「パッタダカル」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m ヴィクラマディーティヤ→ヴィクラマーディティヤ
出典追加、出典付加、加筆、修正、脚注を出典と注釈に分ける、画像追加・位置変更、INFOBOX設置、仮リンク設置
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2010年9月}}
{{出典の明記|date=2010年9月}}
{{Infobox Indian Jurisdiction
| native_name = パッタダカル
| other_name = ಪಟ್ಟದಕಲ್
| type = village
| locator_position = right
| skyline = Pattadakal1.JPG
| skyline_caption = ヴィルーパークシャ寺院
| latd = 15.8494
| longd = 75.8159
| state_name = Karnataka
| state_name2 = [[カルナータカ州]]
| district = {{仮リンク|バーガラコーテ県|en|Bagalkot (Distrikt)}}
| leader_title =
| leader_name =
| altitude = 586
| population_as_of = 2011年
| population_total = 2,573
| population_density =
| area_magnitude= sq. km
| area_total =
| area_telephone =
| postal_code =
| vehicle_code_range =
| sex_ratio =
| unlocode =
| website =
| footnotes =
}}

{{世界遺産概要表|
{{世界遺産概要表|
site_img = Image:Pattadakal1.JPG|
site_img = Image:Temple Pattadakal.JPG|
site_img_capt = ヴィルー寺院|
site_img_capt = '''マリカージュナ寺院'''(左)と'''カヴィュワナータ寺院'''(右)|
site_img_width = 275px|
site_img_width = 275px|
ja_name = パッタダカルの建造物群|
ja_name = パッタダカルの建造物群|
13行目: 42行目:
remarks = |
remarks = |
url_no = 239|
url_no = 239|
map_img = Image:Flag of UNESCO.svg|
map_img_width = 275px|
}}
}}
'''パッタダカル'''(''Pattadakal''、[[カンナダ語]]:ಪಟ್ಟದಕಲ್)は、[[インド]]の[[カルナータカ州]]北部に立地する村。
'''パッタダカル'''(''Pattadakal''、[[カンナダ語]]:ಪಟ್ಟದಕಲ್)は、[[インド]]の[[カルナータカ州]]北部に立地する村。


== 「戴冠の都」パッタダカル ==
== 「戴冠の都」パッタダカル ==
[[ファイル:Chalukya territories lg.png|250px|left|thumb|前期チャールキヤ朝の最大版図(7世紀)]]
[[ファイル:Chalukya territories lg.png|280px|right|thumb|前期チャールキヤ朝の最大版図(7世紀)]]
[[前期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]の首都は{{仮リンク|バーダーミ|en|Badami}}(旧名は、ヴァーダーピ''Vādāpī'' )であったが、王族は「戴冠の都」としてパッタダカルを愛し、[[6世紀]]から[[8世紀]]にかけてはチャールキヤ朝第2ないし第3の都市として繁栄した<ref name="kotobank">{{コトバンク|パッタダカル}}</ref>{{refnest|group="注釈"|この時期は北インド全体を統一するような大帝国は出現せず、各地域政権のもとで独自の民族文化が開花した地方文化の時代であった<ref name="karashima70">[[#辛島|辛島(1991)pp.70-72]]</ref>。特に[[ドラヴィダ]]系においてはチャールキヤ朝やパッラヴァ朝に後続する[[チョーラ朝]]のもとで著しい地方文化の進展がみられた<ref name="karashima70" />。}}。


奇跡的に破壊を免れたパッタダカルの遺跡群は「寺院都市」の典型を示し、また、[[南インド]]様式と[[北インド]]様式の[[寺院]]が混在することでも知られている<ref name="kotobank" />
[[前期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]の首都は[[バーダーミ]](旧名は、ヴァーダーピ''Vādāpī'' )にあったが、王族は「戴冠の都」としてパッタダカルを愛し、[[6世紀]]から[[8世紀]]にかけてはチャールキヤ朝第2の都市として繁栄した。


