アラゴン君主一覧
アラゴン君主一覧(アラゴンくんしゅいちらん)では、現在のスペイン北東部、アラゴンにおける君主を列挙する。アラゴン王国は今日のアラゴン自治州を含んでいた。バルセロナ家以後のアラゴン国王は同時にカタルーニャ君主国、バレンシア王国、マヨルカ王国、シチリア王国、サルデーニャ=コルシカ王国を支配し、モンペリエを含む南フランスを領土に組み入れていた。この国家はアラゴン連合王国と呼ばれる (i.e. Aragon proper)。
アラゴン伯
[編集]809年、在地のアスナール1世ガリンデスがフランクの伯に代わりアラゴン(ハカ)伯となり、以後、その子孫がアラゴン伯を継承した[1]。
- アスナール1世・ガリンデス(809年 - 839年)
- ガルシア・エル・マーロ(839年 - 833年):アスナール・ガリンド1世の女婿
- ガリンド・ガルセス(833年 - 844年):ガルシア・エル・マーロの息子
- ガリンド1世・アスナーレス(844年頃 - 867年):アスナール1世・ガリンドの息子
- アスナール2世・ガリンデス(867年頃 - 893年):ガリンド1世・アスナーレス
- ガリンド2世・アスナーレス(893年 - 922年):アスナール2世・ガリンドの息子
- アンドレゴト・ガリンデス(922年 - 925年):ガリンド2世・アスナーレスの娘、ナバラ王ガルシア・サンチェス1世と結婚。
アラゴン領はナバラ王家(ヒメノ家)に継承された。
アラゴン国王
[編集]ヒメノ家
[編集]ナバラ国王サンチョ3世の死でアラゴンは息子のラミロ1世の手に渡り、彼はただちに自治国家に地位を高め、アラゴン王となった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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ラミロ1世 1035年2月 – 1063年5月8日 |
1007年 ナバラ国王サンチョ3世とサンチャ・デ・アイバーの息子 |
エルメシンダ・デ・ビゴーラ 1036年8月22日 5人の子を儲ける |
1063年5月8日 グラウス | |
サンチョ・ラミレス (1076年以降は兼ナバラ国王) 1063年5月8日 – 1094年6月4日 |
1042年 ラミロ1世とエルメシンダ・デ・ビゴーラの息子 |
イザベル・ドゥルジェイ 1065年 1人の子を儲ける フェリシー・ド・ルシー 1076年 3人の子を儲ける |
1094年6月4日 ウエスカ 48歳没 | |
ペドロ1世 (兼ナバラ国王) 1094年6月4日 – 1104年9月28日 |
1068年 サンチョ・ラミレスとイザベル・ドゥルジェイの息子 |
イネス・デ・アキタニア 1086年 2人の子を儲ける ベルタ 1097年 子を儲けず |
1104年9月28日 アラン谷 36歳没 | |
アルフォンソ1世 (兼ナバラ国王) 1104年9月28日 – 1134年9月8日 |
1073年 サンチョ・ラミレスとフェリシー・ド・ルシーの息子 |
ウラカ・デ・カスティーリャ 1109年 子を儲けず |
1134年9月8日 ウエスカ 61歳没 | |
ラミロ2世 1134年9月8日 – 1137年11月13日 |
1075年 サンチョ・ラミレスとフェリシー・ド・ルシーの息子 |
イネス・デ・アキタニア 1人の子を儲ける |
1157年8月16日 ウエスカ 82歳没 | |
ペトロニーラ 1137年11月13日 – 1164年7月18日 |
1136年7月29日 ウエスカ ラミーロ2世とイネス・デ・アキタニアの娘 |
バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世 1137年8月11日 5人の子を儲ける |
1174年10月16日 バルセロナ 38歳没 |
バルセロナ家
[編集]名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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アルフォンソ2世 1164年7月18日 – 1196年4月25日 |
1157年 ウエスカ[2] バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世とペトロニーラ女王の息子 |
サンチャ・デ・カスティーリャ 7人の子を儲ける |
1196年4月25日 ペルピニャン 44歳没 | |
ペドロ2世 1196年4月25日 – 1213年9月13日 |
1178年 ウエスカ[3] アルフォンソ2世とサンチャ・デ・カスティーリャの息子 |
マリア・デ・モンペリエ 1204年6月15日 2人の子を儲ける |
1213年9月12日 ミュラの戦い 約35歳没 | |
ハイメ1世 1213年9月13日 – 1276年7月27日 |
1208年2月2日 モンペリエ ペドロ2世とマリア・デ・モンペリエの息子 |
レオノール・デ・カスティーリャ 1221年 1人の子を儲ける ビオランテ・デ・ウングリア 1235人 10人の子を儲ける テレサ・ヒル・デ・ビダウレ 2人の子を儲ける |
1276年7月27日 バレンシア 68歳没 | |
ペドロ3世 1276年7月27日 – 1285年11月2日 |
1240年 バレンシア ハイメ1世とビオランテ・デ・ウングリアの息子 |
コンスタンサ・デ・シシリア 1262年6月13日 6人の子を儲ける |
1285年11月2日 ヴィラフランカ・デル・ペネデス 45歳没 | |
