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八九式中戦車

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八九式中戦車(甲型)
マニラに向かって進撃する八九式中戦車
(フィリピン 1941-42)
性能諸元
全長 5.75 m
全幅 2.18 m
全高 2.56 m
重量 11.8t
懸架方式 リーフ式サスペンション
速度 25 km/h
行動距離 140 km
主砲 九〇式57mm戦車砲×1
(砲弾100発)
副武装 九一式6.5mm車載軽機×2
(銃弾2750発)
装甲 最大17 mm
エンジン ダイムラー
水冷直列6気筒ガソリン
105 hp/1,400 rpm
118 hp/1,600 rpm
乗員 4 名
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八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)とは日本陸軍初の国産制式戦車である。

歴史

先の試製1号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製1号戦車が20 t近い大重量となってしまったために、新たに10 t級の軽戦車を開発することを決定した。

試製1号戦車の成果を元に、1927年(昭和2年)に輸入したイギリスビッカースC型中戦車を参考・模倣・改良して開発された。

開発は1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決まり、同年8月に概略設計図面ができあがり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され、1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。試作車は以後、秘匿呼称のイ号とも呼ばれた。以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機にて行われた。1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所神戸製鋼所汽車製造株式会社も生産に関わるようになった。

試作車の完成年を皇紀で表した皇紀2589年から、1929年(昭和4年)10月八九式軽戦車として仮制式化された。

最初の試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えたために1934年(昭和9年)に中戦車に再分類され、八九式中戦車と呼ばれるようになった。この改修によって機動性は悪化してしまっている。

後の九七式中戦車 チハの頃から2文字の秘匿名称を付けるようになり、さかのぼって八九式中戦車にも付けられた。甲型はチイ、乙型はチロとされている。この「チ」は中戦車(ュウセンシャ)、「イ」はイロハ順で一番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に現場でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。

生産数は甲型が220両、乙型が184両以上である。八九式中戦車は1939年(昭和14年)まで生産された。

設計

車体

前期生産車は水冷ガソリンエンジンを搭載していたが、ガソリン節約などのため、後期生産車では空冷ディーゼルエンジンに変更された。後にガソリンエンジン搭載型は甲型、ディーゼルエンジン搭載型は乙型と分類された。

前期型車体と後期型車体の形状は、全く別物と言ってもいい程、異なった物になっている。甲乙の分類はエンジンの違いによる区分であり、これは必ずしも前期後期の車体形状の違いと一致しない。

日本軍の機密保持が徹底していた為、諸外国では形状が変化した後期型車体の八九式を、新型の九四式中戦車であると誤って認識していた。これは後期型車体が登場したのが1933年(昭和8年)からで、一般に知られるようになったのが1934年(昭和9年)皇紀2594年だからである。

南方での運用を想定して設計されたので、外からの断熱のために戦闘室と砲塔にアスベストの内貼りが施されていた。戦闘室と機関室はアスベスト加工板の中央隔壁で仕切られていた。隔壁の中央には戦闘室と機関室を通じる連絡扉(アクセスハッチ)があった。乗員はこの連絡扉を潜って機関室に入り、エンジンや各機器の整備や調整をすることができた。

機関室右側には上下に並んだ風扇(シロッコファン)があり、エンジンの冷却と戦闘室の換気を行った。換気は連絡扉や車体各部の窓を開けて行った。開けずに砲撃を行うと一酸化炭素中毒になることがあった。

起動電動機(セルモーター)が付いていたが、補助用に戦闘室側隔壁に人力始動装置用ハンドルが付いていた。乙型ではハンドルは廃止された。

車体左袖部(ゆうぶ、車体側面の張り出し部分)最後部に水タンクが設置してあり、水冷ガソリンエンジンの予備冷却水にする他に、乗員用の飲料水にした。戦闘室後部左側に蛇口がある。各型に共通する装備であり、空冷ディーゼルエンジン搭載の乙型では純粋な飲料用であった。

