中部電力 (1930-1937)

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中部電力株式会社
種類 株式会社
略称 中電
本社所在地 日本の旗 日本
愛知県岡崎市籠田町16番地
設立 1930年(昭和5年)2月19日
業種 電気
事業内容 電気供給事業
代表者 藍川清成(会長)
杉浦英一(社長)
資本金 4,635万円
(うち払込3,864万9,000円)
発行済株式総数 旧株:41万3,600株(額面50円払込済)
新株:51万3,400株(35円払込)
収入 502万3千円
支出 322万5千円
純利益 179万7千円
配当率 8.0%
総資産 5,693万7千円
決算期 3月末・9月末(年2回)
主要株主 東邦電力 (29.51%)

中部電力株式会社(ちゅうぶでんりょくかぶしきがいしゃ)は、昭和初期に存在した日本の電力会社である。愛知県岡崎市に本社を置き、愛知県三河地方を中心に電気を供給した。

1930年(昭和5年)設立。1897年(明治30年)に開業した岡崎の電力会社岡崎電灯株式会社(岡崎電燈、おかざきでんとう)と東邦電力の事業の一部、それに岐阜県に存在した同名の中部電力(旧・多治見電灯所)を統合し、愛知・岐阜・静岡の3県に供給区域を広げた。1937年(昭和12年)に東邦電力と合併して消滅した。

1951年発足の中部電力の管内に存在した事業者であるが直接的な繋がりはない。同社と区別するためにしばしば「中部電力(岡崎)」と表記される。

概要

中部電力株式会社(以下、必要に応じて「中部電力(岡崎)」と記す)は、愛知県岡崎市に本社を置き、愛知県東部の三河地方静岡県西部の遠州地方岐阜県南東部の東濃地方へと電気を供給した電力会社である。1930年に設立され、同年8月、岡崎市を中心に西三河に供給した岡崎電灯、豊橋市を中心に東三河と静岡県遠州地方に供給した東邦電力豊橋営業所(旧・豊橋電気)、岐阜県東濃地方に供給した多治見の中部電力(旧・多治見電灯所。以下「中部電力(多治見)」と記す)の3事業者を統合した。

前身のうち岡崎電灯は、岡崎の実業家らによって設立され、1897年(明治30年)に開業した。1907年(明治40年)には合資会社から株式会社に改組し、西三河一帯へと供給区域を拡大。1920年代には供給区域外の東三河や遠州地方にも進出した。その勢力は岐阜県にも及び、1924年(大正13年)には多治見電灯所と提携して同社を基に中部電力(多治見)を設立している。この岡崎電灯と、中京地方を地盤とする大手事業者の東邦電力との間には、1920年代を通じて合併への動きがあったが、1930年になって電力の受給関係が生じたことから進展し、両社の事業再編の結果中部電力(岡崎)の成立をみた。

中部電力(岡崎)成立後、同社は東邦電力との連携をより緊密化し、最終的に7年後の1937年(昭和12年)8月に東邦電力へと吸収合併された。その東邦電力も1942年(昭和17年)に解散しており、中部電力(岡崎)が供給していた地域はその後の再編を経て1951年(昭和26年)以降中部電力の営業区域の一部となっている。

岡崎電灯の沿革

以下、岡崎電灯の沿革について、中部電力(岡崎)との合併に至る経緯を除いて記述する。

合資会社設立と創業者

日本で最初の電気事業者である東京電灯1886年(明治19年)に開業してから4年目の1889年(明治22年)、愛知県名古屋市において名古屋電灯が開業して中部地方でも電気の普及が緒に就いた。愛知県内では豊橋市の豊橋電灯(後の豊橋電気)が1894年(明治27年)に開業してこれに続いた。

豊橋電灯の事業に参加していた人物に、大岡正(おおおか まさし、1855 - 1909年)という電気技師がいた[2]。大岡は1895年(明治28年)、愛知県の岡崎を訪れ、地元有力者に対して岡崎でも電気事業を起業しないかと勧誘して回った[3]。この勧誘に応じて立ち上がったのが、杉浦銀蔵・田中功平・近藤重三郎の3名であった[3]。この3名が岡崎電灯の創業者である[2]

岩津発電所(2005年撮影)。建屋は建設当初からのものではない。

創業者のうち杉浦銀蔵(2代目、1847 - 1899年)は籠田町にて呉服商「沢津屋」を営み、家業以外にも1880年代以降桑園や織布工場の経営、洋風瓦の製造などを手がけていた[2]。田中功平(1845 - 1916年)は籠田町にて旅館「丸藤旅館」を経営し、こちらも雲母採掘業など新規事業に手を出していた[2]。近藤重三郎(1852 - 1910年)は岡崎で味噌醤油醸造業「伊勢屋」を営むとともに政界とも繋がりを持った人物である[2]。この3名の出資により1896年(明治29年)、資本金3万円で「岡崎電灯合資会社」が設立される[3]。設立に際し、電気事業に理解がない時代のことで融資に応ずる者がいないため、3名は家財や土地を売り払って3万円を調達したという[3]

水力発電所を建設する適地を物色した結果、郡界川矢作川水系巴川支流)の上流部、奥殿村日影(現・岡崎市日影町)に落差が60尺(約18メートル)あり水量も豊富な地点を発見、ここに発電所を建設することとなった[4]。工事中も資金繰りや技術面につき問題があったが、1897年(明治30年)7月、アメリカペルトン水車三吉電機工場製50キロワット発電機各1台を備えた岩津発電所が完成[4]。発電所から籠田町の杉浦銀蔵宅まで4里(約16キロメートル)の間に配電線を引き、屋敷の回りを見物客が取り囲む中で電灯の点灯試験に成功した[3]。試験成功を受けて500灯以上の供給申し込みがあり、同年7月25日に岡崎電灯は開業式を開くに至った[3]。なお発電力が小さいためこの程度の需要で十分であったが、当時は10灯1灯あたり月額58銭という電灯料金であり、従来の照明に比べて贅沢品であった[5]

株式会社化

1910年代後半における矢作川水系の発電所位置図。
岡崎電灯が建設したのは、岩津(1897年)・東大見(1911年)・賀茂(1914年)・足助(1919年)の4か所。