アルフォンソ3世 1285年11月2日 – 1291年6月18日 |
1265年 バレンシア ペドロ3世とコンスタンサ・デ・シシリアの息子 |
未婚 | 1291年6月18日 バルセロナ 27歳没 | |
ハイメ2世 1291年6月18日 – 1327年11月2日 |
1267年8月10日 バレンシア ペドロ3世とコンスタンサ・デ・シシリアの息子 |
イサベル・デ・カスティーリャ 1291年12月1日 子を儲けず ブランカ・デ・ナポレス 1295年10月29日 10人の子を儲ける マリー・ド・リュジニャン 1315年6月15日 子を儲けず アリゼンダ・デ・ムンカーダ 1322年12月25日 子を儲けず |
1327年11月5日 バルセロナ 60歳没 | |
アルフォンソ4世 1327年11月2日 – 1336年1月24日 |
1299年 ナポリ ハイメ2世とブランカ・デ・ナポレスの息子 |
テレサ・デ・エンテンサ 1314年 7人の子を儲ける レオノール・デ・カスティーリャ・イ・ポルトゥガル 2人の子を儲ける |
1336年1月27日 バルセロナ 37歳没 | |
ペドロ4世 1336年1月24日 – 1387年1月5日 |
1319年10月5日 バラゲー アルフォンソ4世とテレサ・デ・エンテンサの息子 |
マリア・デ・ナバラ 1338年 2人の子を儲ける レオノール・デ・ポルトゥガル 1347年 子を儲けず レオノール・デ・シシリア 4人の子を儲ける |
1387年1月5日 バルセロナ 68歳没 | |
フアン1世 1387年1月5日 – 1396年5月19日 |
1350年12月27日 ペルピニャン ペドロ4世とレオノール・デ・シシリアの息子 |
マルタ・デ・アルマグナック 1人の子を儲ける ビオランテ・デ・バル 3人の子を儲ける |
1396年5月19日 アンプルダー 46歳没 | |
マルティン1世 1396年5月19日 – 1410年5月31日 |
1356年 ジローナ ペドロ4世とレオノール・デ・シシリアの息子 |
マリア・デ・ルナ 1372年6月13日 4人の子を儲ける マルガリータ・デ・プラデス 1409年 子を儲けず |
1410年5月31日 バルセロナ 54歳没 |
マルティン1世はバルセロナ伯ギフレ1世の最後の男系子孫であり、嫡子を残すことなく没した。
- 空位 1410年5月31日 – 1412年6月24日
トラスタマラ家
[編集]名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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フェルナンド1世 1412年6月24日 - 1416年4月2日 |
1380年11月27日 メディーナ・デル・カンポ カスティーリャ王フアン1世とレオノール・デ・アラゴン(ペドロ4世の娘)の息子 |
レオノール・デ・アルブルケルケ 1394年 8人の子を儲ける |
1416年4月2日 イグアラダ 36歳没 | |
アルフォンソ5世 1416年4月2日 - 1458年6月27日 |
1396年 メディーナ・デル・カンポ フェルナンド1世とレオノール・デ・アルブルケルケの息子 |
マリア・デ・カスティーリャ 1415年 子を儲けず |
1458年6月27日 ナポリ 52歳没 | |
フアン2世 1458年6月27日 - 1479年1月19日 |
1397年6月29日 メディーナ・デル・カンポ フェルナンド1世とレオノール・デ・アルブルケルケの息子 |
ナバラ女王ブランカ1世 1419年11月6日 4人の子を儲ける フアナ・エンリケス 2人の子を儲ける |
1479年1月20日 バルセロナ 81歳没 | |
フェルナンド2世 1479年1月19日 - 1516年1月23日 |
1452年3月10日 フアン2世とフアナ・エンリケス の息子 |
カスティーリャ女王イサベル1世 1469年10月19日 5人の子を儲ける ジェルメーヌ・ド・フォワ 1505年 子を儲けず |
1516年1月23日 マドリガレホ 63歳没 | |
フアナ 1516年1月23日 - 1555年4月12日 |
1479年11月6日 フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の娘 |
カスティーリャ王フェリペ1世 1496年10月20日 6人の子を儲ける |
1555年4月12日 トルデシリャス 75歳没 |
フアン2世の対立王
[編集]カタルーニャ内戦の間にフアン2世に対する3人の対立王が現れた。ただし、これにバレンシア王位が含まれることはなかった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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カスティーリャ王エンリケ4世 トラスタマラ家 1462年 - 1463年 |
1425年1月5日 バリャドリッド カスティーリャ王フアン2世とマリア・デ・アラゴン(フェルナンド1世の娘)の息子 |
フアナ・デ・ポルトゥガル 1455年 1人の子を儲ける |
1474年12月11日 マドリード 49歳没 | |
ペドロ5世 アヴィシュ家 1463年 – 1466年 |
1429年 コインブラ公ペドロとウルジェイ女伯エリサベ(アルフォンソ4世の玄孫)の息子 |
未婚 | 1466年 グラノリェース 37歳没 | |
