葛西紀明
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2015年ワールドカップ ティテーゼ=ノイシュタット大会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛称 | NORI、カミカゼ、レジェンド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
誕生日 | 1972年6月6日(51歳) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 |
日本 北海道上川郡下川町 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 177cm | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クラブ | 土屋ホーム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
使用メーカー | フィッシャー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最高記録 |
240.5 m ヴィケルスン 2015年2月15日 バート・ミッテルンドルフ 2016年1月15日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ワールドカップ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シーズン | 1989年- | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
優勝回数 | 17回 (+団体3回) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
他の表彰台 | 44回 (+団体14回) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
表彰台獲得数 | 61回 (+団体17回) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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最終更新日:2016年4月2日 |
葛西 紀明(かさい のりあき、1972年6月6日 - )は、日本、北海道上川郡下川町出身のスキージャンプ選手。東海大四高校から地崎工業、マイカルを経て現在は土屋ホームに選手兼任監督として所属。2005年度日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーンのシンボルアスリート制度適用選手。
16歳時の1988年より日本代表として国際大会に出場し、1992年のアルベールビルオリンピックに19歳で初出場。以来、リレハンメル、長野、ソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバー、ソチと史上最多計7回の冬季オリンピックに出場。 2001年下川町町民栄誉賞受賞[1]。
スキージャンプの選手としては異例ともいえる20年以上のキャリアと、40歳を超えてなお一線級の成績をマークすることから「レジェンド(生ける伝説)」と国内外から称される選手である。
経歴
高校時代まで
札幌オリンピックが開催された1972年に下川町で生まれ、同郷の嶋宏大や岡部孝信らの後を追うように10歳でジャンプを始める。すぐに才能を発揮し雪印杯全日本ジャンプ大会ジュニアの部などで優勝を重ね、中学3年時には宮様スキー大会のテストジャンパーとして成年組と同じ助走距離で優勝した東昭広の飛距離を上回る[2]など逸材として注目を浴びた。
東海大四高校1年時の1988/89シーズン、11月に札幌で開催されたスキージャンプ・ワールドカップに16歳6ヶ月の史上最年少(当時)で初出場。1月には第28回STVカップ国際スキージャンプ競技大会で国際大会初優勝。さらに当時の中村圭彦ジャンプ部長による抜擢で、2月にラハティ( フィンランド)で開催された1989年ノルディックスキー世界選手権に16歳8ヶ月の日本人男子史上最年少出場[3]。
高校2年生時の翌1989/90シーズンからワールドカップに本格参戦し、12月9日のレークプラシッド大会( アメリカ合衆国)で初の一桁順位となる9位に入り、翌12月10日にそれを更新する7位。この他に2回7位に入り、シーズン個人総合は24位。しかし、高校3年時の1990/91シーズンは不振でW杯ポイント(当時は15位まで)を獲得できなかった。
長野オリンピックシーズンまで
1991年に秋元正博らが所属する地崎工業に入社した。ちょうどこのシーズンはV字スタイルへの移行期に当たり葛西も習得に手間取った。クラシカルスタイルで挑んだ1991/92シーズン前半のW杯では札幌・大倉山大会で6位に入るなど前シーズンの不調から脱していたが、1月に日本ナショナルチーム全体の方針としてV字スタイルに転向してから五輪初出場した2月のアルベールビルオリンピック( フランス)ではノーマルヒル31位、ラージヒル26位と振るわなかった(団体では4位入賞)。しかし、V字スタイルに慣れると再び成績も上昇し、2月29日に行われたワールドカップラハティ大会で3位に入り初めて表彰台を獲得すると、3月4日のエルンシェルツビク大会( スウェーデン)では自己最高を更新する2位。さらに3月22日にハラホフ( チェコスロバキア)で開催されたスキーフライング世界選手権(ワールドカップも兼ねていた。K=180)で金メダルを獲得し、19歳9ヶ月のワールドカップ日本人最年少優勝記録(当時)を作った[3]。スキーフライング世界選手権でのメダル獲得は日本人初、日本国外開催のW杯優勝は1980年3月の秋元正博以来12年ぶり2人目である。