開業に至った岡崎電灯は市内へ配電線をさらに延長する必要があったが、資金不足は続いており、創業者3名のうち田中功平・近藤重三郎は杉浦銀蔵に対して向こう6年半経営を委任するとして岡崎電灯から一旦退いた[6]。委任経営は1898年(明治31年)1月より始まるが[5]、杉浦としても資金がないので、岡崎有数の資産家である早川休右衛門に支援を要請[6]。早川の後援を得ると市内全域への配電線の延長が可能となり、翌1899年(明治32年)には供給灯数が1,300灯に達して発電所の増設が必要となった[6]。各地からの見学者も増え、鳥取県の有力者が視察後に地元電気事業の共同発起を申し込むこともあったという[6]。1899年10月に杉浦銀蔵が死去すると養継嗣が襲名(3代目)してそのまま経営を継承し、家業の呉服商を廃業して専念した[6]

1900年(明治33年)に発電所の増設が完成すると岡崎市付近と発電所付近に供給を拡大[6]。特に製糸・製布業者からの申し込みが多く、拡張した供給力もやがて消化して1906年(明治39年)には供給灯数2,600灯を数えた[6]。電灯需要の一方で動力用電力の需要は小さく、1898年に岡崎の米屋が水車のかわりに電動精米機を取り付けて使用したのが最初の事例である[6]

岡崎電灯の水力発電事業成功を受けて岡崎以外でも電気事業を起業しようという動きがあり、同じ三河地方の西加茂郡では郡内の有力者に岡崎電灯関係者(杉浦・田中・近藤の3名と大岡正)が加わって1901年3月に三河電力株式会社を設立、矢作川支流の田代川(西加茂郡小原村)に発電所を建設することとなった[7]。本社は岡崎の岡崎電灯社内に置かれた[7]。翌1902年(明治35年)9月、小原発電所(出力200キロワット)が完成し、東春日井郡瀬戸町(現・瀬戸市)への供給が開始された[7]。同社は後に名古屋市へと進出して東海電気へと改称し、既存の名古屋電灯に対して競争を仕掛けるが、1907年(明治40年)6月名古屋電灯に吸収されている[8]

一方岡崎電灯は、日露戦争後の好況に乗じて事業の拡大を図り、1907年7月、資本金3万円の合資会社から資本金50万円の株式会社組織として「岡崎電灯株式会社」に改組した[5]。取締役には杉浦銀蔵・田中功平・近藤重三郎、監査役には早川休右衛門らが就任[5]1909年(明治42年)には巴川支流神越川に水利権を得て、周到な準備の下に東大見発電所(出力500キロワット)を着工[9]。工事には京都帝国大学を卒業したばかりの高石弁治を主任とした[9]。同発電所が1911年(明治44年)3月に竣工すると三河一帯への供給を図り、西三河の東加茂・西加茂・碧海幡豆宝飯の各郡に供給区域を獲得した[9]。さらに知多郡への進出も狙ったが、半田方面は地元有力者(知多電灯)に供給が許可されたため東浦村(現・東浦町)のみの供給に留まった[10]

1908年(明治41年)2月、巴川上流部に旧東海電気が建設していた巴川発電所(出力750キロワット)が名古屋電灯の手により完成し、名古屋方面への送電が開始された[7][11]。同社はさらに神越川で賀茂発電所(出力450キロワット)の建設を計画したが、この水利権は1911年7月に岡崎電灯へと譲渡している[7]。水利権を譲り受けた岡崎電灯では、需要増加により再び供給力が不足するようになったことから1913年(大正2年)に資本金を倍額の100万円とし、翌1914年(大正3年)に賀茂発電所を建設した[9]

電力不足

賀茂発電所が完成した当時は第一次世界大戦が勃発した頃で商工界があまり振るわず、電気の需要も見込みどおりではなく営業成績は良好とはいえなかったので、発電所を建設しすぎたという声もあった[12]。ところが間もなく大戦景気が訪れると三河地方でも三河木綿をはじめ諸商工業が活況を呈するようになり、電灯・電力ともに需要が急増し始める[12]1915年(大正4年)末には電灯供給数約3万5,000灯、電力供給約950馬力に増加し、電灯・電力需要ともに前年末よりも1.2倍増ととなった[12]。この需要増加に応ずるため1915年より新水力発電所(足助発電所、出力1,565キロワット)の建設に着手するが、水力発電所の建設には長期間を要するためとりあえず岡崎市八帖町火力発電所(岡崎発電所、出力600キロワット)を着工[12]。発電所建設資金として1918年(大正7年)8月に資本金を210万円へと増資している[12]

岡崎発電所はアメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリックに注文していた設備が大戦の影響で到着が遅れたため予定より遅い1918年秋の発電開始となった[12]。翌1919年(大正8年)秋には足助発電所も完成している[12]。2つの発電所の新設により発電力は1,075キロワットから3,240キロワットに上昇したが[13]、1919年下期には電灯供給数約7万1,300灯、電力供給約1,900馬力に達し、供給力不足は続いた[12]。1919年から翌1920年(大正9年)にかけてが需要増加のピークで、連日動力用電力の供給申し込みが殺到するものの供給力の制約から抽選にて需要家を決定するという状況に陥ってしまう[5]。そのため被供給権に1馬力あたり200円前後の権利がついて需要者間で闇転売される、という事態まで発生した[5]

足助発電所の完成に先立つ1916年(大正5年)2月、巴川上流部に巴川発電所(出力1,500キロワット、前述の名古屋電灯巴川発電所とは別)が完成していた[14]。ただしこれは静岡県浜松市などを供給区域とする日英水電の発電所で、その発生電力は地元西三河ではなく浜松へと送電された[14]。大戦勃発後は浜松でも電力不足が生じており、日英水電は新たな電源を求めて西三河へと進出してきたのであった[14]。また矢作川の上流部や上村川では福澤桃介(当時名古屋電灯社長)のグループが水利権を獲得し、これを開発すべく1919年3月に矢作水力を設立した[15]。同社は1920年12月に下村発電所(出力4,200キロワット)を完成させたのを皮切りに、順次矢作川水系での電源開発を進めていく[16]。当初の計画では名古屋方面の工場へと電力を供給する計画であったが、電力不足に悩む西三河地方に着目し、同地方の工業動力用電力供給に参入、1921年(大正10年)1月に岡崎市や蒲郡方面にて電力供給区域を設定した[17]。これにより日清紡績岡崎工場をはじめとする岡崎周辺の工場や蒲郡方面の織布工場が矢作水力の需要家となった[17]

矢作水力という競合会社の出現に、供給力不足の岡崎電灯は不利な条件で同社からの電力購入を契約せざるを得なくなった[10]。受電は1921年秋より620キロワットで開始[18]。これに加え、名古屋電灯から先に買収していた小原発電所を325キロワットの発電所に改修した[18]。同年下期には電灯供給数約12万5,000灯、電力供給約5,300馬力という供給成績を挙げるが供給力不足は依然続いており、翌1922年(大正11年)1月天竜川に発電所を持つ天竜川水力電気(直後に東邦電力へ合併)から1,000キロワットの受電を開始し、同年春には大浜火力発電所の建設に着手するとともに岡崎火力発電所の増設(600キロワット)を完成させた[18]

