下村博文
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下村 博文 しもむら はくぶん | |
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生年月日 | 1954年5月23日(70歳) |
出生地 | 群馬県高崎市(旧群馬郡倉渕村) |
出身校 | 早稲田大学教育学部 |
前職 | 学習塾経営者 |
所属政党 |
(新自由クラブ→) (無所属→) 自由民主党(町村派) |
称号 | 教育学士(早稲田大学 1979年) |
公式サイト | 博文放送局 |
選挙区 | 東京11区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1996年 - 現職 |
選挙区 | 板橋区選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1989年 - 1996年 |
下村 博文(しもむら はくぶん、本名の読みは「ひろふみ」[1]、1954年5月23日 - )は、日本の政治家。衆議院議員。群馬県高崎市(旧倉渕村)出身。
略歴
内閣官房副長官、文部科学大臣政務官、法務大臣政務官などを歴任。自由民主党では副幹事長、国会対策副委員長、広報局次長、新聞局次長、議院運営委員会理事などを歴任。2009年6月現在は、社会教育・宗教関係団体委員会の委員長。あしなが育英会の副会長でもある。
- 1963年、小学3年生の時に父親を交通事故で亡くす[2]
- 1985年東京都議会議員選挙・板橋区に新自由クラブから出馬、落選。
- 1989年東京都議会議員選挙に民社党・社民連・進歩党推薦の無所属候補として初当選。
- 1993年東京都議会議員選挙に自民党から出馬、当選(2期目)。
- 1996年、第41回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、初当選。全ての自民党の派閥から誘いを受け、清和政策研究会へ入会。
- 1996年、同い年の親友で同じ派閥に所属する自民党青年局長安倍晋三の下で同次長。
- 2000年、第42回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、再選。自民党「明日を創る会」メンバーとして、石原伸晃らと共に自民党の“改革推進派”となる。
- 2002年、衆議院議事進行係に就任。自民党の文部科学部会副部会長。
- 2003年、第43回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、3選。
- 法務大臣政務官に - 全国の刑務所、少年院、教護院などを視察に訪れ、基礎的教育と人間教育、子供の発達に応じた指導法の必要性を痛感し、セミナーを頻繁に開催。
- 2005年、第44回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、4選。
- 文部科学大臣政務官に - 未来を見据えた教育のあり方、法整備に関する官民学の勉強会を立ち上げる。その後、自由民主党副幹事長に。皇室典範改正に対しては、慎重な姿勢を見せている。
- 2006年8月29日、日本政策研究センターのシンポジウムで、「いわゆる“自虐史観に基づいた歴史教科書”も官邸のチェックで改めさせる」との意向を表明した。同年9月26日、安倍内閣の内閣官房副長官に就任。
- 幼保一元化を推進するための制度改革に着手。福田康夫内閣では「留学生三十万人計画」の委員会委員長。
- 2009年、第45回衆議院議員総選挙に自民党から出馬、5選。
河野談話に関する論議
2006年10月25日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で講演し、従軍慰安婦問題で旧日本軍の強制を認めた1993年の河野洋平内閣官房長官(当時)の談話に関して「私自身の今後の検討課題」としながらも、将来的には見直すことも必要だとの考えを示した。この発言に対して民主党は強く反発し、同党の鳩山由紀夫幹事長から「歴史を勉強してほしい。相手の立場に立って考えなければならない。日本の国の威信は過ちを認めること。政府の高官が言うべきことではない」と強く批判された[4]。
人物像
- 担任教師だった人物の証言によれば、「貧乏で家に自分の本は一冊もなかったが、大変な読書家で小学生の時に図書館の蔵書3分の1に当たる約1000冊を読んでしまった。自分で弁当を作って裏山に行き、暗くなるまで読みふけっていた」。
- 小さい時は赤面症で人前で話ができなかった。それを告服するため高崎市立榛名中学校時代、構内弁論大会に出場。二年生で6位、三年生では準優勝し、やがて赤面症は治る。
- 高校生時代、家計を支えるために日経新聞の新聞配達のアルバイトをしていた。
- 早稲田大学時代、道路工事から豆腐屋、ウェイターなど多くのアルバイトをする。この時の出会いや経験は、のちに大きな社会勉強になったと述懐している(産経新聞[要検証 ])。
- 大学で学費値上げ反対の闘争が勃発。委員長となり、学生を組織化し、大学側と折衝した[要出典]。
- 早稲田大学雄弁会では、議員になるよりも難しいと言われた雄弁会幹事長に選出され、これを契機に多くの雄弁会出身の国会議員と知り合う。
- 生活のために大学在学中に学習塾「博文進学ゼミ」を主宰。最初は補習塾として生徒50人ほどの規模だったが、指導方法が人気を呼び2500名ほどを抱える中堅学習塾となった[5]。
- 1984年に出版した「塾ありのままの姿 コミュニティ塾創造を目指して」が、紀伊国屋書店新宿本店で人気書籍1位となった[要出典]。
- 初めて当選した都議会議員選挙では、交通遺児育英会の奨学生のべ100人超によるボランティア選挙が話題となる[要出典]。
- 1999年に出版された「未来を託す男たち」(細川珠生著 ぶんか社)では、鳩山由紀夫、町村信孝、谷垣禎一、岡田克也らとともに、“日本を変える次世代リーダー10人”に選ばれる。
- 小泉内閣で始まった構造改革特区では、教育分野(教育特区)の推進役となった。20年以上取り組んできた教育問題の中で「多様性のある教育」をする必要性を説き、不登校やLD児などの全国のNPO法人の代表に働きかけ、アメリカのチャータースクールのような学校の設立を教育特区で行うための勉強会を、官民NPO団体共同で開催した[6]。
- 2007年 安倍首相(当時)の初訪米の時、当時から懸念されていた米国における日本のプレゼンスの確保、増大、日米関係を支えるアメリカ側の人材育成という重要課題に取り組むために、官房副長官として官民学一体の会合をブレアハウスで開き、アメリカでの日本語教育、留学生支援を後押しした[7]。
- 2009年の第45回衆議院議員選挙では自民党への逆風が吹き荒れる中、新党日本新人の有田芳生に約3500票差まで詰め寄られたものの僅差で有田を下し、小選挙区で当選を果たした。東京都選出で下村以外に小選挙区当選を果たしたのは石原伸晃、平沢勝栄、井上信治の3人のみ。
主な所属議員連盟
著書
- 塾 そのありのままの姿(学陽書房)
- 学校を変える教育特区(大村書店)
- 教育激変―新教育基本法案がめざす「家庭」「学校」「日本」の10年後(明成社)
脚注
- ^ 衆議院議員 下村博文公式ウェブサイト: - 歴史教科書と日本人 - より
- ^ 鈴木哲夫『若き政治家下村博文』(河出書房新社)
- ^ 細川珠生『未来を託す男たち』(ぶんか社)
- ^ 民主党:「国民のためにならない」予算成立で鳩山幹事長が記者団に [1]
- ^ 「塾そのありのままの姿」学陽書房
- ^ 「学校を変える教育特区」大村書店
- ^ 「オバマのアメリカ・どうする日本」三和書房
関連項目
外部リンク
議会 | ||
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先代 七条明 |
衆議院法務委員長 2007年 - 2008年 |
次代 山本幸三 |
公職 | ||
先代 長勢甚遠 |
内閣官房副長官 (政務担当・衆議院) 2006年 - 2007年 |
次代 大野松茂 |