三式中戦車
| 性能諸元 | |
|---|---|
| 全長 | 5.731 m |
| 全幅 | 2.334 m |
| 全高 | 2.61 m |
| 重量 | 18.8 t |
| 懸架方式 | 独立懸架および 平衡式連動懸架 |
| 速度 | 38.8 km/h |
| 行動距離 | 210 km、または300km |
| 主砲 | 三式七糎半戦車砲II型(口径75mm・38口径)×1 (弾薬搭載量 70発) |
| 副武装 | 九七式車載重機関銃(口径7.7mm)×1 (弾薬搭載量 3,670発) |
| 装甲 | (砲塔) 前面50mm 側面前部35mm 側面後部25mm 後面25mm 上面10mm (車体) 前面50mm 側面25mm 後面20mm 上面12mm 下面8mm |
| エンジン | 統制型一〇〇式 空冷4ストロークV型12気筒 ディーゼルエンジン 240hp |
| 乗員 | 5名 |
三式中戦車 チヌ(さんしきちゅうせんしゃ -)は、第二次世界大戦後期に登場した大日本帝国陸軍の中戦車。
目次 |
[編集] 開発
太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦、南方作戦・ビルマ攻略戦やフィリピン攻略戦で苦戦を強いられたM3軽戦車に対しては、一式四十七粍戦車砲を搭載した九七式中戦車改 チハ新砲塔と一式中戦車 チヘの実用化により対抗できるようになったが、アメリカ軍はより強力なM4中戦車を大量に配備した。そのため、これに対抗する新鋭戦車が必要となっていたが、新型の四式中戦車 チトと五式中戦車 チリは開発中で量産はまだ先のことだった。そこで1944年(昭和19年)5月に、一式中戦車の武装を更に強化した三式中戦車が開発されることになった。試作車は1944年9月に三菱重工で完成し、10月に量産に移された。
早急な戦力化が要求されたため改装は必要最小限に留められており、これによって短期間での開発が可能となったが、大型野砲が原型の戦車砲を搭載したため、駐退復座機の砲塔外への露出や、砲塔が車体と比べて過大になる等の不利な点が生じた。
[編集] 構造
構造はオーソドックスに全装軌式車体へ砲塔を搭載している。車体は一式中戦車のものを使用。各寸度は全長5.731m、全幅2.334m、全高2.61mである。全備重量18.8tの車体を支える履帯は330mm幅のものを連結し、接地圧は0.7kg/平方cmである。車体後部にディーゼルエンジンを配置し、プロペラシャフトを介して動力を車体前部のトランスミッションに伝達する。トランスミッションはクラッチ・ブレーキ、または遊星歯車式の操向方式を採用した。トランスミッションに組み込まれたブレーキを点検するための窓が、車体前面の上部装甲板に2カ所設けられている。またトランスミッションはこの上部装甲板のボルトを取り外し、ウィンチで吊りあげて収める。
操縦はハンドル方式ではなくレバー方式である。操縦手からみて前方右側からアクセルペダル、ブレーキペダル、クラッチペダルが並び、両足の間に手動制動レバーが配置される。手で操作するものとして右側操向レバーと制動レバー、左側操向レバーと制動レバーが配置された。計器類は座席右側の壁に配置された。
このトランスミッションの後方、車体前部右側に操縦席を配し、左側に前方銃手席を配置した。搭載砲塔の大型化により、一式中戦車で設けられていた銃手用ハッチは廃止された。操縦席前面の操縦手用バイザーは上方へ押し上げて開放でき、外界をより広い視界で見られる。前方銃手席の機銃下方には無線機および無線機バッテリーが設置される。
車体・走行装置は一式中戦車のものが使用されている。前方に起動輪、最後部に誘導輪を配し、転輪は片側6個を用いている。さらに上部転輪3個で履帯を支えた。懸架方式は日本独自の蔓巻バネ方式である。転輪を二個一組として揺腕で接続し、この転輪から伝えられる衝撃を揺腕がバネへ伝達する。バネは水平方向に取り付けられており衝撃を緩和吸収する。これはトーションバーのように床下のスペースを消費せず、また地形追従性能が高い懸架方式であった。誘導輪の基部に履帯のテンションを調節する履帯緊張装置が取り付けられている。
