神重徳

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神 重徳
生誕 1900年1月23日
日本の旗 日本 鹿児島県出水郡高尾野村
死没 (1945-09-15) 1945年9月15日(45歳没)
日本の旗 日本 津軽海峡
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1921年 - 1945年
最終階級 海軍少将
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神 重徳(かみ しげのり、1900年明治33年)1月23日 - 1945年昭和20年)9月15日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将海軍兵学校48期生。

生涯

戦前

1900年明治33年)1月23日鹿児島県出水郡高尾野村(現在の出水市)の神焼酎製造(現神酒造)を営む父・惣士の長男として生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校から1917年海軍兵学校を受けたが不合格となり同年10月10日第48期補欠募集で[1]166名中29番の成績で入校。1919年10月8日成績優等章授与。1920年7月16日171名中10番の成績で海兵48期を卒業。海軍少尉候補生装甲巡洋艦浅間」乗組。

1920年8月21日練習艦隊遠洋航海( 基隆~馬公~香港~シンガポール~コロンボ~ダーバン~ケープタウン~リオデジャネイロ~サントス~モンテビデオ~バイアブランカ~バルパライソ~イキケ~カヤオ~タヒナ~トラック~サイパン~母島~父島方面巡航の西廻り世界一周)に出発。赤道地帯の石炭積みの重労働に閉口して「俺はもう海軍が嫌になった。日本に帰ったら故郷に帰り焼酎を作る」と言っていた[2]1921年(大正10年)4月2日帰国した。4月9日2等巡洋艦矢矧(初代)」乗組。6月1日海軍少尉1922年7月12日海軍砲術学校普通科学生。12月1日海軍水雷学校普通科学生。1923年(大正12年)3月30日1等海防艦八雲」乗組。少尉候補生指導官附。11月7日練習艦隊遠洋航海出発(上海~マニラ~シンガポール~バタヴィア~フリーマントル~メルボルン~ホバート~シドニー~ウェリントン~オークランド~ヌーメリア~ラバウル~トラック~パラオ~サイパン方面巡航)。12月1日海軍中尉1924年(大正13年)4月5日帰国。4月10日1等駆逐艦矢風」航海長心得兼分隊長心得。12月1日戦艦山城」分隊長。1925年(大正14年)12月1日海軍大尉、海軍砲術学校高等科第25期学生。この頃父が死に神は故郷に帰って後を継ぐべきか1か月ほど迷ったが、弟にやらせてうまくいかなかったら自分が代わると決めた[3]1926年(大正15年)11月27日海軍砲術学校高等科優等修了。12月1日戦艦「伊勢」分隊長。1927年(昭和2年)12月1日戦艦「扶桑」分隊長。1928年(昭和3年)12月10日海軍兵学校教官兼監事。病で留年した吉田俊雄に、分隊監事であった神は60kg近くある米俵を両手で持ち上げてみせ、「自分も大して力がある方ではない。しかし、吉田候補生も頑張ればこの程度の事はできる」と励ました。1930年(昭和5年)12月1日巡洋戦艦霧島」分隊長。

1931年(昭和6年)10月24日海軍軍令部第1班第2課。12月1日海軍少佐、3度目の受験で海軍大学校に甲種第31期学生として合格した。神は落ちたら焼酎屋のおやじに戻ると言っていた[4]1933年(昭和8年)5月20日海軍大学校甲種を24名中首席で卒業。5月23日巡洋戦艦「霧島」副砲長兼分隊長。11月15日軍令部出仕。12月6日ドイツ駐在。1935年(昭和10年)4月1日ドイツ日本大使館附海軍駐在武官府補佐官補12月11日帰国。帰国後は親ナチスとなりヒトラーが勝つと周囲に説いた。神はヒトラー髭にもしていた。1936年(昭和11年)3月10日海軍省出仕 兼軍令部出仕。3月19日海軍省軍務局第1課 兼艦政本部出仕。神は日独伊三国軍事同盟賛成派の急先鋒であり、反対派の軍務局長井上成美の外務省との案件に神は抗議しにきたが、井上が更迭をほのめかすと神妙になり指示に従った[5]。12月1日、海軍中佐1937年(昭和12年)11月20日、兼大本営海軍報道部員。1938年(昭和13年)5月18日、艦政本部出仕。1939年(昭和14年)5月1日第五艦隊司令部参謀。

1939年11月15日、軍令部第1部第1課兼大本営海軍参謀。1940年(昭和15年)11月15日、兼陸軍参謀本部参謀。1941年(昭和16年)10月15日、海軍大佐

太平洋戦争

1941年12月、太平洋戦争が開戦。神は兵備局を訪れ保科善四郎局長に、これからパナマ運河を爆破するからそういうことについて兵備局長の意見を聞きたいと相談したが、そこまで物を送るのに当時48日もかかるので保科は「冗談を言うな」と答えたという[6]第一段作戦の終結に伴い、第二段作戦計画が計画され、神は起案を担当した[7]

1942年(昭和17年)6月15日横須賀鎮守府附。7月14日第八艦隊司令部参謀。第一次ソロモン海戦で敵泊地への艦隊夜襲作戦を立案し米巡洋艦を撃破する。しかし肝心の米上陸船団には被害がなく旗艦「鳥海」艦長早川幹夫から再攻撃の進言があるも一航過のみで終わった。1943年3月神が連合軍侵攻に備える輸送作戦である八十一号作戦を計画した。八十一号作戦は航空戦力が劣勢であったため第三水雷戦隊参謀半田仁貴知少佐が「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と神に申し入れたところ、神は「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と言って強行した。失敗で人員機材を失いニューギニア方面の作戦に多大な支障を与えた[8]

