コンテンツにスキップ

前田利孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
前田利孝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 文禄3年(1594年
死没 寛永14年6月4日1637年7月25日
戒名 眞翁宗智大居士
墓所 吉祥寺
官位 従五位下大和守
主君 徳川家康秀忠家光
上野国七日市藩
氏族 菅原姓前田氏
父母 父:前田利家、母:明運院(お幸和)
兄弟 前田長種室)、利長中川光重室)、加賀殿(豊臣秀吉側室、万里小路充房室)、(秀吉の猶子、宇喜多秀家室)、与免[注釈 1]利政[注釈 2]千世細川忠隆室のち離縁。村井長次室)、長好連室、のち中川光忠室)、知好利常利孝保智篠原貞秀室)、利貞、女[注釈 3]
正室:本多康俊の娘
利意(長男)、孝矩(次男、旗本の苗木山前田家祖)、寄孝(三男、利世、加賀藩士となる前田監物家祖)、娘(浅野長賢正室)
テンプレートを表示

前田 利孝(まえだ としたか)は、上野七日市藩の初代藩主。七日市前田家の祖。

経歴

[編集]

前田利家の五男。父・利家の死後、兄の利長が、徳川家康本多正信の画策した「家康暗殺計画」の疑惑をかけられたため、その弁明の証として利長の生母・芳春院(まつ)と共に人質として江戸に送られて幼年期を過ごした。大坂の陣では徳川方として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石の所領を与えられた。

寛永14年(1637年)6月4日に死去し、跡を子の利意が継いだ。享年44。利孝の七日市藩領は、加賀の前田本家が参勤交代する際の中継地として、以後重要な役割を果たすこととなる。

系譜

[編集]

父母

  • 前田利家(父)
  • 明運院、お幸和 ー 山本氏、側室(母)

正室

子女

注釈

[編集]
  1. ^ 浅野幸長の許嫁。結婚前に死去。
  2. ^ 秀吉の養女。夭折。
  3. ^ 早世。
  1. ^ 旗本の苗木山前田家祖
  2. ^ 加賀藩士となる前田監物家祖、利世とも
  3. ^ 加賀藩士の前田兵部家祖、孝経とも