エンジン

歩兵を乗せて行軍中の八九式中戦車。バターンでの作戦

甲型の水冷ガソリンエンジンはダイムラー社が開発した航空機用水冷直列6気筒100馬力ガソリンエンジンを戦車用に転用した物である。これはタウベに搭載された物と同系列で、日本では東京砲兵工廠1916年(大正5年)にダ式六型の名称で国産化され、モ式六型偵察機に搭載された。1917年(大正6年)に東京砲兵工廠は東京瓦斯電気工業(後のいすゞ自動車)と日本製鋼所に航空機用発動機を試作発注した。1918年(大正7年)に東京瓦斯電気工業ではダ式一〇〇馬力発動機という名称で製造された。日本製鋼所室蘭工業所でも室0号が製造された。これらは日本国内の民間工場初の航空機用エンジンの製造でもあった。日本製鋼所は採算が取れなかったために、わずか20基の生産で航空機用エンジンの生産事業から撤退した。後に室0号は戦車用エンジン開発の参考用に陸軍に譲渡された。以後の戦車用エンジンとしての量産は東京瓦斯電気工業で行われた。

乙型の空冷ディーゼルエンジンの搭載は車体形状の変更より遅れ、三菱1932年(昭和7年)から、アメリカのフランクリン社製「シリーズ15」空冷直列6気筒ガソリンエンジンや、イギリスのデ・ハビランド社製「ジプシーI」空冷直列4気筒ガソリンエンジンを参考に開発を開始し、最初の試作空冷ディーゼルエンジンが1933年(昭和8年)末に完成、1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)頃から、車体に搭載され、耐寒試験、実用試験、耐久試験を行い、エンジンに改良を加え1936年(昭和11年)に社内記号「三菱A六一五〇VD」(「イ号機」とも呼ばれる)は制式採用となった。六一五〇とは6気筒150馬力を意味する(「三菱A六一二〇VD」もしくは「三菱A六一二〇VDb」とする説もある)。重量は650Kgと重くなったが、大きさは水冷ガソリンエンジンとほとんど変わらなかったので、車体形状を変更することなく、巧く換装することができた。

八九式中戦車乙型は、ポーランド7TPと並んで、世界初のディーゼルエンジン搭載戦車である。

空冷ディーゼルエンジンは、燃費が良く、圧縮による自己着火なので点火プラグなどの電装系と、空冷なので冷却水循環配管を省略でき、故に整備性が高く、燃料が軽油なので攻撃や事故で損傷した際に火災になりにくく(実際にノモンハン事件では火炎瓶攻撃により炎上するガソリンエンジン装備のソ連軍戦車が続出した)、冷却水の調達(水が凍る厳冬地では困難だった)が不要で、冷却水が凍ることがないので厳冬地でエンジンが破損しない、などが利点だった。

反面、潤滑オイルを多く消費し、排煙、騒音、振動なども酷かった。また始動が難しく、冬の満州では車体の下に穴を掘り、そこで焚き火をしてエンジンを温めて始動させていた。

一般に同一馬力あたりでは、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに対して大きくて重く、日本のディーゼルエンジンはそれが特に顕著だった。そのためこれを採用した日本の戦闘車輌は、限られた車内空間と積載可能重量を、大きくて重くて低出力のディーゼルエンジンが占めるため、狭い居住性、薄い装甲、貧弱な武装、走行性能の悪化など、様々な面で制約を受けた。また実戦経験に基づいた武装や装甲の強化といった改修を求める意見に対しても車体に余裕が無いため、僅かな改善や能力向上しかできない結果に繋がった。

武装

本車は歩兵直協用途に開発され、機関銃陣地撲滅を目標としていたため、搭載砲は対戦車戦闘などを想定していない短砲身砲であった。初期には元々試製1号戦車用に開発された「試製57mm戦車砲」を、後に試製57mm戦車砲を改修した、18.4口径の「九〇式五糎七戦車砲」を装備した。砲塔旋回は人力で、砲塔旋回用ハンドルを回して行う。砲塔の種類は、試作型砲塔、旧型砲塔、新型砲塔に大きく分類される。

照準器の照準距離は500mまでで固定目標限定であった一方、砲の方向射界(左右旋回)の微調整と高低射界(俯仰)の全範囲は砲手の肩付操作で行うことから、ハンドル操作で行うよりもかなり照準は早く、空薬莢も自動排莢され、右片手で弾薬装填を行うので連続射撃もでき、徐行中であれば行進間射撃も可能であった。しかし徹甲弾の貫徹力は、25mm(射距離100m)、20mm以下(射距離500m)と小さかった。

なお一部の八九式は短砲身57mm砲ではなく口径37mmの改造狙撃砲を装備していた(第一次上海事変に参加した5輌など)。

また九〇式戦車砲の替わりに、車載用に改造した三年式機関銃を主武装として旧型砲塔前部に装備した、機関銃装備型の八九式甲初期型が存在した。その車輌の砲塔後部に機関銃は装備されていない。