経営面では、1920年4月に碧海郡の碧海電気を合併し資本金を232万円とした上で、同年10月に一挙に500万円へと増資した[12]。翌1921年には副業として経営していた植林・製材・電柱製作などの事業を分離し岡崎殖産を設立[18]。1922年1月には幡豆郡の平坂電気を合併して515万円に増資し、同年秋倍額の1,050万円へと増資している[5]

供給の広域化

1924年(大正13年)1月、岡崎電灯は5番目の水力発電所として百月(どうづき)発電所の建設に着手し、同年2月には建設中の大浜火力発電所(出力4,000キロワット)を竣工させた[18]。ここに至りようやく供給力不足は解消し、逆に余力を生ずるようになる[18]。そして大口供給先を開拓するという経営方針を打ち出し、供給区域外の地域に進出して1月より渥美電鉄、6月より三河セメント(渥美郡)への供給を開始、東三河への進出を果たした[18]。また岐阜県にも進出し、多治見の電気事業者多治見電灯所(合名会社)と提携、同社を基礎として資本金200万円の中部電力(多治見)を設立した[18]。岡崎電灯は同社の株式の半数を握っており、翌1925年(大正14年)には同社への電力供給も開始している[18]

岡崎電灯はほかの電力会社が負荷率の低さから供給を渋る電気鉄道への電力供給を積極的に行った[18]。渥美電鉄以外にも1925年6月三河鉄道、7月豊橋電気軌道、9月豊川鉄道鳳来寺鉄道[18]、さらに1926年(大正15年)春より碧海電気鉄道と供給開始が続いた[19]。電灯供給についても積極化し、秋にははじめての高燭化(燭光数の高い明るい電灯への変更)の勧誘を実施、一気に供給燭光数30万燭の増加をみた[18]。1925年下期の時点で、電灯供給数は約21万4,200灯、電力供給は約1万1,200馬力に及んだ[18]

1926年3月、百月発電所(出力5,280キロワット)が完成し、1927年(昭和2年)5月には大浜火力発電所の増設(出力6,000キロワット追加)も竣工した[19]。また1923年に株式の半数を持って水窪川(静岡県)開発のために水窪川水力電気という発電会社を設立していたが[20]、同社からの受電が1928年(昭和3年)2月より始まった[19]。これらにより供給力不足の懸念は消滅し、営業方面への集中が可能となった[19]。なお、水窪川水力電気は岡崎電灯への電力供給に際し、豊橋市郊外の玉川変電所(1927年7月設置)構内に自社変電所を設置し、西渡発電所から同変電所まで77キロボルト送電線を架設、変電所で33キロボルトに降圧して岡崎電灯へ送電した[21]

1926年10月、浜松の日清紡績北浜工場への供給を開始し、県境を越えて静岡県へと進出した[19]。浜松方面は当時東邦電力傘下の東京電力(旧・早川電力、早川電力時代に日英水電を吸収)がほぼ供給を独占していたが、日清紡績に水窪川水力電気の株式を引き受けてもらい岡崎電灯経由で送電するという提携が成立したため供給が可能となった[19]。次いで1928年3月には同じ浜松方面の遠州電気鉄道への供給も開始している[19]。また電灯の高燭化勧誘を継続し、1927年春2度目の勧誘により50万燭増加、1928年春には3度目の運動により70万燭増加という好成績を挙げた[19]

1927年(昭和2年)1月、岡崎殖産の合併とともに増資し資本金を2,300万円とした[18]。供給実績は1930年上期の時点で電灯供給数約26万7,900灯・電力供給2万馬力以上であった[19]

中部電力(岡崎)の展開

以下、岡崎電灯との合併の経緯を含めた中部電力(岡崎)の沿革について記述する。

東邦電力の成立

東邦電力社長松永安左エ門

明治後期から昭和初期にかけて岡崎市とその周辺にて岡崎電灯が独立して電気事業を経営している間に、周辺地域では事業の再編が進んでいた。

愛知県東部の豊橋市では、岡崎電灯の開業に先立つ1894年(明治27年)に豊橋電気(旧・豊橋電灯)が開業し、宝飯郡渥美郡など豊橋周辺へ順次供給区域を拡大していた[22]。また静岡県浜名郡のうち浜名湖以西の地域(2010年以降の湖西市域に相当)に供給する西遠電気を合併し、供給は静岡県西部にも及んでいた[23]1921年(大正10年)4月、豊橋電気は名古屋電灯と合併し、同社豊橋営業所となった[24]

豊橋電気を合併した名古屋電灯というのは、1889年(明治22年)、愛知県名古屋市にて開業した電力会社である[25]岐阜県長良川発電所や木曽川発電所(後の八百津発電所)を建設するなど順次事業を拡大し[26]、1920年代に入ると周辺事業者の合併を推進、豊橋電気を含む愛知県や岐阜県の事業者6社を立て続けに合併した[27]。さらに1921年10月には名古屋電灯と奈良県関西水力電気の合併が成立し関西電気が発足する[28]。この関西電気も引き続き周辺事業者の合併を推進し、1922年(大正10年)5月には九州地方の電力会社九州電灯鉄道を合併[29]。同年6月、社名を東邦電力株式会社とした[30]

成立の過程で東邦電力は天竜川に発電所を構える天竜川水力電気を合併し[29]、静岡県東部、浜松方面における日本楽器製造(現・ヤマハ)や繊維会社などへの電力供給を引き継いでいる[31]。この浜松周辺における事業も東邦電力豊橋営業所の管轄であった[32]

岡崎電灯統合への動き

1930年代後半における矢作川水系の発電所位置図。

周辺地域における電気事業再編の結果、岡崎電灯の供給区域は東邦電力の名古屋・豊橋両区域の間に挟まれる形となった[33]。東邦電力側から見ると、送電や経営の面でこの地域の整理は懸案であった[33]。一方岡崎電灯側でも、一部の重役から孤立した状況に対して不満の声が上がっていた[34]1925年(大正14年)11月、東邦電力との合併を支持する岡崎電灯取締役中村慶助が、両社の間で合併仮契約の調印を済ませたと発表する[35]。その内容は、合併に際して岡崎電灯の株主に対し同社株式1株につき東邦電力株式を1.3株の割合で交付する、というものである[35]。しかし社長の杉浦銀蔵らは合併不可論を唱え、同社重役会議にて投票の結果反対多数で合併せずと決まった[35]