パッタダカルの寺院群は、[[1987年]]、「'''パッタダカルの建造物群'''」として、[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)[[世界遺産]]の[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]に登録された<ref name="kotobank" />
奇跡的に破壊を免れたパッタダカルの遺跡群は「寺院都市」の典型を示し、また、[[南インド]]様式と[[北インド]]様式の[[寺院]]が混在することでも知られている。

パッタダカルの寺院群は、[[1987年]]、「'''パッタダカルの建造物群'''」として、[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)[[世界遺産]]の[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]に登録された。


== パッタダカルの寺院群 ==
== パッタダカルの寺院群 ==
6世紀から8世紀にかけてのヒンドゥー教建築は、ピラミッド形をした南部の様式<ref name=dra>[[ドラヴィダ]]様式」とも呼称する。</ref>と砲弾形をした北部の様式が混在し、現在、9寺院が残っており、すべて[[宇宙]]の[[破壊]]と[[創造]]を司る[[シヴァ神]]を祀ったものである。遺跡では寺院が北から南にかけてほぼ年代順に並んでいる。
6世紀から8世紀にかけてのヒンドゥー教建築は、ピラミッド形をした南部の様式{{refnest|group="注釈"|「ドラヴィダ様式」とも呼称する。}}と砲弾形をした北部の様式が混在し、現在、9寺院が残っており、すべて[[宇宙]]の[[破壊]]と[[創造]]を司る[[シヴァ神]]を祀ったものである。遺跡では寺院が北から南にかけてほぼ年代順に並んでいる。


[[ヴィクラマーディティヤ2世]](位733/4年~744/5年)は、[[インド]]の[[タミル人]]王朝[[パッラヴァ朝]]の建築文化が高水準であることに感動し、[[建築家]]グンダを招聘して南インドの王領各地から石工や彫刻家たちを多数招いてパッタダカルに多くのヒンドゥー寺院を建設した。これらの寺院群は、パッラヴァ朝の[[カーンチプラム]]の寺院群の影響を強く受けた南部の様式によって建てられた。
{{仮リンク|ヴィクラマーディティヤ2世|en|Vikramaditya II}}(位733/4年~744/5年)は、[[インド半島]]南東部の[[タミル人]]王朝[[パッラヴァ朝]]の建築文化が高水準であることに感銘を受け、[[建築家]]グンダを招聘して南インドの王領各地から石工や彫刻家たちを多数招いてパッタダカルに多くのヒンドゥー寺院を建設した<ref name="kotobank" />。これらの寺院群は、パッラヴァ朝の[[カーンチプラム]]の寺院群の影響を強く受けた南部の様式によって建てられた{{refnest|group="注釈"|パッラヴァ朝やチャールキヤ朝では、北インドの[[グプタ朝]]のもとに完成されたヒンドゥー教的社会秩序を範とした統治がなされたものの同時代の北インドの諸地域に比較すれば柔軟性があり、[[シヴァ神]]や[[ヴィシュヌ神]]についても儀礼に拘泥されない[[バクティ]]信仰のかたちで受け止められ、展開された<ref name="karashima79">[[#辛島|辛島(1991)pp.79-82]]</ref>。これは逆に北インドのヒンドゥー思想のあり方へも多大な影響をあたえた<ref name="karashima79" />。}}


