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笹本信二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
笹本 信二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県板野郡松茂町
生年月日 (1952-04-18) 1952年4月18日(72歳)
身長
体重
172 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 捕手外野手
プロ入り 1974年 ドラフト3位
初出場 1975年4月22日
最終出場 1985年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

笹本 信二(ささもと しんじ、1952年4月18日 - )は、徳島県板野郡松茂町[1]出身の元プロ野球選手捕手)。

来歴・人物

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鳴門高校では2年次の1969年、四番打者、捕手、主将として秋季四国大会決勝に進出。大北敏博細川安雄のバッテリーを擁する高松商を降して優勝し、1970年春の選抜への出場を決める[1]。大会では下手投げエース落合登を擁して勝ち進み、準々決勝は淡口憲治羽田耕一のいた三田学園に1-0で完封勝利、しかし準決勝では北陽高に2-6で敗れる[2]。同年夏は南四国大会準決勝で高知商の中沢一彦(法大三菱自動車川崎)に抑えられ敗退、甲子園には届かなかった。高校卒業後は1971年同志社大学に進学し、渡辺博之監督の指導を受け、1年下のエース田尾安志とバッテリーを組み活躍。関西六大学野球リーグでは1年次の同年春季から全試合に出場し優勝4回、ベストナインに4回選出される。リーグ戦通算95試合出場、346打数86安打、打率.249、8本塁打を記録。3年次の1973年には第4回明治神宮野球大会で決勝に進出するが、栗橋茂を打の主軸とする駒大に敗れ準優勝にとどまる。

1974年のドラフト3位で阪神タイガースに入団[1]。当時の正捕手は田淵幸一であったが、1年目の1975年から6試合に先発出場を果たす[3]。同年にはジュニアオールスターゲームにも出場してMVPを獲得しているが、一軍では出場機会がなかなか得られず、1977年のシーズン前に竹村一義新井良夫との交換トレードで阪急ブレーブスへ移籍[1]。ここでも中沢伸二の控え捕手となり、4月24日ロッテ戦(西宮)で5度の盗塁阻止を記録したが、これは1試合に於ける盗塁阻止数の日本プロ野球タイ記録[4]である。1978年ヤクルトとの日本シリーズでは2試合に代走、代打として出場した。1979年は打撃が好調を維持し、先発は22試合にとどまるものの、代打の切り札としても起用される。自己最高の打率.327を残し、1981年には中沢がシーズン中盤に欠場したため、36試合に先発マスクを被った。1982年4月藤城和明との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍[1]。ここでは山倉和博の控え捕手を務め、代打としても起用された。1983年には10試合に先発し、西武との日本シリーズでは、10月29日の第1戦(西武)で9回表に加藤初の代打として起用され、東尾修から安打を放つ。1984年には11試合に先発するが、1985年には控え捕手としての起用も減少し、1986年限りで現役引退[1]

引退後はスコアラーを務め[1]2015年から2017年までジャイアンツアカデミー校長を務めた。

プロ選手時代のポジションは主に捕手であったが、阪急では5試合に外野手として守備に就いた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1975 阪神 33 25 23 4 5 1 2 0 10 5 0 2 0 0 2 0 0 9 1 .217 .280 .435 .715
1976 14 15 13 2 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 2 0 0 4 0 .077 .200 .077 .277
1977 阪急 45 35 32 10 3 0 1 1 8 3 4 2 0 0 2 0 1 5 0 .094 .171 .250 .421
1978 37 21 19 8 1 0 0 0 1 1 0 1 0 0 2 0 0 3 0 .053 .143 .053 .195
1979 68 123 113 18 37 7 3 2 56 21 4 0 1 1 8 1 0 20 4 .327 .369 .496 .864
1980 79 150 129 18 34 8 0 7 63 25 6 0 0 2 18 0 1 17 1 .264 .353 .488 .842
1981 74 144 127 19 35 4 1 2 47 15 5 2 4 0 12 2 1 15 1 .276 .343 .370 .713
1982 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 ---- 1.000 ---- 1.000
巨人 22 23 20 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 2 0 1 5 0 .200 .304 .200 .504
'82計 23 24 20 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 3 0 1 5 0 .200 .333 .200 .533
1983 30 57 48 4 12 4 0 0 16 2 0 0 1 1 7 1 0 5 0 .250 .339 .333 .673
1984 39 61 56 6 10 2 0 3 21 7 0 0 2 1 2 1 0 12 0 .179 .203 .375 .578
1985 20 20 18 3 3 2 0 1 8 2 0 0 1 0 1 0 0 3 0 .167 .211 .444 .655
通算:11年 462 675 598 92 145 28 7 16 235 82 20 7 9 5 59 5 4 98 7 .242 .312 .393 .705

年度別守備成績

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年度 試合数 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1975 24 7 4 .364
1976 2 0 1 1.000
1977 16 5 6 .545
1978 24 10 1 .091
1979 62 35 13 .271
1980 50 21 7 .351
1981 57 24 13 .351
1982 14 2 0 .000
1983 24 9 4 .308
1984 33 13 4 .235
1985 12 4 0 .000
通算 318 130 53 .290

記録

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表彰

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背番号

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  • 20 (1975年 - 1976年)
  • 28 (1977年 - 1982年途中)
  • 22 (1982年途中 - 1986年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、250ページ
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 【田所龍一 虎番疾風録 Vol.73】「右翼は難しい…」岡田の拙守かばった田淵幸一の思い (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト
  4. ^ 他に1951年8月23日名古屋戦(大阪)にて門前眞佐人1991年8月27日広島戦(広島市民)にて谷繁元信が記録

関連項目

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外部リンク

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