下関駅放火事件

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下関旧駅舎(2002年8月22日撮影)

下関駅放火事件(しものせきえきほうかじけん)は2006年平成18年)1月7日西日本旅客鉄道(JR西日本)の下関駅東口駅舎などが放火により全焼した事件。

目次

[編集] 概要

1月7日午前1時50分ごろ、下関駅構内のプレハブ倉庫から出火、駅舎に延焼した。

木造平屋建ての駅舎東口が全焼。同建物(1942年建築)は特徴的な三角屋根を持ち、下関のシンボル的な存在だった。また下関乗務員センターや出火元の倉庫も全焼、焼失面積は延べ約3840平方メートルに及んだ。人的被害はなく、高架上にあるホーム線路架線にも被害はなかった。

同日、現場近くにいた74歳の無職の男性が放火の容疑で下関警察署逮捕された。男性は2001年にも福岡県内で放火未遂事件を起こし逮捕されており、前月12月刑務所を出たばかりだった。男性は過去10回にわたって服役を繰り返してきた知的障害者、いわゆる「累犯障害者」だった。事件の半日前には北九州内の区役所に生活保護を申請しに行き、「刑務所から出てきたばかりで住むところがない」というと「住所がないと駄目だ」と相手にされず、そこで下関行きの切符を一枚もらったのだという(切符がもらえる仕組みは行旅人の記事を参照のこと)。動機は「刑務所に戻りたかったから」(『累犯障害者』山本譲司著より)。男性は1月27日山口地方裁判所下関支部に起訴され、2009年現在、山口刑務所受刑者として収監されている。

2008年3月26日山口地方裁判所で本事件の判決が言い渡され、山本恵三裁判長は「本件による駅の被害額が5億円にも昇り、列車運行に大変な支障を来たした罪は重い」として男性に懲役10年の実刑判決を言い渡した[1][2]

[編集] 列車運行への影響

配電盤の焼失で列車無線に影響が出たことなどから、1月7日は山陽本線小月 - 門司間(この日に限り門司駅ではなく門司港駅にバスは発着した)、山陰本線の幡生-滝部間で終日運行を見合わせ、287本の列車が運休。8日は山陽本線の下関-新山口間と、山陰本線の幡生-長門市間で間引き運転が行われ、112本の列車が運休した。両日とも一部区間においてバスによる代行輸送が行われた。9日には通常ダイヤに戻った。

1月7日に下関駅を経由する下り寝台特急新下関駅で運転打ち切りとなり、上り寝台特急は全列車運休となった。

1月8日発の下関駅を経由する上り下りの寝台特急は全列車運休となった。

下関駅は事件後しばらくの間は西口と北口のみを使用。1月19日に東口が仮復旧した。仮復旧時には駅舎跡地をフェンスで囲んで通路のみが残されていたが、その後通路北側にプレハブの駅舎を建設、旧駅舎にあった下関市役所サテライトオフィスやATMが入居し、暫定的に復旧している。

駅舎焼失後に仮対処がなされた東口(2006年3月5日撮影)
下関駅東口(暫定復旧後・2007年5月20日撮影)

[編集] 火災拡大の原因

東口の駅舎は高い三角屋根と、吹き抜けになったコンコースを持ち、風の流入で火勢が強くなりやすい構造だったにもかかわらず、耐火構造になっていなかった。この日の下関市は冬型の気圧配置が続き、時折雪を伴った北西からの強風が吹いており、気象台からは風雪注意報が発表されていた。また、スプリンクラー設備も、消防法で設置が義務付けられる基準に達していなかったため、駅舎に備え付けられていなかった。こうした要因が複合して、延焼が拡大したと指摘されている。

[編集] 事件の余波

事件後の1月11日、JR西日本は管内にある他の駅の防火対策を強化する意向を表明。特に、木造駅舎の防火設備の設置状況が適正かどうか精査するとした。

駅舎の建て替えをめぐっては、既に2004年より、下関市とJR西日本、民間金融機関が協議会を設置、具体的な建て替え案の策定作業に入っており、2005年度末には新駅ビル建設を含む建て替えの基本コンセプトを公表している。事件を受け、下関市やJR西日本などでは今後のスケジュールの前倒しを行うかどうか検討することにしている。

[編集] その他

事件後、下関駅に保存されてきた「振鈴」が一時行方不明になった。

振鈴とは列車の発車時刻を知らせたハンドベルで、下関駅では明治時代から大正時代にかけ使用されていた。振鈴は1月10日になって、駅長室の焼け跡から発見された。木箱や柄の部分は焼失したが、鐘本体に異状はなく音色はそのままの状態に残されており、焼けた部分は三角屋根の焼け残った柱の一部を切り出して加工・修復し、事件の資料として下関駅にて保管されている。

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

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