特四式内火艇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
特四式内火艇
Type 4 Ka-Tsu.jpg
基礎データ
全長 11.00 m
全幅 3.30 m
全高 2.25 m (車体)
4.05 m (防盾含む)
重量 16 t
乗員数 5 名
装甲・武装
装甲 前面 10 mm (軟鉄)
主武装 45 cm魚雷 × 2
副武装 九三式十三粍機銃 × 2
備考 積載量 4 t
機動力
速度 20 km/h (整地時)
8 km/h (水上)
エンジン 三菱 A六一二〇VDe 空冷直列6気筒ディーゼル × 1
120 hp
行動距離 300 km (水上)
テンプレートを表示

特四式内火艇 カツ(とくよんしきうちびてい/ないかてい カツ)は大日本帝国海軍海軍陸戦隊)の水陸両用装軌車1944年昭和19年/皇紀2604年)に制式採用された(年式は皇紀による)。

性能[編集]

特四式内火艇はそもそも、堀元美技術少佐が、呉海軍工廠造船実験部時代、南方の孤島に物資を輸送するために考案した水防式の無限軌道付きの内火艇である。潜水艦に積んで近くまで行き、後は自力で水中を走り、陸地にはい上がることができる[1]。帝国海軍は上陸作戦用にこの種の車輌を開発しており「特型内火艇」(内火艇とは海軍独特の呼び名で、内燃機関を動力源とする小型艦載艇のこと)と呼称した。基本設計は呉海軍工廠の造船実験部堀元美海軍技術少佐[2]瀬戸内海広島県呉市情島の秘密基地で夜間の特訓を重ね、隊員が増えると対岸の倉橋島大迫地区に移転。約800人が実戦訓練を受けた[3]

本車は、上陸作戦用の大発動艇(大発)が糧食弾薬を運搬する際、波打ち際での揚陸作業中に攻撃を受けて度々被害を出していたことへの対策として発案され、アメリカ軍のLVTの情報を参考としていた。

設計当初構想された運用方法は、夜間に沖合の潜水艦から発進し、夜が明ける前に上陸、砂浜からジャングルの葉陰に移動し隠れる事で敵の攻撃を避けるというものだった。すなわち上陸能力を与えられた運貨艇としての運用が想定されていたといえる。貨物の積載能力は4 t で、LVTと同じく車体自体に浮力を持たせており、他の特型内火艇のような着脱式の舟形フロートは不要である。車体サイズには余裕がありこれが魚雷を搭載した攻撃兵器に転用された理由だと思われる。

潜水艦に搭載されることも考慮されていたため主要部は耐圧構造となっていた。しかし潜水艦からの発進には20分前後を必要とし、複数の潜水艦が敵前浮上して発進させるとなると肉眼はまだしもレーダーの目を逃れることはできず、大きな危険が予想された。また長時間、海中を運ばれてくる本車のエンジンが始動するか疑問であった。このため潜水艦長からは作戦に真っ向から反対され、技術陣からも作戦実行を不安視する意見具申が行われた。さらに潜航時のプロペラシャフト接合部からの油の漏洩が改善できず、位置暴露の原因になりかねなかった。

魚雷発射の試験は問題がなかったものの、特二式内火艇から流用された無限軌道は岩礁に踏み込むと破損しやすく、空冷ディーゼルエンジンは騒音が激しく隠密性も低かった。作戦実行時の潜水艦長に指名されていて、実験にも参加した板倉光馬少佐は、騒音は「まさに戦車が吼えている」感じで、走行性能は「ヒキガエルの王様」だったと評している。

歴史[編集]

呉海軍工廠造船実験部に勤務中の堀元美技術少佐は、ガ島輸送作戦の戦訓から輸送用の水陸両用戦車を考案していた。また、軍令部潜水艦担当作戦課員藤森康男中佐は「このような構想はガ島撤退の直後から従来の正攻法に対しもっと奇襲作戦を考えようというのが出発点で、防潜網を乗り越えて攻撃できないかと考えていた。十八年末ごろ、呉工廠の考案を知り特四式内火艇の実験を行ない一応の成果を得た」という。海軍省軍務局局員吉松田守中佐によれば「ケゼリン来攻直後の朝六時半ごろ、黒島亀人軍令部第二部長に呼び出され、大発に魚雷を積んでリーフを越えて攻撃する案を突然言われた。黒島部長の構想は潜水艦九隻に各二隻ずつ積み奇襲作戦を実施するもので、四隻試作し甲標的の搭乗員を充当し、情島にQ基地を作り訓練を開始した」という。これらの回想から特四式内火艇は藤森部員の発想をマーシャル在泊の米機動部隊攻撃のために黒島亀人部長が取り上げ実験するに至ったものと戦史叢書では推測している[4]

堀元美技術少佐によれば「試作設計した設計図を呉海軍工廠水雷実験部の金庫にしまって置いた時から数か月後に、戦車工場で造らせた特四内火艇が呉海軍工廠砲煩部に来ていた」という[5]

この特四でマーシャル諸島のアメリカ艦隊を攻撃する案は竜巻作戦と呼称され、潜水艦部隊である第六艦隊隷下の第15潜水隊(潜水艦6隻)で検討された。

1944年1月末、アメリカ軍マーシャル諸島への侵攻を開始し、2月上旬には同地区を勢力下に治めた。この攻撃に対する反攻計画として雄作戦が立案された。この作戦で航空作戦とともに竜巻作戦が予定されていた。しかし、海軍乙事件によって雄作戦案は消滅する。

1944年夏に予定されていたあ号作戦計画に取り入れられたが、中止された。4月26日本作戦について中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将は情勢に適応しないとの理由で反対を表明しているが、連合艦隊司令部は既定の計画に従って5月3日「あ」号作戦命令の一部として発令した。しかし、特四式内火艇にエンジンの轟音、低速、キャタピラが小石で破損するなど性能上の欠陥があることが分かり、5月12日本作戦の実施は不可能と判断され、延期になった[6]

現存車両[編集]

魚雷を搭載した車輌。

本車は18輛が生産されたが[3]、最終的には50輛近くが生産されたとする資料もある。

本車のうち唯一現存する一両が、カリフォルニア州のバーストー米海兵隊補給廠(Marine Corps Logistics Base Barstow)に展示されている。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 御田重宝『特攻』講談社314頁
  2. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦431-432頁
  3. ^ a b 朝日新聞』広島版、2011年9月5日付朝刊29面
  4. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦431-432頁
  5. ^ 御田重宝『特攻』講談社317頁
  6. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦432-433頁

参考文献[編集]

  • 堀元美 『潜水艦 その回顧と展望』 原書房、1987年、ISBN 4-562-01855-0
  • 板倉光馬 『あゝ伊号潜水艦』 光人社NF文庫、1993年、ISBN 4-7698-2005-4
  • 北川誠司「帝国陸海軍戦車大全」『月刊アーマーモデリング』2005年5月号、大日本絵画、2005年。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]