岩崎弥之助

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岩崎彌之助
岩崎弥之助(1896年)
生年月日 (1851-02-08) 1851年2月8日
出生地 土佐国安芸郡井ノ口村
没年月日 (1908-03-25) 1908年3月25日(57歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京市本郷区東大病院
出身校 致道館
成達書院
前職 実業家
配偶者 岩崎早苗

在任期間 1885年 - 1893年

選挙区 勅選
在任期間 1890年9月29日[1] - 1891年9月30日

大日本帝国の旗 第4代日本銀行総裁
内閣 第2次松方内閣
第3次伊藤内閣
第1次大隈内閣
在任期間 1896年11月11日 - 1898年10月20日
元首 明治天皇
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アメリカ留学中に恩師エドワード・ホールと。1872年。弥之助は1902年に再訪し、ホール記念図書館に日本コレクションを揃えるための資金として2000ドルを寄付したが、その金はステンドグラスの費用に充てられた[2]

岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日嘉永4年1月8日) - 1908年明治41年)3月25日)は、日本実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。

略歴

岩崎弥次郎美和夫妻の三男[3]として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。

1867年慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校致道館に入学。この時、岩崎家郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。

1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門した。

1872年(明治5年)4月、アメリカに留学。横浜で貿易商をしていたウォルシュ・ホール社(Walsh, Hall and Co.)のウォルシュ家に寄宿し、フランシス・ホール(同社の社員だが創立者のホールとは別人)の兄エドワードが開校し校長をしていたニューヨーク近郊のコネチカット州エリントンにある男子校(Edward Hall's Family School for Boys)に通った[4][5][6]1873年(明治6年)11月に父の弥次郎が急逝し、兄の懇願もあって留学を中断し帰国。1874年(明治7年)の秋、弥太郎夫婦の仲人で後藤象二郎の長女・早苗子と結婚した[7]

敬愛する弥太郎の事業を助けるとともに、明治18年(1885年)2月に弥太郎が死亡してからは2代目総帥として三菱の多角化に尽力。三菱商会に共同運輸会社を合併して日本郵船を誕生させ、帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となった[8]銀行倉庫・地所・造船などの事業を興した。三菱の総帥の座を甥の久弥(弥太郎の長男)に譲った後に第4代日本銀行総裁となった。

栄典

家族・子孫

妻の早苗子

弥之助と早苗子の縁談は後藤象二郎と弥太郎が勝手に取り決めたもので、米国留学中の弥之助には寝耳に水だったが、家柄を優先する当時の世相から、弥之助自身も異存はなかったようである。結婚後は早苗子と共に、元は後藤の家であり、東京湾が見渡せる駿河台東紅梅町の高台の洋館(現在の御茶ノ水駅付近、日立製作所旧本社の辺り)に住み、長女・繁子、長男・小弥太、次男・俊弥、三男・輝弥の3男1女をもうけた。

3男1女はこの洋館で生まれ育ち、このうち息子は3人とも、私邸からお茶の水橋聖橋は未完成)で神田川を渡った向かい側の湯島の丘(現在の東京医科歯科大学湯島キャンパス)にあった、官立東京高等師範学校附属小・中学校(現在の筑波大学附属小学校筑波大学附属中学校・高等学校)に通った。

長男・小弥太は三菱の4代目総帥で、次男・俊弥は旭硝子の創業者。三男・輝弥は分家して子安農園の経営に当たるとともに膨大な鉄道写真を残す。また、長女・繁子は、松方正義の次男で外交官松方正作と結婚した。なお輝弥の次男・英二郎(弥之助の孫でドイツ語学者)は北原白秋の長女と結婚している。また、ベンチャーキャピタルの分野で活動しているキャピタリスト・岩崎俊男とブラジル東山農事社長の岩崎透は弥之助の曾孫にあたる[12]

人物

  • 学問を好み、蔵書家・美術収集家としても知られた。重野安繹を師として漢学を学び、重野の研究を助けるために始めた古典籍収集は、の刊本をはじめとする貴重書の宝庫となっており、これを収蔵するために弥之助が自邸内に設けたのが重野を文庫長とする「静嘉堂文庫」である。
  • 古典籍に加えて書画・茶道具・刀剣などの古美術を多数収集した。これらの収集は長男・小弥太に引き継がれ、昭和15年(1940年)に小弥太が創設した財団法人静嘉堂文庫(東京都世田谷区岡本)に寄付された[13]国宝重要文化財を含む数多くの古典籍と古美術品からなる文庫の所蔵品は、昭和52年(1977年)より一般公開されており、現在では静嘉堂文庫美術館として常設の美術館になっている。
  • 奥ゆかしい人物とされ、岩崎家の歴史をまとめた『岩崎家譜』を自ら編纂した際も、自身にまつわる逸話を一切残さなかった[14]
  • 米国留学中、教育機関に通わない、現地の邦人と極力交際しない、など、独自の理論に基づいて語学力を上達させたという。

脚注

  1. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  2. ^ "Ellington" p21Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005
  3. ^ 『岩崎彌之助傳 (上下)』、上巻p.10 、岩崎家傳記刊行会編纂会刊、1971年/復刊東京大学出版会。1986年。但し次男は夭折しており、三男の弥之助が戸籍上は次男となっている。
  4. ^ "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013
  5. ^ 三菱人物伝「三菱の人ゆかりの人」vol.06 ウォルシュ兄弟三菱グループ公式サイト
  6. ^ "Ellington" p90 Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005
  7. ^ 『岩崎俊彌傳』 故岩崎俊弥氏伝記編纂会、1932年、第二篇 小傳、家系 P177。
  8. ^ 勅選議員は終身となるが、弥之助が登院したのは第1回帝国議会のみである。
  9. ^ 『官報』第1278号「叙任及辞令」1887年9月30日。
  10. ^ 『官報』第1278号「彙報 - 褒章」1887年9月30日。
  11. ^ 『官報』第4594号「叙任及辞令」1898年10月21日。
  12. ^ 岩崎俊男の母は俊弥の三女すなわち弥之助の孫娘で、俊男の父・寿男は俊弥未亡人・八穂の婿養子。また岩崎透は英二郎の長男すなわち輝弥の孫。
  13. ^ 「静嘉堂文庫」で蒐集の図録が出されている。
  14. ^ 『もう一人の「三菱」創業者、岩崎弥之助 企業の真価は二代目で決まる!』、P16 、河合敦、2012年/ソフトバンク新書。

関連項目

登場作品

外部リンク

日本の爵位
先代
岩崎男爵家
(弥之助系)

初代:1896年6月9日 - 1908年3月25日
次代
岩崎小弥太