砲塔は全体として六角形を構成している。圧延鋼板を組み合わせた平滑で直線的な構成であり、避弾経始はさほど取り入れられていない。砲塔後部側面の両側にピストルポート(銃眼)付きの展望窓が設けられている。また砲塔後面にもハッチが設けられた。砲塔の天井には、後方からみて右側に車長用の展望塔が設置され、その左側にハッチが設けられた。この展望塔には内部に防弾ガラスのはめられたスリット(貼視孔)がついている。スリットは後方と前方の物が特に大きく、視界を意識して設計されている。砲塔内部の乗員配置は後方からみて右側に車長、左側前方に砲手、その後方に装填手が搭乗したと推測される。砲塔バスケットは装備されていないが、砲塔の駆動は電動旋回式である。ほかに手動の旋回装置が車長と砲手用に装備された。大まかな旋回は動力で回し、照準用の微調整は手動で行った。
[編集] 攻撃力
本車が搭載している三式七糎半戦車砲II型(初速668~680m/秒、口径75mm、38口径)は九〇式野砲をベースとしている。砲の設計の変転としては、原型の九〇式野砲を1943年度から一式七糎半自走砲 ホニIへ改修し、さらに三式七糎半戦車砲を経て三式七糎半戦車砲II型になった。三式七糎半戦車砲II型の開発開始は1944年6月、試作終了は同年8月である。自走砲の搭載砲と異なり、砲塔に直接搭載するため、砲から方向旋回装置が撤去されたほか、砲架、高低照準器を新たに設計した。改修時間の少なさから野砲の構造をほぼそのまま転用したため、駐退復座機を収めている揺架匡(ようかきょう)と揺架体が砲塔から大きく突き出している。砲の俯仰は高低照準器ハンドルを砲手が回し、ギアを介して砲身が上向き、また下向いた。他にユニークな点として砲手が発射装置を持たず、戦車長が拉縄(らじょう)を引いて撃発することが挙げられる。照準は一式照準眼鏡甲を砲手が観測し、方向と砲の俯仰を決め、発射は戦車長が担当するという、変則的な作業であった。これには指揮官が索敵と指揮に専念することを妨げるほか、動目標に対するタイミングを砲手が取れないという問題がある。また尾栓は水平鎖栓式で自走砲のものと変わらない。携行砲弾は70発で、30発は戦闘室の床下、40発は砲塔の張り出し部に搭載した。
貫通性能は距離1,000mで装甲75mm、距離500mで80mmを貫通した。ただし当時の連合軍側、またドイツ軍の戦車が装備していた砲と比較して威力不足の感は否めない。徹甲弾特甲を使用した場合には距離1,000mで装甲80mm、また距離500mで100mmを貫通した。一説では徹甲弾特甲はノイマン効果を使用したタ弾とも言われるが、明確な資料は発見されていない[1]。
本砲は、当時のアメリカ軍主力戦車であるM4中戦車の装甲が砲塔前面で76mmに達し、また鋳造製造(装甲の繋ぎ目がない)、車体前面が約50度傾斜している(避弾経始を考慮)ことから、実戦ではおよそ100m(存速500m/秒)でこれを貫通できると考えられていた。数値上は正面600mから貫通可能であるが、跳弾の可能性が高い。バイザー部分は斜度が緩く、数値上は800mから撃破可能である。M4中戦車の側面に関しては2,000mから貫通でき、砲塔側面も距離1,600mから破壊できた。
正面からの戦闘を想定すれば、M4中戦車に対して威力不足である[2]。三式中戦車もM4中戦車もフランスのシュナイダー社の75mm野砲の発展・改良型を搭載していたが、戦車用に改良されたM4中戦車の物に比べ、三式中戦車の物は改良する時間が無かったため九〇式野砲ほぼそのままであり、駐退復座機の露出、水平鎖栓や撃発装置の位置を適正化しない、砲塔の大型化といった問題点があった。また冶金技術の遅れや、高価な材質を使えない経済的事情から徹甲弾の性能でも大きく劣っていた。アメリカ軍の砲弾はクロム1%、モリブデン0.2%、ほか少量のニッケルを含有した高炭素鋼を使用した。日本側の砲弾は炭素0.5%から0.75%を含む鋼を搾出して成形、これを蛋形に加工した後に熱処理して硬化した。さらに内部に炸薬を充填した。
また、砲の駐退制御に発射ガスを用いていたが三式中戦車には換気扇が装備されておらず、このため、戦闘時に密閉状態で射撃を行うと砲塔にガスが溜まり砲手の目を痛めたり、鼻血が出るなど戦闘継続が困難になる可能性があった[3]。
