マリア・デ・モンペリエ

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マリア・デ・モンペリエ
María de Montpellier
アラゴン王妃
Pedro2 marie.jpg
マリアとペドロ2世の結婚
出生 1182年
死去 1213年4月21日
ローマ
配偶者 マルセイユ副伯バラル・デ・ボー
  コマンジュ伯ベルナール4世
  アラゴン王ペドロ2世
子女 アラゴン王ハイメ1世
父親 モンペリエ領主ギレム8世
母親 エウドキア・コムネナ
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マリア・デ・モンペリエ(María de Montpellier, 1182年 - 1213年4月21日)は、アラゴンペドロ2世の王妃。ハイメ1世の母。

生涯[編集]

マリアはモンペリエ領主ギレム8世とその妻エウドキア・コムネナとの間の唯一の子として生まれた。母エウドキアは東ローマ帝国の皇族イサキオス・コムネノスの娘でハンガリー王妃マリア・コムネナの異母妹にあたる。両親が1181年に結婚した際に、その長子が(女子であっても)モンペリエを継承することが決められていた[1]。1187年、両親が離婚、父ギレム8世は男子をもうけるためイネス・デ・カスティーリャと再婚した。当初教会はエウドキアとの離婚を無効としたが、1202年に再婚が認知された[2]。1181年の取り決めにも関わらず、モンペリエはマリアにではなく、イネスとの間にできた息子に継承されたが、のちにマリアにモンペリエの相続権が認められた[3]

1194年、12歳でマルセイユ副伯バラル・デ・ボーと結婚する。バラルは間もなく死去し、マリアはコマンジュ伯ベルナール4世と再婚したものの、のちにベルナール4世はマリアと離婚した。1204年6月15日、マリアはモンペリエの領地獲得をもくろんだアラゴン王ペドロ2世と結婚した[4]。結婚後、モンペリエを獲得したペドロ2世はマリアを遠ざけるようになったが、マリアは一計を案じ、一子ハイメ(後のアラゴン王ハイメ1世)をもうけることができた[5]

1213年、マリアはローマで死去した。

脚注[編集]

  1. ^ リッシェール、p. 451
  2. ^ リッシェール、p. 452
  3. ^ 尾崎 他、p. 8
  4. ^ リッシェール、p. 453
  5. ^ 田澤、p. 56

参考文献[編集]

  • アシル・リッシェール 『フランス中世の社会 フィリップ=オーギュストの時代』 東京書籍、1990年
  • 尾崎明夫、ビセント・バイダル 訳・解説 『征服王ジャウメ1世勲功録 レコンキスタ軍記を読む』 京都大学学術出版会、2010年
  • 田澤耕 『物語 カタルーニャの歴史』 中央公論新社、2000年