[[ファイル:Pattadakal Virupaksha Temple.jpg|280px|left|thumb|'''ヴィルーパークシャ寺院'''——ヴィマーナの手前に列柱廊に囲まれたマンダパ(拝堂)があり、その三方に入口のポーチが設けられている(画面左側)]]
[[ファイル:Pattadakal Virupaksha Temple.jpg|280px|right|thumb|'''ヴィルーパークシャ寺院'''
----
ヴィマーナの手前に列柱廊に囲まれたマンダパ(拝堂)があり、その三方に入口のポーチが設けられている(画面左側)]]
[[ファイル:Pap NKAD219.JPG|thumb|280px|right|'''パーパナータ寺院'''
----
なかでも、パッタダカルで最大規模をほこる'''ヴィルーパークシャ寺院'''は [[8世紀]]にパッラヴァ朝との戦いに勝利して凱旋したヴィクラマーディティヤ2世の栄光を記念するため、王妃ローカ・マハーデーヴィの命で造営され、グンダが設計を担当した寺院である。当時は、王妃の名よりローケーシュワラ寺院と呼称されたという。石でできた壮大な寺院の壁には、悪魔を退散させる無数のシヴァ神像が彫刻されており、3段構造の[[ヴィマーナ]](本堂)が戦勝を記念して寺院群の中にそびえる。寺院正面にはシヴァ神に仕える牡牛[[ナンディン]]の像がある。
寺院群と離れたところに単独で立地する。北インドの様式。
]]
なかでも、パッタダカルで最大規模をほこる'''ヴィルーパークシャ寺院'''は [[8世紀]]にパッラヴァ朝との戦いに勝利して凱旋したヴィクラマーディティヤ2世の栄光を記念するため、王妃ローカ・マハーデーヴィの命で造営され、グンダが設計を担当した寺院である<ref name="kotobank" />。当時は、王妃の名よりローケーシュワラ寺院と呼称されたという。石でできた壮大な寺院の壁には、悪魔を退散させる無数のシヴァ神像が彫刻されており、3段構造の[[ヴィマーナ]](本堂)が戦勝を記念して寺院群の中にそびえる。寺院正面にはシヴァ神に仕える牡牛[[ナンディン]]の像がある。


他に南インド様式を代表する寺院に'''マリカールジュナ寺院'''や'''サンガメーシュワラ寺院'''がある。マリカールジュナ寺院はヴィルーパークシャ寺院をやや小規模にしたもので、やはり王の戦勝記念に第 2王妃が造営したといわれている。どちらも屋根は、水平層を階段状に積み重ねる形式<ref name=dra/>になっている。これら南部様式の寺院は、のちにつくられた[[エローラ]]の[[エローラ石窟群#ヒンドゥー教石窟|カイラーサナータ寺院]]にも影響を与えたことで知られる。
他に南インド様式を代表する寺院に'''マリカールジュナ寺院'''や'''サンガメーシュワラ寺院'''がある。マリカールジュナ寺院はヴィルーパークシャ寺院をやや小規模にしたもので、やはり王の戦勝記念に第 2王妃が造営したといわれている。どちらも屋根は、水平層を階段状に積み重ねる形式になっている。これら南部様式の寺院は、のちにつくられた[[エローラ]]の[[エローラ石窟群#ヒンドゥー教石窟|カイラーサナータ寺院]]にも影響を与えたことで知られる。


[[北インド]]の様式に属する寺院には、'''ガラガナータ寺院'''、'''カーシーヴィシュワナータ寺院'''、'''ジャンブリンガ寺院'''、'''カダシッデーシュワラ寺院'''があり、のちの北インド様式に特徴的な{{仮リンク|シカラ|en|Shikhara}}に似た塔をともなう<ref name="kotobank" />。これらは、上述の3寺院と隣接して建てられている。
[[画像:Temple Pattadakal.JPG|280px|right|thumb|'''マリカールジュナ寺院'''(左)と'''カーシーヴィシュワナータ寺院'''(右)]]


これらとは離れた場所に単独で建てられたのが、'''ナータ寺院'''であり、北インドの様式に属する。この寺院は、工匠たちによって、柱や[[天井]]、壁面いっぱいに『[[マハーバーラタ]]』や『[[ラーマーヤナ]]』などの題材が彫られていることで知られる。天井に彫刻を施したのは[[前期チャールキヤ朝]]の建築が初例である<ref name="shirujiten">[[#知る事典|『南アジアを知る事典』(1992)]]</ref>。
[[北インド]]の様式に属する寺院には、'''ガラガナータ寺院'''、'''カーシーヴィシュワナータ寺院'''、'''ジャンブリンガ寺院'''、'''カダシッデーシュワラ寺院'''があり、のちの北インド様式に特徴的な[[シカラ]]に似た塔をともなう。これらは、上述の3寺院と隣接して建てられている。