東邦電力は豊橋区域において、長篠発電所をはじめとする豊川の発電所(3か所、出力計2,050キロワット)と他事業者の受電電力を電源として供給しており、名古屋区域とは別個の電力系統であった[31]。1925年に東京電力(旧・早川電力)への送電を目的として名古屋火力発電所(名古屋市)から浜松変電所へと至る浜松送電線(70キロボルト送電線)が架設[36]されたのち、1927年(昭和2年)8月途中に豊橋変電所が新設されて豊橋区域と名古屋区域の連系が成立した[31]。一方で、東邦電力名古屋・豊橋両区域と岡崎電灯区域を連系するのは、東邦電力側が電気の周波数を60ヘルツとしているのに対し岡崎電灯区域が50ヘルツに設定していたことで、技術的な困難があった[33]

越戸発電所取水用の越戸ダム(2005年撮影)

矢作川本流において、東邦電力系列の三河水力電気が建設していた越戸発電所(出力7,500キロワット)が1929年(昭和4年)12月より運転を開始した[37]。同発電所建設中の同年4月[33]、東邦電力と岡崎電灯の間で、東邦電力が越戸発電所から受電する電力のうち4,600キロワットを岡崎電灯が受電する、という電力受給契約が成立[38]。次いで、岡崎電灯が周波数を東邦電力と同じ60ヘルツに統一した上で最大1万キロワットの電力を融通する、という電力融通契約も締結された[33]。周波数変換工事は1929年春より順次行われ、越戸発電所からの送電開始(1930年3月)を挟んで1931年(昭和6年)春までにすべて完了した[38]

東邦電力・岡崎電灯の間で電力受給・融通契約が締結されるなど連系が深まり両社の関係が緊密化すると、再び三河地方における事業統一の機運が生じ、両社で統合への交渉が行われることとなった[33]

中部電力の成立過程

三河地方の電気事業を統一するにあたり、単純に東邦電力が岡崎電灯を合併する、反対に東邦電力が豊橋区域を岡崎電灯へ譲渡する、という方法も検討されたが、新会社「中部電力株式会社」を設立して東邦電力豊橋区域を統合し岡崎電灯を合併する、という中間的な方法を採ることに決まった[33]

新会社・中部電力は15名の株主による資本金1,300万円の出資によって設立され1930年(昭和5年)2月19日に創立総会が開催された[33]。中部電力の本店は岡崎市で、東邦電力から松永安左エ門や宮川竹馬らが役員に入った[33]。次いで翌20日、中部電力と岡崎電灯の間で合併契約が締結される[33]。合併に際して中部電力を存続会社とし、岡崎電灯は解散するものとされた[33]。この合併により中部電力は資本金を2,645万円増資(新資本金3,945万円)して新規発行株式を岡崎電灯株主に対して同社株式1株につき1.15株の割合で交付することとなった[33]。合併契約は同年3月12日に株主総会にて承認[39]。同日東邦電力でも株主総会が開かれ、豊橋営業所管内における電気事業一切の中部電力への譲渡が決定した[33]。譲渡資産の金額は約906万円である[33]

1930年4月7日、中部電力はさらに中部電力(多治見)の合併を株主総会にて決定した[38]。この合併により中部電力は資本金を440万円増資(新資本金4,385万円)して新規発行株式を中部電力(多治見)の株主に対して同社株式1株につき2.2株の割合で交付することとなった[38]。同社は岐阜県土岐郡多治見町(現・多治見市)にあり、土岐郡や可児郡恵那郡に供給区域を広げていた[38]。多治見の雑貨商加藤嘉平とその弟乙三郎(先代)が1906年(明治39年)に創業した電気事業が起源で、合名会社多治見電灯所となった後[40]、多治見電灯所を基礎として岡崎電灯が資本参加して1924年資本金200万円の中部電力(多治見)に改組[18]。合併当時は岡崎電灯社長の杉浦銀蔵が同社社長でもあった[38]

中部電力・岡崎電灯の合併期日は契約上1930年7月1日付とされていたが、当局からの合併認可が7月31日にずれ込んだため[39]、両社の合併と東邦電力豊橋営業所管内事業の統合は8月1日に実施された[41]。中部電力(多治見)の合併は8月25日に行われている[41]。同日付で中部電力にて合併報告総会が開催され、中部電力の新重役が決定[39]。社長に杉浦銀蔵、副社長に高石弁治、常務に杉浦英一がそれぞれ就任した[41]。杉浦銀蔵は岡崎電灯社長、高石は同社副社長で[42]、杉浦英一は東邦電力豊橋営業所長であった[39]

発足後の中部電力

明知川発電所(2008年)

発足直後の時点で、中部電力は愛知・静岡・岐阜3県の104市町村を供給区域とし、水力発電所14か所(出力計1万4,624キロワット)、火力発電所2か所(同1万1,200キロワット)と受電電力を電源として、約46万3,800灯の電灯と約2万7,500キロワットの電力を供給していた[38]。発足後の中部電力は供給区域の拡張および需要開拓に努め[38]、水力電源の増強にも注力した[43]

中部電力時代に完成した発電所としては、1934年(昭和9年)11月に運転を開始した阿摺(あすり)発電所(出力4,000キロワット)、翌1935年(昭和10年)7月に運転を開始した明知川発電所(明智川発電所、出力1,000キロワット)がある[44]。さらに、1934年2月に水窪川水力電気を合併し、1936年(昭和11年)2月には天竜電気を合併した[43]。前者は西渡発電所(出力2,400キロワット)、後者は気田発電所(出力2,437キロワット)を運転し、いずれも中部電力へ電力を供給していた[38]

受電電力の増強としては、第二富士電力(富士電力の傍系会社、1936年3月同社が吸収)からの受電開始が挙げられる。第二富士電力は大井川にて湯山発電所を建設した発電会社で、中部電力は建設中の段階で同社と電力受給契約を締結し、出力全部を受電するとともに自社で発電所から自社変電所まで送電線を建設することとなった[45]。1935年3月に湯山発電所は出力2万4,000キロワットで竣工し、同時に中部電力への供給が開始された[45]。湯山発電所からは、西渡発電所に至る約43キロメートルの間に77キロボルト送電線が架設され、既存送電線によってさらに豊橋市郊外の玉川変電所へ送電された[21]。また年内に玉川変電所から岡崎市の八帖変電所へ至る送電線の77キロボルト昇圧工事が実施され、岡崎方面への送電も行われた[21]

上記のように増強された電源に対して、電力の供給先としては、1934年時点では日本レイヨン岡崎工場(現・ユニチカ岡崎事業所)、日清レイヨン岡崎工場(後の日清紡績美合工場)、内外綿安城工場などと契約していた[46]