1992/1993シーズンは、年末年始のスキージャンプ週間では第1戦オーベルストドルフ( ドイツ)で3位、第2戦ガルミッシュ・パルテンキルヒェン()は、ジャンプ週間では1971/72シーズンの笠谷幸生以来となる優勝を達成、第3戦インスブルック( オーストリア)で3位、第4戦ビショフスホーフェン()で2位と、4戦すべてで表彰台を獲得。総合でもオーストリアのアンドレアス・ゴルトベルガーと激しく優勝を争い、総合2位となった。このシーズンはV字スタイルを完全に習得し、シーズンスキー板よりも身体を前に放り出す深い前傾姿勢と、前述のジャンプ週間を含むW杯3勝(準優勝1回、3位2回)をあげて総合3位となった活躍からジャンプの本場・欧州では「カミカゼ・カサイ」の異名を放つ。
1993/1994シーズンは日本国内では大倉山ジャンプ競技場のバッケンレコードを大幅に更新するなど圧倒的な成績を残した。スキージャンプ週間は2度表彰台に立ち総合4位。ワールドカップでも1月9日のムーラウ大会()で秋元正博を抜いて日本人単独1位となる通算5勝目をあげた。2月のリレハンメルオリンピック( ノルウェー)ではノーマルヒルで5位入賞。団体戦で銀メダルを獲得した。
1994/1995シーズン開幕前の11月24日にノルウェー合宿で転倒し鎖骨を骨折、1月に復帰して8日の雪印杯に出場したものの直後の11日に再び転倒して同じ個所を痛め、結局このシーズンはワールドカップ、世界選手権には1試合も出場できなかった(葛西の代役として船木和喜がワールドカップにデビューしていきなり優勝、スターダムにのし上がった)。1995/1996シーズンは2シーズンぶりにワールドカップに復帰し、表彰台は獲得できなかったがインスブルックで9位に入った。1996/1997シーズン、1月26日に白馬で開催されたラージヒルで2位に入り、3シーズンぶりの表彰台を獲得。
1997/1998シーズンは11月29日のワールドカップリレハンメル大会で3位に入り、その後も一桁順位を続ける幸先の良いスタートを切ったが、12月30日にチームで興じていた球技中に[4]左足首捻挫を負う。長野オリンピックでは、2月11日の個人ノーマルヒルでは7位入賞を果たすも、2月15日の個人ラージヒルでは出場メンバーから外され、さらに翌16日に発表された団体メンバーからも外される。だが個人入賞ということもあって、直後のテレビ番組や式典では団体メンバーとともに出演するなど悔しい思いをする[5]。その後、3月に行われたワールドカップでは22日のプラニツァ大会( スロベニア)で4シーズンぶりの優勝を果たすなど3度表彰台に登り復活した。同月には所属していた地崎工業のスキー部が廃部となり、マイカルへ移籍した。
バンクーバーオリンピックシーズンまで
1998/1999シーズンはジャンプ週間で第3戦インスブルックでの優勝を含む3度の表彰台を獲得(残り1戦も4位)、フィンランドのヤンネ・アホネン、ドイツのマルティン・シュミットらと総合優勝を争い、1992/1993シーズン以来の総合2位入賞。ジャンプ週間を含むワールドカップでは、6勝(準優勝1回、3位7回)をあげて自己最高タイの総合3位に入った。ラムサウ( オーストリア)で開催された世界選手権にも3大会ぶりに出場し、団体戦で自身初のメダルとなる銀メダルを獲得した。
1999/2000シーズンは、シングルは複数回記録したものの、前シーズンから一転して個人表彰台は一度も無かった。
2000/2001シーズンは年末年始のスキージャンプ週間でガルミッシュ=パルテンキルヒェン大会での1勝を含む3戦連続表彰台を獲得するなど好調で、ワールドカップシーズン個人総合で4位に入った。
2001/2002シーズンは、10月に所属していたマイカルが廃部したため土屋ホームに移籍。ワールドカップでは五輪直前に開催された地元札幌大会で3位に入ったが、2月のソルトレイクシティオリンピック( アメリカ合衆国)では個人2種目とも40位台と振るわず、団体戦には出場できなかった。
2002/2003シーズンは1月までのワールドカップでは2度の9位が最高だったが、2月9日のヴィリンゲン大会( ドイツ)で優勝を飾ると、直後にヴァル・ディ・フィエンメ( イタリア)で開催された世界選手権で初めて個人戦のメダル(銅2個)を獲得。団体戦の銀メダルと合わせて出場全種目でメダルを獲得した。
2003/2004シーズンはワールドカップ序盤より度々シングルを記録し、1月25日の札幌大会でシーズン初表彰台となる2位。2月28日にパークシティ大会( アメリカ合衆国)で優勝し、31歳7ヶ月の最年長優勝記録(当時、2009年3月10日に岡部孝信に更新されるまで)を樹立した。シーズン総合でも3シーズンぶりの一桁順位となる8位。
2005年、マッチ・ニッカネンらを指導したフィンランド人のカリ・ユリアンティラが、日本チームのヘッドコーチに就任[6]。ユリアンティラの厳しい指導に対し、過去の実績のプライドから初めは強く反発したが、徐々にアドバイスを聞き入れるようになり、その結果助走スピードや飛距離が向上した[6]。
