ジョージ・カニング

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ジョージ・カニング
George Canning
生年月日 1770年4月11日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 イングランドロンドン
没年月日 (1827-08-08) 1827年8月8日(57歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス イングランド・ロンドン
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 トーリー党
称号 枢密顧問官(PC)
親族 初代カニング伯爵チャールズ(三男)

在任期間 1827年4月10日 - 1827年8月8日
国王 ジョージ4世

内閣 第2次ポートランド公爵内閣
リヴァプール伯爵内閣
在任期間 1807年2月5日 - 1809年
1822年9月13日 - 1827年4月20日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ニュータウン選挙区英語版
ウェンドヴァー選挙区英語版[1]
トラリー選挙区英語版
ニュータウン選挙区英語版
ヘイスティングス選挙区英語版
ピーターズフィールド選挙区英語版
リヴァプール選挙区英語版
ハリッジ選挙区英語版
ニューポート選挙区英語版
シーフォード選挙区英語版[2]
在任期間 1793年 - 1796年
1796年 - 1801年[1]
1802年7月24日1806年11月17日
1806年11月3日1807年5月7日
1807年5月5日1812年10月6日
1812年10月9日1812年12月24日
1812年10月16日1823年2月15日
1823年2月10日1826年6月12日
1826年6月13日1827年4月24日
1827年4月20日 - 1827年9月5日[2]
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ジョージ・カニング閣下: The Rt.Hon. George Canning, PC1770年4月11日 - 1827年8月8日)は、イギリスの政治家。

小ピット子飼いの政治家として政治キャリアを積み、外務大臣(在職1807年-1809年1822年-1827年)として活躍した後、最晩年に短期間だが首相(在職1827年4月-8月)を務めた。トーリー党所属ながら自由主義的な政治家だった。

生涯

生い立ち

ロンドンウェストミンスターメリルボーン出身。父親はロンドンデリーの裕福な家庭の出身だったが、勘当され、またカニングの誕生から1年で病死したため、カニングの幼少期の生活は困窮した。母親が旅芸人の役者になって生活をしのいだ。しかし父方の親族がその困窮ぶりに同情し、学費を援助してくれたおかげで、カニングはイートン校で学び、オックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジへ進学することができた。学内では古典の成績が優秀で、雄弁家としても知られたが、急進的なジャコバン主義的な傾向があったという[3]

1793年ニュータウン選挙区英語版から選出されて庶民院議員として政界入りした[1]

学生時代にはジャコバン主義的だったカニングもフランス革命が過激化してくると警戒を強め、小ピットの支持者となった[3]

対仏戦争期

フランス革命戦争中の1796年11月、小ピット首相のもとで外務政務次官に就任。小ピット首相の意を汲んでフランスとの講和交渉を目指したが、1797年9月に対英強硬派のジャコバン派がクーデタによりフランスの政権を掌握したことで交渉はとん挫した[4]1799年からはインド問題担当のコミッショナーに転じる[1]1800年から1801年にかけては陸軍支払長官英語版を務めた[1]1800年ジョアン・スコットと結婚したことで経済的にゆとりができた[3]

小ピットは、アイルランドとの国家統合(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)にあたってカトリック解放を支持していたが、それが原因で1801年1月に閣内分裂を起こし、また国王ジョージ3世とも対立を深め、2月に総辞職を余儀なくされた[5]。カニングも小ピットに従って下野した[3]。その後、カニングは庶民院において小ピットの後任の首相初代シドマス子爵ヘンリー・アディントン内閣に対して激しい批判を行うようになった[6]

1804年5月に小ピットが再度首相となり[7]、カニングは同内閣で海軍会計長官英語版に任じられ、1806年まで務めた[1]。1806年に小ピットは死去したが、1807年にはポートランド公爵内閣の外務大臣に就任した。デンマークの艦隊がナポレオンの支配下に収まるのを阻止すべく、デンマーク艦隊を拿捕するうえで中心的役割を果たした[3]。しかしカニングはイベリア半島戦争の熱心な支持者として、当時の陸軍大臣カッスルレイ子爵と管轄権をめぐって対立を深めた。両者は1809年9月には決闘を行うにまで至り、しかも同時期に決闘についての証人だった首相ポートランド公爵が死去したため、この事件でカニングの評判は悪くなった[3][8]

リヴァプール伯爵内閣の閣僚

外務大臣就任前

1812年リヴァプール伯爵内閣が成立するとその外務大臣に誘われたが、カニングは庶民院院内総務の地位も要求し、これが認められなかったため、入閣しなかった[9]

1816年からインド庁長官として入閣できたが、カニングはキャロライン王妃と親しい関係にあったため、国王ジョージ4世のキャロライン王妃への扱いに反発して1821年1月に辞職した[10]

外務大臣として

この後、インド総督ヘイスティングス侯爵の後任としてインド総督に就任することが内定したが[11]1822年8月に外相カッスルレイ子爵が自殺したのを受けて首相リヴァプール伯爵の求めにより[注釈 1]外務大臣庶民院院内総務に就任することになった(在任:1822年 - 1827年)[12]

ウィーン体制を支えた盟約である神聖同盟ロシア帝国オーストリア帝国プロイセン王国)とは一線を画した外交政策を行った[13]。ロシアのレヴァント進出を阻止する意図でギリシア独立を支援した[14]。またラテンアメリカで起こっていたスペインからの独立運動を、自国の市場拡大をもくろんで支持する立場をとったことでも知られる。これらは以降のイギリス政府の「自由貿易帝国主義」の基礎となった[15]

