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アラゴン君主一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アラゴン君主一覧(アラゴンくんしゅいちらん)では、現在のスペイン北東部、アラゴンにおける君主を列挙する。アラゴン王国は今日のアラゴン自治州を含んでいた。バルセロナ家以後のアラゴン国王は同時にカタルーニャ君主国バレンシア王国マヨルカ王国シチリア王国サルデーニャ=コルシカ王国を支配し、モンペリエを含む南フランスを領土に組み入れていた。この国家はアラゴン連合王国と呼ばれる (i.e. Aragon proper)。

アラゴン伯

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809年、在地のアスナール1世ガリンデスがフランクの伯に代わりアラゴン(ハカ)伯となり、以後、その子孫がアラゴン伯を継承した[1]

  • アスナール1世・ガリンデス(809年 - 839年)
  • ガルシア・エル・マーロ(839年 - 833年):アスナール・ガリンド1世の女婿
  • ガリンド・ガルセス(833年 - 844年):ガルシア・エル・マーロの息子
  • ガリンド1世・アスナーレス(844年頃 - 867年):アスナール1世・ガリンドの息子
  • アスナール2世・ガリンデス(867年頃 - 893年):ガリンド1世・アスナーレス
  • ガリンド2世・アスナーレス(893年 - 922年):アスナール2世・ガリンドの息子
  • アンドレゴト・ガリンデス(922年 - 925年):ガリンド2世・アスナーレスの娘、ナバラ王ガルシア・サンチェス1世と結婚。

アラゴン領はナバラ王家(ヒメノ家)に継承された。

アラゴン国王

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ヒメノ家

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ナバラ国王サンチョ3世の死でアラゴンは息子のラミロ1世の手に渡り、彼はただちに自治国家に地位を高め、アラゴン王となった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
ラミロ1世
1035年2月 – 1063年5月8日
1007年
ナバラ国王サンチョ3世サンチャ・デ・アイバーの息子
エルメシンダ・デ・ビゴーラ
1036年8月22日
5人の子を儲ける
1063年5月8日
グラウススペイン語版
サンチョ・ラミレス
(1076年以降は兼ナバラ国王)
1063年5月8日 – 1094年6月4日
1042年
ラミロ1世エルメシンダ・デ・ビゴーラの息子
イザベル・ドゥルジェイ
1065年
1人の子を儲ける

フェリシー・ド・ルシー
1076年
3人の子を儲ける
1094年6月4日
ウエスカ
48歳没
ペドロ1世
(兼ナバラ国王)
1094年6月4日 – 1104年9月28日
1068年
サンチョ・ラミレスイザベル・ドゥルジェイの息子
イネス・デ・アキタニア
1086年
2人の子を儲ける

ベルタ英語版
1097年
子を儲けず
1104年9月28日
アラン谷
36歳没
アルフォンソ1世
(兼ナバラ国王)
1104年9月28日 – 1134年9月8日
1073年
サンチョ・ラミレスフェリシー・ド・ルシーの息子
ウラカ・デ・カスティーリャ
1109年
子を儲けず
1134年9月8日
ウエスカ
61歳没
ラミロ2世
1134年9月8日 – 1137年11月13日
1075年
サンチョ・ラミレスフェリシー・ド・ルシーの息子
イネス・デ・アキタニア
1人の子を儲ける
1157年8月16日
ウエスカ
82歳没
ペトロニーラ
1137年11月13日 – 1164年7月18日
1136年7月29日
ウエスカ
ラミーロ2世イネス・デ・アキタニアの娘
バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世
1137年8月11日
5人の子を儲ける
1174年10月16日
バルセロナ
38歳没

バルセロナ家

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名前 肖像画 誕生 結婚 死去
アルフォンソ2世
1164年7月18日 – 1196年4月25日
1157年
ウエスカ[2]
バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世ペトロニーラ女王の息子
サンチャ・デ・カスティーリャ
7人の子を儲ける
1196年4月25日
ペルピニャン
44歳没
ペドロ2世
1196年4月25日 – 1213年9月13日
1178年
ウエスカ[3]
アルフォンソ2世サンチャ・デ・カスティーリャの息子
マリア・デ・モンペリエ
1204年6月15日
2人の子を儲ける
1213年9月12日
ミュラの戦い
約35歳没
ハイメ1世
1213年9月13日 – 1276年7月27日
1208年2月2日
モンペリエ
ペドロ2世マリア・デ・モンペリエの息子
レオノール・デ・カスティーリャ
1221年
1人の子を儲ける