2006年2月、トリノオリンピック( イタリア)で全種目に出場。世界選手権では2007年札幌大会( 日本)、2009年リベレツ大会( チェコ)で団体戦の銅メダルを2大会連続で獲得。
2009年4月6日、所属する土屋ホームスキー部の監督に就任することとなり、日本スキー界としては異例となるプレーイング・マネージャーとなった[7]。
2010年2月、6大会連続出場したバンクーバーオリンピック( カナダ)でも全種目に出場。ラージヒル個人では、1本目121.5mの21位から2本目に135mの大飛躍で順位を上げて8位入賞。団体ではアンカーを務めて5位入賞。
ソチオリンピックシーズンまで
2010/2011シーズンは、開幕の団体戦で3位に入った。個人戦の最高成績は1月23日ザコパネ大会での5位。2011/2012シーズンは、ジャンプ週間よりW杯メンバー入りし、1月28日札幌大会の15位が最高成績だった。
2012年11月15日、フィンランド航空は、葛西紀明選手兼監督および、葛西選手率いるTEAM TSUCHIYAを公式サポートした。2009年よりフィンエアーは公式サポートしており、今期で4シーズンとなる[8][9]。2012/2013シーズンは、5試合で10位以内に入った。最高成績は3月22日と24日のプラニツァ大会フライングヒルでの4位。
2013/2014シーズン、12月15日のワールドカップ・ティティゼー・ノイシュタッド大会( ドイツ)で3位入賞し、W杯史上最年長(41歳6か月9日)での表彰台を獲得した。年末年始のジャンプ週間で4戦全てで一桁順位に入り総合5位となった後、2014年1月11日、バートミッテルンドルフ( オーストリア)で行われた個人第13戦フライングヒルで10シーズンぶりに優勝し、スキージャンプ・ワールドカップ史上最年長優勝(41歳7ヶ月5日)を達成した[10]。翌12日の個人第14戦フライングヒルでも3位、25日の個人第17戦札幌でも3位に入り、スキージャンプ・ワールドカップ史上最年長表彰台記録(41歳7ヶ月19日)を更新した。
2014年2月のソチオリンピック( ロシア)では夏季・冬季通じて史上最年長で日本選手団主将を務める[11]。2月9日、最初の競技となった個人ノーマルヒルでは、1本目101.5mで、1回目首位のカミル・ストッフと10.8点差、3位のペテル・プレヴツとは3.6点差の131.2点の8位で2本目に進んだが、2回目に上位陣を上回ることが出来ずそのまま8位で終了した[12]。同月15日に行われた男子ラージヒル個人では、1回目139mを飛び、飛距離は1回目1位のストッフと同じだったが、着地で後ろ足がやや流れた葛西の方が飛型点が1.5点低く、また向かい風による減点も葛西の方が大きかったために、計2.8ポイント差の2位となり、2回目は133.5mを飛びストッフの距離を1m上回ったことで、2回目のポイントだけならばストッフを上回ったものの、1回目の得点差を覆すまでに至らずそのまま2位に終わる[13]。それでも、1994年・リレハンメルオリンピックでの団体銀メダル以来20年ぶり、個人としてはオリンピック7度目の出場で初のメダルとなる銀メダルを獲得した[14]。日本ジャンプ勢のオリンピックでのメダル獲得は1998年・長野オリンピックでの船木和喜・原田雅彦以来16年ぶりのことであり、41歳254日[15]でのメダル獲得は、冬季五輪に於ける日本人最年長記録となった[16]ほか、冬季五輪ジャンプ競技に限れば1948年のサンモリッツ大会に於いて「36歳168日」で銀メダルを獲得したビルゲル・ルート(ノルウェー)以来約66年ぶりの世界最年長記録更新となった[15]。同月17日、清水礼留飛、竹内択、伊東大貴と出場した団体ラージヒルでも銅メダルを獲得した。このメダル記録により葛西は、更新したばかりの最年長メダル記録を、「41歳256日」と僅かながら更に更新した。
五輪後最初に行われた2月26日のW杯ファルン大会( スウェーデン)では3位に入ったが右膝を負傷した。次の第22戦1試合のみ欠場したが、第23戦より復帰すると、3月7日の第25戦トロンハイム大会で再び3位入賞してW杯最年長表彰台記録を41歳9か月4日に更新。3月15日にハラホフ( チェコ)で開幕したスキーフライング世界選手権では、個人の初日2本で3位と1ポイント差の4位につけた。2日目の後半2本は強風のため中止になったため順位を上げることはできなかったが、4位は1992年大会の優勝に次ぐ好成績。その後も3月23日のW杯シーズン最終戦プラニツァ大会まですべての試合でトップ10入りを達成。このシーズンは個人開幕戦で27位になった後は、出場した22戦全てでトップ10入りし、個人総合成績で10シーズンぶりの一桁順位となる5位入賞を達成[17]。
2014年4月1日、1992年アルベールビルオリンピックから2014年ソチオリンピックまでの計7回の冬季五輪最多出場記録、2014年1月11日に41歳219日で達成したワールドカップ最年長優勝記録、同年2月17日に41歳256日で達成した冬季オリンピックスキージャンプ競技最年長メダリストの3つの記録がギネス世界記録に認定された[18][19]。
ソチオリンピック後
2014/2015シーズン、11月22日のW杯シーズン開幕戦のクリンゲンタール大会( ドイツ)団体戦で準優勝すると、翌日の個人第1戦でも6位に入る幸先の良いスタートを切った。28日にルカ( フィンランド)で開催された第2戦で3位に入り、シーズン初表彰台を獲得。この試合では伊東大貴も2位に入っており、日本勢のW表彰台は2006年1月の札幌大会以来となった。翌日の第3戦では1本目で最長不倒の145mでトップに立つと、2本目は風に恵まれず131.50mだったがトップは譲らず、スイスのシモン・アマンとの同点で通算17勝目をあげ、自身の持つW杯最年長優勝記録を42歳5か月に更新した。ジャンプ週間では前半の2戦で連続8位、第3戦インスブルックでまたもアマンと同点の3位、第4戦ビショフスホーフェンでは2位と4戦全てでトップ10入りし、総合成績で前シーズンを上回る4位となった。
