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大北敏博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大北 敏博
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県坂出市
生年月日 (1952-07-25) 1952年7月25日(72歳)
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手二塁手三塁手
プロ入り 1970年 ドラフト2位
初出場 1977年4月17日
最終出場 1980年4月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大北 敏博(おおきた としひろ、1952年7月25日[1] - )は、香川県[2]出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物

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高松商業高校では、1968年1年生の時に三塁手として夏の甲子園に出場。3回戦に進むが、静岡商新浦壽夫投手に0-14で完封負け。2年上のチームメートに吉村健二がいた。翌1969年からエースとして活躍、同期の細川安雄一塁手とともに打線の主軸もこなした。同年夏の甲子園予選北四国大会で決勝に進出するが、松山商井上明投手に完封され敗退。松山商は甲子園で優勝した。

3年生時の1970年には、細川が捕手に回りバッテリーを組む。春夏の甲子園に出場[2]春の選抜では1回戦で富山商と延長12回の熱戦の末、1-2で惜敗。この試合ではリリーフながら16三振を奪っている。夏の選手権では1回戦から3試合連続完封勝利の活躍を見せる。しかし準決勝でPL学園新美敏投手と投げ合い5-16で敗退した。投手ながら打力に優れ、高校時代通算で、打率.420、18本塁打を記録している[3]

甲子園大会が終了すると、巨人中日広島阪急などプロ野球の数球団から入団の打診を受ける。しかし、大北は東京六大学野球に憧れ、特に早慶戦のマウンドに立つことが夢で、ドラフト会議直前までは早稲田大学への進学を表明、早稲田大学野球部のセレクションに参加するとともに、勧誘を受けた全球団に対してプロ拒否の意向を伝えていた。ところが、ドラフトで巨人に2位指名されると一転してプロ入りを表明し入団したため、マスコミから巨人との密約の疑惑を受けた[3]

入団後は、高校時代から悩まされていた右肘の故障もあり、強打と俊足を活かして内野手に転向。1972年ジュニアオールスターにも出場するとともに、遊撃手としてイースタン・リーグのベストナインに選ばれる。1976年には打率.333でイースタン・リーグの首位打者を獲得する[4]1978年には一軍公式戦33試合(うち5試合はスターティングメンバー)に出場し初本塁打も放つが、その後は伸び悩む。1979年オフに成重春生との交換トレードで西武ライオンズに移籍した[2]1980年には4月に2試合先発出場するが、その後あまり出番はなく、同年限りで現役引退[2]

引退後は東京で営業マンとして活動[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1977 巨人 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1978 33 34 26 5 6 1 0 1 10 4 1 2 1 0 5 0 2 5 0 .231 .394 .385 .779
1980 西武 6 5 5 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .200 .200 .400 .600
通算:3年 40 40 32 5 7 2 0 1 12 4 1 2 1 0 5 0 2 9 0 .219 .359 .375 .734

記録

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背番号

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  • 43 (1971年 - 1978年)
  • 2 (1979年)
  • 4 (1980年)

脚注

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  1. ^ http://npb.jp/bis/players/71173844.html
  2. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、98ページ
  3. ^ a b 『巨人軍に葬られた男たち』73頁
  4. ^ 『巨人軍に葬られた男たち』77頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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