副武装として、初期には保弾板給弾方式の改造三年式機関銃を、後に改造十一年式軽機関銃を経て、十一年式軽機関銃を車載用に改造した、弾倉給弾方式の九一式車載機関銃を、車体前面と砲塔後面に装備した。

初陣の満州事変以降、中国大陸に於ける戦いでは攻撃力不足が問題となるような深刻な脅威にぶつかることはなかった。むしろ中国大陸に於ける本車への最大の不満はその低い機動力であった。これは、大陸におけるほとんどの戦いが「追撃戦」の様相を呈していたからである。この反省が機動力を重視した九五式軽戦車の開発に繋がった。しかし、後のノモンハン事件太平洋戦争では対戦車戦闘能力の欠如が問題となった。

装甲

日本製鋼所が1924年(大正13年)に開発したニセコ鋼板を採用した。表面浸炭処理をしたニッケル・クローム鋼で、防弾鋼板の他、船舶部品の素材としても使われた。ニセコの名称は公式には日本製鋼所の略であるが、それと同時に、ニッケル・クローム鋼と、日本製鋼所室蘭工場近くの地名であるニセコとをかけたトリプルミーニングである。

溶接技術の発達していない時期の開発のため、本車の装甲板はフレームにリベットで接合されていたが、これは装甲板をリベットによって接合する各国の戦車に共通の問題として防御上好ましいものではなかった。リベット接合の場合、リベットの頭に被弾すると残りの部分が弾け飛び、車内を跳ね回って乗員を傷つける危険性が高かった。

装甲厚は、車体前面が17mm、車体側面上部と車体後面(一部は12mm)が15mm、車体側面下部が12mm+増加装甲3mm、車体下面が5mm、車体上面が10mm、砲塔周囲が17mm、砲塔上面が10mm、である。数百mの距離からの口径37mmの歩兵砲対戦車砲ではないことに注意)の射撃に抗堪できる装甲厚とされた。

走行装置

これより後の日本戦車が車体前方に起動輪(スプロケットホイール)があるのとは異なり、本車は起動輪が車体後方にある後輪駆動方式である。しかし動力伝達機構がコの字型と、複雑な配置であった(車体後部左側に縦に配置された直列エンジンから出力軸が前方に出て、右に曲がって、さらに後方に曲がって、車体後部中央のクラッチ変速機に繋がっていた)。また履帯外れ防止用に誘導輪(アイドラーホイール)にも歯があった。

車体下部側面には装甲板(懸架框、けんかきょう)があり、リーフ式サスペンションを守る役目の他、誘導輪と起動輪を挟み込むように支えていた。上部支持輪(リターン・ローラー)とフェンダーは装甲板から伸びる支持架で支えられていた。

転輪は小型の物が9個(4個で1組が2組、最前部の1個は衝撃緩衝用に独立した制衝転輪)、上部転輪は前期型で5個、後期型で4個あった。

履帯は、甲極初期型では履板のピッチ(縦幅)の長い、製の初期型履帯を装着していたが、それ以後は、1930年(昭和5年)に輸入したヴィッカース6t戦車の履帯を参考に、1932年(昭和7年)頃に小松製作所が開発(技術導入)した、履板のピッチの短い、ハイマンガン鋼(マンガンを高含有する鋼)製の、(後から加工するのが困難なため)精密鋳造された、後期型履帯を装着していた。ハイマンガン鋼製履帯は鋼製履帯に比べ、高い耐磨耗性をもち、以後の日本戦車の履帯の標準となった。また履板の形状にもいくつかのヴァリエーションがあった。

履帯の片側の履板の枚数は、ピッチの長い初期型履帯が50枚、ピッチの短い後期型履帯が74枚、後期型懸架装置に変更された甲中期型後期仕様以後では81枚であった。

甲中期型以降の車体後部にはルノー FTに見られるような尾体(尾橇、ソリ)が付いていた。これは車体の全長を長くすることで塹壕を越える際に落ち込むことを防ぐ以外に土手を登る際に後転するのを防ぐ意味がある。これにより超壕能力が2mから2.5mになった。しかし実際にはあまり役に立たず、荷物置き場として使われていた。乗員や歩兵には重宝され好評だった。また付いていない車輌も存在した。