その後2月7日の第21戦ティティゼーノイシュタット大会(ドイツ)まで出場17戦連続でトップ10入りしたのち、2月14日の第23戦ビケルスン大会( ノルウェー)フライングヒルで3位に入り、10戦ぶりに表彰台を獲得。2月18日に開幕した世界選手権時では混合団体で銅メダルを獲得したものの、自身のジャンプは不調に陥り、個人戦ではトップ10入りを逃した。世界選手権後のW杯で復調し、第29戦オスロ大会で2位になり最年長表彰台記録を42歳282日に更新。最終的に総合成績で6位となり2シーズン連続のトップ10入りを果たした。
2015-16シーズンは11月22日にクリンゲンタールでのW杯個人開幕戦で5位スタート。その後は調子が上がらなかったため今季は表彰台獲得は厳しいと感じていたが、12月19日の第6戦エンゲルベルク大会( スイス)では1本目12位ののち、2回目のジャンプでプレブツ兄弟に続く3位に順位をあげ、シーズン初表彰台を獲得。自身の持つW杯最年長表彰台記録を43歳196日に更新した[20]。ジャンプ週間は第1戦オーベルストドルフでの5位が最高で全4戦の総合では日本人トップの7位となり、3シーズン連続でトップ10入りした[21]。
世界フライング選手権で5位入賞をしたのち、1月31日のW杯札幌大会から3戦連続の3位入賞を達成。3月4日のヴィスワ( ポーランド)大会でも3位に入った。3月17日の第27戦プラニツァ大会フライングヒルで、出場試合数がW杯個人で史上初めて500試合に到達。主催者の計らいにより500番のゼッケンをつけて競技を行った(結果は6位)[22]。
人物・プレースタイル
- 両親と姉、妹のいる5人家族の長男。1997年に母を火災で亡くしており、母の命日とお盆、ワールドカップ遠征前は必ず墓参している[23]。妹は1993年に難病の再生不良性貧血になり、一旦臍帯血治療で克服し、2003年に結婚したものの、2013年に再発、葛西は同シーズン中にも2度病院に駆けつけた。ソチオリンピック直前には妹からLINEで「絶対メダル取れるから何も心配せずに飛んで」と伝えられたという。「妹のために」は葛西の口癖で[24]、冬季五輪で金メダルという目標も、当初は妹を勇気づけるのが目的だったという[25]。また自身の心の支えとなった歌としてかぐや姫の「妹」を挙げていた[26]。
- ジャンプ時の空中姿勢は、身体をスキー板より前に出るほど深く前傾させる。そのダイナミック且つスリリングな独特のフォームはジャンプの本場・欧州で人気があり、ワールドカップ総合3位に入った1992/1993シーズン頃から「KAMIKAZE・KASAI」(カミカゼ・カサイ)と呼ばれて、このネーミングは2014年に「レジェンド」に取って代わられるまで、長年葛西のキャッチコピーとして定着していた[27]。その後もフォームの改良を続け、現在は手は体につけずに広げて、掌で風を受けて飛ぶムササビのようなスタイルになっている[28]。
- 30代後半以降になっても第一線で活躍を続ける姿はスキージャンプ界では異例のことであり[29]、2010年のバンクバーオリンピック競技終了後にはメダルを獲得したわけでもないのに海外数十人の記者による取材の輪ができた。その長年の競技実績と人気から各競技会場では葛西が登場すると観客から大きな拍手が起こる[30]。40歳を越えて第一線で競技を続ける姿は海外の選手からも尊敬を集める存在であり[31]、この頃からヨーロッパで「レジェンド」と呼ばれるようになった[32]。近年は葛西以外にもヤンネ・アホネンなど30代後半で現役を続ける選手も増えており、FISジャンプ統括のワルター・ホファーは「カサイのおかげで、選手たちはより長く競技を続けられると実感できる」と評している[29]。
- 2014年1月11日にワールドカップ史上最年長優勝を達成した際には、日本以外の多数の選手・コーチから、とりわけワールドカップ史上最多勝記録を持つグレゴア・シュリーレンツァウアーからは脱帽しての最敬礼での祝福を受けたほか、競技会場・オーストリアの地元紙は複数が1面トップでこれを報じ[33]、ドイツの公共放送ARDは、「「驚異」という言葉はこれからは「カサイ」にすべき」と賞賛した[32]。翌シーズンの2014年11月28日に最年長優勝記録をさらに更新した際にはシュリーレンツァウアーは「エアーニッポン」と称賛した[34]。
- 葛西がW杯個人戦通算500試合出場を達成した2016年3月17日のプラニツァ大会では500試合出場を記念し、金色のワシがあしらわれた「500番」のゼッケンが用意され、葛西がこれをつけて競技を行い、1回目のジャンプが終わった後、2万人の観客が会場アナウンスに合わせて日本語で「ありがとう」と祝福した[35][36]。会場にはジャンプが盛んな欧州のメディアに加え、葛西だけのためにカナダのメディアも訪れ、葛西は競技直後に取材ゾーンで20数社の取材を受けた。オーストリアのクローネ紙は葛西の500試合出場達成に対し、「日本の奇跡のワシは、どうも永遠に若いままでいるようだ」と評した[37]。