[[ファイル:Pattakadal.jpg|center|1000px|thumb|パッタダカル寺院群]]
これらとは離れた場所に単独で建てられたのが、'''ナータ寺院'''であり、北インドの様式に属する。この寺院は、工匠たちによって、柱や[[天井]]、壁面いっぱいに『[[マハーバーラタ]]』や『[[ラーマーヤナ]]』などの題材が彫られていることで知られる。天井に彫刻を施したのは[[前期チャールキヤ朝]]の建築が初例である<ref>『南アジアを知る事典』</ref>。


他に南北両様式混在の寺院もあり、このことは、まだ両様式が完全には確立、分化しておらず、また、チャルキヤ朝歴代の王がインド各地から工匠を集めていたことを意味しているとされる<ref>パッタダカルの寺院群に特徴的にみられる南北混淆を称して「デカン様式」と呼称する場合がある(『南アジアを知る事典』)。</ref>。[[755年]]、この地方を約2世紀にわたって支配してきたチャールキヤ朝も、自らの封臣であった[[ラーシュトラクータ朝]]によって滅ぼされてしまった。それはパッタダカルに続々とヒンドゥー寺院が建設されたわずか10年後のことであった。
他に南北両様式混在の寺院もあり、このことは、まだ両様式が完全には確立、分化しておらず、また、チャルキヤ朝歴代の王がインド各地から工匠を集めていたことを意味しているとされる{{refnest|group="注釈"|パッタダカルの寺院群に特徴的にみられる南北混淆を称して「デカン様式」と呼称する場合がある<ref name="shirujiten" />。}}。[[755年]]、この地方を約2世紀にわたって支配してきたチャールキヤ朝も、自らの封臣であった[[ラーシュトラクータ朝]]によって滅ぼされてしまった。それはパッタダカルに続々とヒンドゥー寺院が建設されたわずか10年後のことであった。


== 世界遺産 ==
== 世界遺産 ==
55行目: 86行目:


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[辛島昇]]|year=1991|month=8|chapter=言語と民族のるつぼ|title=インドの顔|publisher=[[河出書房新社]]|series=生活の世界歴史5|isbn=4-309-47215-X|ref=辛島}}
* {{Cite book|和書|editor=辛島昇・[[前田専学]]・江島惠教ら監修|year=1992|month=10|title=南アジアを知る事典|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-12634-0|ref=知る事典}}
* {{Cite book|和書|editor=[[小学館]]編|year=1999|month=10|title=地球紀行 世界遺産の旅|publisher=小学館|series=GREEN Mook|isbn=4-09-102051-8|ref=地球紀行}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
62行目: 102行目:
* [[ヒンドゥー教寺院の一覧]]
* [[ヒンドゥー教寺院の一覧]]
* [[ヒンドゥー教の遺跡一覧]]
* [[ヒンドゥー教の遺跡一覧]]

== 参考文献 ==
*[[小学館]]編『地球紀行 世界遺産の旅』小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8
*[[辛島昇]]・前田専学・江島惠教ら監修南アジアを知る事典[[平凡社]]、1992.10、ISBN 4-582-12634-0


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Coord|15.9484|N|75.8159|E|display=title}}
{{commons|Category:Group of monuments at Pattadakal}}
{{commons|Category:Group of monuments at Pattadakal}}
* [http://www.kamit.jp/02_unesco/06_pattadakal/pattada.htm ユネスコ世界遺産 「パッタダカルの寺院群」]
* [http://www.kamit.jp/02_unesco/06_pattadakal/pattada.htm ユネスコ世界遺産 「パッタダカルの寺院群」]
75行目: 110行目:
{{Hinduism2}}
{{Hinduism2}}