甲型と乙型

エンジンが変更された当時から、八九式中戦車は「ガソリンエンジン搭載型を甲型、ディーゼルエンジン搭載型を乙型」としてエンジンを中心に区分されていた。

従来、世間では、エンジン変更の際、同時に車体形状が変化したと思われていたので、「甲型(ガソリンエンジン搭載型)は前期型車体(甲型車体と一般に呼ばれる)であり、乙型(ディーゼルエンジン搭載型)は後期型車体(乙型車体と一般に呼ばれる)である」と、エンジンと車体形状が対応して一致していると思われていた。そのため甲乙といえばエンジンの種類だけでなく、同時に車体形状の型を意味していた。

ところが一見車体形状が乙型でありながらガソリンエンジンを搭載していた八九式が多数存在したことが判明し、エンジンと車体形状が必ずしも対応していないことが知られるようになった。この場合エンジンを中心にした従来の区分だと、この八九式は乙型ではなく、甲型(ガソリンエンジン搭載型)の後期型車体に分類される。これは車体変更が1933年(昭和8年)からであり、エンジン変更が1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)頃からと、ずれがあるためである。

前期型車体(甲型車体)と後期型車体(乙型車体)の違い

  • 前期型では車体正面の傾斜角度が途中で折れて変わっているが、後期型では同一平面になっている。
  • 前期型では操縦手席が車体左側で機銃手席が車体右側に並んでいたが、後期型では操縦手席と機銃手席の位置が入れ替わっている。そのため前方機銃や乗降扉と、操縦手用視察窓の位置も左右入れ替わっている。
  • 操縦手が外部視察に使う回転展望窓(ストロボスコープ)の、モーターで回転する円形の板が、前期型の放射状のスリットから細かい穴開き状に変更されている。また板が露出した部分が円形から、上半分を装甲で覆い半円形になっている。
  • 前期型では車体側面両側に2つあった前照灯が、後期型では正面中央寄りに1つ埋め込み式に蓋付きで装備している。
  • 後期型には尾体(尾橇、ソリ)が付いている。
  • 後期型では超壕能力を増すために、車体前方にある誘導輪(アイドラーホイール)が前方に50cm程突出している。
  • 後期型では前期型より、地上と車体のクリアランスが15cm程高くなっている。
  • 後期型では側方視察用の窓が車体左右袖部前部に設けられている。
  • 前期型砲塔は前面が曲面だが、後期型は平面になっている。
  • 前期型砲塔には小型のトルコ帽型車長展望塔がついているが、後期型ではハッチ付きの大型車長展望塔(キューポラ)になっている。
  • 車体左右袖部の燃料・水タンクの上面にある蓋の、位置や数が異なる。給油口蓋は、前期型では右5個左2個、後期型では右4個左3個、乙型では廃止。給水口蓋は、各型左袖部最後部に1個。

車体形状の分類と変遷

近年の研究成果の蓄積により、従来大雑把に甲型(前期型車体、前面がくの字)・乙型(後期型車体、前面が一枚板)の2つに分類されてきた認識は、今では大きく変化した。現在では、試作車および大きく4つに分類される。以下に各型の特徴と変遷を記す。またこれらの特徴は厳密に区分されるものではなく、それぞれの特徴が混ざった車輌が存在する。

試作車

水冷ガソリンエンジン搭載型。操縦手席が車体左側、機銃手席が車体右側にある。操縦主席前面は操縦手フードが突出している。機銃主席前面は一枚板である。乗降用前扉は車体前面右側にあり、車体中央向きに開く。試作型砲塔を搭載している。回転展望窓(ストロボスコープ)が砲塔左右両側にある。砲塔の回転展望窓は手動式。展望塔は無い。前期型懸架装置。試製五糎七戦車砲と改造三年式機関銃を装備。機関銃の銃身は剥き出しで防弾器は付いていない。フェンダー(泥除け)支持架は前が2本、後ろが3本。給水口蓋は、各型左袖部上面最後部に1個。