国内では、蔵相フレデリック・ロビンソン、商務庁長官ウィリアム・ハスキソン、内相ロバート・ピールらとともにトーリー内自由主義派として行動した。彼らの活動と「反動派」シドマス子爵の引退が重なって、リヴァプール伯爵内閣は反動的性質を改めて「自由トーリー時代」と呼ばれる改革路線に舵を切るようになった[12][16]

しかしカニングら自由主義派閣僚は保守的な閣僚ウェリントン公爵エルドン伯爵英語版らと対立を深めていった[17][18]。とりわけカトリック解放問題で閣内分裂は深刻化した。これはイングランド国教会信徒にしか公務就任が認められていない現状に対してカトリックの公務就任を認めるべきか否かという問題であったが、この問題ではカニングとハスキソンがカトリック解放を支持する一方、ピールがカトリック解放に強く反対していた[17]

首相リヴァプール伯爵は一貫して閣内融和に努め、カニングもピールもリヴァプール伯爵内閣を存続させることでは一致していたものの、1827年2月にリヴァプール伯爵が脳卒中で倒れたことで情勢は変化した。カニングとピールはともに相手の内閣で閣僚になる事を拒否したため、国王ジョージ4世としてはどちらかを切らねばならなかった。国王はカニング、ピール共に嫌っていたが、最終的にはカニングに組閣の大命を与える決断を下した[19]

首相就任と死去

1827年4月10日に国王ジョージ4世から組閣の大命を受けて首相に就任した。しかしトーリー党内からは「カトリック派内閣」として評判が悪く、ピール、ウェリントン公爵、バサースト伯爵ウェストモーランド伯爵ら党有力者のほとんどが敵に回った内閣となった。結局カニングは野党ホイッグ党の中の穏健派(ランズダウン侯爵派)と連立して政権運営するしかなかった[20]

しかし首相就任からわずか4カ月後の8月8日早朝に、西ロンドンのチジックハウスで病死した[21]。後任の首相には国王の人選によりカニング内閣陸相ゴドリッチ子爵フレデリック・ロビンソンが就任している[22]

人物

ウィリアム・ワード画のカニング

カニングが外相に就任してからイギリスとヨーロッパの自由主義は刺激された。そのため国内外の進歩派から英雄視された。「カニング派英語版」と呼ばれる子飼の議員たちを残したことで、死後もイギリス政界に大きな影響を与えた。カニング派の多くはホイッグ党で重鎮となっている(後に首相となったメルバーン子爵パーマストン子爵など)[23]

トーリー党内自由主義派として知られたカニングだったが、腐敗選挙区の削減をはじめとする議会改革案には最後まで慎重であるなど保守的傾向も持っていた[24]

栄典

家族

1800年に陸軍将官ジョン・スコット英語版の娘ジョアン・スコット(彼女はカニングの死後に初代カニング女子爵に叙される)と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲ける[1]

  • 第1子(長男)ジョージ・チャールズ・カニング(1801-1820)
  • 第2子(次男)ウィリアム・ピット・カニング閣下(1802-1828)
  • 第3子(長女)ハリエット・カニング(1804-1876):初代クランリカード侯爵ウリック・ド・バーグと結婚。
  • 第4子(三男)初代カニング伯爵チャールズ・カニング(1812-1862):政治家。インド総督などを歴任。

脚注

注釈

  1. ^ カニングと対立関係にあった国王ジョージ4世は当然反対したが、首相リヴァプール伯爵が説得した[12]

出典

参考文献

  • 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年(平成11年)。ISBN 978-4641049697 
  • 君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代』有斐閣、2006年(平成18年)。ISBN 978-4641173224 
  • 坂井秀夫『イギリス外交の源流 小ピットの体制像』創文社、1982年(昭和57年)。ASIN B000J7I54W 
  • G.M.トレヴェリアン 著、大野真弓 訳『イギリス史 3』みすず書房、1975年(昭和50年)。ISBN 978-4622020370 
  • 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370 
  • 村岡健次木畑洋一編 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300 
  • 『世界伝記大事典〈世界編 3〉カークリ』ほるぷ出版、1981年(昭和56年)。ASIN B000J7XCOK 

外部リンク

公職
先代
ダドリー・ライダー英語版
トーマス・スティール英語版
イギリスの旗 陸軍支払長官英語版
1800年 - 1801年
トーマス・スティール英語版とともに
次代
トーマス・スティール英語版
初代グレンバーヴィ男爵英語版
先代
ジョージ・ティアニー英語版
イギリスの旗 海軍会計長官英語版
1804年1806年
次代
リチャード・ブリンズリー・シェリダン
先代
ホーウィック子爵
イギリスの旗 外務大臣
1807年1809年
次代
第3代バサースト伯爵
先代
第4代バッキンガムシャー伯爵
イギリスの旗 インド庁長官
1816年1821年
次代
チャールズ・バサースト英語版
先代
第2代ロンドンデリー侯爵
イギリスの旗 外務大臣
1822年1827年
次代
第4代ダドリー・アンド・ワード子爵英語版
イギリスの旗 庶民院院内総務
1822年1827年
次代
ウィリアム・ハスキソン
先代
第2代リヴァプール伯爵
イギリスの旗 首相
1827年
次代
初代ゴドリッチ子爵
先代
フレデリック・ジョン・ロビンソン
イギリスの旗 財務大臣
1827年
次代
ジョン・チャールズ・ハリス英語版