経営面では、1930年8月より社長を務めていた杉浦銀蔵が1933年(昭和8年)11月に退任し、中西四郎が後継社長に就任した[42]。中西は元逓信省電気局長で、前身岡崎電灯の顧問を1929年より務めていた[19]。翌1934年10月、中西に代わって副社長の高石弁治が社長に昇格し、あわせて藍川清成名古屋鉄道社長)が会長に就任[42]。1936年12月には高石に代わって杉浦英一が社長となった[42]

東邦電力への合併

会長に就任した藍川清成

中部電力は設立以来東邦電力と緊密な関係を保ち、技術面では電力の受給地点が6か所となって両社はほとんど同一の電力系統を形成した[47]。また発足当初は岡崎電灯が発展した会社という色彩が強かったが、次第に東邦電力の影響力が強くなっていったという[5]。そして1937年(昭和12年)5月13日、両社は合併契約を締結するに至った[47]。東邦電力が中部電力の合併に踏み切った背景には、当時具体化されつつあった電力国家管理政策に対抗する思惑があった。

東邦電力を経営する松永安左エ門は、1920年代から電力業界の統制を訴えていた人物であった[48]。その主たる主張は、技術面では広大な地域の発電所を送電線で連系し発電力の過不足を調整するという「超電力連系」と、建設費が水力発電に比して安い火力発電を活用して供給を補うという「水火併用」であり、経営面では全国を数ブロックに分割し一つの地域には一つの事業者が独占的に供給する「一区域一会社主義」というものであった[48]。これらの主張はただちに現実化するものではないため、まずは周辺地域の事業者と送電連系し供給力を相互補給する「電力プール」の形成を優先し、主張の具体化を始めた[48]。中部電力の設立や、それに前後して行われた合同電気との提携、九州での送電連系はその一環である[48]

松永の経営面におけるもう一つの主張が、政府の規制強化とあわせた民有民営のままでの業界統制である[48]。業界の自主統制が進展するならば、豊富で低廉な電気を供給する上では民営の方が有利であると訴えていた[43]。松永の主張に対し、時代が昭和に入ると電力国営論が台頭し1936年3月に広田弘毅内閣が発足すると逓信大臣頼母木桂吉の下で逓信省が電力国家管理政策を主導するようになる[49]。民間電力会社に発送電設備を出資させて特殊会社を新設し、同社を通じて政府自ら発送電事業を経営する、という「民有国営」の方向で国家管理政策は具体化され、10月には「電力国策要綱」が閣議決定されるところまで進んだ[49]。内閣総辞職により成立しなかったが、翌1937年1月には関連法案が帝国議会へと上程された[49]

この電力国家管理政策の動きに対抗するため、松永は業界の自主統制を具体化する必要に迫られた[43]。そこで従来からの主張である「一区域一会社主義」を実現させるため、東邦電力による周辺事業者の自主統合を始める[43]。その中で1937年に、東邦電力は合同電気と中部電力の2社を相次いで吸収したのであった[43]

合併実施とその後

1937年5月に締結された東邦電力と中部電力の合併契約による合併条件は以下の通り[47]

  • 存続会社を東邦電力とし、中部電力は合併により解散する。
  • 東邦電力は資本金を3,300万円増資し、額面50円全額払込済株式66万株(払込金額計3,300万円)を発行する。
  • 東邦電力は新規発行の上記株式を中部電力の株主に対して交付する。その割合は中部電力の株式1株につき1株。
  • 東邦電力は中部電力の株式を26万7,000株保有するが、これに対しては東邦電力新株を割り当てず消却する。
  • 合併期日は8月31日とする。

両社の合併は契約どおり1937年8月31日付で実行に移され[50]、ここに中部電力は消滅した。合併時、中部電力の資本金は4,635万円(全額払込済み)であった[47]

電力国家管理政策実現への動きは合併成立後に進展し、1938年(昭和13年)に「電力管理法」と関連法が公布・施行されるに至る[49]。これにより、既存の電気事業者から火力発電所と主要送電線を出資させて国策会社「日本発送電株式会社」を設立、同社を通じて電気事業を政府が管理する、という体制が1939年(昭和14年)4月1日をもってスタートした[49]。その後さらなる国家管理の強化が提唱され、1940年(昭和15年)7月、水力発電設備を含む主力発送電設備を日本発送電に帰属させて国家管理を強化するとともに、全国を数地区に分割して一つ地区につき一つの国策配電会社を設立する、という方針が決定する[51]。これに基づいて日本発送電への発送電設備出資が1941年(昭和16年)10月1日と翌1942年(昭和17年)4月1日に実行に移され、配電統制令に基づく国策配電会社9社の設立も1942年4月1日に実施された[51]

電力国家管理政策に関連して、東邦電力は1939年4月・1941年10月・1942年4月の3度にわたって日本発送電へと設備を出資[52]。さらに1942年4月には、配電会社9社のうち中部配電関西配電四国配電九州配電の4社に対しても設備を出資した[52]。この際、旧中部電力に関連する発電所や供給区域は日本発送電ないし中部配電に引き継がれている。各社に設備を出資して電気事業を喪失した東邦電力は1942年4月1日をもって解散、消滅した[52]

本社・営業所所在地

1937年3月時点での本社・営業所の所在地は以下の通り[53]

供給区域一覧

1936年12月時点の供給区域(電灯・電力供給区域および電力供給区域)は以下の通り[54]

電灯・電力供給区域
愛知県 市部 岡崎市豊橋市
額田郡 福岡町岩津町常磐村の一部・藤川村山中村本宿村(現・岡崎市)、
幸田村(現・幸田町
幡豆郡 佐久島村以外の郡内全町村(現・西尾市・幸田町)
碧海郡 郡内全町村(現・知立市刈谷市安城市高浜市碧南市豊田市・岡崎市ほか)
知多郡 東浦村の一部(現・東浦町
西加茂郡 挙母町猿投村高橋村石野村の一部・小原村の一部(現・豊田市)
東加茂郡 足助町盛岡村の一部・阿摺村の一部・賀茂村の一部・松平村(現・豊田市)
宝飯郡 一宮村以外の郡内全町村(現・豊川市蒲郡市・豊橋市)
渥美郡 二川町高豊村老津村杉山村(現・豊橋市)
八名郡 三上村(現・豊川市)
北設楽郡 豊根村
静岡県 浜名郡 新居町鷲津町白須賀町新所村入出村知波田村(現・湖西市
岐阜県 土岐郡 多治見町市之倉村(現・多治見市)、
土岐津町泉町下石町妻木町の一部・肥田村(現・土岐市)、
瑞浪町土岐町稲津村(現・瑞浪市
可児郡 小泉村池田村(現・多治見市)
恵那郡 陶町(現・瑞浪市)、
鶴岡村の一部・吉田村三濃村の一部(現・恵那市ほか)
電力供給区域
静岡県 市部 浜松市(旧曳馬町を含む)
浜名郡 和田村中ノ町村(現・浜松市)