甲初期型

生産開始から1933年(昭和8年)半ばまでの仕様。水冷ガソリンエンジン搭載型。車体前面が大きく変化し、途中で傾斜角度の変わる、くの字型になる。旧型砲塔。トルコ帽型展望塔の設置。砲塔上面の乗降用ハッチは左右に二分割。旧型砲塔に大型展望塔が付いた物もある。砲塔右側の回転展望窓の廃止。初期型車体に後から新型砲塔を搭載した車輌もある。前期型懸架装置。乗降用前扉は上下二分割で車体右向きに開く。操縦手用の視察扉の回転展望窓は車体左寄りである。大型前照灯が車体前部左右に設置されている。九〇式五糎七戦車砲と改造三年式機関銃(後に九一式車載機関銃)を装備。一部車輌は37mm改造狙撃砲を装備。生産途中から機関銃の銃身に防弾器が追加される。遡って尾体(尾橇)と気化器(キャブレター)用空気取り入れ口を設置した車輌がある。車体左右袖部上面の給油口蓋は、右5個左2個。甲極初期型は履板のピッチ(縦幅)が長い、製の初期型履帯を装備している。1932年(昭和7年)以後は履板のピッチが短い、ハイマンガン鋼製の後期型履帯を装備している。

甲中期型

1933年(昭和8年)後期から1934年(昭和9年)頃までの仕様。甲中期型は、甲初期型から甲後期型への過渡期であり、生産数は少ないとされる。水冷ガソリンエンジン搭載型。車体前面が大きく変化し、傾斜した一枚板になる。乗降用前扉は一枚板になり、車体右向きに開く。操縦手用の視察扉の形状がブロック状になる。視察扉の回転展望窓は車体中央寄りになる。側方視察用の窓が車体左右袖部(ゆうぶ、車体側面の張り出し部分)前部に設けられる。車体右袖部前部に拳銃孔(ピストルポート)と覘視孔が設置される。車体左右袖部上面の給油口蓋は、右5個左2個。車体前面中央に小型前照灯(明暗二段階切り替え式)を装甲蓋付きの格納式に設置する。フェンダー支持架の廃止。超壕用の尾体が装備される。尾橇が無い車輌もある。車体後部上面に気化器用空気取り入れ口が設置される。九〇式五糎七戦車砲と九一式車載機関銃を装備。車体銃の基部に装甲被(カバー)が追加される。マフラー基部に防弾板が追加される。前部フェンダーに補強板が追加される。甲中期型は、砲塔と懸架装置によって、前期仕様と後期仕様にさらに分類される。

  • 甲中期型前期仕様

旧型砲塔。前期型懸架装置。旧型砲塔に大型展望塔が付いた物もある。

  • 甲中期型後期仕様

新型砲塔。砲塔前面が平らになる。大型展望塔が設置される。大型展望塔は前後に二分割のハッチを持つ。砲塔左側の回転展望窓は廃止される。後期型懸架装置。後期型懸架装置では、超壕能力を高めるために誘導輪が前方に50cm突出する。またサスペンション取り付け位置が15cm下げられ、車体下面と地表とのクリアランスが広くなる。上部転輪(リターン・ローラー)が5個から4個になる。また上部転輪支持架が廃止され、上部転輪が片持ち式になる。

甲後期型

1934年(昭和9年)頃からの仕様。水冷ガソリンエンジン搭載型。新型砲塔。後期型懸架装置。操縦手席と視察扉を車体右側に移設し、換わりに車体左側に機銃手席と機関銃と車体左向きに開く乗降用前扉が設置される。新型砲塔に高射具が設置される。砲塔前面と車体前面に増加装甲を施した車輌がある。車体前面装甲板は中央で左右二分割。車体左袖部前部に拳銃孔と覘視孔が設置される(右は廃止)。起動電動機(セルモーター)の強化に伴い、車体後面(尾体の付け根)に蓄電池収納箱が増設される。それに伴い車体後部上面に点検扉が設置される。マフラーの排気口は円筒形。車体左右袖部上面の給油口蓋は右4個左3個。

乙型

八九式中戦車の最終型である。空冷ディーゼルエンジン搭載型。これにより機関室右側の放熱函(ラジエーター)が不要になり、そこに車体左右袖部の燃料タンクを移設する。代わりに機関室内にあった蓄電池と滑油タンクを車体左右袖部に移設する。車体左右袖部上面の給油口蓋が廃止される。車体後部上面右側に燃料補給口蓋が主・副2つ設置される。車体右袖部最後部上面に滑油補給口蓋が1個設置される。新型砲塔。後期型懸架装置。車体左右袖部前部に拳銃孔と覘視孔が設置される。エンジンの真上の冷却用空気排出鎧窓にヒンジが設けられ、左に開くようになる。シロッコファン(風扇)真上の冷却用空気排出鎧窓が廃止される。シロッコファンと空冷ディーゼルエンジンが風洞で繋がれる。車体後部斜面中央の点検扉が大型になる。車体後部上面の冷却水補給口蓋と滑油補給口蓋が廃止される。車体後部上面の気化器用空気取り入れ口と点検扉が廃止される。後部フェンダーが延長される。マフラーの防護枠が変更される。マフラーの排気口は平たく潰れた三角形。これらが乙型を見分ける特徴である。

