柴田猛
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | 1944年8月11日(79歳) |
身長 体重 |
178 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、外野手 |
プロ入り | 1963年 |
初出場 | 1966年6月5日 |
最終出場 | 1976年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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柴田 猛(しばた たけし、1944年8月11日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(捕手)。引退後は各プロ野球球団のコーチを歴任し、阪神タイガースで監督代行も務めた。
来歴・人物
向陽高校を卒業後、1963年に南海ホークスのテスト生として入団。
当時は捕手の野村克也が全盛期であり、柴田は野村の控え捕手であった。二軍では3割台を何度も記録し、打撃ベストテンに何度もランクイン。1973年からはコーチを兼任し、その年のリーグ優勝に貢献。1974年には怪我をした野村の代わりに先発マスクを被る機会も増えたが、ファウルチップを右手に受ける大怪我をし、戦線離脱。のちに同僚となった江本孟紀は「この時の怪我がなければ、ノムさんは正捕手の座を柴田に譲り、監督専任になっていただろう」と語っている。この怪我以降は出場機会が減り、1976年に広島東洋カープへ金銭トレードで移籍した後、コーチ兼任となった1977年に現役を引退。
引退後は1978年から1980年まで広島の一軍バッテリーコーチを務め、日本シリーズ連覇に貢献。敵のサインを見破り、乱数表を解読し、相手投手の投球フォームやコーチのサインの出し方を撮影して癖を見つけて攻略、読唇術を用いて敵のマウンド上やベンチでの会話から作戦を読むほか、古葉竹織監督の作戦をサインで伝達する役目を担うなど影の立役者と評価された。
また、心理面を突く野球を研究し、特に外国人選手に対しては生まれ育った境遇や信仰する宗教まで分析して戦略の参考とした。
その後は、1981年から古巣の南海に一軍バッテリーコーチとして戻ったが、前述の手法が当時の監督だったドン・ブレイザーら外国人スタッフの間で不評を買い、わずか1年で退任。投手交代をめぐって投手コーチのバーニー・シュルツと意見対立し、ベンチ内であわや乱闘という事件まで起こした。退任後、阪急が最初に反応。監督の上田利治が「是非ともウチに迎えたい」と早速アプローチすると、すかさず前年まで在籍していた広島も名乗りを上げた。阪急か広島の選択に悩んでいた柴田だったが、広島の球団上層部の一部に一軍コーチ復帰に反対する声がある事が伝わる。球界の不文律として翌年の同一リーグ球団への横滑りは無しとされていたため、阪急入りも叶わず。その隙間を突いた阪神がバッテリーコーチとして迎え入れ、全てが丸く収まった。1982年、正式にコーチに就任したが、横浜スタジアム審判集団暴行事件に関与。翌1983年、島野育夫と共に現場復帰。阪神を退団後は、古巣の南海・ダイエー(1985年 - 1986年一軍バッテリーコーチ, 1987年 - 1988年・1991年 - 1992年二軍監督)、オリックス二軍バッテリーコーチ(1989年 - 1990年)、ヤクルト(1993年フロント, 1994年 - 1995年一軍バッテリーコーチ)と渡り歩いたが、1996年に再び阪神で一軍チーフ兼バッテリーコーチ(ヘッド格)を務めた。また、シーズン途中で監督を解任された当時の藤田平の代わりに監督代行としてチームを率い、新庄剛志を4番に起用した。
退団後は兄弟守備コーチ(1997年)、中日のフロントスタッフ(1998年 - 1999年)を経て、2000年から2005年までは巨人運営部特別嘱託スタッフを務めた。巨人スコアラーの知恵袋とも言われ、2004年にはアテネオリンピック野球日本代表のアドバイザースコアラーに就任。銅メダル獲得に貢献。
2006年から2007年までは中信ヘッド兼打撃コーチを務めた。
広島コーチ時代の1979年と1980年、ヤクルトコーチ時代の1995年に日本一を経験しているが、南海での現役時代に日本一に輝いたのは1964年の1回のみで、1965年・1966年・1973年は日本シリーズで敗退している。フロントとしてもヤクルト時代の1993年、巨人時代の2000年と2002年に日本一を経験している。
南海OBとしては数少ない野村の弟子的存在であるが、野村は前記の暴力事件の際に柴田を批判している。だが、その後ヤクルトのフロントに誘い、その後コーチとして現場復帰させている。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1966 | 南海 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1967 | 17 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1968 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
1969 | 8 | 11 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1970 | 11 | 5 | 4 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .500 | .600 | .500 | 1.100 | |
1971 | 33 | 29 | 27 | 3 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 1 | .222 | .276 | .259 | .535 | |
1972 | 21 | 8 | 8 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
1973 | 12 | 9 | 7 | 1 | 3 | 2 | 0 | 0 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | .429 | .556 | .714 | 1.270 | |
1974 | 66 | 154 | 133 | 10 | 29 | 7 | 0 | 1 | 39 | 15 | 0 | 0 | 3 | 1 | 14 | 2 | 3 | 17 | 3 | .218 | .305 | .293 | .598 | |
1975 | 19 | 8 | 7 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | .286 | .375 | .286 | .661 | |
1976 | 広島 | 14 | 11 | 10 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | .100 | .182 | .100 | .282 |
通算:11年 | 209 | 237 | 209 | 19 | 45 | 10 | 0 | 1 | 58 | 24 | 3 | 0 | 3 | 1 | 17 | 2 | 7 | 31 | 5 | .215 | .295 | .278 | .612 |
監督通算成績
- 13試合 6勝7敗、勝率.462
背番号
- 65 (1963年 - 1966年)
- 45 (1967年 - 1975年)
- 23 (1976年)
- 61 (1977年 - 1981年)
- 87 (1982年 - 1984年)
- 72 (1985年 - 1986年、1991年 - 1992年)
- 81 (1987年 - 1988年)
- 63 (1989年 - 1990年)
- 71 (1994年 - 1996年)
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)