命中率に関し、1945年(昭和20年)3月9日に富士演習場で行われた実弾射撃訓練では、距離3,000mから畳一枚分の面積を狙い、初弾を命中させた。この精度に乗員が驚いている。それまでの日本軍戦車砲は口径が小さく、砲命中公算表の数値では、一式四十七粍戦車砲の場合は1,300m以遠で命中率20%を切り、九七式五糎七戦車砲では800m以遠で命中率20%を切った。従って当時の日本陸軍の常識としては非常に高精度であった。
本車は戦車砲と双連の同軸機銃を持たないが、車体前方機銃として口径7.7mmの九七式車載重機関銃を1挺備える(携行弾薬3,680発)。
[編集] 防御力
組み立ては全面溶接が採用され、砲塔の装甲は前面50mm、側面前部が35mm、側面後部が25mm、後面が25mm、上面は10mmの厚さがあった。車体は一式中戦車のものと同様であり装甲は前面50mm、側面25mm、後面20mm、上面12mm、底面は8mmの厚さがあった。装甲の配置の様式はソ連赤軍のT-34またはドイツ軍のパンターのように避弾経始を大きくとりいれたものではなく、また操縦手席のバイザーが可動式であること、車体前面部分に2ヶ所の点検窓が設けられていることなども、耐弾性からみて好ましくない構造である。またこの部分にはトランスミッションを収める関係上、鋲接が用いられており、耐弾力に劣る。
防御力は一式中戦車と同等(前面50mm)だったが、M4中戦車の75/76mm砲に耐えられるものではなかった。そのため四式中戦車生産用の資材を流用して、前面装甲を強化する案も存在した。
エンジンはディーゼルであり、燃料が被弾しても炎上しにくい特性を持つ。また弾薬の一部、燃料が床下に配置されるなどの考慮がなされていた。
[編集] 機動力
エンジンは統制型一〇〇式空冷V型12気筒ディーゼルエンジンを配置した。排気量は21.7l、最大出力は2,000回転で230馬力、標準的には1,400回転で200馬力を発揮した。携行燃料は335lであり、燃費は100kmで110lを消費した。エンジンの排気は車体後部のフェンダー上に設置されたマフラーから排出された。エンジンの冷却空気は車体袖部に設けられたフェンダーの裏面から排気される。接地圧は0.7kg/平方㎝であった。
本車は信地旋回が可能であり、緩旋回では11.0mの回転半径を有した。
機動性能は、一式中戦車の全重15.5tから18.8tと重量が増加したことにより悪化し、路上最高速度は44km/hから38.8km/hへ低下したが、これは九七式中戦車と同程度であり連合軍の戦車と比較して実用上遜色ない性能である。登坂能力は3分の2、渡渉能力は1mであった。航続能力は210km、または300kmである。
[編集] 戦闘力
1945年4月23日に出された『国軍新兵器便覧』によれば、本車は歩兵戦闘に協同する上で、対戦車戦闘を任務としていた。計画では一式機動四十七粍砲2個中隊、三式中戦車2個中隊、自走砲1個中隊、作業中隊1個を歩兵の作戦と協同させるものである。このうち三式中戦車は攻撃の第一波にあたるのではなく、戦車を投入された場合に逆襲として用いることが企図された。このため本車は陣地の後方へ配置させられることになっていた。直接の歩兵支援は四十七粍砲が担当することとされた。
本車は想定されるM4中戦車との戦闘において、火力と防御力に劣っている。機動力は同等であるが、当時の日本の橋梁や道路などのインフラは貧弱であり、三式中戦車がその18.8tの全重を通過させるには工兵による支援が必要だった。ただし日本軍の工兵器材は不足がちで、重い機甲部隊は運用限界を超える可能性があった。本車はM4中戦車に対し、戦車本来の機動戦闘を行うことは困難(砲の威力が不足し、正面から撃ちあって負ける)である。従って本車の最適な運用はあらかじめいくつかの戦車壕(砲塔だけ出して射撃できる様な土盛り)を作り戦車をダグインさせ、敵戦車を十分ひきつけたのちに射撃開始、敵戦車や航空機からの反撃が来る前に陣地転換し射撃継続、というような「砲戦車」的なものにならざるを得ない(それでも従来の一式砲戦車 ホニIに比べ密閉型の旋回砲塔を持つことから、敵軍の事前砲爆撃からの生残性は比較にならないほど高く、砲が全周旋回することから駆動系に負担を掛けずに砲を指向することができ、有用性は大きく向上している)。
[編集] 生産
