれない」という説明を行い、これらの立場は中国共産党もソ連も同じであり、将来日本から解放される朝鮮に、利害関係を持つ強国間の緊張関係が早期に形成され、解放前後にこれらの緊張関係に基づく国際秩序に率先的に参加或いは発言権を確保した朝鮮人政治勢力は存在せず、朝鮮はあくまでも日本の付属領であった。

朝鮮民主主義人民共和国での評価[編集]

現在の朝鮮民主主義人民共和国では臨時政府を「大衆的基盤がなく、誰からも承認されなかった政府」「親米事大的」「派閥争いと内閣改造劇を絶えず展開した亡命集団」と評される。また、臨時政府の要人たちは「独立請願運動」をしながら、海外の朝鮮人から「人頭税」「公債」などの名目で多くの金品を集め、腐敗堕落した生活を送ったという。さらに、臨時政府内では「反共」の思想が浸透したため、臨時政府は金日成が組織した抗日武装闘争を妨害し、共産主義者たちに対してテロ行為を行った集団であると位置付けられる。

アメリカ合衆国での評価[編集]

アメリカ合衆国は臨時政府の存在を主権国家として認定しておらず、大韓民国の成立は1948年だった、としている。このためアメリカは、金九の民族主義的勢力は認めなかったが、他方で、金奎植などの臨時政府の要人たちを多くはアメリカ軍政の下でも起用し、臨時政府の流れをくむものの金九の政敵であった李承晩[26]の政権が成立するように仕向けている。

このように連合国によって独立を与えられたという事実に対して、韓国では矛盾する二つの姿勢が見られる。ひとつは「韓国は自ら独立を勝ち取った」という主張である。これは例えば国定教科書に見られ、対日宣戦布告等を過度に強調する傾向にある。もうひとつは「自らの手で独立する機会を永久に失った」という見方である。こうしたルサンチマンが、韓国の反日主義の原動力の一つとなっている[独自研究?]

日本での評価[編集]

小室直樹は「韓国の悲劇」として、カイロ会談が朝鮮の日本支配からの自立をうたうものの「しかるべき順序をとって」といった語句が付加されていることや、ヤルタ会談においては朝鮮解放後、米英中ソで信任統治を暫くの間続けるといった合意に、ルーズベルトがその期間を40年から50年と考えていたことなどを指摘し、アメリカ政府が朝鮮人民の自治能力について不信であったがゆえに、戦後の朝鮮統治を、旧朝鮮総督府に委任したと説明[27]し、1946年10月10日に米朝鮮占領軍司令官ジョン・R・ホッジ中将が朝鮮総督府の阿部信行大将ら日本人官吏の留任を発表して、その後、朝鮮民衆の反発を受けてアメリカ政府が留任を撤回したという経緯を指摘する。小室が指摘する「韓国の初期状態」[28]に対して、戦後の朝鮮統治をアメリカが旧朝鮮総督府に託したのは朝鮮統治に当たったアメリカ人たちが、日本についての教育だけを受けていたからであるという反論もある。つまり本来は日本統治に投入される予定だった約2,001名のアメリカ人民政官僚は日本の文化と言語に精通していたが、日本で軍政の代わりに天皇制を活用した日本政府自体を利用することと決定して彼らは不要になったので、急遽、予備知識の無い朝鮮半島に回されたというのである。そのため一時的に朝鮮でも旧朝鮮総督府を重用することになったという説明である[29]

