池袋通り魔殺人事件
| 池袋通り魔殺人事件 | |
|---|---|
| 場所 | 日本 東京都豊島区東池袋 |
| 座標 | 北緯35度43分48.3秒 東経139度42分59.1秒 / 北緯35.730083度 東経139.716417度座標: 北緯35度43分48.3秒 東経139度42分59.1秒 / 北緯35.730083度 東経139.716417度 |
| 日付 | 1999年9月8日 |
| 標的 | 民間人 |
| 攻撃手段 | 包丁と金槌 |
| 死亡者 | 2人 |
| 負傷者 | 6人 |
池袋通り魔殺人事件(いけぶくろとおりまさつじんじけん)とは、1999年(平成11年)に発生した通り魔事件である。
目次 |
概要 [編集]
1999年9月8日午前11時40分頃、東京都豊島区東池袋の東急ハンズ前で23歳の男が包丁と金槌で通行人を襲い、2人(66歳女性と29歳女性)が死亡し、6人が重軽傷を負った。
被告人は2002年1月18日、東京地方裁判所(大野市太郎裁判長)で死刑の判決を受けた。被告人は判決を不服として控訴したが、2003年9月29日の東京高等裁判所(原田國男裁判長)判決で控訴は棄却された。2007年4月19日には最高裁判所(第一小法廷・横尾和子裁判長)においても上告が棄却され、判決は確定した。
被告人の人生・犯行動機 [編集]
被告人は岡山県倉敷市に生まれ、両親、兄との4人で生活していた。3歳で一家が引越しし、児島郡灘崎町(現:岡山市南区)で育った。
被告人が小学校高学年の頃から、両親はギャンブルに溺れるようになった。父が親の遺産を相続し、大金を手にしたのがその原因であった。[1]被告人が中学生になると両親のギャンブル癖は悪化の一路を辿ったが、中学3年の時、勉強に打ち込んだ成果があって、進学校とされる高校に入学できた。
高校時代は影が薄くて目立たない生徒だと言われていたが、成績は優秀だった。しかし、両親の賭博は止むことはなく、ついには数千万円の借金を残して失踪。残された彼の家には借金取りが連日のように押しかけてくるようになった。兄は大学生として一人暮らしをしていたため、被告人一人が借金取りの対応に迫られることになった。
経済的な困窮から、高校生活や夢見た大学への進学も破綻した。以後、一時は兄の下へ身を寄せ、パチンコ屋で住み込みで働くようになった。一時期、両親も被告人と兄の下へ帰参していたが、再び蒸発した。その後は塗装会社、照明器具工場、自動車部品工場など、各地で職を転々とした。この間、小学校時代同級生であったある女性に好意を抱き、彼女に対して執拗なアプローチを行い、ストーカーのような行為にまで走ることがあった。[2]
日本での人生に絶望した彼は、1998年、新天地を求めてアメリカに短期渡航した。ロサンゼルス、サンフランシスコ、ポートランドと向かったが、十分な滞在費がなく、途中で行き倒れて日本大使館に保護された。就職先もなかったので、大使館の紹介で、現地のキリスト教会の牧師に事情を話し、教会の仕事を手伝うのと引き換えに衣食の面倒を見てもらっていたという。逮捕後の取調べ時には、この時期が人生で最も充実していたと回想している。
しかし、こうした現地での生活も、ビザの失効と同時に終わった。帰国後、被告人はパスポートを破り捨てたという。[3]その後は、働きながらの大学への通学も考えたが費用の面から頓挫。犯行当時は都内の新聞販売店を辞めた直後だった。
犯行動機は、人生に絶望し、またどうしようもない環境的な不平等にいらいらした為、と供述している。直接のきっかけは、事件直前に夜勤をしていた際、自分の携帯電話にかかってきた無言電話によるという。犯行当日、殺人を予告するレポート用紙をアパートの自室の扉の外側に張りつけた。
本人の供述では、およそ「真面目な人がさらにさらに苦しむ一方で、遊んで楽をしていられる身分の人たちがいることに嫌気がさした」と言っていた。
1997年夏、被告人は外務省や警察庁にあてて支離滅裂な内容の手紙を送りつけていた。[4]
その他 [編集]
この事件の3週間後に下関通り魔殺人事件が発生した。下関の犯人は公判の中で、「池袋の事件を意識した」と、池袋通り魔殺人事件の影響に言及した。
脚注 [編集]
参考文献 [編集]
- 最高裁判所(2007年4月19日)平成15(あ)2619、集刑291号555頁、2010年9月1日閲覧。
- 東京地方裁判所(2002年1月18日)平成11合(わ)387、2010年9月1日閲覧。
- 片田珠美「無差別殺人の精神分析」(新潮選書)