小幡藩
小幡藩(おばたはん)は、上野国甘楽郡の「小幡領」と呼ばれた地域を治めた藩[1]。17世紀前半に織田氏が入り、17世紀半ば以降は小幡村の小幡陣屋(小幡城。現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に藩庁を置いた。織田氏が7代約150年で転出すると、奥平松平家が入り、廃藩置県まで4代約100年続いた。
藩史
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織田氏の入封まで
「小幡領」は、戦国期に国峰城を拠点とし、西上州に大きな影響を有した国衆小幡氏[2]の支配地となった領域の呼称である。
小田原征伐後に徳川家康が関東に入部すると、小幡領には徳川家康の娘婿・奥平信昌が3万石で入った。信昌は宮崎城(現在の群馬県富岡市宮崎)を居所とした(上野宮崎藩参照)[1]。慶長6年(1601年)3月、前年の関ヶ原の戦いの戦功により、信昌は美濃加納藩10万石に加増移封された。このとき宮崎城は廃城になったとされる。
翌慶長7年(1602年)に、水野忠清が1万石で小幡領に入った[2]。また、甘楽郡東部は慶長15年(1610年)から井伊直孝(白井藩主)の領地となっており、井伊家は福島(現在の甘楽町福島)に陣屋を置いた[2]。水野氏・井伊氏の支配は元和元年(1615年)に終わっており、元和2年(1616年)には永井直勝が小幡領で1万石の加増を受けて入っている[2]。
織田家の治世
元和元年(1615年)7月23日、織田信長の次男・信雄に、大和国宇陀郡3万石と上野国2万石の領地が与えられた[2]。宇陀には信雄自身が入り(大和宇陀藩)、小幡領は信雄の四男・信良に与えられることになり、信良は元和2年(1616年)に福島御殿に入った[2]。小幡藩織田氏は信長の孫であったことから、特別に国主格の待遇を与えられた[3]。
寛永3年(1626年)に信良が没すると、2歳の信昌が跡目を相続し[2]、第2代藩主となった。信雄の命によって、信昌の叔父にあたる織田高長が後見を務めた[2]。この信昌のときに検地が行なわれて藩政の基礎が固められた。小幡村に小幡陣屋が建設され、藩庁が福島から移されたのも信昌の時代である[2]。寛永6年(1629年)に移転が決定され、その後に町割りや水道敷設などが計画・実施され、寛永19年(1642年)に普請が終了して藩庁が移転したとされる[2]。小幡陣屋に隣接して庭園「楽山園」が造営されているが、この庭園については造営時期や作庭者がはっきりしない[2]。『楽山園由来記』によれば元和7年(1621年)に織田信雄が造営したと伝えており[2]、これを信じれば小幡村には藩庁が建設される以前に庭園や別邸があった可能性がある[2]。
信昌の治世末期から財政難が始まり、宝暦5年(1755年)の第5代藩主・織田信右の代には収入が6269両であるのに対して、支出が2倍近くの1万2844両に及んだ。第7代藩主・信邦の代である明和3年(1766年)には、藩財政再建をめぐって重臣間の紛争が生じたが[2]、これをきっかけとして明和4年(1767年)に尊王思想家の山県大弐らが捕らえられた(明和事件)。明和事件に連座して信邦は蟄居処分となり、信邦の跡を継いだ養嗣子・信浮は出羽高畠藩へ移された。このとき、国主格の待遇も廃止された。
奥平松平家の治世
明和4年(1767年)9月に、上野上里見藩主で幕府の若年寄を務めていた松平忠恒(奥平松平家)が2万石で入る。なお、忠恒は織田家と縁戚であり[2]、奥平松平家は奥平信昌の子孫にあたる家である。
奥平松平家の歴代藩主4人は若年寄、寺社奉行、奏者番などを歴任した。しかし藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、寛政11年(1799年)に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果はなかった。藩の借金であるが、天保15年(1844年)には収入に対して借金が10倍近くの7万4032両にまでなっていたと言われている。松平忠恵は若年寄を務めた功績により、嘉永3年(1850)に「城主格」の格式が認められており[2][1]、以後「小幡陣屋」は「小幡城」と呼ばれる[2]。
幕末期には激動の波に飲み込まれて見るべきところもほとんどなく、明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して藩を維持するのが精一杯であった。翌年の版籍奉還で最後の藩主・忠恕は知藩事となり、明治4年の廃藩置県で小幡藩は廃されて小幡県となり、同年10月には群馬県に編入された。
歴代藩主
奥平家
譜代 3万石
- 信昌(のぶまさ)〔従五位下、美作守〕
水野家
譜代 1万石
- 忠清(ただきよ)〔従五位下、隼人正〕
永井家
譜代 1.7万石
- 直勝(なおかつ)〔従五位下、右近大夫〕
織田家
外様 2万石
- 信良(のぶよし)〔従四位下、左少将〕
- 信昌(のぶまさ)〔従四位下、兵部大輔〕
- 信久(のぶひさ)〔従四位下、越前守 侍従〕
- 信就(のぶなり)〔従四位下、美濃守 侍従〕
- 信右(のぶすけ)〔従四位下、兵部大輔〕
- 信富(のぶとみ)〔従五位下、和泉守〕
- 信邦(のぶくに)〔従五位下、美濃守〕
松平(奥平)家
譜代 2万石
藩邸
- 小幡藩織田家の上屋敷は丸の内(現在の千代田区丸の内二丁目)、下屋敷は築地(現在の中央区築地三丁目)にあった。元禄赤穂事件の際、織田家の屋敷を赤穂浪士は避けたルートで引き上げている[4]。
- 小幡藩松平(奥平家)の上屋敷は外桜田にあったが、文久2年(1862年)の忠恵の代には四谷御門内番町(千代田区六番町六丁目)に移された。下屋敷は千駄ヶ谷(現在の渋谷区千駄ヶ谷五丁目)[5]。
幕末の領地
脚注
注釈
出典
関連項目
先代 (上野国) |
行政区の変遷 1617年 - 1871年 (小幡藩→小幡県) |
次代 群馬県(第1次) |