マリア・デ・モンペリエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
マリア・デ・モンペリエ
María de Montpellier
アラゴン王妃
Pedro2 marie.jpg
マリアとペドロ2世の結婚
出生 1182年
南フランスモンペリエ
死去 1213年4月21日
ローマ
配偶者 マルセイユ副伯バラル・デ・ボー
  コマンジュ伯ベルナール4世
  アラゴン王ペドロ2世
子女 アラゴン王ハイメ1世
父親 モンペリエ領主ギレム8世
母親 エウドキア・コムネナ
テンプレートを表示

マリア・デ・モンペリエ(María de Montpellier, 1182年 - 1213年4月21日)は、アラゴンペドロ2世の王妃。ハイメ1世の母。

生涯[編集]

マリアはモンペリエ領主ギレム8世とその妻エウドキア・コムネナとの間の唯一の子として生まれた。母エウドキアは東ローマ帝国の皇族イサキオス・コムネノスの娘でハンガリー王妃マリア・コムネナの異母妹にあたる。両親が1181年に結婚した際に、その長子が(女子であっても)モンペリエを継承することが決められていた[1]

1187年、両親が離婚、父ギレム8世は男子をもうけるためイネス・デ・カスティーリャと再婚した。当初教会はエウドキアとの離婚を無効としたが、1202年に再婚が認知された[2]。1181年の取り決めにも関わらず、モンペリエはマリアにではなく、イネスとの間にできた息子に継承されたが、のちにマリアにモンペリエの相続権が認められた[3]

1194年、12歳でマルセイユ副伯バラル・デ・ボーと結婚する。バラルは間もなく死去し、マリアはコマンジュ伯ベルナール4世と再婚したものの、のちにベルナール4世はマリアと離婚した。1204年6月15日、マリアはモンペリエの領地獲得をもくろんだアラゴン王ペドロ2世と結婚した[4]。結婚後、モンペリエを獲得したペドロ2世はマリアを遠ざけるようになったが、マリアは一計を案じ、一子ハイメ(後のアラゴン王ハイメ1世)をもうけることができた[5]

1213年、マリアはローマで死去した。

脚注[編集]

  1. ^ リッシェール、p. 451
  2. ^ リッシェール、p. 452
  3. ^ 尾崎 他、p. 8
  4. ^ リッシェール、p. 453
  5. ^ 田澤、p. 56

参考文献[編集]

  • アシル・リッシェール 『フランス中世の社会 フィリップ=オーギュストの時代』 東京書籍、1990年
  • 尾崎明夫、ビセント・バイダル 訳・解説 『征服王ジャウメ1世勲功録 レコンキスタ軍記を読む』 京都大学学術出版会、2010年
  • 田澤耕 『物語 カタルーニャの歴史』 中央公論新社、2000年