上記地域のうち旧岡崎電灯区域は、岡崎市と額田・幡豆・碧海・知多・西加茂・東加茂各郡各町村および宝飯郡西部5町村(蒲郡町三谷町形原町塩津村西浦村[55]。また旧中部電力(多治見)区域は妻木町以外の岐阜県各町村と愛知県西加茂郡小原村である[56]

東邦電力との合併後、旧中部電力(多治見)区域については1938年(昭和13年)8月に東邦電力から中部合同電気へと移管された[57]。また翌1939年(昭和14年)3月には愛知県北設楽郡豊根村が中央電力の供給区域に異動した[57]。その後1942年4月の配電統制令による配電会社設立に際して、愛知・静岡・岐阜の3県は中部配電の配電区域と規定され、東邦電力・中央電力は該当区域内にある配電設備・需要者屋内設備を同社へと出資するように、中部合同電気は同社へと統合するように命ぜられた[58]。戦後の1951年(昭和26年)、この中部配電の配電区域を引き継いで中部電力が設立されている。

発電所一覧

1936年12月末時点での発電所とその所在地(水力発電所の場合は河川名も併記)および出力は以下の通り[59]

発電所名 種別 所在地 出力
(単位:kW
土岐川 水力 岐阜県土岐郡土岐津町
庄内川
264
小里川第一 水力 岐阜県恵那郡陶町
(庄内川水系小里川)
180
小里川第二 水力 岐阜県恵那郡陶町
(庄内川水系小里川・猿爪川)
135
小里川第三 水力 岐阜県恵那郡陶町
(庄内川水系小里川)
200
小里川第四 水力 岐阜県土岐郡稲津村
(庄内川水系小里川)
100
明智川 水力 岐阜県恵那郡串原村
矢作川水系明智川ほか)
1,000
小原 水力 愛知県西加茂郡小原村
(矢作川水系田代川)
325
百月
(どうづき)
水力 愛知県西加茂郡小原村
(矢作川)
5,380
阿摺 水力 愛知県東加茂郡阿摺村
(矢作川)
4,000
東大見 水力 愛知県東加茂郡賀茂村
(矢作川水系神越川)
500
賀茂 水力 愛知県東加茂郡賀茂村
(矢作川水系神越川・大見川)
450
足助 水力 愛知県東加茂郡足助町
(矢作川水系巴川
1,565
岩津 水力 愛知県額田郡岩津町
(矢作川水系郡界川)
125
布里 水力 愛知県南設楽郡鳳来寺村
豊川
500
横川 水力 愛知県南設楽郡長篠村
(豊川)
800
長篠 水力 愛知県南設楽郡長篠村
(豊川)
750
豊根 水力 愛知県北設楽郡豊根村
天竜川水系大入川)
3,450
西渡 水力 静岡県磐田郡山香村
(天竜川水系水窪川
2,400
気田 水力 静岡県周智郡気多村
(天竜川水系気田川
2,440
岡崎火力 汽力 愛知県岡崎市八帖町 1,200
大浜火力 汽力 愛知県碧海郡大浜町 10,000

電源としては上記発電所以外にも他事業者からの受電があった。主なものとしては、東邦電力からの受電(常時電力2万2,100キロワット・融通電力1万2,000キロワット)、富士電力湯山発電所からの受電(最大2万4,000キロワット)が挙げられる[59]

業績の推移

1930年度より1936年度までの各年度の収入・支出・純利益と配当率の推移は下表の通りである[60]決算期は3月末と9月末。収支のほか電灯・電力の供給実績も併記したが、このうち供給電力の単位については馬力キロワット (kW) が混在している。

年度 収入
(千円)
支出
(千円)
純利益
(千円)
配当率
(%)
取付電灯数
(灯)
供給電力
1930下 2,293 1,236 1,057 10.0 463,813 15,557馬力
15,944kW
1931上 3,352 1,940 1,411 9.0 460,451 30,771馬力
1931下 3,218 1,886 1,332 9.0 456,383 36,764馬力
1932上 3,269 1,990 1,279 8.5 460,232 37,220馬力
1932下 3,235 2,053 1,181 8.0 461,022 36,759馬力
1933上 3,370 2,172 1,198 8.0 478,717 34,565kW
1933下 3,485 2,290 1,195 8.0 470,536 46,943馬力
1934上 3,873 2,571 1,301 8.0 466,045 48,947馬力
1934下 3,893 2,527 1,365 8.0 477,327 55,196馬力
1935上 4,164 2,704 1,460 8.0 482,277 62,644馬力
1935下 4,402 2,804 1,597 8.0 492,176 71,587馬力
1936上 4,842 3,112 1,730 8.0 499,158 73,275馬力
1936下 5,023 3,225 1,797 8.0 510,511 78,722馬力

電気料金をめぐる紛争

中部電力管内のうち、岡崎市では岡崎電灯時代の1920年代後半、豊橋市では中部電力発足を挟む1920年代末から1930年代初頭にかけて電気料金の値下げをめぐって需要家との紛争が生じた。以下、この2つの都市における電気料金値下げ運動と会社側の対応について記述する。

岡崎市

昭和の初頭は、戦後恐慌金融恐慌を背景に全国的に電気料金値下げ運動が頻発した時代であった[61]。岡崎電灯管内の西三河では碧海郡安城町(現・安城市)がその嚆矢であり、会社への不満が表面化して1928年(昭和3年)9月に料金値下げ同盟が結成された[61]。この動きは福岡町(現・岡崎市)にも飛び火し、町民大会が開催されて料金値下げや付属料金の撤廃、設備改善などの要求が出された[61]。この事態を受けて岡崎電灯は同年11月に動力用電力の料金値下げに踏み切るが、一般家庭の電灯料金値下げについては見送った[61]

1929年(昭和4年)、値下げ問題は岡崎市にも上陸する[61]。7月、「岡崎民政青年団」(立憲民政党系の団体)がこの問題を取り上げ、経営の刷新、営業姿勢の改善、料金の値下げの3か条を会社に要求したのである[61]。岡崎市当局も動き出し、市長の名で料金に関する意見書を提出した[61]。この動きに岡崎電灯側も妥協し、1930年(昭和5年)4月から電灯料金を5%前後引き下げて問題は一応落着した[61]