- シーズン中のベスト体重は60kg程度(TEAM TSUCHIYAのプロフィールでは59kg[38]、JOCのプロフィールでは62kg[39]となっている)。減量のために断食することもしばしば[40]。ただ減量し過ぎるとスキージャンプ界のいわゆる「BMIルール」に引っかかり失格の恐れが出てくるため、一定の体重を維持することにも気を使うという。
- 2014年現在の所属である土屋ホームとはプロ契約ではなく、一般の社員として雇用されている。そのため、シーズンオフには一社員として同社のモデルハウスでのサイン会・握手会などの販促業務をこなしている。2014年2月にはソチ五輪銀メダルの功績により、同社住宅部長に昇進した[41]。また同年6月には土屋ホームから、葛西プロデュースの戸建住宅「土屋LEGEND 葛西MODEL 2014」が発売された[42]。
- 2014年2月まで独身であったが、ソチオリンピックで銀メダルを獲得した直後の2月22日に一般女性と結婚した[43]。2018年の平昌オリンピックには家族同伴で挑みたいとしている[44]。長期の海外遠征ともなると、独身生活で身につけた手料理を後輩に振る舞う[45]。
- 自身のブログでは絵文字を多用する。
- B'zのファンである[46]。また、女優相武紗季のファンであると公言している。2009年に放映されたドラマ「ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜」を見てファンになった[47]。
- 2014年に第27回日本メガネベストドレッサー賞・スポーツ部門に選出され[48]。また、同年にW杯最年長優勝とオリンピックメダル獲得を達成したことで「レジェンド」の異名が日本国内でも広まり、2014年新語・流行語大賞で「レジェンド」がトップテン入りした[49]。
主な競技成績
冬季オリンピック
- 冬季五輪史上最多出場 - 7回(1992年 - 2014年)
- スキージャンプ競技個人種目史上最年長メダリスト - 41歳254日(2014年ラージヒル個人)
- スキージャンプ競技史上最年長メダリスト - 41歳256日(2014年ラージヒル団体)
ノーマルヒル | ラージヒル | |||
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個人 | 個人 | 団体 | ||
1992年 アルベールビル ( フランス) |
31位 | 26位 | 4位 | 上原子次郎、原田雅彦 葛西紀明、須田健仁 |
1994年 リレハンメル ( ノルウェー) |
5位 | 14位 | 銀メダル | 西方仁也、岡部孝信 葛西紀明、原田雅彦 |
1998年 長野 ( 日本) |
7位 | |||
2002年 ソルトレイクシティ ( アメリカ合衆国) |
49位 | 41位 | ||
2006年 トリノ ( イタリア) |
20位 | 12位 | 6位 | 伊東大貴、一戸剛 葛西紀明、岡部孝信 |
2010年 バンクーバー ( カナダ) |
17位 | 8位 | 5位 | 伊東大貴、竹内択 栃本翔平、葛西紀明 |
2014年 ソチ ( ロシア) |
8位 | 銀メダル | 銅メダル | 清水礼留飛、竹内択 伊東大貴、葛西紀明 |
ノルディックスキー世界選手権
- 史上最多出場 - 12回(1989年 - 2015年)
- 1989年ラハティ大会( フィンランド)
- 1991年ヴァル・ディ・フィエンメ大会( イタリア)
- 1993年ファルン大会( スウェーデン)
- 個人ノーマルヒル 10位
- 個人ラージヒル 7位
- 団体ラージヒル 5位(須田健仁、岡部孝信、葛西紀明、原田雅彦)
- 1999年ラムソー大会( オーストリア)
- 2001年ラハティ大会( フィンランド)
- 個人ノーマルヒル 8位
- 個人ラージヒル 19位
- 団体ノーマルヒル 4位(宮平秀治、岡部孝信、原田雅彦、葛西紀明)
- 団体ラージヒル 4位(宮平秀治、吉岡和也、葛西紀明、原田雅彦)
- 2003年ヴァル・ディ・フィエンメ大会( イタリア)
- 2005年オーベルストドルフ大会( ドイツ)
- 個人ノーマルヒル 21位
- 個人ラージヒル 36位
- 団体ノーマルヒル 9位(岡部孝信、伊東大貴、東輝、葛西紀明)
- 団体ラージヒル 10位(岡部孝信、宮平秀治、東輝、葛西紀明)
- 2007年札幌大会( 日本)
- 個人ノーマルヒル 34位
- 個人ラージヒル 24位
- 団体ラージヒル 銅メダル(栃本翔平、岡部孝信、伊東大貴、葛西紀明)
- 2009年リベレツ大会( チェコ)
- 2011年オスロ大会( ノルウェー)
- 個人ノーマルヒル 26位
- 個人ラージヒル 24位
- 団体ノーマルヒル 5位(湯本史寿、竹内択、葛西紀明、伊東大貴)
- 団体ラージヒル 6位(竹内択、湯本史寿、葛西紀明、伊東大貴)
- 2013年ヴァル・ディ・フィエンメ大会( イタリア)
- 団体ラージヒル 5位(清水礼留飛、葛西紀明、伊東大貴、竹内択)
- 2015年ファールン大会( スウェーデン)
スキーフライング世界選手権
団体は2004年より実施
個人 | 団体 | ||
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1990年 ヴィケルスン ( ノルウェー) |
23位 | --- | --- |
1992年 ハラホフ ( チェコスロバキア) |
金メダル | --- | --- |
1994年 プラニツァ ( スロベニア) |
19位 | --- | --- |
1996年 バート・ミッテルンドルフ/タウプリッツ ( オーストリア) |
24位 | --- | --- |
2000年 ヴィケルスン ( ノルウェー) |