1943年(昭和18年)6月14日第5艦隊司令部附。6月22日軽巡洋艦多摩艦長キスカ島撤退作戦に従い、突入に躊躇する艦隊長官に「ぐずぐずしていると突入の時期を失する」と進言した[9]

1943年12月15日海軍省教育局第1課長。1944年(昭和19年)5月15日海軍省教育局第2第3課長兼務。神は高木惣吉海軍少将が中心となった東條英機内閣総理大臣暗殺計画に、実行メンバーの1人として加担していたが、暗殺実行直前に連合艦隊参謀に転出となり、更に東條内閣サイパン島失陥が原因で総辞職した為に暗殺計画は陽の目を見なかった[10]

神は、戦艦を主砲とする突入作戦を積極的に主唱した[11]マリアナ沖海戦後のサイパン陥落で神は軍令部に「戦艦の山城扶桑特別陸戦隊2000名貸してほしい。サイパンに戦艦で乗り上げ浮き砲台とし奪還する」と具申する。山本親雄課長は大本営の計画を説明したが「陸軍では駄目。飛行機は海の上を飛べない。海軍で特攻隊をやるのだ」と主張した[12]。しかし軍令部作戦部長中澤佑に却下された[13]

1944年7月13日連合艦隊司令部参謀。10月2日南方軍司令部参謀。1944年10月23日レイテ沖海戦が起こり、同海戦で神風特攻隊が開始して以降、連合艦隊参謀として携わる。1945年1月25~30日桜花部隊で組まれた11航空戦隊総合訓練研究会があり2月1日草鹿龍之介参謀長は11航空戦隊を正規作戦に使用することを希望した。神ももう一度総合訓練の後正規に使いたいと要望したが、その総合訓練はないまま実戦に投入した[14]。レイテ沖海戦の敗北後には「これまでの戦闘において失敗したのは勇気が欠けていたためである。勇気さえあれば優勢な敵航空兵力があっても、大艦をもって上陸作戦時の攻防戦に参加させることは必ずしも不可能ではない」と述べた。

沖縄作戦が始まると連合艦隊司令部では神が戦艦大和による海上特攻を主張した。連合艦隊参謀長草鹿龍之介はそれをなだめたが神は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神が計画した。神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神は参謀長を通さずに豊田長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。神は軍令部へ向かい反対する作戦課長富岡定俊を通さずに軍令部次長小沢治三郎中将から直接承認を得た。神は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し草鹿参謀長は戦艦大和」の伊藤整一司令長官に作戦命令を伝え説得し、大和による海上特攻が決定した。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という[15]

1945年(昭和20年)4月25日海軍総隊司令部参謀。連合艦隊司令部では神のみ機帆船による逆上陸構想を唱えていた[16]

6月20日第10航空艦隊参謀長。8月15日終戦。 終戦後の1945年9月15日千歳飛行場から神は練習機「白菊」で移動するが津軽海峡に不時着、神の指示で他は全員で泳いで陸を目指しアメリカ軍の駆逐艦に救助されたが、神は行方不明となる[17]。千歳飛行場勤務の武藤誠によれば直前まで大橋富士郎司令と快活に会話しており、息子の神重隆も父の強気の性格から考えて、自殺ではなく疲労による水死だろうという[18]。なお、殉職により特別進級で少将となった。享年45。

人物

神は狂信的な言動で知られ「神さん神がかり」と揶揄されていた[19]。「海軍の辻政信」とも言われた[20]。海兵同期の有田雄三によれば、「明朗、陽性、生一本、万事に積極的、頭脳明敏、感覚鋭敏、努力型だったこと衆目の見るところであろう」「コリ性だったが、あきらめが早すぎ唯我独尊でわがままな点もあった」という[21]淵田美津雄大佐によれば、「名は体を表すというが、神が徳を重ねるというほどの信念の人」という[22]野元為輝少将によれば、神は内地にいるときは偉そうなことを言うが、現地では弱いという[23]。中島親孝によれば、神は天才的性格で自分で考え、人にあまり相談せずぽんと決めるが、状況が変わるとくるっと変えるので連絡がうまくいかないことがあったという[24]

年譜

脚注

  1. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋p56
  2. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋p56
  3. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋p56
  4. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋p56
  5. ^ 赤城毅『亡国の本質 日本はなぜ敗戦必至の戦争に突入したのか』PHP研究所p131、『昭和史の軍人たち』p.58
  6. ^ 戸高一成『[証言録]海軍反省会 2』PHP研究所p53
  7. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦p52-53
  8. ^ 戦史叢書96p67-68
  9. ^ 『海軍参謀』p.241
  10. ^ 『昭和史の軍人たち』文春文庫、1987年、88頁。ISBN 4167453010 
  11. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p273
  12. ^ 豊田穣『海軍軍令部』講談社文庫p309
  13. ^ 『海軍中将 中澤佑』pp.142-143
  14. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p15
  15. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p273-275
  16. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p296-297
  17. ^ 『昭和史の軍人たち』pp.62-63、『海軍参謀』pp.250-251
  18. ^ 『丸エキストラ 戦史と旅26 平成13年1月別冊』潮書房p192
  19. ^ 赤城毅『亡国の本質 日本はなぜ敗戦必至の戦争に突入したのか』PHP研究所p130-131
  20. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋p54
  21. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋p56
  22. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋p56
  23. ^ 戸高一成『[証言録]海軍反省会 4』PHP研究所p44
  24. ^ 戸高一成『[証言録]海軍反省会 4』PHP研究所p359-360

参考文献

関連項目