豊橋市

発端

豊橋市での電気料金をめぐる紛争は1930年前後に発生したが、同市ではこれ以前、1920年代前半にも紛争が生じていた。

豊橋市における紛争の発端は、前身会社豊橋電気名古屋電灯の合併問題にまでさかのぼる。前述の通り両社は1921年4月に合併したが、この合併に前後して豊橋市は豊橋電気の市営化に動いていた[24]。監督官庁の合併認可が下りて合併が実施に移された後も豊橋市は名古屋電灯に対し事業の市営化を要求し続け、7月には合併不承認を豊橋市会で決議するに至る[24]。やがて市民の間でも名古屋電灯を非難する声が高まり、地元新聞や市会議員の活動も活発化して数千人の大衆を集めた演説会や市民大会が相次いで開催された[62]

料金値下げを求める運動は「電気料金値下期成同盟会」の結成へと発展する[62]。やがて市会での勢力争いに絡む政治問題と化したため、期成同盟会と名古屋電灯の間に川口彦治愛知県知事が仲裁に入り、電灯料金を引き下げ、合併記念として公会堂を建築して市に寄付する、といった条件で妥協が成立[62]。期成同盟会は11月に運動の終結と勝利を宣言した[62]。料金値下げは翌1922年7月からとされていたが会社の都合で後回しになり、東邦電力成立後の1923年(大正12年)12月から実施された[62]。これにより7%から32%の電灯料金値下げが実現し、例えば24燭灯は月額110銭から95銭となった[62]

こうして1923年に電灯料金値下げが実施されたが、その後も他都市と比較すると高価であるとの批判があった[63]。昭和に入り、1927年(昭和2年)になると豊橋市会で「電価委員会」が組織され、値下げ交渉が始まる[63]。その結果、同年11月に東邦電力は電灯料金の2割前後の値下げに踏み切った[63]。一例として24燭灯は月額80銭となり、近隣都市と同等ないし若干安い料金となるが、名古屋市(72銭)や静岡市(75銭)など大都市と比べると高い水準であった[63]。一方電力料金については、周囲の事情を斟酌して改訂する、ということになった[63]

1929年(昭和4年)1月、豊橋市会にて、電力料金が浜松市や岡崎市に比して高いため豊橋の産業発展を阻害している、という批判をある市議が行った[64]。この市議は市内および周辺の木材工業組合を中心として3月に「豊橋電動力需要組合」を組織し、東邦電力に対して電力料金の4割値下げを求める運動を起こす[64]。市会もこの問題につき動き出し、調査委員会を組織して東邦電力に値下げを要求した[64]。7月より東邦電力は交渉に応ずるが捗らないため、委員会では翌1930年4月改めて電力料金1割引、電灯料金の月額5銭値下げなどを求める[64]。だが交渉相手の東邦電力豊橋営業所が中部電力に再編されるなどの事情があり、交渉は行き詰った[64]

消灯運動と沈静化

交渉が停滞する中、1930年9月、市会の電気料金調査委員会は電動力需要組合と市内各町の総代(町内会代表者)を集めて協議会を開き、市民運動への転換を図った[65]。12月になると、再編の結果成立した中部電力は、委員会の要求とは異なるものの一部電灯・電力料金の引き下げに応ずると市当局に回答する[65]。これに対し市会・総代会・電動力組合の3者による連合委員会は運動存続論・打切り論が相半ばとなり論戦となった[65]

1931年(昭和6年)2月、連合委員会では総代会から強硬な主張が出て、引き続き電灯料金の2割値下げを要求することに決まった[65]。さらに会社側が要求を拒否する場合には、実際に料金の2割を支払わずにその分を総代会に供託することで抗争する、という方針も打ち出した[65]。かくして料金値下げ運動は総代会が主導する市民運動に発展する[65]。総代会の滞納運動に対し、会社側ではこれを拒絶して社員総出の集金・督促に打って出た[65]。会社の動きに対して総代会の主張は強硬化し、料金2割の滞納運動以外にも減灯・減燭などを奨励し始める[65]。さらに会社の態度は横暴そのものであるとして電気市営化の陳情を市長や市会議長に提出した[65]

5月、会社側は運動の急先鋒であった西小田原町にて、一部家庭の断線(供給停止)という措置に踏み切った[65]。これを受けて西小田原町内では町内一斉の「同情消灯」で対抗し、これを契機に市内全域に消灯運動が広がった[65]。消灯からさらに踏み込んで減灯・廃灯を決議する町内会が相次ぎ、やがて市内の目抜き通りに設置されていた街灯の明かりも大部分が消えていった[65]

消灯運動に発展しても値下げ交渉は進展せず、総代会は会社側を無誠意であると非難し、市内一斉の廃灯と会社側との絶縁を決議するという事態にまで発展した[66]。ところが6月になると、市民が消灯に飽きたことで消灯運動が下火になり、徐々に電灯が点き始める[66]。1か月間消灯を続けていた西小田原町も6月に入り一斉に復灯し、総代会も分裂して会社側が豊橋市に一定額を寄付するという代替案で妥協するべしという声も出始めた[66]。一方、中部電力豊橋営業所では、5月1日からの損害額を6月13日に発表[66]。それによれば減燭30万燭、廃灯7万燭、休灯2万9千燭、合計40万燭に及び、臨時の養蚕灯や扇風機の増加による増収を打ち消して月額4万円の減収となったという[66]

7月、豊橋商工会議所が紛争解決に乗り出す[66]。一方で総代会側は一斉廃灯を決議した手前、復灯が相次ぐ中で会社に対して積極的行動に出られなくなっていた[66]。8月、値下げには応じられないがそれに相当する代案であれば解決に向けて交渉する用意がある、と会社側は仲介を商工会議所へ申し出るが、最終的に仲介に失敗して商工会議所は退出してしまった[66]。解決しないまま10月を迎えると値下げ争議は市民の関心を失う[67]。ここに至って総代会は代案解決やむなしとして会社側と交渉に入り、10月31日に中部電力が総代会(「豊橋市電価問題代表者」)に7万円を寄付するという内容の覚書を交わして妥結した[67]。かくして紛争は終結し、総代会側は中部電力から寄付金を得て一部を西小田原町への見舞金とし残りを市内全戸に分配したが、長期にわたる運動の成果は1戸あたりわずかに3円60銭であった[67]