三式中戦車は当時量産中の一式中戦車の改良型だったため、量産体制の移行は容易だったが、製造開始時期の遅さ(1944年12月製造開始)もあり第二次大戦終戦までに166輌(1944年に55輌、1945年に111輌)が生産されたに留まっている(生産数については諸説あり、他に60輌説などがある。)。量産は三菱重工、相模陸軍造兵廠、日立製作所などが担当した。これらの工場は被爆を免れて生産を続けた。
[編集] 配備
三式中戦車は、二式砲戦車 ホイや三式砲戦車 ホニIIIなどとともに日本国内の機甲部隊(戦車連隊等)に配備され、本土決戦に備え温存された。そのため、実戦投入された一式砲戦車・四式十五糎自走砲 ホロなどと異なり連合軍と砲火を交える事はついになかった。
主な配備部隊は、独立戦車第4旅団の戦車第19連隊(20輌)、戦車第42連隊(10輌)、独立戦車第5旅団の戦車第18連隊(20輌)、戦車第43連隊(10輌)、独立戦車第6旅団の戦車第37連隊(20輌)、戦車第40連隊(20輌)などである。これらの部隊は敵の上陸の予想される九州地方(オリンピック作戦)に配備された。ほかに、コロネット作戦に対応するため関東地方の戦車第4師団にも配備されている。
終戦に伴い、大半の三式中戦車は連合軍に引き渡され処分されたが、2輌だけが残され、その1輌が茨城県土浦の陸上自衛隊武器学校に八九式中戦車とともに収蔵・展示されている。
[編集] 派生型
[編集] 三式中戦車の改造型
三式中戦車を更に改良した九七式中戦車系列の最終形式である。四式中戦車の開発と配備には相当に時間がかかる見込みであったため、従来のラインにある三式中戦車を改良し、連合軍戦車に正面から対抗できる能力を持たせることが目的であった。
四式中戦車や五式中戦車等に搭載された五式七糎半戦車砲(原型は四式七糎半高射砲)を搭載して攻撃力を更に強化し、溶接を多用することで車体強度も強化されている。また、若干の装甲強化も予定されていた。211号車以後にこの要目で生産される予定だったが、その前に終戦を迎えたため生産されていない。なお、五式戦車砲の搭載方法については四式中戦車の砲塔をそのまま載せるか、従来の三式中戦車の砲塔に搭載する二つの案が考案されていたとされる。三式中戦車の車体に四式中戦車の砲塔を搭載する試験は、1945年3月19日、伊良湖射場で行われた。操作に問題はなく、試験の結果は良好であった。
これらの試験車輛を指す三式中戦車改の呼称は、後世の研究者による便宜的な通称である。
[編集] 脚注
- ^ ノイマン効果を利用した砲弾は一般的に成型炸薬弾と呼称される。タ弾もこの一種である。成型炸薬弾の特徴としては距離に関わらず一定の貫徹力を持つことが挙げられるが、徹甲弾特甲の貫徹力に関するデータはこれに反する。
- ^ 『戦車用法』という教令に、「三式中戦車は六〇〇メートルにおいて、M4戦車の正面を貫通しうるも、命中角の関係上その公算は僅少にして、側面及び背面を攻撃するを要する事多し」と書かれている。
- ^ 連続射撃時は砲塔背面のハッチを開ける必要があった。
[編集] 参考文献
- 『日本の戦車と装甲車輌』(アルゴノート社『PANZER』2000年6月号臨時増刊 No.331) p126~p138
- ガリレオ出版『GROUND POWER』2005年5月号 No.132 特集・日本陸軍三式/四式/五式中戦車
- 大日本絵画『Armour Modelling』2002年9~12月号 Vol.35~38
- 佐賀見謙司(group J-Tank)「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識 第34~37回 再検証・三式中戦車 其の1~4」
- サンデーアート社『PANZER』1996年7月号 No.279 p44~p57
- 古是三春「三式中戦車対M4シャーマン中戦車」
- 『戦車と砲戦車』(学研,[歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.34) p137~p138
- 『日本陸軍一式/三式中戦車と二式砲戦車』グランドパワー12月号、ガリレオ出版、2010年。
[編集] 関連項目
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