{{DEFAULTSORT:はつたたかる}}
{{デフォルトソート:はつたたかる}}
[[Category:世界遺産 は行|は]]
[[Category:世界遺産 は行|は]]
[[Category:インドの世界遺産]]
[[Category:インドの世界遺産]]
[[Category:インドの都市]]
[[Category:インドの都市]]
[[Category:インドの考古遺跡]]
[[Category:インドの考古遺跡]]
[[Category:マディヤ・プラデシュ]]
[[Category:カルナタカ]]
[[Category:インドの古都]]
[[Category:インドの古都]]
[[Category:1987年登録の世界遺産]]
[[Category:1987年登録の世界遺産]]

2020年12月20日 (日) 12:31時点における版

パッタダカル
ಪಟ್ಟದಕಲ್
ヴィルーパークシャ寺院
ヴィルーパークシャ寺院
カルナータカ州の位置を示したインドの地図
パッタダカルの位置
パッタダカル
パッタダカルの位置
カルナータカ州 とインド内)
座標: 北緯15度50分58秒 東経75度48分57秒 / 北緯15.8494度 東経75.8159度 / 15.8494; 75.8159
インドの旗 インド
カルナータカ州
行政区 バーガラコーテ県英語版
人口 2,573 (2011年現在)
標準時 IST (UTC+5:30)
面積
海抜

586 m

座標: 北緯15度50分58秒 東経75度48分57秒 / 北緯15.8494度 東経75.8159度 / 15.8494; 75.8159


世界遺産 パッタダカルの建造物群
インド
マリカールジュナ寺院(左)とカーシーヴィシュワナータ寺院(右)
マリカールジュナ寺院(左)とカーシーヴィシュワナータ寺院(右)
英名 Group of Monuments at Pattadakal
仏名 Ensemble de monuments de Pattadakal
登録区分 文化遺産
登録基準 (3), (4)
登録年 1987年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

パッタダカルPattadakalカンナダ語:ಪಟ್ಟದಕಲ್)は、インドカルナータカ州北部に立地する村。

「戴冠の都」パッタダカル

前期チャールキヤ朝の最大版図(7世紀)

チャールキヤ朝の首都はバーダーミ英語版(旧名は、ヴァーダーピVādāpī )であったが、王族は「戴冠の都」としてパッタダカルを愛し、6世紀から8世紀にかけてはチャールキヤ朝第2ないし第3の都市として繁栄した[1][注釈 1]

奇跡的に破壊を免れたパッタダカルの遺跡群は「寺院都市」の典型を示し、また、南インド様式と北インド様式の寺院が混在することでも知られている[1]

パッタダカルの寺院群は、1987年、「パッタダカルの建造物群」として、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産文化遺産に登録された[1]

パッタダカルの寺院群

6世紀から8世紀にかけてのヒンドゥー教建築は、ピラミッド形をした南部の様式[注釈 2]と砲弾形をした北部の様式が混在し、現在、9寺院が残っており、すべて宇宙破壊創造を司るシヴァ神を祀ったものである。遺跡では寺院が北から南にかけてほぼ年代順に並んでいる。

ヴィクラマーディティヤ2世英語版(位733/4年~744/5年)は、インド半島南東部のタミル人王朝パッラヴァ朝の建築文化が高水準であることに感銘を受け、建築家グンダを招聘して南インドの王領各地から石工や彫刻家たちを多数招いてパッタダカルに多くのヒンドゥー寺院を建設した[1]。これらの寺院群は、パッラヴァ朝のカーンチプラムの寺院群の影響を強く受けた南部の様式によって建てられた[注釈 3]

ヴィルーパークシャ寺院
ヴィマーナの手前に列柱廊に囲まれたマンダパ(拝堂)があり、その三方に入口のポーチが設けられている(画面左側)
パーパナータ寺院
寺院群と離れたところに単独で立地する。北インドの様式。