5位 | --- | --- |
2004年 プラニツァ ( スロベニア) |
24位 | 5位 | 東輝 伊東大貴 宮平秀治 葛西紀明 |
2008年 オーベルストドルフ ( ドイツ) |
35位 | 7位 | 伊東大貴 葛西紀明 竹内択 栃本翔平 |
2010年 プラニツァ ( スロベニア) |
12位 | --- | --- |
2014年 ハラホフ ( チェコ) |
4位 | --- | 荒天のため中止 |
2016年 バートミッテルンドルフ ( オーストリア) |
5位 |
スキージャンプ・ワールドカップ
- 通算17勝(日本人最多)(2位12回、3位32回) - 2016年4月2日時点
- 団体戦3勝(2位4回、3位10回)
- W杯最年長優勝(2014年11月30日、42歳176日)
- W杯最年長表彰台(2016年3月4日、43歳272日)
- W杯個人戦最多出場
個人総合成績(総合:W杯シーズン個人総合、4H:スキージャンプ週間総合) | |||||
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シーズン | 総合 | 4H | 優勝 | 準優勝 | 3位 |
1989/90 | 24位 | 19位 | 0回 | 0回 | 0回 |
1990/91 | --- | --- | 0回 | 0回 | 0回 |
1991/92 | 9位 | --- | 1回 | 1回 | 1回 |
1992/93 | 3位 | 2位 | 3回 | 1回 | 2回 |
1993/94 | 6位 | 4位 | 1回 | 1回 | 2回 |
1994/95 | --- | --- | 0回 | 0回 | 0回 |
1995/96 | 36位 | 10位 | 0回 | 0回 | 0回 |
1996/97 | 17位 | 24位 | 0回 | 1回 | 0回 |
1997/98 | 10位 | 24位 | 1回 | 1回 | 2回 |
1998/99 | 3位 | 2位 | 6回 | 1回 | 7回 |
1999/00 | 15位 | 20位 | 0回 | 0回 | 0回 |
2000/01 | 4位 | 12位 | 1回 | 2回 | 1回 |
2001/02 | 23位 | 31位 | 0回 | 0回 | 1回 |
2002/03 | 13位 | 23位 | 1回 | 0回 | 0回 |
2003/04 | 8位 | 8位 | 1回 | 1回 | 1回 |
2004/05 | 16位 | 11位 | 0回 | 0回 | 0回 |
2005/06 | 21位 | 9位 | 0回 | 0回 | 0回 |
2006/07 | 26位 | 34位 | 0回 | 0回 | 1回 |
2007/08 | 34位 | 34位 | 0回 | 0回 | 0回 |
2008/09 | 15位 | 13位 | 0回 | 0回 | 1回 |
2009/10 | 17位 | 11位 | 0回 | 1回 | 0回 |
2010/11 | 25位 | 31位 | 0回 | 0回 | 0回 |
2011/12 | 51位 | 33位 | 0回 | 0回 | 0回 |
2012/13 | 24位 | 42位 | 0回 | 0回 | 0回 |
2013/14 | 5位 | 5位 | 1回 | 0回 | 5回 |
2014/15 | 6位 | 4位 | 1回 | 2回 | 3回 |
2015/16 | 8位 | 7位 | 0回 | 0回 | 5回 |
合計 | --- | --- | 17回 | 12回 | 32回 |
優勝大会
個人優勝大会(NH:ノーマルヒル、LH:ラージヒル、FH:フライングヒル) | |||||
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回数 | シーズン | 月日 | 開催地 | 種目 | 備考 |
1 | 1991/92 | 3月22日 | ハラホフ | FH |
兼スキーフライング世界選手権 |
2 | 1992/93 | 1月1日 | ガルミッシュ=パルテンキルヒェン | LH | 兼スキージャンプ週間 |
3 | 1月23日 | プレダッツォ | LH | ||
4 | 3月6日 | ラハティ | NH | 兼ラハティスキーゲームズ | |
5 | 1993/94 | 1月9日 | ムーラウ | LH | |
6 | 1997/98 | 3月22日 | プラニツァ | LH | |
7 | 1998/99 | 1月3日 | インスブルック | LH | 兼スキージャンプ週間 |
8 | 1月29日 | ヴィリンゲン | LH | ||
9 | 1月31日 | ヴィリンゲン | LH | ||
10 | 3月9日 | トロンハイム | LH | ||
11 | 3月14日 | オスロ | LH | 兼ホルメンコーレン大会 | |
12 | 3月21日 | プラニツァ | FH | 日本人男子シーズン最多6勝目 | |
13 | 2000/01 | 1月1日 | ガルミッシュ=パルテンキルヒェン | LH | 兼スキージャンプ週間 |
14 | 2002/03 | 2月9日 | ヴィリンゲン | LH | |
15 | 2003/04 | 2月28日 | パークシティ | LH | 最年長優勝(当時)31歳267日 |
16 | 2013/14 | 1月14日 | バートミッテルンドルフ | FH | 最年長優勝(当時)41歳219日 |
17 | 2014/15 | 11月29日 | ルカ | LH | 最年長優勝 42歳176日 |