年表

岡崎電灯

  • 1896年(明治29年)
    • 岡崎電灯合資会社設立。資本金3万円[3]
  • 1897年(明治30年)
  • 1900年(明治33年)
    • 12月 - 岩津発電所の出力を50キロワットから102キロワットへ増強[44]
  • 1907年(明治40年)
    • 7月 - 合資会社から岡崎電灯株式会社へ改組。資本金50万円[5]
  • 1911年(明治44年)
    • 3月 - 東大見発電所運転開始(出力500キロワット)[44]
  • 1913年(大正2年)
    • 年内 - 資本金を100万円へ増資[5]
    • 3月 - 岩津発電所の出力を125キロワットへ増強[44]
  • 1914年(大正3年)
    • 6月 - 賀茂発電所運転開始(出力450キロワット)[44]
  • 1918年(大正7年)
    • 8月 - 資本金を210万円へ増資[5]
    • 10月 - 岡崎発電所運転開始(出力600キロワット)[44]
  • 1919年(大正8年)
    • 10月 - 足助発電所運転開始(出力1,565キロワット)[44]
    • 12月 - 小原発電所を名古屋電灯より譲り受ける[7]
  • 1920年(大正9年)
    • 4月 - 碧海電気を合併、資本金232万円となる[12]
    • 10月 - 資本金を500万円へ増資[12]
  • 1921年(大正10年)
    • 8月 - 小原発電所の出力を200キロワットから325キロワットへ増強[44]
  • 1922年(大正11年)
    • 1月 - 平坂電気を合併、資本金515万円となる[5]
    • 5月 - 岡崎発電所の出力を1,200キロワットへ増強[44]
    • 秋 - 資本金を1,050万円へ増資[5]
  • 1924年(大正13年)
    • 2月 - 大浜火力発電所運転開始(出力4,000キロワット)[44]
    • 11月 - 多治見電灯所に資本参加して中部電力(多治見)を設立[18]
  • 1926年(大正15年)
    • 3月 - 百月発電所運転開始(出力3,725キロワット)[44]
  • 1927年(昭和2年)
    • 1月 - 傍系会社の岡崎殖産を合併、あわせて資本金を2,300万円へ増資[18]
    • 5月 - 大浜発電所の出力を10,000キロワットへ増強[44]
  • 1928年(昭和3年)
    • 2月 - 水窪川水力電気西渡発電所からの受電を開始[19]
    • 11月 - 百月発電所の出力を5,380キロワットへ増強[44]
  • 1930年(昭和5年)
    • 2月20日 - 中部電力(岡崎)との間に合併契約を締結[33]
    • 3月 - 三河水力電気越戸発電所からの受電を開始[38]
    • 8月1日 - 中部電力(岡崎)との合併成立[41]、岡崎電灯解散

中部電力(岡崎)

  • 1930年(昭和5年)
    • 2月19日 - 中部電力株式会社設立。資本金1,300万円[33]
    • 8月1日 - 岡崎電灯を合併し、東邦電力から同社豊橋営業所管内の事業を譲り受ける[41]。合併に伴い資本金は3,945万円となる[33]
    • 8月25日 - 中部電力(多治見)を合併[41]、資本金4,385万円となる[38]
  • 1934年(昭和9年)
    • 2月 - 水窪川水力電気を合併[43]、資本金4,485万円となる[1]
    • 11月 - 阿摺発電所運転開始(出力4,000キロワット)[44]
  • 1935年(昭和10年)
  • 1936年(昭和11年)
    • 2月 - 天竜電気を合併[43]、資本金4,635万円となる[1]
  • 1937年(昭和12年)
    • 5月13日 - 東邦電力との間で合併契約を締結[47]
    • 8月31日 - 東邦電力と合併成立、中部電力解散[50]

脚注

  1. ^ a b c 『株式年鑑』昭和12年度、1937年、638頁。NDLJP:1072575/350
  2. ^ a b c d e 「岡崎電燈事始め」、58-61頁
  3. ^ a b c d e f g h 『三州電界統制史』、11-22頁
  4. ^ a b c 『中部地方電気事業史』上巻、36-39頁
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  59. ^ a b 『電気事業要覧』第28回、899-900・1056-1059頁、NDLJP:1073625/493
  60. ^ 『株式年鑑』各号(1931年刊の昭和6年度版(NDLJP:1075496/228)より1937年刊の昭和12年版(NDLJP:1072575/350)まで)に基づく。
  61. ^ a b c d e f g h 『新編岡崎市史』4、1059-1062頁
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  67. ^ a b c 『豊橋市史』第4巻、146-150頁

参考文献

  • 企業史
    • 桐沢伊久太郎(編)『矢作水力株式会社十年史』矢作水力、1929年。 NDLJP:1031632
    • 竹内文平『三州電界統制史』昭文閣書房、1930年。 
    • 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。 
    • 中村宏(編)『東邦電力技術史』東邦電力、1942年。 NDLJP:1059583
    • 名古屋電灯株式会社史編纂員(編)『稿本名古屋電灯株式会社史』中部電力能力開発センター、1927年編纂・1989年復刻出版。 
    • 富士電力『富士電力株式会社五十年史』富士電力、1942年。 
  • その他書籍
    • 新居町史編さん委員会(編)『新居町史』 第2巻通史編下、新居町、1990年。 
    • 大阪屋商店調査部(編)『株式年鑑』 各号、大同書院。 
    • 新編岡崎市史編集委員会(編)『新編岡崎市史』 4 近代、新編岡崎市史編さん委員会、1991年。 
    • 中部電力電気事業史編纂委員会(編)『中部地方電気事業史』 上巻・下巻、中部電力、1995年。 
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 各号、電気協会(逓信協会)。 
    • 電気之友社(編)『電気年鑑』 各号、電気之友社。 
    • 豊橋市史編集委員会(編)『豊橋市史』 第3巻近代編、豊橋市、1983年。 
    • 豊橋市史編集委員会(編)『豊橋市史』 第4巻現代編、豊橋市、1987年。 
    • 中野重義(編)『岡崎商工会議所五十年史』岡崎商工会議所、1942年。 NDLJP:1067822
    • 芳賀信男『東三河地方電気事業沿革史』2001年。 
  • 記事
    • 「中央に知られて居らぬ有望有利な地方株」『実業の日本』第37巻第8号、実業之日本社、1934年4月、106-107頁。 
    • 浅野伸一「岡崎電燈事始め」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第5回講演報告資料集 矢作川の電源開発史、中部産業遺産研究会、1997年、43-70頁。 
    • 浅野伸一「浜松地方電気事業沿革史」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第9回講演報告資料集 静岡の電気事業史とその遺産、中部産業遺産研究会、2001年、70-99頁。 
    • 田口憲一「多治見電灯と加藤乙三郎」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第8回講演報告資料集 岐阜の発電事業と地域社会、中部産業遺産研究会、2000年、46-56頁。