ビオランテ・デ・ウングリア
1235人
10人の子を儲ける

テレサ・ヒル・デ・ビダウレ
2人の子を儲ける
1276年7月27日
バレンシア
68歳没
ペドロ3世
1276年7月27日 – 1285年11月2日
1240年
バレンシア
ハイメ1世ビオランテ・デ・ウングリアの息子
コンスタンサ・デ・シシリア
1262年6月13日
6人の子を儲ける
1285年11月2日
ヴィラフランカ・デル・ペネデス
45歳没
アルフォンソ3世
1285年11月2日 – 1291年6月18日
1265年
バレンシア
ペドロ3世コンスタンサ・デ・シシリアの息子
未婚 1291年6月18日
バルセロナ
27歳没
ハイメ2世
1291年6月18日 – 1327年11月2日
1267年8月10日
バレンシア
ペドロ3世コンスタンサ・デ・シシリアの息子
イサベル・デ・カスティーリャ
1291年12月1日
子を儲けず

ブランカ・デ・ナポレス
1295年10月29日
10人の子を儲ける

マリー・ド・リュジニャン
1315年6月15日
子を儲けず

アリゼンダ・デ・ムンカーダ
1322年12月25日
子を儲けず
1327年11月5日
バルセロナ
60歳没
アルフォンソ4世
1327年11月2日 – 1336年1月24日
1299年
ナポリ
ハイメ2世ブランカ・デ・ナポレスの息子
テレサ・デ・エンテンサ
1314年
7人の子を儲ける

レオノール・デ・カスティーリャ・イ・ポルトゥガル
2人の子を儲ける
1336年1月27日
バルセロナ
37歳没
ペドロ4世
1336年1月24日 – 1387年1月5日
1319年10月5日
バラゲー
アルフォンソ4世テレサ・デ・エンテンサの息子
マリア・デ・ナバラ
1338年
2人の子を儲ける

レオノール・デ・ポルトゥガル
1347年
子を儲けず

レオノール・デ・シシリア
4人の子を儲ける
1387年1月5日
バルセロナ
68歳没
フアン1世
1387年1月5日 – 1396年5月19日
1350年12月27日
ペルピニャン
ペドロ4世レオノール・デ・シシリアの息子
マルタ・デ・アルマグナック
1人の子を儲ける

ビオランテ・デ・バル
3人の子を儲ける
1396年5月19日
アンプルダー
46歳没
マルティン1世
1396年5月19日 – 1410年5月31日
1356年
ジローナ
ペドロ4世レオノール・デ・シシリアの息子
マリア・デ・ルナ
1372年6月13日
4人の子を儲ける

マルガリータ・デ・プラデス
1409年
子を儲けず
1410年5月31日
バルセロナ
54歳没

マルティン1世バルセロナ伯ギフレ1世の最後の男系子孫であり、嫡子を残すことなく没した。

  • 空位 1410年5月31日 – 1412年6月24日

トラスタマラ家

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名前 肖像画 誕生 結婚 死去
フェルナンド1世
1412年6月24日 - 1416年4月2日
1380年11月27日
メディーナ・デル・カンポ
カスティーリャ王フアン1世レオノール・デ・アラゴン(ペドロ4世の娘)の息子
レオノール・デ・アルブルケルケ
1394年
8人の子を儲ける
1416年4月2日
イグアラダ
36歳没
アルフォンソ5世
1416年4月2日 - 1458年6月27日
1396年
メディーナ・デル・カンポ
フェルナンド1世レオノール・デ・アルブルケルケの息子
マリア・デ・カスティーリャ
1415年
子を儲けず
1458年6月27日
ナポリ
52歳没
フアン2世
1458年6月27日 - 1479年1月19日
1397年6月29日
メディーナ・デル・カンポ
フェルナンド1世レオノール・デ・アルブルケルケの息子
ナバラ女王ブランカ1世
1419年11月6日
4人の子を儲ける

フアナ・エンリケス
2人の子を儲ける
1479年1月20日
バルセロナ
81歳没
フェルナンド2世
1479年1月19日 - 1516年1月23日
1452年3月10日
フアン2世フアナ・エンリケス の息子
カスティーリャ女王イサベル1世
1469年10月19日
5人の子を儲ける