団体優勝大会(NH:ノーマルヒル、LH:ラージヒル、FH:フライングヒル) | |||||
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回数 | シーズン | 月日 | 開催地 | 種目 | メンバー |
1 | 1992/93 | 3月27日 | プラニツァ | LH | 原田雅彦 葛西紀明 岡部孝信 安崎直幹 |
2 | 1998/99 | 1月30日 | ヴィリンゲン | LH | 船木和喜 葛西紀明 宮平秀治 吉岡和也 |
3 | 2000/01 | 1月19日 | パークシティ | LH | 船木和喜 吉岡和也 原田雅彦 葛西紀明 |
日本国内大会
- 日本国内での主な優勝
- 1987年1月17日 第19回北海道中学校スキー大会
- 1987年3月15日 第21回雪印杯全日本ジャンプ旭川大会ジュニアの部
- 1987年3月29日 第6回全国ジュニアオリンピックスキー競技大会
- 1988年1月10日 第29回雪印杯全日本ジャンプ大会ジュニアの部
- 1988年1月17日 第20回北海道中学校スキー大会
- 1988年3月19日 第22回雪印杯全日本ジャンプ旭川大会ジュニアの部
- 1989年1月15日 第28回STVカップ国際スキージャンプ競技大会
- 1989年1月29日 第30回NHK杯ジャンプ大会少年の部
- 1989年2月5日 第1回UHB杯ジャンプ大会少年の部
- 1990年1月18日 第42回北海道高校スキー大会
- 1990年1月24日 第45回北海道スキー選手権大会少年の部
- 1990年2月3日 第2回UHB杯ジャンプ大会少年の部
- 1990年2月4日 第1回TVh杯ジャンプ大会少年の部
- 1991年1月22日 第47回北海道スキー選手権大会少年の部
- 1991年2月2日 第2回TVh杯ジャンプ大会少年の部
- 1991年2月24日 第62回宮様スキー大会国際競技会(ラージヒル)少年の部
- 1991年2月25日 第62回宮様スキー大会国際競技会(ノーマルヒル)少年の部
- 1991年12月8日 第7回吉田杯ジャンプ大会兼第22回名寄ピヤシリジャンプ大会
- 1994年1月29日 第21回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会
- 1994年1月30日 第35回NHK杯ジャンプ大会兼第72回全日本スキー選手権大会(ラージヒル)
- 1994年2月5日 第6回UHB杯ジャンプ大会
- 1994年2月6日 第5回TVh杯ジャンプ大会
- 1995年12月16日 第26回名寄ピヤシリジャンプ大会
- 1995年12月17日 第11回吉田杯ジャンプ大会
- 1996年1月14日 第23回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会兼1996FISコンチネンタルカップジャンプ大会
- 1999年2月13日 第77回全日本スキー選手権大会(ノーマルヒル)兼第4回NBS杯白馬ジャンプ大会
- 2000年1月14日 第28回札幌オリンピック記念国際スキージャンプ競技大会兼FISコンチネンタルカップジャンプ大会
- 2000年12月17日 第16回吉田杯ジャンプ大会
- 2003年3月28日 第4回伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会
- 2004年1月10日 第31回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会兼FISコンチネンタルカップジャンプ大会2004
- 2004年1月11日 第43回STVカップ国際スキージャンプ競技大会兼FISコンチネンタルカップジャンプ大会2004
- 2004年1月13日 第46回HBCカップジャンプ競技会
- 2004年3月19日 第28回伊藤杯 宮の森ナイタージャンプ大会
- 2007年1月21日 第19回UHB杯ジャンプ大会
- 2008年1月19日 第20回UHB杯ジャンプ大会
- 2009年1月18日 第20回TVh杯ジャンプ大会
関連書籍
- 不屈の翼 カミカゼ葛西紀明のジャンプ人生(著:岡崎敏、発行:日刊スポーツ出版社、2014年3月6日初版発行 ISBN 978-4817203175)
- 家族で獲った銀メダル(著:葛西紀明、発行:光文社、2014年7月18日初版発行 ISBN 978-4334977863)
脚注
- ^ 下川町社会教育関係表彰状況 [リンク切れ]
- ^ 北海道新聞1988年3月7日付朝刊15面
- ^ a b 日刊スポーツ2014年1月7日
- ^ 岡崎敏「不屈の翼」230ページ
- ^ このあたりのいきさつは岡崎敏「不屈の翼」第5章に詳しい。
- ^ a b “ベテラン葛西、奮闘 「孝兄さんの分まで飛ぼう」”. asahi.com. (2010年2月23日)
- ^ 2010年バンクーバー五輪のラージヒルで1本目20位と出遅れるも、2本目に135mの大ジャンプで8位入賞葛西が土屋ホーム選手兼監督に - スポーツニッポン(2009年4月6日)
- ^ フィンエアー、スキージャンプの葛西紀明選手をサポート - FlyTeam(2012年11月16日)
- ^ FINNAIR公式ニュース日本語版・2012年11月15日
- ^ “葛西紀明、最年長V記録を更新…W杯ジャンプ”. 読売新聞. (2014年1月12日)
