東武2000系電車
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2000系電車(2000けいでんしゃ)は、1961年(昭和36年)に登場した東武鉄道初のカルダン駆動方式の通勤形電車である。
本稿では、2000系を改造した2080系電車についても記述する。
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[編集] 概要
1962年(昭和37年)に開始された帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線への直通乗り入れ用として開発された。オール電動車、M+M'ユニット、全金属製車体、両開きドア、アルミデコラの内装など、東武としては初めての技術・仕様を多数採用し、最終的に160両(8両編成20本)が製造された。
東武の通勤車で初めてカルダン駆動、空気バネ台車を採用した。1720系と同じ定格出力75kWの主電動機に歯車比6.31という組合せだが、制御器は一般的な発電ブレーキ付き多段制御(日立製作所製MMC-HTB-10C)で、起動加速度は3.5km/h/sと営団3000系や東京急行電鉄7000系に及ばない反面、最弱め界磁率20%のため高速性が比較的良かった。
特徴的なのは営団3000系・東急7000系がステンレス車体なのに対し、本系列は鋼製車体を採用したことである。
当初、東武は乗り入れ車規格を7800系と同じく車体全長20mにすることを主張したが、当時18m車を使用していた営団・東急が難色を示し、両者に合わせ車体長が18mとなった。しかし、その後営団・東急も20m車が標準となったため、東武線・東急線内で18・20m車の編成が混在し、輸送力増強のネックにもなるなど現在に至るまで禍根を残すこととなった。屋根・天井が8000系以降の車両よりも少し低く、強制送風機(ファンデリア)が千鳥状に配置されていた(冬期は蓋がされる)ことや、初期の車両は蛍光灯にカバーが装着されていたことなどが特徴であった。
台車は1960年登場の1720系に引き続きアルストム式の軸箱支持方式が採用された。また後期製造車の中には、台車が1720系から流用された車両も存在していた。
車両番号は熊谷線(1983年(昭和58年)に廃線)に投入された気動車としてキハ2000形が存在し、2001から2003の番号が付与されていたことから、重複を避けるためかモハ2101から付与されている。
[編集] 塗装
2000系の塗装の変遷は、日比谷線直通車と2000系のステータス(存在価値)の変化でもある。
- 登場当時は日比谷線直通車が識別出来るよう、2000系のみロイヤルベージュ地に窓周りはインターナショナルオレンジであった。後に8000系が登場すると、全てのロングシート通勤車が同色となった。
- 1974年(昭和49年)以降、全てのロングシート通勤車と共にセイジクリーム一色に変更された。
- 1985年(昭和60年)以降、3000系列・5000系列・8000系がジャスミンホワイトにブルーの濃淡のラインを施した塗装に順次塗り変えられた後も、2000系は日比谷線直通車との誤乗防止対策のため、廃車までセイジクリーム塗色を保った。
[編集] 歴史
1961年7月13日に営業運転を開始し、翌1962年5月31日から、日比谷線との相互直通運転を開始した。従来の吊り掛け式電車に比べて約2倍もの起動加速度であったため、車内で乗客がヨロヨロし、登場当時は慣れない乗客が2000系が来ると高加速・急減速を嫌って列車を見送るというエピソードを持つ。直通運転開始前は準急にも使用され、浅草駅や羽生駅などにも入線し、「杉戸」、「羽生」、「太田」などの行き先表示も持っていた。
当初は4両編成10本だったが、沿線開発が急速に進んだため輸送力増強が図られ、1964年(昭和39年)に6両編成となり、1966年に6両編成4本、1968年、1969年、1970年に6両編成各2本が増備され、全20編成が揃った。また、1971年(昭和46年)にはさらに中間車2両を組み込み、8両編成となった。
1967年(昭和42年)モハ2109が事故。後に新造して復旧。
1968年(昭和43年)、日比谷線神谷町駅付近で電気系統の故障による火災が発生し、車両1両が炎上した。回送列車だったためけが人はなかった。この火災を契機として、地下鉄用車両の安全基準が見直され、「A-A基準」と称される安全基準が策定された。同年に被災車であるモハ2312は新造のうえ復旧。営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故も参照のこと。
1988年(昭和63年)からは営団も車両冷房に踏み切ることとなり当系列も冷房化が検討されたが、初期車は車齢30年に近付き老朽化・陳腐化してきたことから無理に冷房改造するよりも新車に取り替えた方が得策と判断し、後継車の20000系は同年3月25日から営業運転を開始した。
これに伴い、同年2月16日から2000系の廃車が始まり、1993年(平成5年)8月1日の2118Fによるさよなら運転をもって全廃となった。
北館林荷扱所への廃車回送の際に行先表示が「浅草」、運行表示が「快速」と表示されて運転されたこともある。
その後、台車と主電動機の一部は中古部品として伊予鉄道に譲渡され、元京王帝都電鉄(現・京王電鉄)5000系の車体と組み合わせた700系と新製車体と組み合わせた610系として使用されているが、営団3000系や東急7000系(一部は7700系として運用)とは異なり、車両そのものを譲渡した例はなかった。
[編集] 2080系
[編集] 改造の経緯
日比谷線直通用の新車20000系が登場した1988年当時、野田線で使用されていた3000系の置き換えのため、本線や東上線に10030系を新製配置して5000系列を野田線へ転属させるといった「玉突き転配」が行われていた。
同時に2000系も活用して3000系の置き換えを促進することになり、2000系のうち比較的車歴の若い中間車(1971年製のモハ2550形とモハ2650形)を種車とした6両固定編成の2080系が1988年5月に登場した (2181F) 。改造は西新井工場内にある津覇車輌で行われた。なお登場当時、乗客には冷房付の新型車と勘違いされたという。
種車が中間車のため、先頭車化改造が行われた。前面形状は20000系に類似するが、非貫通式である。当時野田線の変電所の電力供給能力が低く電力を大量に消費できない上、野田線では高い加速度は必要としないことから、一部中間車両を付随車 (T) 化し、MT比4M2Tとして編成出力を落とした。塗装は野田線の他の通勤車と同じく白地に青色系の帯とした。
1988年度、2000系は8両編成2本が取り替え対象になっていたが、その編成から1971年製の中間車(計4両)を抜き取り、さらに取り替え対象になっていない別編成から中間車2両を抜き取って種車を確保した。取り替え対象になっていない編成は、取り替え対象の編成の中間車2両を充当し8両編成に戻している。同じ方法で、第2編成(2182F、1989年11月落成)の種車も確保した。
計画では野田線用として6両編成6本が登場する予定だった。しかし、全電動車方式で設計された2000系を無理に一部電装解除した事などが災いして故障が頻発したこと、加えて冷房車が常識となりつつある時期に非冷房車のまま投入したため乗客の評判も悪かったことなどから、6両編成2本をもって改造は中止となった。また、野田線から撤退後に支線区へ転用させる計画もあったが、こちらも前記と同様の理由で見送りになった。
冷房装置搭載については、屋根構造の関係や冷房用電源取付スペースがなく不可能だったともいわれている。
[編集] 運用
1991年(平成3年)以降は、野田線の柏~船橋間の運用は8000系と5000系列による20m車に統一されたため、3000系とともに大宮~柏間での運用に限定されていた。
[編集] 廃車
1992年(平成4年)12月に野田線が8000系・5000系列により20m車に統一されたことに伴い、3000系列(3000系全車及び3050系の一部)とともに、改造後4年程度で種車である2000系よりも早く全車廃車、北館林荷扱所で解体された。
一時期宇都宮線等への転用も計画されたが、結局見送られた。
[編集] 外部リンク
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