九九式襲撃機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。59.134.30.65 (会話) による 2012年6月1日 (金) 08:31個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

キ51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機

部隊マーク日章の飛行第44戦隊所属の九九式軍偵察機(キ51)

部隊マーク日章飛行第44戦隊所属の九九式軍偵察機(キ51)

九九式襲撃機(きゅうきゅうしきしゅうげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍攻撃機(襲撃機)。キ番号(試作名称)はキ51。略称・呼称は九九襲襲撃機など。連合軍コードネームSonia(ソニア)。開発・製造は三菱重工業

また、本機の派生型として九九式軍偵察機(きゅうきゅうしきぐんていさつき。九九式軍偵九九軍偵軍偵)が存在し(キ番号は同じくキ51)、本項ではその両機について詳述する。

襲撃機

襲撃機とは、敵地上部隊(機甲・車両部隊や砲兵陣地など)や地上施設(飛行場操車場など)などに対し、低高度から爆撃急降下・緩降下・水平爆撃)や機銃掃射を行って攻撃を加えるという陸軍航空本部の打ち出したコンセプトの基に開発された日本陸軍の軍用機のカテゴリーであり、既存の軽爆撃機よりいわゆる現代の近接航空支援に比重を置いた「地上攻撃機」や「COIN機」に近い存在であった。

ただし本機の他にはあまり例がなく、キ93キ102キ201などが襲撃機の名を冠するが、キ93は試作段階で終戦を迎え、キ102はどちらかといえば防空戦闘機的役割で使用されており(ただし、キ102の母体である二式複座戦闘機「屠龍」は軽爆・襲撃部隊にて襲撃機として多用されており、「二式双襲」との通称名も存在する)、キ201は戦闘襲撃機(戦闘爆撃機)というコンセプトであった(こちらも設計段階で終戦を迎えている)。もともと襲撃機の役割は直接協同偵察機(直協機、九八式直接協同偵察機など)とも共通しており、地上部隊支援のための強力な攻撃能力と汎用性の高さが求められた。

そのような襲撃機の開発指示が1937年(昭和12年)に三菱に対して内示された。大木喬之助技師を設計主務者とする三菱の開発陣は指示書に従い、エンジンに三菱製ハ26-IIを採用した単発複座単葉低翼固定脚の機体を設計した。固定武装は両翼内に7.7mm機関銃八九式固定機関銃)を2挺、後部座席に旋回式7.7mm機関銃(テ4)を1挺装備した。ただし翼内7.7mm機銃は実戦投入後に空戦及び地上銃撃時の威力不足が指摘されたため、大戦後半(1943年(昭和18年)11月)より12.7mm機関砲(ホ103:一式十二・七粍固定機関砲)に換装された。爆弾は当初200kg(12kg×12または50kg×4)まで搭載可能であった。また、低空飛行で地上を攻撃する任務の性格上、敵地上部隊からの反撃を受ける可能性が高いことや、陸軍の防弾装備への理解から防弾についても考慮されており、11号機(増加試作機)からはエンジン下面、操縦席下面、背面、胴体下面、中央翼下面を6mm厚の防弾鋼板で保護し、また燃料タンクはゴム張りの自動防漏タンク(セルフシーリング式タンク)とされていた。

試作機におけるテスト結果は飛行性能および操縦性も良好であったが、機体の振動や着陸時の失速特性の悪さといった問題も指摘され、量産型では主翼前縁にスラットを設けることでその解決を図り、1939年(昭和14年)(皇紀2599年)に九九式襲撃機として制式採用された。

また本機は生産過程で一部仕様(艤装)を変更するだけで軍偵察機にする事もでき、この型は九九式軍偵察機として制式採用された。この派生型では後部座席の副操縦装置や防弾鋼板を取り外し、胴体下・横に開けられた小窓から外部を空中撮影するための写真機が設置された。この仕様変更に対応するため、胴体内に爆弾を収納するスペースは無くなり、爆弾は両翼下に搭載された。また視界を広げるために機体に比して風防・天蓋が大きく設計されている。ただし艤装以外は元の九九式襲撃機とほとんど同じものである。