レナト1世 ヴァロワ=アンジュー家 1466年 – 1472年 |
1409年1月16日 アンジェ城 アンジュー公ルイ2世とヨランド・ダラゴン(フアン1世の娘)の息子 |
イザベル・ド・ロレーヌ 1420年 10人の子を儲ける ジャンヌ・ド・ラヴァル 1454年9月10日 子を儲けず |
1480年7月10日 エクス=アン=プロヴァンス 71歳没 |
アブスブルゴ家(アウストリア家)
[編集]名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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カルロス1世 1516年1月23日 - 1556年1月16日 |
1500年2月24日 ヘント カスティーリャ王フェリペ1世とフアナ女王の息子 |
イサベル・デ・ポルトゥガル 1526年3月10日 3人の子を儲ける |
1558年9月21日 ユステ修道院 58歳没 | |
フェリペ1世 1556年1月16日 - 1598年9月13日 |
1527年5月21日 バリャドリッド カルロス1世とイサベル・デ・ポルトゥガルの息子 |
マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル 1543年 1人の子を儲ける イングランド女王メアリー1世 1554年 子を儲けず エリザベート・ド・ヴァロワ 1559年 2人の子を儲ける アナ・デ・アウストリア 1570年5月4日 5人の子を儲ける |
1598年9月13日 マドリード 71歳没 | |
フェリペ2世 1598年9月13日 - 1621年5月31日 |
1578年4月14日 マドリード フェリペ1世とアナ・デ・アウストリアの息子 |
マルガリータ・デ・アウストリア 1599年4月18日 5人の子を儲ける |
1621年3月31日 マドリード 42歳没 | |
フェリペ3世 1621年3月31日 - 1665年9月17日 |
1605年4月8日 バリャドリッド フェリペ2世とマルガリータ・デ・アウストリアの息子 |
イサベル・デ・ボルボン 1615年 7人の子を儲ける マリアナ・デ・アウストリア 1649年 5人の子を儲ける |
1665年9月17日 マドリード 60歳没 | |
カルロス2世 1665年9月17日 - 1700年11月1日 |
1661年11月6日 マドリード フェリペ3世とマリアナ・デ・アウストリアの息子 |
マリー・ルイーズ・ドルレアン 1679年11月19日 子を儲けず マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク 1690年5月14日 子を儲けず |
1700年11月1日 マドリード 38歳没 |
収穫人戦争中、アラゴン自体は フェリペ3世への忠誠を保持していたが、カタルーニャはフランス国王ルイ13世及びルイ14世との同盟に切り替えた。バルセロナ伯を参考。ポルトガルは1640年に独立した。カルロス2世には後継者がいなかった。
ボルボン家
[編集]名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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フェリペ4世 1700年11月1日 – 1705年 |
1683年12月19日 ヴェルサイユ フランス王太子ルイ(フェリペ3世の孫)とマリー・アンヌ・ド・バヴィエールの息子 |
マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア 1701年11月2日 4人の子を儲ける エリザベッタ・ファルネーゼ 1714年12月24日 7人の子を儲ける |
1746年7月9日 マドリード 62歳没 |
ハプスブルク家
[編集]名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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カルロス3世 1705年–1714年 |
1685年10月1日 ヴィーン レオポルト1世(フェリペ2世の孫)とエレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルクの息子 |
エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル 1708年8月1日 4人の子を儲ける |
1740年10月20日 ウィーン 55歳没 |
戦争中(公的には1707年)、ボルボン家最初のスペイン国王フェリペ5世(アラゴン王フェリペ4世)はアラゴン連合王国を解体した。その後も、イサベル2世までのスペインの君主は貨幣に自らを「スペイン国王/女王」と刻む一方、自らの公的な文章でアラゴン連合王国の幾つかの伝統的な君主号・領主号を使用し続けた(イサベル2世 (スペイン女王) を参照)。
系図
[編集]- アラゴン王
(ヒメノ家) ガルシア・ サンチェス1世 ナバラ王 | アンドレガト (アラゴン伯 ガリンド・ アスナール2世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||
サンチョ・ ガルセス2世 ナバラ王 | |||||||||||||||||||||||||||||
ガルシア・ サンチェス2世 ナバラ王 | |||||||||||||||||||||||||||||