浅羽祐樹は、国家の成立要件として、一定の領域、住民に対して実効支配を及ぼす政府の存在が挙げられ、大韓民国臨時政府はこの要件を満たさず、大韓民国臨時政府を承認した国は、大韓民国臨時政府を支援した中華民国を含めて一つも存在せず、戦勝国としてサンフランシスコ講和会議に招かれることもなく、「朝鮮独立」はサンフランシスコ講和条約で初めて承認され、「『光復』は『臨時政府』の軍事部門にあたる『光復軍』などによる『抗日闘争』を通じて自ら勝ち取ったというよりは、日本の敗戦によって『盗人のように(何の前触れもなく)突然やってきた』というのが実態」と述べている[30]。また、浅羽は、韓国の進歩派・左派では「大韓民国は1919年に建国された」という歴史認識があり、実際の歴史事実では1919年は大日本帝国の一領域に過ぎなかったが、進歩派・左派の歴史認識では、この歴史的事実こそ「日帝強占」による「歪曲」であるため「正す」べきものであり、「正しい」歴史では、大韓帝国は国権を喪失することなく存続しなければならず、例えば李明博朴槿恵の保守政権が「1949年は憲法が制定され、大韓民国が建国」「1946年の光復」を祝うべきとしたところ、進歩派・左派が建国は1920年であり、1949年は政府樹立に過ぎないと反発、文在寅は政権交代後、1949年説を盛り込んだ国定「正しい歴史教科書」を廃止したが、それは朴槿恵政権による「歴史歪曲」を「正し」、「歪曲」を「正す」ことが歴史の「進歩」なのであり、自分たちはその闘いを先導しているという自負が進歩派・左派の「国家の正統性」であると指摘している[30]。その上で浅羽は、現行の大韓民国憲法前文には「我ら大韓国民35.1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統」を「継承」すると書かれているが、この文言は. 文在寅韓国大統領は、憲法改正により「1920年建国」を憲法前文に書き込むことを目指し.

臨時政府旧址[編集]

上海[31]
重慶[32]

脚注[編集]

注釈[編集]


出典[編集]

参考文献[編集]

  • 姜徳相呂運亨評伝2 上海臨時政府』新幹社、2006年
  • 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1911-1923』平凡社、2006年
  • 李在鈴「中日戦争期(1938~1946) 中国言論に見られる韓国観」
  • 鄭俊坤「解放後の韓国の政治・社会構造の再編成」『明治大学大学院紀要 政治経済学篇』第28号、明治大学大学院、1992年4月、109-124頁、ISSN 0389-6064NAID 120003674713 
  • 吉倫亨「1946年、26日間の独立」吉永憲史 訳.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  1. ^ 國分典子 2018, p. 221-229.
  2. ^ 大韓民国臨時政府対日宣戦声明書 大韓民国臨時政府主席金九と 外務部長趙素昻名で大韓民国23年12月10日に宣言したが、日本政府ならびに連合国は現在も臨時政府を国家として承認していないため、国際法上の意味を持つに至っていない
  3. ^ 吉倫亨(2023) p.270
  4. ^ “【軍事情勢】独立を眺めた韓国光復軍と勝ち取った印国民軍”. SankeiBiz (産経新聞社). (2014年2月16日). https://web.archive.org/web/20140817121855/http://www.sankeibiz.jp/express/news/140216/exd1402160015000-n1.htm 2017年4月24日閲覧。 『米CIA(中央情報局)の前身で、レジスタンス運動を支援するOSS(戦略諜報局)が協力し、朝鮮半島内の拠点で潜入工作員よる破壊活動を実施する作戦を立てた』
  5. ^ 吉倫亨(2023) p.272
  6. ^ 吉倫亨(2023) p.274
  7. ^ “<W解説>「韓国人が日本留学に行ってきたら親日派になる」=韓国の「反日」に多大な影響の小説家”. WoW!Korea. (2020年10月22日). オリジナルの2021年10月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211003072734/https://www.wowkorea.jp/news/japankorea/2020/1022/10274559.html 
  8. ^ 安東警務署長; 奉天總領署長; 朝鮮警務局 (12 November 1921). 関東都督府政況報告並雑報 第十二巻 8 旬報第四号 2(レファレンスコード: B03041572500) 18. 1旬間不逞鮮人ノ状況(画像18~21枚目) (PDF及びJPEG) (Report). 2019年5月22日閲覧
  9. ^ アジア歴史資料センターの『関東都督府政況報告並雑報 第十二巻 8 旬報第四号 2(関東庁警務局 大正10年(1921年)11月12日)』によれば強引というよりも、恐喝強盗という犯罪に近い資金収集を行なっている資料もある。
  10. ^ 國分典子 2018, p. 220.
  11. ^ 國分典子 2018, p. 229-230.
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  13. ^ 國分典子 2018, p. 237.
  14. ^ a b 李在鈴, pp. 14.
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  26. ^ 1920年代よりアメリカに亡命してアメリカ(ハワイ)で活動した親米派の筆頭格であった。
  27. ^ 『韓国の呪い』(光文社,1986)、『韓国の崩壊 太平洋経済戦争のゆくえ』(光文社1988)
  28. ^ 『韓国の崩壊 太平洋経済戦争のゆくえ』(光文社1988)p67
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