四式十五糎自走砲

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四式十五糎自走砲 ホロ
四式自走砲.jpg
性能諸元
全長 5.52 m
車体長 m
全幅 2.33 m
全高 2.36 m
重量 16.3 t
懸架方式 独立懸架および
シーソー式連動懸架
速度 38 km/h
行動距離 200 km
主砲 38式15cm榴弾砲
副武装 無し
装甲 8~25 mm
エンジン 4ストロークV型12気筒
空冷ディーゼル
170馬力

乗員 6 名
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四式十五糎自走砲とは、大日本帝国陸軍(以下陸軍という)の制式自走砲である。第二次世界大戦末期の1944年(=皇紀2604年)に採用され、少数がフィリピン沖縄で使用された。

目次

開発 [編集]

四式自走砲は旧式の三八式十五糎榴弾砲に機動性を持たせて有効活用しようという意図から開発された。モデルとなったのはドイツ軍が運用していたI号自走重歩兵砲グリーレのような15cm sIG33歩兵砲を搭載した自走砲であった。

秘匿名称「ホロ」と名づけられた新型自走砲の開発は1944年(昭和19年)7月に陸軍技術本部で始まり、同年8月には早くも試作車が完成するに至った。三八式榴弾砲は砲架ごと九七式中戦車の車体に搭載され、砲の前面と側面は防盾で覆われていた。防盾は正面でも25mmしかなく、また後方は無防備であるがこの点は本車を防御兵器として使用する観点からあまり問題とされなかった。

本車に搭載された照準器は直接照準射撃が可能なものである。ベースには九七式五糎七戦車砲用の照準眼鏡を用い、焦点鏡目盛を交換した。これは3,000メートルまで照準できる縦目盛と、左右各100ミルの方向目盛が刻まれたものである。間接射撃用として、車長が使う照準眼鏡があった。これは三八式十五糎榴弾砲に装備されていたものであった。

この照準器からも本車は大口径火砲の威力を生かした対戦車戦闘を想定して開発されたことが分かる。ただし砲の方向射界(旋回角)は左右3度しかなく、これは問題であった。高低射界(仰俯角)は-10度~+20度、後座長は590mmであった。砲弾は戦闘室および機関室上部の砲弾箱にそれぞれ搭載された。車内16発と後部車体上の弾薬箱に12発の計28発である。

戦力化 [編集]

開発当時、フィリピンをアメリカ軍との一大決戦場とする「比島決戦」を唱えていた日本陸軍はホロ車を直ちに「四式十五糎自走砲」として制式化し、早急に戦力としてフィリピンに送ることを決定した。三菱重工業で生産が行われ、終戦までに12-25門という比較的少数の生産で終了した。

最初の実戦部隊の編成に当たっては陸軍野戦砲兵学校から要員が選抜され、12月8日に四式自走砲3門を装備する「第1自走砲中隊」(中隊長 鷲見中尉)の編成が行われた。

また、終戦直前に陸軍は来るべき本土決戦に向けて三式砲戦車と四式自走砲を基幹とする独立自走砲10ヶ大隊の整備を構想した。実際に陸軍野戦砲兵学校での要員教育と自走砲の配備が開始されたが、整備が完了しないうちに敗戦となった。四式自走砲は各部隊合計で10門程度が配備された。

四式十五糎自走砲 ホロ 側面

フィリピンにおける四式十五糎自走砲 [編集]

部隊は早急にフィリピンへ送られることとなり、1944年12月22日、ヒ85船団加入の輸送船「青葉山丸」に乗ってフィリピンのルソン島へ向け出発した。「青葉山丸」は12月30日にルソン島サンフェルナンドでの揚陸作業中にアメリカ軍機による空襲を受け、被弾沈没。中隊は自走砲1門と多くの装備品を失ってしまった。なんとか揚陸できた自走砲2門と中隊は第14方面軍直轄の「第十四方面軍仮編自走砲中隊(鷲見隊)」として再編成され、同地の独立戦車第8中隊(九七式中戦車改装備)と共にクラーク地区で飛行場防衛任務に就いた。

独立戦車第8中隊はクラークフィールド飛行場を守備し、鷲見中隊は隣接するクラークマルコット飛行場を防衛するよう命令された。鷲見中隊は途中空襲にあって被害を出したが、1945年1月20日ころ現地へ到着し、警備を開始した。 鷲見中隊の2門の自走砲は飛行場に近い二の谷(一の谷から六の谷まであった)に段列を配置、ここを陣地として飛行場を守備した。段列は空襲による損害を受けておらず、弾薬は豊富であった。第二分隊と第三分隊から成る2門の自走砲は、連日、陣地から飛行場へ出撃し、砲撃を行った。

1月27日、M4中戦車との対戦車戦闘が発生した。激しい砲爆撃の状況で、飛行場は爆煙と吹き上げる土砂に覆われ非常に視界が悪かった。このため自走砲は200mから300mという至近距離での各個戦闘を余儀なくされた。2門の自走砲は砲撃の後に数分で陣地変換し、すぐさま砲撃に移るという機動戦闘を行った。弾種は榴弾である。この戦闘でアメリカ軍の攻撃を撃退したが、鷲見中隊長が胸部を負傷、ほか5名が負傷して中隊の戦力は低下した。

1月29日の午後2時、アメリカ軍は独立戦車第8中隊に対して攻撃発起した。自走砲中隊は守備の援護射撃を命令されたが、戦場は砲爆撃により錯綜、さらに敵観測機が警戒している状況であった。自走砲は爆煙の中で100mから200mほど頻繁に位置を変える機動戦闘を行った。砲煙をすかしての対戦車戦闘の結果、敵戦車7両の撃破が確認された。これは独立戦車第8中隊との共同戦果であった。

同じ1月29日午後6時ごろ、陣地への後退を決意した第2分隊の自走砲はM4戦車3両と遭遇した。幸いなことに自走砲はエンジンを止めており、M4戦車はその存在に気が付いていなかった。搭乗員は進退をどうするべきか決めかねていたが、やがてM4戦車は自走砲の方へと進みはじめ、これを見た第二分隊の自走砲は2発を発砲。全速力で路上を突破した。暗闇に助けられM4戦車から直撃は受けなかったものの、榴弾の破片により指揮官小幡少尉が戦死、安藤曹長が重傷を負い、弾薬手2人と操縦手も負傷した。この日の戦闘でアメリカ軍はマルコット飛行場を占領した。中隊は三の谷と四の谷へ後退し、戦闘を継続した。

2月8日、マルコット飛行場から敵戦車が二の谷を攻撃。迎撃のため第2分隊の自走砲が出撃したが、谷間を移動する自走砲は山上からの重機関銃による集中射撃を受け、乗員4名戦死。自走砲は大破炎上した。残った第3分隊の自走砲は3月初旬ごろ、M4との対戦車戦闘において撃破された。

部隊残余は歩兵として終戦まで山岳地帯で戦った。

現存車輛 [編集]

バージニア州のNational Museum of the Marine Corpsに沖縄戦で鹵獲された唯一現存する四式十五糎自走砲が展示されている。

関連項目 [編集]

参考文献 [編集]

  • 鈴木邦宏 「帝国陸軍機甲部隊の塗装と識別標識」『Armour Modelling』13号、1999年、98-101頁。