松浦晃一郎

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松浦晃一郎
松浦晃一郎
生誕 (1937-09-29) 1937年9月29日(86歳)
日本の旗 日本山口県佐波郡島地村
職業 外交官、国連職員、公益法人役員、会社役員
署名
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ロシアウラジーミル・プーチン大統領と共に(2000年10月30日)
イタリアシルヴィオ・ベルルスコーニ首相とともに(2003年5月31日)
議長を務めた第22回世界遺産委員会でドロステ世界遺産センター長と(1998年12月)

松浦 晃一郎(まつうら こういちろう、1937年9月29日 - )は、日本外交官、国連職員。公益財団法人日仏会館理事長、一般社団法人アフリカ協会会長、一般財団法人日本ウズベキスタン・シルクロード財団評議員[1]株式会社パソナグループ監査役中国人民大学名誉教授東邦音楽大学パフォーマンス総合芸術文化専攻客員教授

過去に、駐フランス共和国特命全権大使ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)第8代事務局長を務めた[2]山口県佐波郡島地村(後の徳地町、今の山口市)出身。

来歴

三井生命保険(現大樹生命保険)勤務の父親誠一と山口市の造り酒屋「松屋」の娘だった母清子の子として東京府荏原区(現東京都品川区)で生まれ、父の生地である島地村で幼少を過ごす[3]。松浦家は農業の傍ら、和紙をすく道具をつくっていた[3]。父親の転勤で中国天津に転居、小学校に通い始めたが戦況が悪化し帰国した[3]

1956年東京都立日比谷高等学校卒業1958年東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、1959年外務省に入省。同期には渡辺允(侍従長)、木幡昭七(経済協力局長)、西崎信郎(駐ペルー大使)、高瀬秀一(駐蒙大使)ら。在アメリカ大使館参事官外務大臣官房審議官香港総領事経済協力局長、北米局長、外務審議官などを経て1994年駐フランス大使となる。1998年に世界遺産委員会議長に就任、1999年には日本人としては初めて(アジアからの選出としても初)のユネスコ事務局長に就任した。日本ユネスコ協会連盟特別顧問、立命館大学特別招聘教授[4]中部大学中部高等学術研究所客員教授[5]大阪大学大学院国際公共政策研究科客員教授[6]中国人民大学名誉教授なども務める。

経済の専門家として知られ、仏文学にも精通している。アフリカ彫刻の見識が深くワイン通としても知られる。

2009年11月14日にユネスコ事務局長を退任、退任式は10月22日、後任はブルガリアイリナ・ボコヴァ。2期10年の在任中は、ユネスコの組織改革に尽力し縁故人事や不透明経理が横行していた組織内の行財政改革を断行、放漫運営を理由にユネスコ脱退していたアメリカが2003年10月に松浦の改革を評価し長年の課題であった復帰も実現させた(その後アメリカはパレスチナ加盟をめぐって対立し、2018年末に再脱退している[7])。また、無形文化遺産保護条約や文化多様性条約など文化遺産保護の業績も残している[8]

経歴

著書

  • 『国際人のすすめ』静山社
  • 『アフリカの曙光-アフリカと共に50年』かまくら春秋社
  • 『世界遺産-ユネスコ事務局長は訴える』講談社
  • 『ユネスコ事務局長奮闘記』講談社 ISBN 4-06-212234-0
  • 『援助外交の最前線で考えたこと』国際協力推進協会
  • 『歴史としての日米関係・日米同盟の成功』サイマル出版会 ISBN 4-377-30938-2
  • 『先進国サミット・歴史と展望』サイマル出版会 ISBN 4-377-30999-4
  • 『アジアから初のユネスコ事務局長 松浦晃一郎 私の履歴書日本経済新聞出版本部
  • 『Advocacy in a World in Crisis』](英語)
  • 『Focusing on the Future Japan's Global Role in a Changing World』](英語)
  • 『Développement et Perspectives des Relations entre le Japon et la France』](フランス語)

賞勲

脚注

関連項目

外部リンク

公職
先代
フェデリコ・マヨール
国際連合教育科学文化機関の旗 ユネスコ事務局長
第8代:1999 - 2009
次代
イリナ・ボコヴァ