サンチョ・ ガルセス3世 ナバラ王 | |||||||||||||||||||||||||||||
ラミロ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||
サンチョ1世 ナバラ王 | |||||||||||||||||||||||||||||
ペドロ1世 ナバラ王 | アルフォンソ1世 ナバラ王 | ラミロ2世 | |||||||||||||||||||||||||||
(バルセロナ家) ラモン・ バランゲー4世 バルセロナ伯 | ペトロニラ | ||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ2世[4] | |||||||||||||||||||||||||||||
ペドロ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||
ハイメ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||
ペドロ3世 | |||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ3世 | ハイメ2世 | ||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ4世 | |||||||||||||||||||||||||||||
ペドロ4世 | |||||||||||||||||||||||||||||
(トラスタマラ家) フアン1世 カスティーリャ王 | レオノール | フアン1世 | マルティン1世 | ||||||||||||||||||||||||||
エンリケ3世 カスティーリャ王 | フェルナンド1世 | ||||||||||||||||||||||||||||
フアン2世 カスティーリャ王 | アルフォンソ5世 | フアン2世[5] | |||||||||||||||||||||||||||
イサベル1世 カスティーリャ女王 | フェルナンド2世 | ||||||||||||||||||||||||||||
(ハプスブルク家) フェリペ1世 カスティーリャ王 (王位僭称) | フアナ カスティーリャ・ アラゴン女王 | ||||||||||||||||||||||||||||
カルロス1世[6] スペイン王 | |||||||||||||||||||||||||||||
フェリペ1世 スペイン王 (フェリペ2世) | |||||||||||||||||||||||||||||
フェリペ2世 スペイン王 (フェリペ3世) | |||||||||||||||||||||||||||||
フェリペ3世 スペイン王 (フェリペ4世) | マリア・アンナ | フェルディナント3世 神聖ローマ皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||
カルロス2世 スペイン王 | レオポルト1世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||
カルロス3世[7] 神聖ローマ皇帝 (カール6世) | |||||||||||||||||||||||||||||
マリー・テレーズ | (ブルボン家) ルイ14世 (フランス王) | ||||||||||||||||||||||||||||
ルイ | |||||||||||||||||||||||||||||
フェリペ4世 スペイン王 (フェリペ5世) | |||||||||||||||||||||||||||||
(スペイン国王) | |||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ D.W.ローマックス 『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』 刀水書房、1996年、p.48, 250, 巻末系図
- ^ "Alfonso II el Casto, hijo de Petronila y Ramón Berenguer IV, nació en Huesca en 1157;". Cfr. Josefina Mateu Ibars, María Dolores Mateu Ibars, Colectánea paleográfica de la Corona de Aragon: Siglo IX-XVIII, Universitat Barcelona, 1980, p. 546. ISBN 8475286941, ISBN 9788475286945.
- ^ Antonio Ubieto Arteta, Creación y desarrollo de la Corona de Aragón, Zaragoza, Anubar (Historia de Aragón), 1987, págs. 187-188. ISBN 84-7013-227-X.
- ^ アルフォンソ2世以降、アラゴン王がバルセロナ伯を兼ねる。
- ^ フアン2世の対立王についてはカスペの妥協#系図を参照。
- ^ 以降の系図はスペイン君主一覧#系図と共通するが、アラゴン王としての名前で記載する。
カルロス1世以降は実質的にはスペイン王であるが、名目上はアラゴンなどスペイン諸領邦の君主を兼ねた立場である。 - ^ スペイン継承戦争で「スペイン王カルロス3世」を称してフェリペ5世(アラゴン王フェリペ4世)と対立。