- ^ “レジェンド”葛西が最年長主将、“カーママ”小笠原は旗手にサンケイスポーツ2015年1月15日
- ^ “葛西、ノーマルヒルは8位 日本メダル1号ならず”. Sponichi Annex. (2014年2月10日)
- ^ “メダル分けた飛型点…葛西、2点差「金」届かず”. 読売新聞. (2014年2月17日)
- ^ “五輪ジャンプ:41歳葛西が銀メダル 男子ラージヒル”. 毎日新聞. (2014年2月16日)
- ^ a b “葛西は最年長メダル=金は29歳-男子〔五輪・スキージャンプ〕”. 時事ドットコム. (2014年2月16日) 2014年2月16日閲覧。《→アーカイブ》
- ^ “レジェンド葛西LH銀メダル!16年ぶり”. 日刊スポーツ. (2014年2月16日)
- ^ 葛西 10年ぶりに1桁順位個人総合5位「大満足のシーズン」スポーツニッポン2014年3月24日
- ^ ジャンプ:葛西がギネス3冠…冬季五輪最多出場など 毎日新聞 2014年4月1日
- ^ 冬季オリンピック最年長メダリストのギネス世界記録は、ソチオリンピックリュージュ競技でメダルを獲得したアリベルト・デムチェンコの42歳74日
- ^ 葛西、W杯最年長表彰台記録を更新!1回目12位から3位「まさか」 スポーツニッポン 2015年12月20日
- ^ 葛西は9位、総合7位=伊東は10位-ジャンプ週間最終戦 時事通信 2016年1月7日
- ^ 葛西 祝福ムードの中で6位 W杯個人史上初通算500試合出場 スポーツニッポン 2016年3月17日
- ^ “葛西、最愛の母を火事で亡くし妹は闘病中”. 読売新聞. (2014年2月17日) 2014年2月17日閲覧。
- ^ “葛西 亡き母、病魔と闘う妹に銀メダル”. nikkansports.com. (2014年2月17日) 2014年2月17日閲覧。
- ^ 日刊スポーツ 2014年2月17日 1-2面
- ^ “2014年5月14日放送 19:00 - 19:56 日本テレビ 1番ソングSHOW”. TVでた蔵. ワイヤーアクション (2014年5月14日). 2016年3月29日閲覧。
- ^ “レジェンドと呼ばれる男、葛西紀明。41歳、ソチへ悲願の金を取りに行く。”. Number Web. 文芸春秋 (2014年1月10日). 2016年3月29日閲覧。
- ^ “葛西“ムササビ飛び”パクリ大歓迎!「みんな調子いい」/ジャンプ”. サンケイスポーツ (2014年12月10日). 2016年3月29日閲覧。
- ^ a b “葛西 最年長V更新!結婚後初戴冠「やったぞー!レイチェル」”. スポーツニッポン. (2014年11月30日)
- ^ レジェンドと呼ばれる男、葛西紀明。41歳、ソチへ悲願の金を取りに行く。Number Web 2014年1月10日
- ^ “「カミカゼ」葛西を5万人の観衆が後押し”. 日刊スポーツ. (2014年1月12日)
- ^ a b “レジェンド葛西、自信と戸惑いの帰国 ジャンプ最年長V”. 朝日新聞. (2014年1月14日)
- ^ オーストリア地元紙、葛西快挙を1面で報道スポーツニッポン2014年1月12日
- ^ 葛西と優勝を分け合ったアマンもレエジェンド・葛西に敬意スポーツニッポン2014年11月30日
- ^ [葛西 前人未到W杯500戦 敬意の“金ワシゼッケン” ]スポーツニッポン2016年3月17日
- ^ 葛西に観客2万人が日本語で「アリガトウ」スポーツニッポン2016年3月18日
- ^ [「永遠に若い奇跡のワシ」 500試合出場の葛西 偉業に驚きの海外メディア]産経ニュース2018年3月18日
- ^ 葛西紀明 - TEAM TSUCHIYA
- ^ 葛西紀明 - 日本オリンピック委員会
- ^ 葛西紀明 7度目の出場 長野「補欠」五輪人生の原点 - MSN産経ニュース・2014年2月8日
- ^ ソチ五輪メダルで昇進決定 葛西紀明に東京進出の“特命” - 日刊ゲンダイ・2014年3月1日
- ^ 葛西紀明プロデュースによる戸建住宅 「土屋LEGEND 葛西MODEL 2014」新発売 - 土屋ホーム・2014年6月17日
- ^ 葛西 結婚!銀メダル獲得日に国際電話でプロポーズ、2月に入籍 スポーツニッポン
- ^ レジェンド葛西、41歳「独身」にドキドキ ネットで「嫁」立候補が相次ぐ - J-CASTニュース・2014年2月17日
- ^ “ストーリーfromSOCHI:葛西紀明、笑顔の陰に レジェンド、苦難と屈辱越えて(1/3ページ)”. 毎日新聞. (2014年2月9日) 2014年2月18日閲覧。
- ^ レジェンド葛西氏のパワー源は、「B'z」 東京スポーツ 2014年2月21日
- ^ テレビ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』コーナー「食わず嫌い王決定戦」(2014年3月6日放映)出演の際に発言。
- ^ “「メガネベストドレッサー賞」に石原さとみら=AKB48はサングラス特別賞”. 時事通信. (2014年10月20日) 2014年10月21日閲覧。
- ^ “受賞語一覧と解説”. 自由国民社. (2014年12月1日) 2014年12月1日閲覧。
外部リンク
- 葛西紀明オフィシャルブログ「神風ジャンパーの挑戦」
- FIS公式記録(英語版)
- 葛西紀明 - バイオグラフィーとオリンピックでの成績(Sports Reference)(英語)
- 土屋ホームスキー部 【TEAM TSUCHIYA】
- キャリタス就活スペシャルブログ「自分の夢は、努力でかなえる」