ジェルメーヌ・ド・フォワ
1505年
子を儲けず
1516年1月23日
マドリガレホ
63歳没
フアナ
1516年1月23日 - 1555年4月12日
1479年11月6日
フェルナンド2世カスティーリャ女王イサベル1世の娘
カスティーリャ王フェリペ1世
1496年10月20日
6人の子を儲ける
1555年4月12日
トルデシリャス
75歳没

フアン2世の対立王

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カタルーニャ内戦の間にフアン2世に対する3人の対立王が現れた。ただし、これにバレンシア王位が含まれることはなかった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
カスティーリャ王エンリケ4世
トラスタマラ家
1462年 - 1463年
1425年1月5日
バリャドリッド
カスティーリャ王フアン2世マリア・デ・アラゴン(フェルナンド1世の娘)の息子
フアナ・デ・ポルトゥガル
1455年
1人の子を儲ける
1474年12月11日
マドリード
49歳没
ペドロ5世
アヴィシュ家
1463年 – 1466年
1429年
コインブラ公ペドロとウルジェイ女伯エリサベ(アルフォンソ4世の玄孫)の息子
未婚 1466年
グラノリェース
37歳没
レナト1世
ヴァロワ=アンジュー家
1466年 – 1472年
1409年1月16日
アンジェ城
アンジュー公ルイ2世ヨランド・ダラゴン(フアン1世の娘)の息子
イザベル・ド・ロレーヌ
1420年
10人の子を儲ける

ジャンヌ・ド・ラヴァル
1454年9月10日
子を儲けず
1480年7月10日
エクス=アン=プロヴァンス
71歳没

アブスブルゴ家(アウストリア家)

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名前 肖像画 誕生 結婚 死去
カルロス1世
1516年1月23日 - 1556年1月16日
1500年2月24日
ヘント
カスティーリャ王フェリペ1世フアナ女王の息子
イサベル・デ・ポルトゥガル
1526年3月10日
3人の子を儲ける
1558年9月21日
ユステ修道院
58歳没
フェリペ1世
1556年1月16日 - 1598年9月13日
1527年5月21日
バリャドリッド
カルロス1世イサベル・デ・ポルトゥガルの息子
マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル
1543年
1人の子を儲ける

イングランド女王メアリー1世
1554年
子を儲けず

エリザベート・ド・ヴァロワ
1559年
2人の子を儲ける

アナ・デ・アウストリア
1570年5月4日
5人の子を儲ける
1598年9月13日
マドリード
71歳没
フェリペ2世
1598年9月13日 - 1621年5月31日
1578年4月14日
マドリード
フェリペ1世アナ・デ・アウストリアの息子
マルガリータ・デ・アウストリア
1599年4月18日
5人の子を儲ける
1621年3月31日
マドリード
42歳没
フェリペ3世
1621年3月31日 - 1665年9月17日
1605年4月8日
バリャドリッド
フェリペ2世マルガリータ・デ・アウストリアの息子
イサベル・デ・ボルボン
1615年
7人の子を儲ける

マリアナ・デ・アウストリア
1649年
5人の子を儲ける
1665年9月17日
マドリード
60歳没
カルロス2世
1665年9月17日 - 1700年11月1日
1661年11月6日
マドリード
フェリペ3世マリアナ・デ・アウストリアの息子
マリー・ルイーズ・ドルレアン
1679年11月19日
子を儲けず

マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク
1690年5月14日
子を儲けず
1700年11月1日
マドリード
38歳没

収穫人戦争中、アラゴン自体は フェリペ3世への忠誠を保持していたが、カタルーニャはフランス国王ルイ13世及びルイ14世との同盟に切り替えた。バルセロナ伯を参考。ポルトガルは1640年に独立した。カルロス2世には後継者がいなかった。

ボルボン家

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名前 肖像画 誕生 結婚 死去
フェリペ4世
1700年11月1日 – 1705年
1683年12月19日
ヴェルサイユ
フランス王太子ルイフェリペ3世の孫)とマリー・アンヌ・ド・バヴィエールの息子
マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア
1701年11月2日
4人の子を儲ける