八九式中戦車(乙型)
走行可能な状態に修復された八九式中戦車乙型
性能諸元
全長 5.75 m
全幅 2.18 m
全高 2.56 m
重量 12.1 t
懸架方式 リーフ式サスペンション
速度 25 km/h
行動距離 170km
主砲 九〇式57mm戦車砲×1
(砲弾100発)
副武装 九一式6.5mm車載軽機×2
(銃弾2750発)
装甲 最大17mm
エンジン 三菱A六一五〇VD 空冷直列6気筒ディーゼル
120 hp/1,400 rpm
135 hp/2,000 rpm
乗員 4 名
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戦歴

本車は1931年(昭和6年)の満州事変で初陣を経験した。百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17軽戦車やルノーNC型戦車の置き換えとして配備された。

1932年(昭和7年)に勃発した第一次上海事変では重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。また同隊にはルノーNC型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた(が、当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子」と報じられるようになる)。しかし、中国側の精鋭第19路軍の激しい抵抗と、網目のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。

1933年(昭和8年)に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺身隊に加わったが、本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速な九二式重装甲車に奪われた。この作戦では日本初の戦車単独による夜襲なども行われている。

初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年(昭和14年)のノモンハン事件においては、日本側の中戦車の主力として戦った。この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。特に主砲の貫徹力が低すぎて、敵戦車を破壊するのが困難であった。そのため、後継の九七式中戦車では対戦車能力を向上させる改良が行われた。(主砲を四七mmに換装した新砲塔チハや、九〇式野砲を搭載した一式砲戦車三式中戦車など)。しかし、日本は工業力が低く、十分な数の火砲を供給できなかった。特に九〇式のような自縛砲や対戦車転用可能な高射砲の製造能力は慢性的に不足しており、それらを搭載した車両の増産が困難であった。後継戦車ですらそのような状態であるから、八九式の改良は放置され、低い対戦車能力のまま太平洋戦争を戦うことになる。

太平洋戦争では、九七式中戦車への更新が進み、主力の地位を退きつつあった。序盤のフィリピン攻略戦 に参加したが、同地にあったアメリカ軍のM3スチュアート軽戦車には歯が立たなかった。ちなみに本車は「中戦車」と呼ばれるものの、M3スチュアート「軽戦車」より軽く(M3は12.4t)、装甲防御力は雲泥の差がある(M3は正面44mm、本車は17mm)。それでも戦争末期のルソン島防衛戦の際には、戦車不足のため、既に引退していた本車までもかき集められ戦闘に参加している。

西住戦車長

西住小次郎と、彼の乗車していた戦車。

本車は「軍神」として有名になった西住小次郎中尉の乗車でもある。彼は戦車第5大隊配下の戦車小隊長として、1937年(昭和12年)の第二次上海事変から徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日に流れ弾に当たって戦死するまでの間、30回以上の戦闘に参加した。彼の死後、多数の被弾痕の残る戦車が日本本土で展示された。また菊池寛による小説「西住戦車長伝」が東京日日新聞大阪毎日新聞に連載され、1940年(昭和15年)には松竹により映画化、上原謙が西住役として主演している。 司馬遼太郎も戦後に「軍神・西住戦車長」という小説を発表しているが、こちらでは「西住は取り立てて才能のない、従順そのものの少年であった」としており、西住を「軍神」としてではなく、当たり前の人間として扱っている。

現存車両

アバディーン戦車博物館の甲後期型
  • 乙型が陸上自衛隊土浦駐屯地に保管されている。現存する乙型は世界にこの1輌のみである。最近になって自走できるようにレストアされ2007年(平成19年)10月14日の同駐屯地祭でお披露目された。エンジンや電気系統など現代の物を使用しており軽快に走る。砲身は木製の精巧なダミーであるが上下に可動する。砲塔前面の増加装甲が再現されている。