なかでも、パッタダカルで最大規模をほこるヴィルーパークシャ寺院8世紀にパッラヴァ朝との戦いに勝利して凱旋したヴィクラマーディティヤ2世の栄光を記念するため、王妃ローカ・マハーデーヴィの命で造営され、グンダが設計を担当した寺院である[1]。当時は、王妃の名よりローケーシュワラ寺院と呼称されたという。石でできた壮大な寺院の壁には、悪魔を退散させる無数のシヴァ神像が彫刻されており、3段構造のヴィマーナ(本堂)が戦勝を記念して寺院群の中にそびえる。寺院正面にはシヴァ神に仕える牡牛ナンディンの像がある。

他に南インド様式を代表する寺院にマリカールジュナ寺院サンガメーシュワラ寺院がある。マリカールジュナ寺院はヴィルーパークシャ寺院をやや小規模にしたもので、やはり王の戦勝記念に第 2王妃が造営したといわれている。どちらも屋根は、水平層を階段状に積み重ねる形式になっている。これら南部様式の寺院は、のちにつくられたエローラカイラーサナータ寺院にも影響を与えたことで知られる。

北インドの様式に属する寺院には、ガラガナータ寺院カーシーヴィシュワナータ寺院ジャンブリンガ寺院カダシッデーシュワラ寺院があり、のちの北インド様式に特徴的なシカラ英語版に似た塔をともなう[1]。これらは、上述の3寺院と隣接して建てられている。

これらとは離れた場所に単独で建てられたのが、パーパナータ寺院であり、北インドの様式に属する。この寺院は、工匠たちによって、柱や天井、壁面いっぱいに『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などの題材が彫られていることで知られる。天井に彫刻を施したのは前期チャールキヤ朝の建築が初例である[4]

パッタダカル寺院群

他に南北両様式混在の寺院もあり、このことは、まだ両様式が完全には確立、分化しておらず、また、チャールキヤ朝歴代の王がインド各地から工匠を集めていたことを意味しているとされる[注釈 4]755年、この地方を約2世紀にわたって支配してきたチャールキヤ朝も、自らの封臣であったラーシュトラクータ朝によって滅ぼされてしまった。それはパッタダカルに続々とヒンドゥー寺院が建設されたわずか10年後のことであった。

世界遺産

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

アクセス

  • ムンバイ南東約460キロメートルに立地する。
  • ムンバイからショラープルへ行き、列車を乗り継ぐとバーダーミに到着する。バーダーミの東約30キロメートルに所在し、周辺には石灰石の岩山や渓谷、浸食による風変わりな岩壁の風景がある。

脚注

注釈

  1. ^ この時期は北インド全体を統一するような大帝国は出現せず、各地域政権のもとで独自の民族文化が開花した地方文化の時代であった[2]。特にドラヴィダ系においてはチャールキヤ朝やパッラヴァ朝に後続するチョーラ朝のもとで著しい地方文化の進展がみられた[2]
  2. ^ 「ドラヴィダ様式」とも呼称する。
  3. ^ パッラヴァ朝やチャールキヤ朝では、北インドのグプタ朝のもとに完成されたヒンドゥー教的社会秩序を範とした統治がなされたものの同時代の北インドの諸地域に比較すれば柔軟性があり、シヴァ神ヴィシュヌ神についても儀礼に拘泥されないバクティ信仰のかたちで受け止められ、展開された[3]。これは逆に北インドのヒンドゥー思想のあり方へも多大な影響をあたえた[3]
  4. ^ パッタダカルの寺院群に特徴的にみられる南北混淆を称して「デカン様式」と呼称する場合がある[4]

出典

参考文献

  • 辛島昇「言語と民族のるつぼ」『インドの顔』河出書房新社〈生活の世界歴史5〉、1991年8月。ISBN 4-309-47215-X 
  • 辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修 編『南アジアを知る事典』平凡社、1992年10月。ISBN 4-582-12634-0 
  • 小学館編 編『地球紀行 世界遺産の旅』小学館〈GREEN Mook〉、1999年10月。ISBN 4-09-102051-8 

関連項目

外部リンク