エリザベッタ・ファルネーゼ
1714年12月24日
7人の子を儲ける
1746年7月9日
マドリード
62歳没

ハプスブルク家

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名前 肖像画 誕生 結婚 死去
カルロス3世
1705年–1714年
1685年10月1日
ヴィーン
レオポルト1世フェリペ2世の孫)とエレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルクの息子
エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
1708年8月1日
4人の子を儲ける
1740年10月20日
ウィーン
55歳没

戦争中(公的には1707年)、ボルボン家最初のスペイン国王フェリペ5世(アラゴン王フェリペ4世)はアラゴン連合王国を解体した。その後も、イサベル2世までのスペインの君主は貨幣に自らを「スペイン国王/女王」と刻む一方、自らの公的な文章でアラゴン連合王国の幾つかの伝統的な君主号・領主号を使用し続けた(イサベル2世 (スペイン女王) を参照)。

系図

[編集]
  •   アラゴン王


ヒメノ家
ガルシア・
サンチェス1世

ナバラ王
 
アンドレガト
(アラゴン伯
ガリンド・
アスナール2世娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サンチョ・
ガルセス2世

ナバラ王
 
 
 
 
 
 
 
ガルシア・
サンチェス2世

ナバラ王
 
 
 
 
 
 
 
サンチョ・
ガルセス3世

ナバラ王
 
 
 
 
 
 
 
ラミロ1世
 
 
 
 
 
 
 
サンチョ1世
ナバラ王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ペドロ1世
ナバラ王
 
アルフォンソ1世
ナバラ王
 
ラミロ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(バルセロナ家)
ラモン・
バランゲー4世

バルセロナ伯
 
ペトロニラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルフォンソ2世[4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ペドロ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハイメ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ペドロ3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルフォンソ3世
 
ハイメ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルフォンソ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ペドロ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(トラスタマラ家)
フアン1世
カスティーリャ王
 
レオノール
 
フアン1世
 
マルティン1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エンリケ3世
カスティーリャ王
 
フェルナンド1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フアン2世
カスティーリャ王
 
アルフォンソ5世
 
フアン2世[5]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イサベル1世
カスティーリャ女王
 
 
 
 
 
フェルナンド2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハプスブルク家
フェリペ1世
カスティーリャ王
(王位僭称)
 
フアナ
カスティーリャ・
アラゴン女王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルロス1世[6]
スペイン王
 
 
 
 
 
 
 
フェリペ1世
スペイン王
(フェリペ2世)
 
 
 
 
 
 
 
フェリペ2世
スペイン王
(フェリペ3世)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェリペ3世
スペイン王
(フェリペ4世)
 
マリア・アンナ
 
 
 
フェルディナント3世
神聖ローマ皇帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルロス2世
スペイン王
 
 
レオポルト1世
神聖ローマ皇帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カルロス3世[7]
神聖ローマ皇帝
(カール6世)
マリー・テレーズ
 
ブルボン家
ルイ14世
(フランス王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ
 
 
 
 
 
 
 
フェリペ4世
スペイン王
(フェリペ5世)
 
 
 
 
 
 
 
(スペイン国王)

脚注

[編集]
  1. ^ D.W.ローマックス 『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』 刀水書房、1996年、p.48, 250, 巻末系図
  2. ^ "Alfonso II el Casto, hijo de Petronila y Ramón Berenguer IV, nació en Huesca en 1157;". Cfr. Josefina Mateu Ibars, María Dolores Mateu Ibars, Colectánea paleográfica de la Corona de Aragon: Siglo IX-XVIII, Universitat Barcelona, 1980, p. 546. ISBN 8475286941, ISBN 9788475286945.
  3. ^ Antonio Ubieto Arteta, Creación y desarrollo de la Corona de Aragón, Zaragoza, Anubar (Historia de Aragón), 1987, págs. 187-188. ISBN 84-7013-227-X.
  4. ^ アルフォンソ2世以降、アラゴン王がバルセロナ伯を兼ねる。
  5. ^ フアン2世の対立王についてはカスペの妥協#系図を参照。
  6. ^ 以降の系図はスペイン君主一覧#系図と共通するが、アラゴン王としての名前で記載する。
    カルロス1世以降は実質的にはスペイン王であるが、名目上はアラゴンなどスペイン諸領邦の君主を兼ねた立場である。
  7. ^ スペイン継承戦争で「スペイン王カルロス3世」を称してフェリペ5世(アラゴン王フェリペ4世)と対立。

関連項目

[編集]