生産数は三菱製が1,472機であり、1944年(昭和19年)以降は立川陸軍航空工廠でも1,000機近くが生産され、軍偵察機型も含めた総数は2,385機に上る。

1941年(昭和16年)、性能向上のために九九式襲撃機のエンジンをハ112に換装し、固定脚を引込脚に変更したキ71が満州飛行機によって試作された[1]が、期待した程の性能向上が見られなかったため実用化には至らずに終わった。

実戦・評価

九九式襲撃機は日中戦争支那事変)末期から太平洋戦争大東亜戦争)全期に渡って使用され、中国大陸から南方戦線(マレー半島ビルマフィリピンインドネシアなど)まで広い範囲で活躍した。低空での運動性の高さ(敵戦闘機撃墜の報告もある[2])、固定脚である故の不整地からの離着陸性能の良さ、また搭載されている翼銃(翼砲)は機首配置の場合のプロペラ同調式ではないため整備性が良く、戦地での酷使にも耐える実用性の高い機体であった。素直な操縦性も高く評価され、教導訓練用の練習機としても重宝した。

しかし大戦後半になると旧式化は否めず、敵戦闘機に比べ相対的に低速になったために撃墜される事が多くなり損害が増大している。また他の日本機と同様に爆弾の搭載量が少なく、航続距離も不足しがちであった。それでもその信頼性の高さから終戦まで陸軍地上攻撃機の主力機として第一線で活躍し続け、大戦末期には胴体下に250kg爆弾が搭載できるように改造されて対艦攻撃機もしくは特攻機として用いられることも多かった。

戦後、海外に残存した一部の機体が現地の軍隊で運用された。特に、国共内戦の際の中国人民解放軍インドネシア独立戦争の際のインドネシア人民軍で運用されたことが知られている。その内、現存機としては修復された実機がインドネシア空軍中央博物館に一式戦闘機「隼」と共に保存・展示されている。

本機は有名なアメリカの飛行家である、チャールズ・リンドバーグの駆るP-38戦闘機とも戦っている。リンドバーグの僚機の2機を相手に、高い運動性をもって翻弄していた1機が、リンドバーグ機との反航戦での撃ち合いに破れ撃墜されている。

また、終戦直前の1945年8月6日に、潜水艦ブルヘッド (USS Bullhead, SS-332) をロンボク海峡で爆撃により撃沈している。

主要諸元

  • 構造:単発、低翼単葉、全金属製応力外皮構造、固定脚
  • 乗員:2名
  • 全長:9.21 m
  • 全幅:12.10 m
  • 主翼面積:24.20 m2
  • 自重:1,873 kg
  • 全備重量:2,798 kg
  • エンジン:三菱 ハ26-II(瑞星) (空冷星型複列14シリンダー、離昇出力940hp
  • プロペラ:住友ハミルトン 油圧式可変ピッチ3翅
  • 最高速度:424 km/h (高度3,000m)
  • 実用上昇限度:8,270 m
  • 上昇率:5000mまで8'47"
  • 航続距離:1,060 km (燃料608Lの場合)
  • 武装:翼内7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)×2(前期型)、翼内12.7mm機関砲(ホ103)×2(後期型)、後方7.7mm旋回機関銃(テ4)×1
  • 爆装:最大200kg(250kg爆弾は特攻仕様)
  • 離陸滑走距離:165 m
  • 着陸滑走距離:276 m

関連項目

出典

  1. ^ 野原茂『日本軍用機辞典 陸軍篇』 イカロス出版、2005年、120頁、ISBN 978-4871497329
  2. ^ 大内建二『陰で支えた軍用機』 光人社、2004年、(戦争初期フィリピン上空で米陸軍のP-40との交戦で相手機を撃墜。

参考文献

  • 野沢正編 『日本航空機総集 (第1巻) 三菱篇』 出版協同社、1981年(改訂新版)、84-87頁。

外部リンク